西九州語(長崎方言)の特徴について(1) | 気まぐれな梟

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 今日は、「フォーク歌年鑑 '74 フォーク & ニューミュージック大全集 12」からよしだたくろう&かまやつひろしの「シンシア」を聞いている。

 

 崎谷満の「新日本列島史(勉誠出版)」(以下「崎谷論文1」という)は、九州語と日本語の共通の特徴について、以下のようにいう。

 

(1)九州語・日本語共通の類型論的特徴
 

(a)言語族としての日本語

 

 歴史的観点から九州語は,琉球語および日本語を派生させた重要な言語である。

 

 言語学的観点からは,これら九州語,琉球語,日本語の相互の差異は非常に大きい.その上,九州語内部,あるいは琉球語内部の差異も非常に大きく,時に相互疎通性を欠く場合が見られる.従って,純粋に言語学的観点からは,方言の集合体としての一言語とするよりも,複数の言語の集合体としての言語族としての取り扱いを要求する。

 

 琉球語を含めると,一つの言語族(九州語・琉球語・日本語族)の中に三つの亜言語族,つまり九州語,琉球語,日本語とを当面区別して取り扱う。これらの日本列島中間部内部の言語的多様性の背後には,地域言語の複雑な成立史が予想される。

 

 崎谷論文1は、「九州語,琉球語,日本語の相互の差異は非常に大き」く、「九州語内部,あるいは琉球語内部の差異も非常に大き」いといい、こうした「日本列島中間部内部の言語的多様性の背後には,地域言語の複雑な成立史が予想される」という。

 

 崎谷論文が指摘する「日本列島中間部内部地域言語の複雑な成立史日本語」は、ある言語集団の形成がその言語を話す人の集団の形成に伴うものであったとすれば、具体的には以下のようなものであったと考えられる。

 

 全国に拡散していった上代日本語が形成されたのが奈良であり、その後、奈良から京都に、さらにその後、江戸・東京に政治、経済、文化の中心が異動していくという経過の中で、上代日本語が変化して現在の日本語が形成された。

 

 奈良時代の上代日本語は、縄文時代の諸言語集団の言語が、弥生時代から古墳時代、飛鳥時代にかけて日本列島の流入してきた様々な言語集団の影響を受けて変化・発展して形成されたものである。

 

b)縄文文化の地方ごとの多様性

 

 縄文時代の文化は地方ごとに多様であったので、その文化の差異が言語集団の差異に繋がるものであるとすれば、縄文時代の言語集団は地方ごとに多様であったと考えられるが、この多様性について、崎谷満の「DNAでたどる日本人10万年の旅(昭和堂)」(以下「崎谷論文2」という)は、以下のようにいう。なお、崎論文2では、縄文時代を新石器時代と呼ぶ。

 

 新石器時代へ移行する新石器時代草創期において、すでに日本列島では多様な文化圏に分かれて発展して
いった。北から、後期旧石器時代に留まる北海道、東日本型隆起線文土器文化圏、西日本型隆起線文土器文化圏、九州型隆起線文土器に細石刃を伴う北部九州文化圏、それとは異なる南九州文化圏、それに土器がみられない琉球諸島のように、異なる文化圏が存在した。


 新石器時代の早期に至って縄文土器が普及してくるが、新石器時代早期には石器にも変化が現れ、後期旧
石器時代以来の狩猟を目的とする草創期の石器から、磨製石器が増加するなど、植物質食糧の加工を目的と
する石器へ移っていった。この新石器時代早期においてもやはり地域的差異が大きい。

 

 本州の関東地域を中心として尖底や丸底の撚糸文土器が現れる。近畿を中心とする本州西部・四国では尖底や丸底の押型文土器がさかんになってくる。さらに南九州では貝殻で文様を付ける貝文土器(貝殻文土器)が出現してくる。日本列島の他の地域の縄文土器とは非常に異なり、円筒形や角筒形(四角形)で平底をもつ独
特の貝文土器をもつこの貝文文化は南方島嶼部との関連性が推定されている。その一方、北海道ではシベリア起源で後期旧石器時代の流れを汲む石刃鏃文化が短期間栄えていた。このように完新世に至っても日本列島には地域ごとに異なる文化圏が共存していたことが推定される。


