平子達也他「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」を読んで(12) | 気まぐれな梟

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 今日は、「ザ・ベスト・オブ・ゴールデン☆ベスト~フォーク~」から杉田二郎の「戦争を知らない子供たち」を聞いている。

 

(8)祖語の再建

 

 平子達也、五十嵐陽介、トマ・ペラールの「日本語・琉球諸語による歴史比較言語学(岩波書店)」(以下「平子他論文」という)は、祖語の再建について以下のようにいう。

 

 日琉祖語の再建がどのようになされるかを琉球祖語と日琉祖語の母音を例にとって論じる。まず、音対応に基づいて祖形と音変化がどのように再建されるかを論じ、そのあとで琉球祖語の母音の再建と日琉祖語の母音の再建をめぐる問題を論じる。

 

(a)音対応から再建される祖形と音変化

 

1)音対応のいくつかの類聖

 

 祖語の再建とは、姉妹言語の状態を(歴史の結果として)説明するためのモデルである。1つの状態からどのように変化してきたかをモデル化する。再建される祖語の体系とそれぞれの変化ができるだけ自然であり、経済的で、一般化を含むことを目指す。


 祖語を再建するための手順は、同源語を収集・整理したのちに音対応を確立することである。

 

 音対応にはいくつかの類聖があり、類型の違いによって再建される祖形の数が異なってくる。言語Aのxが一様に言語Bのyに対応する場合、つまり一対一の対応がある場合は、再建される柤形は1つ(*a)のみである((1)の場合)。

 

 それに対して、言語Aのxが言語Bのyとzに対応する場合、つまり一対二の対応がある場合は、再建される祖形は2つ(*aと*b)である。この場合、言語Aでは祖語における*aと*bがxへと変化することで、両者が合流したということになる((2)の場合)。

 

2)一対一の対応がある場合

 

 (2)の対応の例として大和浜方言(鹿児島県奄美群島奄美大島)と池間方言(沖縄県宮古諸島池間島・宮古島・伊良部島)を挙げよう。

 

     汗  臼

 大和浜 ?asi   ?usi

 池間      aci     usi

 

 大和浜方言のsiは池間方言のciとsiに対応していることから、両者の共通祖語における「汗」と「臼」の第2音節には異なる音節が再建される。この2方言のみを比較した場合、「汗」と[臼]の第2音節にそれぞれ*ciと*siを再建し、大和浜方言に音変化*ci > siを仮定することができるが、他の琉球諳語を含めて比較を行うと、「汗」と「臼」の第2音節にはそれぞれ*seと*suとが再建される。大和浜方言では、音変化*se > siと*su > siによって、祖語における*seと*suが合流し、両者の区別が失われたことになる。 

 

3)一対二の対応がある場合

 

 より複雑な対応として(3)のような対応もある。ここでは言語Aのxが言語Bのyとzに対応し、言語Aのwが言語Bのzに対応している。このような対応では再建される柤形は3つ(*a,、*b、*r)である。この場合、言語Aでは、祖語における*aと*bがxに合流し区別を失ったのに対して、言語Bでは、祖語における*bと*rがxに合流し区別を失ったということになる。

 

(3)の対応の例として再び大和浜方言と池間方言を挙げよう。

 

         汗  臼       星

 大和浜 ?asi   ?usi  ɸuci

 池間      aci     usi     husi

 

 大和浜方言のsiは池間方言のciとsiに対応していることから、両者の共通祖語における「汗」と「臼」の第2音節には異なる音節、すなわら*seと*suがそれぞれ再建される。

 

 一方で、池間方言のsiは大和浜方言のsiとciに対応していることから、両者の共通祖語における「臼」と「星」の第2音節には異なる音節が再建される。

 

 他の証拠と合わせることで、「臼」と|星]の第2音節にはそれぞれ*suと*siが再建される。大和浜方言では、音変化*se > siと*su > siによって祖語の*seと*suが合流し、両者の区別が失われたのに対して、池間方言では、音変化*su > si, *si > siによって祖語の*suと*siが合流し、両者の区別が失われたことになる。

 

4)条件変化に起因する分裂の結果としての対応

 

 これまで見てきた対応は、その音が置かれた環境にかかわらず変化する無条件変化に起因する合流の結果であったが、環境に依存した変化、すなわち条件変化に起因する分裂の結果としての対応もある

 

