平子達也他「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」を読んで(14) | 気まぐれな梟

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 今日は、「フォーク歌年鑑 '74 フォーク & ニューミュージック大全集 12」からグレープの「精霊流し」を聞いている。

 

(9)日本列島の基層言語の特徴を残存させている西日本語

 

 崎谷満の「新日本列島史(勉誠出版)」(以下「崎谷論文」という)は、西九州語が日本列島の基層言語の特徴を残存させていると、以下のようにいう。

 

 後期旧石器時代から新石器時代を通して,九州を経た文化の波及が何度も西日本さらには東日本に及んでいる。その過程が,日本語固有言語の成立に全く関与しなかったと考えるのは,科学的にかなり無理があるのではないかと思われる.比較言語学の立場からも日本語の系統を完新世後半・金属器時代の流入集団に一意的に帰す「渡来系弥生人一元論」に対して正当な批判がなされている。


 完新世後半の混乱期には,朝鮮半島経由で02b集団を主体とする新たな集団がほそぼそと流入するようになった。水稲農耕を主体とするその集団は,湿地帯を必要とする生業の制約によって,九州北部の中でも,平地が少ない西九州ではなく,北九州を中心とする地域に定着したようである。そしてその地で遺伝子,文化の新たな混合が起きたようである。それに加え,水稲農耕文化および照葉樹林農耕文化に伴う新たなテクニカルタームを中心に,既存のプロト九州語に二次的な影響を与えたことは十分に推定できる。その影響が広範囲に及び、こうしてプロト九州語からプレ九州語への変化が起ったことが容易に推定される。


 なおこのようなヒト集団の混合が九州北部でも北九州に集中し,西九州にあまり及ばなかったことは,形質人類学的な北九州と西九州との差異,つまり形質的に新規流入集団の影響を受けた北九州と,先住系の要素を維持していた西九州との差異として確認される。


 さらにそれ以前に日本列島へ流入していた成人T細胞白血病ウイルスキャリアの比率でも西九州(長崎県五島列島30.5%)と北九州(福岡市12.1%,久留米市6.5%)とで大きな差異があることも,この両地域の歴史的違いを物語っているものと推定させる。そして日本列島固有の言語・文化は西九州に温存されるようになったことが推定される。


 こうしてできたプレ九州語が新たな水稲農耕文化と共に西日本各地に急速に広かって行ったことが想定できる。


 さらにその後の歴史時代直前になり,北九州から畿内への政治勢力の移動があり,新たな中心的な政治勢力が畿内に確立されることになった。この流れを通して,プレ九州語がプレ畿内語(プレ関西語)に与えた影響についてはまだ十分に注目されていない。その後文献的に確認されるようになった最古の日本語である上代奈良語が日本語の成立に与えた影響についても,過大評価をしないよう慎重なものが要求される。

 

 その後は,一旦中央集権国家の中心言語として確立された上代奈良語および中古京都語が日本列島中間部における言語的ヘゲモニーを確立して行くことになる。ただしその場合でも,各地域において既に存在していた地域語の上に,上代奈良語・中古京都語が言語接触を通して上層語としての影響を与えて行ったという留保が必要かと思われる。


 琉球については,新石器時代に九州北部の曽畑式土器が見られるため,九州北部との何らかの接触があったのかも知れない。また折々に新石器時代における九州からの影響が見られるようである。ただし本格的に九州からのヒト集団・文化・言語が流入するのは紀元後11世紀以降のグスク時代であるものと推定されている。

 

 琉球語が九州語から派生したことは確かだと思われる。しかしその派生の時期についての検討は,今後の研究に待つことになる。

 

 九州北部,中でも最も成人T細胞白血病ウイルスキャリアが高頻度で見られる西九州が,日本列島固有言語の形成にとって重要な地域であることが推定される。

 

 崎山理の「日本語「形成」論(三省堂)」(以下「崎山論文」という)による日本語へのオーストロネシア諸語の影響の指摘と崎谷論文のこの指摘から、日本語の形成過程は以下の様であったと考えられる。

 