 南九州の貝文文化は新石器時代草創期から早期にかけてみられた文化で、日本列島の他の地域のいわゆる
縄文文化とは異質なものであったようである。貝文土器は早期に全盛期を迎えるが、南九州草創期の段階
で九州型隆起線文土器に混じってすでに貝文土器が存在していたことから、南九州では草創期から貝文文化
が新石器文化の進展に関わっていたことがわかる。そして約六三〇〇年前の鬼界カルデラの大爆発によって
衰退・消滅するまで、南九州では厳密には縄文文化ではなく貝文文化が栄えていた。そしてその後は曾畑式
土器などに代表される北部九州の縄文文化が南下してきて南九州文化はその独自性をいったん閉じることに
なった。


 北琉球ではアカホヤ火山灰層より下からは有力な遺物が得られていないため、北琉球における貝文文化の存在は実証されていない。アカホヤ火山灰層より上からは九州系の縄文土器が散見されるが、貝塚時代といわれる北琉球の先史時代は九州、本州の縄文文化とは切り離して考える必要がある。琉球の新石器時代は漁撈を中心とする漁撈採集生活が営まれていた。

 

 新石器時代の前期に至っても日本列島の地域的差異は大きかった。前期以降、日本列島の縄文土器は平底が主流になってくるが、これも地域差が大きく、尖底や丸底の土器を継続したり、平底から戻ったりする地域があった。新石器時代前期には日本列島中間部で六つの土器文化圏が区別され、本州北部から北海道南部にかけても縄文土器がみられるようになった。


 新石器時代の全盛期ともいえる中期には日本列島全体で九つの土器文化圏が区別され、北琉球でも土器が
みられるようになった。


 日本列島では新石器時代前期に相当する時期、朝鮮半島では六三〇〇年より以前に隆起文土器が現れてく
るが、朝鮮半島の新石器時代を特徴づけるのはそれ以降に現れる櫛目文土器である。北部で平底櫛目文土器が、南部で尖底や丸底の櫛目文土器が使用されていた。北部朝鮮の平底櫛目文土器は中国東北部からアムール川流域にかけての極東平底土器文化と関連する。


 この新石器時代前期の南朝鮮は九州との関わりが深く、南朝鮮の尖底あるいは丸底の櫛目文土器と関連し
て、九州では丸底の曾畑式土器が現れてくる。また新石器時代前期以降は南朝鮮と西北九州とは共通する漁撈文化によっても関連づけられる。


 新石器時代中期、後期、晩期と、これら地域ごとに異なる文化圏は相互に影響を与えながらも地域的特色
を残しながら、次の時代である金属器時代(弥生時代)へと移っていった。


 なお日本列島中間部三島(九州・四国・本州)へ弥生文化が浸透する金属器時代に、北の北海道へは弥生
文化は浸透しないで、その後は続新石器文化へと続いていった。

 

 また南の琉球諸島(北琉球)においては、新石器時代において縄文文化とは関連しながらもすでに独自性が強い貝塚時代早期、前期、中期へ移行していった。日本列島中間部が弥生時代へ移る時も、北琉球へ弥生文化は流入しないで、その後は貝塚時代後期へと移行していき、琉球諸島独自の文化的発展を歩みはじめている。また南琉球の先史時代は、北琉球とも異なる独自の文化が存在したことが推定されている。

 

 したがって、日本列島全体の時代区分として「縄文時代」という名称を新石器時代に使うのは問題があり、少なくとも北の北海道と南の琉球諸島は別の時代区分が必要とされる。


 また厳密にいうと、日本列島中間部三島においても、本州北部は北海道南部と密接な関係で文化的進展が
みられるので、この地域も別個の扱いが必要である。さらに九州と本州との間の差異、また本州内部におけ
る差異や貝文文化を経た南九州の独自性など、日本列島中間部の新石器時代には多様な地域文化圏が存在し
てきたことが推定される。


 この多様な地域文化によって特徴づけられる日本列島中間部三島の新石器時代を「縄文時代」という一言
で片付けるわけにはいかない。そして新石器時代における日本列島の文化的多様性は、またそれらの多様な文化を日本列島へ持ち込んできたヒト集団の多様性によっても裏付けられる。シベリア由来のC3系統、Q系統集団、朝鮮半島経由のD2系統、N系統集団、南方系のCl系統集団など、新石器時代の日本列島は非常に多彩なヒト集団によって彩られていた。