 (4)は(2)の対応に似ているが、対応が特定の環境に限定されている点が異なる。祖語に再建される祖形は1つ(*a)である。この場合、言謡Bでは祖語における*aが、条件qにおいてyに変化し、条件wにおいてxに変化するという分裂が生じたことになる。

 

 (4)の対応の例として日本語弘前方言と日本語東京方言のアクセント型の対応を挙げよう。Hは高いピッチをもつ音節を、Lは高いピッチをもつ音節を表す。ハイフンは名詞と主格助詞の境界を表す。

 

 弘前方言はHH-L型とLH-L型の2つの型があるのに対して、東京方言はHL-L型の1つの型しかない。この対応は一見、弘前方言と東京方言の共通祖語における2種類の型の区別を、弘前方言は保持して、東京方言は失っていることを示すように見えるが、そうではない。名詞末の音節に注目すると、HH-L型が現れる名詞は必ず狭母音(i, ui)をもち、LH-L型が現れる名詞は必ず非狭母音(e, o, a)をもつことがわかる。このことは、祖語における単一の型が弘前方言において、名詞末母音の狭さを条件とした音変化によって分裂したことを意味する。この場合に関する限り、祖語には1種類の型しか再建されない。

 

5)「汗」と「臼」の方言の比較

 

 崎谷満の「DNAでたどる日本人10万年の旅(昭和堂)」(以下「崎谷論文」という)の指摘によれば、琉球諸語の音変化は琉球列島に九州から南下してきた「九州語」が琉球列島で音変化したことで生まれたものであるので、平子他論文が主張する「琉球祖語」とは、紀元後一一~一二世紀ごろの「九州語」が琉球列島で音変化した言語であると考えられる。

 

 また、弥生時代から古墳時代にかけて、日本の政治・経済・文化の中心が九州から畿内に移動することによって「九州語」が「関西語」になって全国に拡散していったことによって、「九州語」が音変化した「関西語」が、大和朝廷や律令国家形成の過程でさらに音変化して上代日本語が、そして、その後の政治・経済・文化の変動の過程を経て「日本語共通語」が誕生したのだと考えられる。

 

 そうであれば、平子他論文が主張する「琉球祖語」とは具体的には、上代日本語よりもずっと新しい、紀元後一一~一二世紀ごろの「九州語」であり、平子他論文がいう「日琉祖語」からの「琉球祖語」の分岐も、弥生時代初頭などの古い時代に起こったことなのではなく、実質的には、紀元後一一~一二世紀ごろに起こった、新しい出来事であったと考えられる。

 

 そして、古い時代の九州語から上代日本語が発展・進化し、その上代日本語がさらに進化・発展して「日本語共通語」が誕生したのだとすれば、上代日本語と紀元後一一~一二世紀ごろの「九州語」である「琉球祖語」とを比較して、「日琉祖語」なるものを再建しようとする平子他論文の試みは、方法論的に無理がある無意味な試みであると考えられる。

 

 平子他論文が紹介している琉球列島の諸方言の比較は、大和浜方言(鹿児島県奄美群島奄美大島)と池間方言(沖縄県宮古諸島池間島・宮古島・伊良部島)の比較である。

 

 平子他論文は、「汗」と「臼」の第2音節にはそれぞれ*seと*suとが再建されるというので、「汗」の「祖語形」は*ase、「臼」の「祖語形」は*usuを想定していることになるが、「臼」usuについて、崎山理の「日本語「形成」論(三省堂)」(以下「崎山論文」という)は、「臼」usuは縄文時代後期に日本列島に流入してきたオーストロネシア諸語に起源するという。

 

 崎山論文によれば、「臼」はPMP(マライ・ポリネシア祖語)では*lusuŋ、*ləsuŋといい、PWMP(西部マライ・ポリネシア祖語)では*əsuŋといって、日本列島には縄文時代後期にusuとして伝播してきたという。

 

 そうであれば、平子他論文が主張する「琉球祖語」とは、オーストロネシア諸語の影響を受けて、つまりその言語を「借用」してできた古代、あるいは上代日本語がさらに変化した新しい言語のことであり、その新しい言語が九州人の南下によって琉球列島に流入してきたものであったと考えられる。

 

 また、同様に「汗」aseも、おそらく九州人の南下によって琉球列島に流入してきたものであったと考えられる。

 

 琉球諸語が九州語が南下してきたことにより形成されたことと、池間方言の方が基層言語の影響の残存が強かったこと、つまり、大和浜方言の方が九州語の影響が強かったことからすれば、九州語によって形成された沖縄本島の言語が先島諸島の基層言語の影響を強く受けて変化したのが池間方言であったと考えられる。