 後期旧石器時代に日本列島に流入したY染色体ハプログループD2の集団を主な基層集団とする最初期のプロト九州語が、縄文時代前期に日本列島に流入したY染色体ハプログループN1、C3の集団の言語や縄文時代後期に日本列島に流入したY染色体ハプログループO1の集団の言語であるオーストロネシア諸語の影響を受けて変容したプロト九州語が、縄文時代晩期から弥生時代早期に日本列島に流入したY染色体ハプログループO2bの集団の言語の影響を受けてプレ九州語が北九州で形成され、弥生時代をとおして弥生文化が西日本各地に拡散してゆくのと並行して、プレ九州語からプレ関西語が形成され、古墳時代以降、大阪平野や奈良盆地の諸勢力の連合体が政治権力を掌握し、朝鮮半島から渡来人と先進的な文化を受け入れて、律令国家の建設が始まると、そのプレ関西語から上代日本語が形成され、全国各地に波及していった。

 

 その後、政治権力や文化中枢の所在地が、奈良盆地から京都平野に移動するとともに、上代奈良語に代わって中古京都語が全国各地に波及していき、政治権力や文化中枢の所在地が東京に移動すると、新しい東京語が標準語とされて全国各地に波及して現在の日本語共通語となった。

 

 上代奈良語や中古京都語、そして現在の日本語共通語の「祖語」となる「プレ九州語」は、九州の「プロト九州語」のうちの博多湾沿岸や筑後平野などの北九州の「プロト九州語」が変化して生まれた言語であり、九州の「プロト九州語」のうちの西九州の「プロト九州語」は、「プレ九州語」や「プレ関西語」、上代奈良語、中古京都語・東京語などの言語の影響を受けながらも、「プロト九州語」の痕跡を残している。

 

 そして、こうした日本語の歴史的変化の過程の中に琉球語を位置づけると、以下のようになる。

 

 琉球列島の基層集団の言語は、後期旧石器時代に中国大陸の沿岸を北上してきて、日本列島の太平洋沿岸に拡散していったたY染色体ハプログループC1の集団の言語であり、その後、北琉球は九州の縄文文化が波及する地であったので、縄文時代前期に朝鮮半島から九州に南下してきたY染色体ハプログループN1やC3の集団の言語が北琉球に流入し、その後、縄文時代後期にフィリピンから琉球列島、日本列島に流入し、九州や西日本各地に拡散していったY染色体ハプログループO1の集団の言語のオーストロネシア諸語が、琉球列島全域に拡散していった。

 

 オーストロネシア語族の琉球列島への流入と拡散以降に本格的な集団の流入と拡散があったのは、大量の九州人が琉球列島に移住してきて、いわゆる「グスク時代」が開始した紀元後一一~一二世紀であり、この時九州人が琉球列島に持ち込んだ言語は、中古京都語の影響を受けて変化した新しい「九州語」であった。

 

 古い時代の琉球列島の人口がそれほど多くはなかったとすれば、琉球列島に流入した集団とその言語の影響はかなり大きかったと考えられるので、琉球列島ン当初の基層集団の言語は、その後に流入した言語にって大きな影響を受け、実質的にはオーストネシア諸語が琉球列島の基層言語なっていたのであり、その後、その上に大量に人の移動を伴って流入してきた、新しい「九州語」が、実質的には琉球列島の言語となっていき、それまでの基層言語の影響は、新しい「九州語」の琉球列島での変化の中に存在しているだけになっている。

 

 崎谷論文は、「琉球語が九州語から派生したことは確かだ」が、「その派生の時期についての検討は,今後の研究に待つことになる」というが、琉球語が九州語から派生・分岐した時期は、おそらく紀元後一一~一二世紀であったと考えられる。

 

 ここで九州語と日本語との関係について、崎谷論文が「琉球語が九州語から派生した」といっているように、琉球語は日本語が発展する過程でそこから派生した言語であるので、平子他論による、琉球語は日本語との共通の祖語である「日琉祖語」から分岐したという主張は誤りである。

 

 新しい「九州語」が琉球列島に流入したことで「琉球語」が誕生した、新しい「九州語」がその時点での琉球列島の在地の言語、オーストロネシア諸語の影響が強く残っていた言語の影響を受けて、分岐・変容した言語が「琉球語」であったとすれば、琉球語の「祖語」は新しい九州語であるといえる。

 

 琉球語と上代日本語との関係は、かなり古い九州語から分岐した古い関西語が日本列島に流入してきた諸言語の影響で変化したのが上代日本語であり、そのかなり古い九州語が、その言語と古い関西語の分岐後に九州に流入してきた古い関西語や上代日本語、そしてその上代日本語が変化した中古京都語などの影響を受けてさらに変化したのが、紀元後一一~一二世紀に琉球列島に流入してきた新しい九州語で、その新しい九州語が、主要にはオーストロネシア諸語の影響によって変化していったのが、琉球語であったと考えられる。