 

 崎谷論文2が例示している土器様式によって分類された新石器時代の地方文化の分布図によれば、九州と西日本、東日本の縄文文化は、草創期の九州の九州隆起文土器、西日本の西日本隆起文土器、東日本と北日本の東日本隆起文土器、早期前葉末の南九州の九州貝文土器、北九州から西日本の押型文土器、東日本の撚糸文土器、北日本の押型文土器、前期の九州の曾畑式土器、西日本の北白川下層Ⅱ式土器、中部地方の諸磯式土器、関東地方の浮島式土器、北日本南部の大木4・5・6式土器、北日本北部の円筒下層c・d式土器という異なった文化が併存していた。

 

 崎谷論文2が指摘するように、縄文時代をとおして、九州と西日本、東日本、北日本には異なった縄文文化が存在していて、それらの諸文化が日本列島に流入してきた異なる人間集団に起源するものであったとすれば、彼らが話していた言語にも差異が生じていたはずである。

 

 そうであれば、縄文時代の日本列島中間部には、基層集団であったY染色体DNAハプログループD2集団の言語を基本としながらも、流入した地方の気候の違いによる交流・交易範囲の分離による言語変化や、その後に日本列島に流入してきた諸集団の言語の影響とその上書きによって、九州と西日本、東日本、北日本には。異なった言語集団が成立していたと考えられる。
 

(c)多様な縄文語、弥生語と共通語としての日本語の形成

 

1)弥生文化と弥生語の地方ごとの多様性

 

 弥生時代の弥生文化、水田耕作の稲作文化は、縄文時代晩期に朝鮮半島南部から北九州の博多湾沿岸に伝播し、その後、弥生時代前期に、当時の交易ルートにより日本列島中央部の西部の縄文文化の分布範囲に、筑後平野と玄海灘沿岸、熊本平野、山陰の日本海沿岸、瀬戸内海沿岸、大阪湾沿岸、奈良盆地と京都盆地、琵琶湖沿岸へと、順次、伝播していき、弥生時代中期に伊勢湾沿岸の東部に伝播する。 

 

 弥生時代中期になるまで伊勢湾東部への弥生文化の伝播が遅れたのは、縄文文化の地方文化圏が西日本と東日本で異なっていたためである。

 

 朝鮮半島南部から北部九州への移住規模は小さかったので、彼らの言語の在地の縄文語に対する影響は、弥生文化に伴う語彙の流入が中心であって、縄文語の基本的な文法構造は変わらなかったと考えられる。

 

 弥生時代後期には、朝鮮半島を経由して日本列島中央部に楽浪商人や濊人が流入し、彼らが持ち込んだ古代中国語によって縄文語の変容が進行したが、ここでも縄文語の基本的な文法構造は変わらず、新たな語彙の流入と言語の音変化のみが進行したと考えられる。

 

2)大和朝廷と律令国家の形成・発展による共通語としての日本語の成立

 

 庄内式期から布留式期にかけて、奈良盆地と大阪湾沿岸の大集落の首長層が、日本列島中央部の全国的な交易路の主導権を握り、古墳時代には彼らは大和朝廷を組織して、朝鮮半島や中国との外交関係を構築し、古墳時代中期には長期間、大量の渡来人を受け入れることで、全国の首長層への影響力を強め、やがて、律令国家を建設してゆく。

 

 奈良盆地と大阪湾沿岸の大集落の首長層が全国の首長層に対する政治的、経済的な影響力を強めたことにより、彼らが話していた関西語は、朝鮮語や中国語の影響を強く受けて変化するとともに、全国に拡散し、その影響力を拡大させていった。

 

 そして、縄文時代から弥生時代にかけての日本語の地域性が薄れて、全国的な共通語としての日本語が成立していくのは、庄内式期から布留式期を助走期間とすれば古墳時代以降のことであり、それは、律令国家建設による上代日本語の形成によって、一応の完成をみる。

 

 そうであれば、日本語の九州語からの分岐は、古墳時代以降のことであったと考えられる。

 

3)縄文語の特徴が残存する西九州語長崎方言

 

 このような関西語の変化と比較すると九州語の変化は少なく、在地の縄文語の影響が残存していたと考えられる。

 

