平子達也他「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」を読んで(13) | 気まぐれな梟

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 今日は、「プラチナムベスト~青春のフォークソングス名曲集」からもとまろの「サルビアの花」を聞いている。

 

(8)祖語の再建

 

 平子達也、五十嵐陽介、トマ・ペラールの「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」(以下「平子他論文」という)は、祖語の再建について以下のようにいう。

 

(c)日琉祖語*uiと*aiの再建

 

 上代語には上代特殊仮名遣と呼ばれる、万葉仮名の使い分けがあり、その使い分けは上代語における母音の違いを反映するものであると考えられている。例えば「雪」の「キ」と「月」の|キ」とは、現代日本語諸方言では区別されないが、上代語においては異なる2種の万葉仮名の使い分けによって整然と区別されている。
 

 この2種は「甲類」「乙類」と呼ばれる。「雪」の「キ」は甲類の「キ」であり、「月」の「キ」は乙類の「キ」である。そこで、ukii1「雪]、tuki2「月」のように甲類の母音に下付きの1を、乙類の母音に下付きの2を添えて両者を区別する。

 

 上代語には(少なくとも表記上は)i1,i2,e1,e2,o1,o2,u,aの8種類の母音が認められる。

 

 上代語のi2には,露出形と被覆形の対や自動詞と他動詞の対などの語源の共通する語根の対において,uと交替するものとo2と交替するものの2種類がある(tukl2「月」~tukujo1「月夜」, ki2「木」-ko2no2pa 「木の葉」など)。

 

 この事実に基づいた内的再建によって,上代語のi2に反映される母音として日琉祖語に2種類の二重母音が再建される。すなわち,uと交替するi2に対応する*ui と,o2と交替するi2に対応する*əiである。

 

 また、e2は語源の共通する語根の対においてaと交替しうる。この事実に基づいて上代語でe2に反映される母音として日琉祖語には*aiが再建される。

 

 日琉祖語の*uiと*əiは上代語ではi2に合流し、その区別が失われている。しかしながら琉球祖語では両者は合流せず、琉球諸語にその区別が残っている。


 琉球諸語では、*uiと*aiとはそれぞれ異なる反映形を示し、後者は*aiと合流している。

 

 今帰仁方言、伊江島方言、首里方言では祖語の母音の区別は共時的な母音に反映されないが、祖語の母音の特徴がその直前の子音に転移することにより、区別が保たれている。

 

 具体的には、*uiの直前の子音には口蓋化(および破擦化)が認められるのに対して、*ai, *aiの直前の子音にはそれが認められない。(今帰仁方言と伊江島方言の声門化・帯気化は、*uiと*ai, *aiとの区別に関わらない。)

 

 大和浜方言では特定の環境を除いて*uiはiに反映され、*aiと*aiはiに反映される。*sakeでは母音間の*kの摩擦化と、この子音を挟む母音に生じた遠隔的かつ相互的な同化により、問題の母音がəに反映される。

 

 多良間方言、伊良部方言、石垣方言では*uiはiに反映され、*aiと*aiはiに反映される。

 

   ただしこの3方言を含む南琉球諳語では動詞語根における*uiと*aiの区別が類推によって消失しているため、*uiと*aiの区別は名詞のみに認められる。


 これらの事実に基づいて、日琉祖語の*ui, *əi, *aiに生じた音変化として、上代語と琉球祖語とのそれぞれに以下のような過程が再建できる。

 

 上代語   *ui>*i2、*əi>*i2、*ai>*i2

 琉球祖語      *ui>*i、*əi>*e、*aii>*e

 

 この音変化によって、日琉祖語の*ui, *əi, *aiは、上代語と琉球祖語のそれぞれにおいて、異なる形で合流することになるが、その合流は以下の図の形で表すことができる。

 

 琉球祖語 日琉祖語 上代語 日本語共通語

 

  *i  ー *ui      ー  

  *e   ー   *əi      ー  i2    ー i

          ー   *ai      ー  e2   ー e

 

 日本語共通語と琉球祖語は同じく5母音体系であるが、その由来は異なる。日本語共通語の*iの由来の1つは日琉祖語の*əiであるのに対して、琉球祖語の*iは日琉祖語の*əiに由来しない。琉球祖語の*eの由来の1つは日琉祖語の*əiであるのに対して、日本語共通語のeは日琉祖語の*əiに由来しない。