 

 こうした理解に立てば、近藤論文が指摘しているような日本語と「人類祖語」との対応関係とそれを前提とした日本語と他の諸言語との対応関係を無視して、日本語の基層言語であった染色体ハプログループD2集団の言語の遠い子孫の言語である上代日本語と、その上代日本語の影響を強く受けた、さらに遠い子孫の言語が琉球列島という一部地域で独自に変容した「琉球語」、諸方言を含めた「琉球諸語」との語形の比較によって、日本語と琉球語の祖語として「日琉祖語」を構想しようとする平子他論文の主張は、その方法論が誤りであって従えない。

 

 上代日本語は縄文時代から弥生時代、古墳時代にかけて日本列島の各地で形成された多様な日本語のうちのほんの一部の、九州語の進化形であり、その上代日本語と、それ以降に上代日本語やその後の中古京都などの影響を受けて変化した九州語が南下して形成された琉球諸語を比較しても、後期旧石器時代から縄文時代にかけて話されていた日本語の復元・再構成にはあまり繋がらないと考えられる。

 

 なお、琉球諸語と変化後の九州語が分岐したのは紀元後一一~一二世紀のことであり、上代日本語の祖語が縄文時代の九州語から分岐したのは弥生時代の初期のことであった。

 

 平子他論文などの「日琉祖語」論者たちは、上代日本語の祖語が縄文時代の九州語から分岐して以降変化していった九州語を「琉球祖語」と呼ぶが、この言語は縄文時代の九州語から平安時代や鎌倉時代の九州語に変化していった九州の言語であり、あくまで九州語である。

 

 また、平子他論文は、琉球語の諸方言の比較によって「琉球祖語」を再建・再構成しようとするが、琉球語の諸方言が成立したのは、九州から南下して琉球列島の流入してきた新しい九州語が、琉球列島の基層言語に影響されたためであったと考えられる。

 

 その基層言語とは、後期旧石器時代に琉球列島に流入・移動してきた人たちの言語であり、その上に、縄文時代後期から古墳時代にかけて、おおむね三派の波を描いて琉球列島の全域に波及・流入してきたオーストロネシア諸語の影響が重なっていったことで、九州語の流入直前の琉球語が形成されたのだと考えられる。

 

 琉球語の北琉球の諸方言と南琉球の諸方言の違い、南琉球の諸方言間での違いとは、この後期旧石器時代の言語やオーストロネシア諸語の影響とその残存が、北琉球と南琉球で異なっていたために生じたものであったと考えられるが、縄文時代後期以降に琉球列島に流入してきたオーストロネシア諸語の影響は非常に大きかったと考えられる。

 

 そうであれば、こうしたオーストロネシア諸語の影響とその残存を考慮に入れること抜きに、琉球語の諸方言だけから「琉球諸語」を再建・再構成することは出来ない。

 

 この意味で、オーストロネシア諸語の影響とその残存を無視した平子他論文の議論は、非現実的な無理な仮定のもとでの、ある意味では「閉ざされた」「仮想空間」での議論であり、従えない。

 

 平子他論文などの「日琉祖語」論者たちが、「琉球祖語」の成立時期を、平安・鎌倉時代の九州語が琉球列島の流入した時点ではなく、上代日本語の祖語が縄文時代の九州語から分岐した時点に置こうとするのは、論理的には、そうした分岐の時点から琉球列島への流入の時点まで、「琉球祖語」は大きくは変容していないという、非現実的で無理な過程を、暗黙の前提にしているからである。

 

 「琉球祖語」とは、正しくは、琉球列島で琉球諸語が分岐する直前の言語のことであり、具体的には、琉球列島に流入した平安・鎌倉時代の九州語のことである。

 

 日本語の特徴は、言語がどのように発展・進化してきたのかという理論に基づいた世界の他の言語と日本語の比較によって得られるものであり、そこから得られる日本語の中にある古い言語の特徴から、日本語の基層言語の特徴とその特徴のその後の変容過程が再構成できる。

 

 その具体的な内容は、日本語の諸方言のうち、日本語の最も古い特徴を残存させていると推定される西九州語に、その中でも特に古い特徴が残存していると推定される長崎方言から、推定することが出来る。