 崎谷論文1によれば、九州語は、1.西九州語:対馬,壱岐,肥前,肥後,筑前・筑後、2.南九州語:薩摩・大隅 3.東九州語:日向、4.北九州語:豊前・豊後に区分でき、.西九州語の内部でもその間の差異は大きいという。

 

 これらの言語のうち、Y染色体DNAハプログループD2集団の言語の特徴が最も残存しているのは西九州語であり、そのなかでも朝鮮半島南部や中国からの弥生文化の流入の主要ルートから外れる肥前西部、現在の長崎県付近の言語であったと考えられる。 

 

(2)九州語・日本語の品詞

 

 九州語・日本語の従来の品詞分類や動詞活用については,旧国語学会における言語学の水準に問題があったようであり,日本語と周辺地域の言語との比較を困難にする。旧来の素朴な用語は,言語学の国際学界とはあまり関連がない中で,日本国内の国語学者によってなされたものであるので,大きな混乱が見られる。

 

 これら旧来の日本語文法用語や概念を,現代言語学の批判に耐えうるように本質的に刷新する必要がある。小泉保氏の言葉をお借りすると「尺貫法の日本語学」から普遍性がある「メートル法の日本語学」への革新が必須の事態に至っている。さらにそれを敷衍すると,普遍的観点から体系化された九州語,琉球語,日本語のそれぞれの研究を進める必要があることになる。

 

 例えば,小詞は一般に品詞と辞との中間的存在であり,取り扱いには言語ごとに細心の注意が必要とされる。しかし旧来の国語学者は,単に変化しないという形式的側面だけで助詞を定義し,それに,機能的には格表示(格接尾辞),副詞,接続詞など,雑多な品詞機能を持つカテゴリーをたくさん含めてしまい,大きな混乱を生んでいる。


 そのような普遍性の観点から,九州語・日本語の品詞分類は以下のように考えられる。琉球語についても同様であると考えられる。

 

(1)名詞
(2)代名詞
(3)動詞
(4)形容詞
(5)形容動詞
(6)連体詞
(7)副詞
(8)接続詞
(9)間投詞

 

 アイヌ語の品詞分類との違いは,九州語・日本語には形容詞と形容動詞とが独立した品詞として含まれることである。形容詞が動詞に近い機能を持っていることは,ユーラシア東部の諸言語(朝鮮語,アイヌ語など)と共通する。しかし名詞に近い格変化を示すテュルク系言語,ウラル系言語やヨーロッパ語の形容詞とは,九州語・日本語の形容詞は本質的に異なる。

 

 崎谷論文が指摘する「形容詞が動詞に近い機能を持っている」ことについて、松本克己の「世界言語のなかの日本語(三省堂)」(以下「松本論文」という)は、以下のようにいう。

 

 「西洋文法で「形容詞」というのは、元来、品詞としては名詞の下位類、しかもそのごく小さな一部を占めるにすぎ」ないが、「日本語で形容詞とされる語類は、文法的には明らかに用言(=動詞)の下位類であり、この点でヨーロッパ諸語あるいは印欧語の形容詞とは根本的に性格を異にする」


 「日本語の形容詞のこのような用言的性格は、もちろん日本語だけに限らない」

 

 「例えばアイヌ語を見ると、ここでは形容詞と動詞の間には形態法や綺語的振る舞いに関してほとんど違いが見られず、多少とも自立の語類として形容詞を区画することはほとんど不可能である」

 

 「朝鮮語においても事情はほぼ同様で、日本語の形容詞に当たる語類の活用は、基本的に動詞のそれと区別がなく、ただ、狭義の動詞(=作用詞)に較べてアスペクトや法(モダリテイ)の標示に関して若干の制限があるだけである(例えば完了/未完了の区別や命令法の欠如など)」

 

 「この点を除けば、両者の間に明瞭な境界は存在」せず、「朝鮮語とほぽ同じ状況は、現在の琉球方言にも見られるが、琉球方言で形容詞と動詞が基本的に同じ活用を行うようになったのは、この方言では形容詞と動詞の本来の活用が、「アリ」「ヲリ」という助動詞との複合形式によって全面的に再編成されたためである」

 