 

 平子他論文の指摘する「日琉祖語」と「上代語」との対応関係は、崎山理の「日本語「形成」論(三省堂)」(以下「崎山論文」という)が指摘する「日本祖語」と「奈良中央方言」との対応関係と矛盾しない。

 

 崎山論文の「日本祖語」が平子他論文の「日琉祖語」に、崎山論文の「奈良中央方言」が平子他論文の「上代語」に相当する。

 

 崎山論文は、「日本祖語」と「奈良中央方言」との対応関係を以下のようにいう。

 

 日本祖語 奈良中央方言     日本祖語 奈良中央方言  

  *i    ー i1                    *a    ー a  

    *e   ー   i1                     ai    ー e2  

        ー   e1                    ui      ー i2  

       ia     ー                          əi      ー  

     *u      ー  u                     *ə    ー 02

   *o      ー   

   *o      ー  o1

     au      ー  o1

 

  ただし、崎山論文は、ui/əiのi2への変化とaiのe2への変化、*əのo2への変化について、下記のような語例を挙げて、オーストロネシア諸語の影響によるものであったという。

 

 4母音しかないPAN(オーストロネシア祖語)から古代日本語における甲類・乙類母音の発生を検証すると、

 

 ui/aiに対してapuy「火」 > *fi2 = *foiヒー(乙類)、*babuy「猪」*fawuy> *wi2 = *waiヰー(乙類)、*kahuy 「木」 > *ki2 = *kai >キー(乙類)、

 

 aiに対して*ta!jan「手」 > *te2 = *ta-i>テー(乙類)、*mata「目」 > *me2 = *ma-i>メー(乙類)、*kaan「食う」 > *ke2 = *ka-i >ケー(乙類)、

 

 などからもその正しさが指摘できる。

 

 PAN*aから古代日本語へは、法則*ə>*a,*i,*uのとおり、原則的には同化によって、*əsuŋ「臼」、*tənun/ *ma(N)-tənun「織る」、*təŋaq/*maN-tŋaq「中・マ中」、*təpuŋ「粉」のように変化する。

 

 この法則におけるPAN *auが、上代日本語oの来源となったとみる根拠は、*lahud「海側」「トー(遠) (to/too)き」、*tawu「人」、「ひ卜(*to)」の例に基づいている。

 

 崎山論文の指摘から、平子他論文が指摘するui/ai→i2の変化は、オーストロネシア諸語の影響で生じたものであったと考えうことが出来るが、このオーストロネシア諸語の影響の以前に、同様の変化の過程が存在していて、その変化がオーストロネシア諸語の流入の影響で加速・強化されたという可能性が高いと考えられる。

 

 また、崎谷満の「新日本列島史(勉誠出版)」(以下「崎谷論文1」という)は、西日本語が日本列島の基層言語の特徴を残存させていると以下のようにいう。

 

 後期旧石器時代から新石器時代を通して,九州を経た文化の波及が何度も西日本さらには東日本に及んでいる。その過程が,日本語固有言語の成立に全く関与しなかったと考えるのは,科学的にかなり無理があるのではないかと思われる.比較言語学の立場からも日本語の系統を完新世後半・金属器時代の流入集団に一意的に帰す「渡来系弥生人一元論」に対して正当な批判がなされている。


 完新世後半の混乱期には,朝鮮半島経由で02b集団を主体とする新たな集団がほそぼそと流入するようになった。水稲農耕を主体とするその集団は,湿地帯を必要とする生業の制約によって,九州北部の中でも,平地が少ない西九州ではなく,北九州を中心とする地域に定着したようである。そしてその地で遺伝子,文化の新たな混合が起きたようである。それに加え,水稲農耕文化および照葉樹林農耕文化に伴う新たなテクニカルタームを中心に,既存のプロト九州語に二次的な影響を与えたことは十分に推定できる。その影響が広範囲に及び、こうしてプロト九州語からプレ九州語への変化が起ったことが容易に推定される。


 なおこのようなヒト集団の混合が九州北部でも北九州に集中し,西九州にあまり及ばなかったことは,形質人類学的な北九州と西九州との差異,つまり形質的に新規流入集団の影響を受けた北九州と,先住系の要素を維持していた西九州との差異として確認される。