 「名詞と動詞をそれぞれ特徴づける固有の形態法をほとんど完全に欠いている中国語のような場合、問題の形容詞が品詞としてどのように位置づけられているかを見極めるのは必ずしも容易でな」く、「このような場合に決め手となるのは、主として統語法上の振る舞いであるが、この点から見て、中国語の形容詞もやはり動詞の下位類という性格を示している」

 

 「形容詞のこのような違いに着目して、印欧諸言語のように形容詞を品詞的に名詞の下位類かあるいはそれに近い語類として位置づけるタイプを形容詞体言型(あるいはそのような形容詞を体言型形容詞)、日本語やその周辺諸言語のように、形容詞を動詞の下位類かあるいはそれに近い語類として位置づけるタイプを形容詞用言型(あるいは用言型形容詞)と名づける」
 

 「形容詞体言型は、複式流音型とほぼ同じように、アフリカ北部からユーラシア内陸部のほぼ全域を覆い、アフロ・ユーラシア的な拡がりを示して」おり、「これに属する主要な語族は、ナイル・サハラ語族、アフロ・アジア語族、インド・ヨーロッパ語族、ドラヴィダ語族、ウラル語族、南カフカス諸語(カルトヴェリ語族)、そしてチュルク語、モンゴル語、ツングース語を含むアルタイ諸語である」

 

 「形容詞用言型は、単式流音型と同じように、北はチュクチ・カムチャツカ半島から朝鮮半島北部、そこから中国大陸を横切って、南はインドのアッサム地方のあたりへ延びる線の太平洋側に集中」し、「形容詞用言型に属する言語または言語群は、北から南に向かって、チュクチ・カムチャツカ諸語、ギリヤーク語、アイヌ語、日本語、朝鮮語、中国語、ビルマ・口口諸語を中心とするチベット・ビルマ語族の東方群、ミャオ・ヤオ諸語、タイ・カダイ諸語、オーストロアジア諸語、オーストロネシア諸語である」
 

 「東南アジアからオセアニアの広大な地域に拡がるオーストロネシア諸語の場合、その形容詞が動詞的性格を強く示すことはよく知られた事実である」が、「これらの言語では、そもそも形容詞と呼ばれるような語類は存在せず、英語や日本語などの形容詞に相当する語は大部分、動詞の中の重要な下位類をなす状態動詞の中に取り込まれ、時制やアスペクト上の制限を除けば、形態的に動詞とほとんど区別がない」


 「ユーラシアの主要な語族の中でチベット・ビルマ語族は、流音の場合と同じように形容詞のタイプに関しても、チベットからヒマラヤ地域に及ぶ西方群とアッサム・ビルマ以東の東方群との間で、地理的にほぼ西の
体言型に対して東の用言型というような対立を示している」


 「ユーラシアの太平洋沿岸部を特徴づける形容詞用言型の言語圏は、単式流音型と同じように、エスキモー・アリュート諸語を介してアメリカ大陸へとつながっており、「この大陸は、極北のアラスカ、カナダから南米南端のパタゴニアに至るまで、形容詞のタイプはほとんど用言型一色に塗りつぶされているといっても過言ではない」

 

 「オーストラリアの原住民諸語は、ほぼ全面的に形容詞体言型に属して」おり、「形態論的に名詞と形容詞の間には何らの違いもなく、古い印欧諸語や現在のアルタイ諸語と同じく、形容詞は名詞の単なる下位類にすぎない」

 

 「ニューギニアを中心に分布するパプア系の諸言語は、形容詞のタイプに関して必ずしも一様ではなく、体言型と用言型が入り混じっている」


 「サハラ以南のアフリカについて見ると、その最南端に分布するコイサン諸語は、ほぼ一様に形容詞用言型に属しているようであ」り、「ここでは数詞や量詞なども状態動詞として振る舞っている」

 

 オーストラリアの原住民はホモ・サピエンスの初期拡散の南ルートで拡散した集団の直系の末裔であり、アメリカ大陸の先住民はホモ・サピエンスの初期拡散の北ルートで拡散した集団の直系の末裔であるので、諸語松本論文が指摘する形容詞用言型と形容詞体言型の違いは、おそらく、ホモ・サピエンスの初期拡散の南ルートで拡散していった集団の言語の特徴が形容詞体言型で、ホモ・サピエンスの初期拡散の北ルートで拡散していった集団の言語の特徴が形容詞用言型であったということに起因していると考えられる。