 さらにそれ以前に日本列島へ流入していた成人T細胞白血病ウイルスキャリアの比率でも西九州(長崎県五島列島30.5%)と北九州(福岡市12.1%,久留米市6.5%)とで大きな差異があることも,この両地域の歴史的違いを物語っているものと推定させる。そして日本列島固有の言語・文化は西九州に温存されるようになったことが推定される。


 こうしてできたプレ九州語が新たな水稲農耕文化と共に西日本各地に急速に広かって行ったことが想定できる。


 さらにその後の歴史時代直前になり,北九州から畿内への政治勢力の移動があり,新たな中心的な政治勢力が畿内に確立されることになった。この流れを通して,プレ九州語がプレ畿内語(プレ関西語)に与えた影響についてはまだ十分に注目されていない。その後文献的に確認されるようになった最古の日本語である上代奈良語が日本語の成立に与えた影響についても,過大評価をしないよう慎重なものが要求される。

 

 その後は,一旦中央集権国家の中心言語として確立された上代奈良語および中古京鄙語が日本列島中間部における言語的ヘゲモニーを確立して行くことになる。ただしその場合でも,各地域において既に存在していた地域語の上に,上代奈良語・中古京鄙語が言語接触を通して上層語としての影響を与えて行ったという留保が必要かと思われる。


 琉球については,新石器時代に九州北部の曽畑式土器が見られるため,九州北部との何らかの接触があったのかも知れない。また折々に新石器時代における九州からの影響が見られるようである。ただし本格的に九州からのヒト集団・文化・言語が流入するのは紀元後11世紀以降のグスク時代であるものと推定されている.。球語が九州語から派生したことは確かだと思われる。しかしその派生の時期についての検討は,今後の研究に待つことになる。

 

 九州北部,中でも最も成人T細胞白血病ウイルスキャリアが高頻度で見られる西九州が,日本列島固有言語の形成にとって重要な地域であることが推定される。

 

 また、崎谷論文1は西九州語として、対馬,壱岐,肥前,肥後,筑前・筑後の言語を挙げるが、その中でも古い言語体系が残り話者の数が多い長崎語長崎市方言について、以下のようにいう。

 

 長崎語では二重母音が見られる。ay[ai],ey[ei],oy[oi],uy[ui]の四つである。


 長崎語のay[ai]は,短母音α[a]よりもやや口の開きが狭くなる.東京語のやや開いたai[ai]~[oi]とは異なるので注意が必要である。


 長崎語のey[ei]も口の開きが狭くなり,舌の位置が上がる。東京語のやや開いたei[ei]~[ɛi]とは異なる。長崎語では短母音と同じく二重母音のeyも語頭では規則的にyey[jei]となる。


 長崎語のoy[oi]は逆にやや口が開き[oi]に近く聞こえる場合もある。しかし英語のoy[ɔi]よりも口唇性が強く,口の開きも狭い。


 長崎語のuy[ui]もやや口が開き,口唇性が減じる。しかし東京語のui[ɯi]よりもはるかに口唇性が強い二重母音である。フランス語のoui[wi]はより鋭く強い口唇性を示す。


 二重母音でなく2母音の連続の場合はayi[a.i],eyi[e.i],oyi[o.i],uyi[u.i]と記載する。

 

 以上のような崎山論文や崎谷論文の指摘から、崎山論文がいう「日本祖語」の二重母音*ui, *əi, *aiが、日本後の基層言語に由来するもので、縄文時代後期以降に流入してきたオーストロネシア諸語の影響で強化され、現在の長崎方言にその二重母音の痕跡が残存していたのであれば、おそらく紀元後一一~一二世の新しい「九州語」にも二重母音*ui, *əi, *aiが残存していたと考えられる。

 

 そして、そうであれば、九州よりもオーストロネシア諸語の影響が強かった琉球列島にも、その二重母音*ui, *əi, *aiは強く残存しており、琉球列島に流入した新しい「九州語」の二重母音*ui, *əi, *aiは、流入先の琉球列島の二重母音*ui, *əi, *aの影響を受けて、上代日本語とは別の方向に変化していったのだと考えられる。

 

 また、崎谷論文1は、西九州語長崎市方言のアクセント体系について以下のようにいう。

 

 西九州語長崎市方言は,南九州語とも他の日本語諸語とも異なるアクセント体系を保持している。

 

 ただし北琉球語中南部沖縄語の首里語のアクセント体系は西九州語長綺語と類似のアクセント体系を持っているようである。西九州語は日本列島中間部の言語的ホームランドの言語であるだけに,一つのプロトタイプと考えていい。西九州語は,アイヌ語を除く日本列島諸語(琉球語および九州語・日本語)の共通の祖語に由来する言語であるという歴史的重要性を持っている。

 

 崎谷論文1がいう西九州語長崎市方言のアクセント体系と北琉球語中南部沖縄語の首里語のアクセント体系の類似は、九州語に残存していた日本語の基層言語のアクセント体系が、九州語の琉球諸島への流入によって、北琉球語中南部沖縄語の首里語のアクセント体系に影響を与えた結果生じたものであったと考えられる。

 

 このような琉球語と西九州語長崎方言の特徴の共通性の存在から、九州語に日本語の基層言語の特徴が残存していることを示しているが、その残存した特徴は、紀元後一一~一二世紀に琉球列島に流入した新しい「九州語」にもまだ残存していたと考えられる。

 

 ここから、平子他論文が主張する「琉球祖語」とは、例えば弥生時代に上代日本語の祖語と分岐した古い「九州語」ではなく、紀元後一一~一二世紀に新しい「九州語」から分岐した新しい言語であったと考えられる。

 

 平子他論文が主張する「琉球祖語」が後世の新しい言語であることは、「琉球祖語」として再建された単語が皆、語形変化をへた新しい語形の単語であることからもわかる。

 

 つまり、「琉球祖語」の*iや*eは、オーストロネシア諸語の影響の残留であった、琉球諸島に流入してきたこの新しい「九州語」の二重母音が、琉球諸島に残留していたオーストロネシア諸語の影響で音変化して形成されたものであり、上代日本語の祖語に遡及するような古い変化などではなく、もっと後世に生じた新しい変化であったと考えられる。

 

 そして、そうであれば、この新しい言語である「琉球祖語」と上代日本語の比較から「日琉祖語」というものを構想しようとする試みは、方法論の時点で破綻していると考えられる。 

 

 上代日本語から遡及して祖語を再建・再構成するためには、西九州語、その中でも長崎語の研究こそが重要なのであって、琉球諸語の研究は、単なる部分的、限定的な参考としての意義を持つに留まると考えられる。 

 

(d)日琉祖語*eと*oの再建

 

 上代語のi2とe2は、日琉祖語における二重母音に由来するという見解が現在広く受け入れられている。

 

1)4母音説

 

   かつては、上代語のe1とo1も日琉祖語の単母音には由来せず、単母音の連続に由来するという見解が有力視されていた。この理論では、上代語で表記される8種類の母音のうち、日琉祖語の単母音に由来する母音はi1,u,02, aの4母音のみとなる。この理論は日琉祖語に4つの単母音を再建するので4母音説と呼ばれる。


 e1とo1の頻度は、i1, u, 02,aと比較して少なく、その二次的な性格を示唆している。頻度の少なさに加えて、4母音説を支持する証拠は、e1とo1の一部を2つの形態素が結合した際に生じる母音連続に由来とすると説明できることに見つけられる。

 

 つまり、形態素境界を挟んで連続する*uと*aが、音変化*ua > o1によって上代語のo1となる。形態素境界を挟んで連続する*i1と*aが、音変化*ia > e1によって上代語のe1となると考える。
 

 しかしながら、形態素境界における母音融合によってe1とo1の分布を説明できる語はわずかであり、残りの語は母音連続を仮定する動機をもたない。特にo1は、suso1「裾」、simo1「霜」、kuso1「糞」のように語末音節に特に頻繁に現れるが、このような語のほとんどが、形態素の連続に起因する母音連続を再建する根拠を欠いている。確かに上代語のe1とo1の一部は日琉祖語の甲母音の連続に由来するが、すべてがそうであるわけではない。
 

2)6母音説

 

 現在広く受け入れられている見解では、日琉祖語の単母音(かつ短母音)として,*i、*e、*a、*ə、*o、*uの6母音が再建される。

 

 このうち*əは上代語のo2の由来である。*eは、*iaなどの二重母音(母音連続)とともに上代語のe1の由来の1つであり、*oは、*uaなどの二重母音(母音連続)とともに上代語のo1の由来の1つである。


 日琉祖語の*eと*oを再建する根拠は、琉球諸語と日本語との比較を通じて得られる。

 