 

 そして、アフリカの原住民の中で最も古い起源をもっているコイサン諸語が、ほぼ一様に形容詞用言型に属しているのであれば、人類祖語は形容詞用言型の言語を持っていた、あるいは、その後に形容詞用言型に発展するような言語を持っていたと考えられる。

 

 ヨーロッパや北アフリカに拡散したホモ・サピエンスの集団は、一時期のイラン南部での滞留の後でヨーロッパや北アフリカに拡散していったので、彼らの形容詞用言型の言語は、その滞留期間の間に生じた革新によって形成されたものであったと考えられる。

 

 そして、中央アジア東部に拡散していたホモ・サピエンスの初期拡散の北ルートで拡散した集団の言語は、本来は形容詞用言型の言語であったが、ヨーロッパや中央アジア西部に拡散していた形容詞体言型の言語の影響で、形容詞体言型の言語となっていったのだと考えられる。

 

 そうであれば、日本語や朝鮮語、中国語が形容詞用言型の言語であるのは、ホモ・サピエンスの初期拡散の北ルートで拡散した集団の言語に起源するもので、アイヌ語が形容詞と動詞を区別しないのは、その最も古い形の残存であると考えられる。

 

(3)九州語・日本語のおおまかな分類


 言語を系統によって分類する際に最も重要なのは動詞によって規定される主語一目的語の関係である。


 日本列島の中の主要な言語で見ると,アイヌ語は主要部表示言語であるため,動詞句において,依存部である主語・直接目的語・間接目的語などの項に文法格の表示はなく,主要部である動詞に主格人称辞・目的格人称辞が表示される。

 

 その逆に,依存部表示言語である九州語・琉球語・日本語では,依存部である主語・目的語に格が表示され,主要部である動詞には人称辞による格表示は痙されない。

 

 このようにアイヌ語は日本列島の他の言語とは言語系統が本質的に異なっていることが分かる。アイヌ語のこの主要部表示言語としての特徴は,アイヌ語がヨーロッパ語,ウラル語,チュルク語,モンゴル語,トゥングース語,チベット語,朝鮮語などと本質的に異なる言語であることを示している。


 またアイヌ語の数の一致,つまり自動詞は主語に一致することは他の言語でも一般的であるが,他動詞において目的語によって動詞の複数が規定されることはアイヌ語に際立った特異性を与えている。

 

 動詞の単数複数を区別しない九州語・琉球語・日本語および朝鮮語,シナ・チベット語,モン・ミエン語,タイ語,オーストロアジア語だけではなく,動詞に数が表示されるヨーロッパ語,ウラル語,テュルク語,一部のトゥングース語,チュクチ・カムチャッカ語などともアイヌ語は本質的に異なった言語であることを明確に示している。

 

 つまりアイヌ語はユーラシア東部において孤立性が高い言語であることが分かる。


 なお一つの言語族内部での亜分類において,動詞の活用は変化に対する抵抗性を持つため,非常に有用である。


 例えば,九州語と西日本語とはよく発達した3分類のアスペクト構造を動詞の変化の体系全般に持っている。しかし関西語と東日本語とは本質的にアスペクトを欠くかあるいはアスペクトが未発達な言語である。

 

 九州語・西日本語から関西語・東日本語を本質的に分離する必要がある。

 

 このように,九州語・日本語の分類には,この動詞の体系,特にアスペクト構造を手がかりに進めて行くのが妥当である。


 それに対して,アクセントなどの音韻論的指標は,最も系統分類から遠いものであり,むしろ言語接触などの社会的変化・地域的変化を被り易い。

 

 従来の日本語の分類は,この最も信頼性に欠けるアクセントのみによってなされていたため,二次的社会的変化(例えば中央語の影響)を見る指標としては有用ではあっても,言語族内での言語分類を行うには不適切である。

 

 系統に由来する言語変化という原因の方を見るのではなく,言語接触という二次的・付随的変化の結果の方を見ることになる。従来の旧国語学会による日本語分類にはこのような致命的な方法論的弱点を抱えていた。

 

 さらに旧世代の国語学者は,日本語全てが関西語から由来したという畿内中心主義の前判断・先入観を言語データに持ち込んでいる。これは科学哲学の観点から,結論を先取りするという一種の循環論証の誤謬を犯していることなる。このような非論理性を乗り越える必要がある。そして日本列島の諸言語の成立史に関する最新の科学的仮説に立脚して,日本列島各地域の言語の成立史を再検討する必要がある。

 

(a)主要部表示言語と依存部表示言語

 

 近藤健二の「言語類型の起源と系譜(松柏社)」(以下「近藤論文」という)によれば、言語の形成と発達過程では、まず主語(名詞)ー述語(動詞)という自動詞構文が形成され、その後に、その構文に付加された具格接辞と名詞による副詞句が「異分析」されて新たな主語となり、それまでの主語が目的語となることで、他動詞構文が形成されたという。

 

 そして、一部の他動詞構文では、新たな主語の元になった副詞句の具格接辞が、新たな主語の接辞となるとともに、自動詞構文の主語にも付設されるようになって能格接辞が形成され、その後、その使用範囲の拡大によって、能格接辞から活格接辞、そして主格接辞が形成されていったという。

 

 このように、言語は、単純な主格言語→能格言語→活格言語→新しい主格言語(対格言語)というような経過で発展してきたと考えられる。

 

 そうすると、接辞は、まず動詞に付加され、その後に名詞に付加されるようになったのだと考えられるので、主要部表示言語が古い言語の形であり依存部表示言語が新しい言語の形であると考えられる。 

 

(b)他動詞の目的語による動詞の規定

 

 崎谷論文のアイヌ語では「他動詞の目的語によって動詞の複数が規定される」という指摘の意味は、近藤論文が指摘するように、自動詞構文に付加された具格接辞と名詞による副詞句が他動詞構文の主語となったが、そのときの自動詞文の主語に対応していた動詞は、その変化の初期段階では、他動詞文になった後でも変わらずに自動詞文であったときの主語、つまり他動詞文の目的語と対応を継続したということであると考えられる。

 

 そうすると、このアイヌ語の特徴は、他動詞文が形成された初期のころの言語の特徴を残存させていたものであったと考えられる。

 

(c)複数と単数の区別

 

 主要部表示言語が古い言語の形であり依存部表示言語が新しい言語の形であるのであれば、主要部表示言語であった古い言語では、動詞に数や時制、人称などが、具格接辞に起源するそれぞれの接辞を付加することで表示されたのであったと考えられる。

 

 そして、おそらく、それらの接辞が、動詞と一体化していったのが動詞の単数複数を区別するヨーロッパ語,ウラル語,テュルク語,一部のトゥングース語,チュクチ・カムチャッカ語などの言語であり、動詞と分離していったのが動詞の単数複数を区別しない九州語・琉球語・日本語および朝鮮語,シナ・チベット語,モン・ミエン語,タイ語,オーストロアジア語であったと考えられる。

 

 なお、松本論文は、世界の諸言語は、名詞に「英語やドイツ語のように、複数の標示が義務的で文法カテゴリーとしての数が確立されているタイプ」と、「日本語やアイヌ語のように、複数性を標示する手段はあるけれども文法的に義務化されていない、つまり名詞に数のカテゴリーを欠くタイプ」にわかれるという。

 

 アイヌ語が名詞に数のカテゴリーを欠くのは、それが動詞に接辞として付加されて表現されているからであり、日本語が名詞に数のカテゴリーを欠くのはそのころの名残であり、英語やドイツ語には名詞に数のカテゴリーが存在するのは、動詞に付加されていた接辞による複数表示が名詞に移行したためであったと考えられる。

 

(d)アスペクトとアクセント

 

 崎谷論文は、「一つの言語族内部での亜分類において,動詞の活用は変化に対する抵抗性を持つため,非常に有用であ」り、「九州語・日本語の分類には,この動詞の体系,特にアスペクト構造を手がかりに進めて行くのが妥当である」という。

 

 そして、「アクセントなどの音韻論的指標は,最も系統分類から遠いものであり,むしろ言語接触などの社会的変化・地域的変化を被り易い」ので、「二次的社会的変化(例えば中央語の影響)を見る指標としては有用ではあっても,言語族内での言語分類を行うには不適切である」という。

 

 そこで以下、動詞の体系,特にアスペクト構造による九州語、日本語の分類とその特徴について検討していきたい。