 上代語のi1は琉球祖語の*iと*eに対応する。例えば、上代語の「昼」と「蒜」はともに第1音節の母音がi1であるpi1ruであるが、琉球祖語では「昼」は*piruであるのに対して、「蒜」は*peruであり、母音が異なる。すなわち上代語と琉球祖語の間に一対二の対応がある。

 

 上代語のuは琉球祖語の*uと*oに対応する。例えば、上代語の「馬」はuma、「海」はumiであり、両者ともに第1音節の母音はuである。それに対して琉球祖語の「馬」はumaであるのに対して、[海]は*omiであり、第1音節の母音が異なる。上代語のi1と同様に、uにも一対二の対応がある。


 上代語のi1と琉球祖語の*eが対応する名詞、上代語のuと琉球祖語の*oが対応する名詞がある。

 

 現在広く受け入れられている理論では、琉球祖語と上代語との間に*e: i1の対応を見せる母音として日琉祖語に*eを再建し、*o:uの対応を見せる母音として日琉祖語に*oを再建する。

 

 平子他論文は、「日琉祖語の*eと*oを再建する根拠は、琉球諸語と日本語との比較を通じて得られる」と主張するが、「上代語と琉球祖語の間に一対二の対応がある」のは、琉球列島に流入した新しい「九州語」がそこで音変化したことによって生じたものであり、そうした対応を根拠として、「日琉祖語の*eと*oを再建する」という主張には従えない。

 

3)「琉球諸語と日本語とは異なる系統群に属する」という主張の誤り


 日琉祖語の*e, *oは、日本語諸方言の共通祖語に生じた中段母音上昇( MVR)と呼ばれる音変化によって狭母音へと変化したと考えられている。琉球諸語はMVRを経験していない。

 

 日本語共通語と琉球祖語は同じく5母音体系であるがその背後には異なる音変化がある。日本語共通語のuは日琉祖語の*oを由来の1つとしているが、琉球諸語の*uはそうではなく、日本語共通語のiは日琉祖語の*eを由来の1つとしているが、琉球祖語の*eはそうではないという違いがある。

 

 琉球祖語の*eは日琉祖語の*aiを由来の1つとしているが、日本語共通語のeはそうではないという違いもある。これらは日本語諸方言の共通祖語と琉球諸語の共通祖語(琉球祖語)とでそれぞれ生じた別々の音変化の結果であり,琉球諸語と日本語とは異なる系統群に属することを意味する。

 

 平子他論文が、ここで「琉球諸語と日本語とは異なる系統群に属する」と主張するが、琉球諸語は新しい「九州語」=「琉球祖語」が琉球列島に南下してきたことで形成されたのであり、新しい「九州語」が古い「九州語」が変化してできた言語であり、古い「九州語」から現在の日本語が形成されたのであれば、「琉球諸語と日本語とは異なる系統群に属する」とはいえない。

 

 琉球諸語が日本列島の本土の言語とは別の言語群を形成するのは、新しい「九州語」=「琉球祖語」が波及する前の琉球列島の基層言語が、日本列島の本土の基層言語とは異なること、その異なった基層言語の影響が流入した新しい「九州語」に大きな影響を与えていることに起因している。

 

4)MVRを仮定する理論の未解決の問題


 MVRを仮定する理論には未解決の問題がある。上代語には狭母音化が生じていないei, oiが頻度は少ないながらも確かに存在している。これらの一部は日琉祖語における*ia, *uaなどの二重母音(母音連続)に由来する。 

 

   MVRは日琉祖語の*e, *oに適用される音変化であり,二重母音は適用外なので,二重母音由来のei, oiに狭母音化が生じない理由は説明できる。しかしながら,二重母音に由来する根拠が見つけられないei, oiをもつ語も存在する。


 この問題を解決するために, 語末,語幹払語根末に位置する*e, *oはMVRの適用外となるという仮説を提案している。すなわちMVRは末尾か否かを条件とする条件変化であるとする仮説である。この仮説に従えばsusoi 「裾」, simoi「霜」, kusoi「糞」などのo1は語末にあり, mei-pi「姪」「cf. wo-pi 「甥」)やsuko1-si 「少し」のei, oiは語根末にあるので,それらはMVRの適用外となったと説明することができる。

 

 しかしながら,形態素境界を直ちに仮定できない語にもe1, o1は現れることがある。例えば,pe1ra「箆」, sakeib-「叫ぶ」, kapeir-「帰る」, koipi2「恋」,so1ra「空」、joiwa-「弱い」におけるe1, o1は末尾に位置するとみなしがたい。


 上代語で狭母音化しないei, oiとして日琉祖語に長母音*oe, *ooを再建する仮説では長母音はMVRの適用外となるので,長母音に由来するe1, o1が上代語に中段母音として残ったと説明される。しかしながら,長母音の方が短母音よりも狭母音化しやすい類型論的傾向が知られており.短母音は狭母音化し長母音は狭母音化しない変化を仮定する理論は直ちに受け入れることができない。


 上代語におけるe1, o1の分布を説明するためには,さらなる研究が必要である。

 

5)琉球諸語の形成過程と日本語の形成過程の違い

 

 平子他論文は、日琉祖語*eと*oの再建について、「上代語におけるe1, o1の分布を説明するためには,さらなる研究が必要である」といって、彼らの再建案が未完成であることを表明している。

 

 平子他論文が主張する「日琉祖語」が具体的には、紀元後一一~一二世紀ごろの新しい「九州語」であったとすれば、その「九州語」は以下の過程を経て形成されたと考えられる。

 

 後期旧石器時代に日本列島の流入してきたY染色体ハプログループD2の集団の言語を基層として、そこに、後期旧石器時代に日本列島の流入してきたY染色体ハプログループC1(琉球列島と九州南部、本州の太平洋側に波及),同C3(時間差をもって、九州全域へ波及した集団と西北九州のみに波及した集団があった)の集団の言語、縄文時代前期に日本列島の流入してきたY染色体ハプログループN1(九州全域から一部は琉球列島に波及),同C3(九州全域に波及)の集団の言語、縄文時代後期に日本列島の西部と琉球列島に流入してきたY染色体ハプログループO1の集団の言語、縄文時代晩期に日本列島の北部九州に波及し、その後、日本列島の各地に波及したが在地の言語に吸収されて消滅したY染色体ハプログループO2bの集団の言語、弥生時代後期に日本列島の流入してきたY染色体ハプログループO3の集団と同C3の集団の言語によって、古墳時代初頭ごろの九州語が形成されたと考えられる。

 

 そしてその後、古墳時代中期に日本列島の流入してきたY染色体ハプログループC3の集団の言語によっても九州語は変化を受け、九州語から派生した関西語の主流であった上代日本語と上代日本語が変容したその後の中央日本語によっても九州語は影響を受けて変容し、紀元後一一~一二世紀の九州語が形成されてきたと考えられる。

 

 なお、崎谷論文が指摘するように、九州語は、九州語の形成に係わった諸言語の影響の地域による違いによって、地域ごとに多様な言語に分岐しているという。

 

 そうであれば、平子他論文が主張する新しい「九州語」とは、そうした多様な言語の流入による影響を大きく受けた複雑な変化の結果形成されたものであり、そうした変化の過程を考慮すること抜きに、「琉球祖語」と日本語共通語や上代日本語との比較だけから、架空の「日琉祖語」再建・再構成を構想することは、方法論的に無理があると考えられる。

 

 平子他論文による「日琉祖語」の再建案が未完成なのは、彼らの方法論が誤っているからであると考えられる。

 

 以上、ここまで平子他論文の議論を検討してきたが「琉球祖語」から「日琉祖語」を再建・再構成しようとする人たちの議論は、琉球諸語が紀元後一一~一二世紀の九州語の琉球諸島への南下によって形成されたという歴史経過を認めたうえで、上代日本語の祖度が古い九州語である「日琉祖語」から弥生時代に分岐して「琉球祖語」が形成されたが、その言語は新しい「九州語」となっての大きく変化せずに、古い特徴を残存させて紀元後一一~一二世紀に琉球列島に流入したというような、無理な、非現実的な仮定の下に構築されている。

 

 日本語の基層言語とその後の変化の過程を復元・再構成するために必要なことは、「人類祖語」の再建・再構成や諸言語の日本語への影響の解明とともに、多様な九州語のうちでも古い特徴がより多く残存している西九州語から日本列島の基層言語を再建・再構成することであると考えられる。

 

 なお、言語の特徴が古いものであるか新しいものであるかは、言語がどのように進化・変化してきたのかという、一般的な歴史的過程の検討抜きには語れないが、近藤健二の「言語類型の起源と系譜(松柏社)」はそうした業績の有力な一つである。