 

 そうであれば、大和浜方言のsiが池間方言ではciになったのであるので、平子他論文が、大和浜方言に音変化*ci > siを仮定するのは誤りであると考えられる。

 

 平子他論文は、大和浜方言では、音変化*se > siと*su > siによって、祖語における*seと*suが合流し、両者の区別が失われたことになるというが、この「琉球祖語」とは新しい九州語のことであり、その新しい九州語が奄美大島に伝播して来たときに音変化したというだけのことである。

 

 そうであれば、何でこういう異なる音変化が起こったのかということをこそ解明すべきなのだと考えられる。

 

 なお、宮古島の池間方言の「汗」aciは、九州語の「汗」aseが伝播してきた奄美大島の大和浜方言の「汗」?asi が、北琉球とは基層言語が異なる先島諸島で変化して形成されたものであったと考えられる。

 

6)「汗」と「臼」、|星]の方言の比較

 

  平子論文は「臼」と|星]の第2音節にはそれぞれ*suと*siが再建されるというので、「星」の「祖語形」は*hosiを想定していることになるが、「星」hosiついて、崎山論文は、「星」は縄文時代後期に日本列島に流入してきたオーストロネシア諸語に起源するという。

 

 崎山論文によれば、「星」はPWMP(西部マライ・ポリネシア祖語)では*bi[t]uqənといい、チャモロ語ではputioといって、日本列島には縄文時代後期にputsiとして伝播し、その後、fusi→hosiとなったという。

 

 そうであれば、「臼」usuや「汗」aseと同じように「星」hosiも、おそらく九州人の南下によって琉球列島に流入してきた、新しい言語の言葉であったと考えられる。

 

 崎山論文は、上代日本語の前代の古代日本語の「星」に、putsi→fusi→hosiという変化を想定しているが、そうであれば、「星」の大和浜方言ɸuciや池間方言husiは、hosiの前代のfusiに近く、ɸuciのciはputsiのtsiの音変化したものだとすることが出来る。

 

 南琉球にも北琉球にもオーストロネシア諸語の影響が残存していたとすれば、九州語の「星」husiは、オーストロネシア諸語のputsi影響で奄美諸島の大和浜方言ではɸuciとなり、最も遅く九州語が波及した宮古島の池間方言では沖縄本島の王権による先島諸島の実効支配に伴って、支配層の言語として九州語の「星」husiが移入されてきたことで九州語により近い「星」husiが形成されたのだと考えられる。

 

 平子他論文は、大和浜方言では、音変化*se > siと*su > siによって祖語の*seと*suが合流し、両者の区別が失われたのに対して、池間方言では、音変化*su > si, *si > siによって祖語の*suと*siが合流し、両者の区別が失われたことになるというが、この「祖語」は九州語のことであり、九州語が奄美大島や宮古島に伝播して来たときに、それぞれ別の音変化をしたというだけのことである。

 

 大和浜方言のsiは池間方言のciとsiに対応し、池間方言のsiは大和浜方言のsiとciに対応しているのは、平子他論文が例示するとおりであるが、これまで述べてきたように、そういう対応関係が現象面でみられるのは、オーストロネシア諸語の琉列島や日本列島への波及とその形成過程でそれらの影響を受けた九州語の琉球列島への、北琉球から南琉球へという段階的な波及の結果として、両者の音変化が異なったのだと考えられる。

 

 このように、諸方言の語形の比較には、それらの諸方言がどのようにして、どのようなことに起因して形成されたのかという歴史過程の考察が不可欠なのであり、そこが欠落すれば、空虚な形式論になりかねないのである。

 

 平子他論文による、この琉球列島の方言比較の議論は、日本語の祖語の再建や日本語の変化の歴史の解明という点では無意味である。

 

(b)琉球祖語*e, *oの再建

 

 琉球琉球諸語には、中段母音(*eと*o)の狭母音化が広く観察される。沖縄民謡の「ていんさぐぬ花」の歌詞には「てぃんさぐぬはなやちみさちにすみてい」という一節があるが、「ぬ」(nu)は日本語共通語の「の」(no)に対応し、「ちみさち」(tsimi-satja)は日本語共通語の「爪先」(tsume-saki)に対応し、「すみてい」sumi-ti)は日本語共通語の「染めて」(some-te)に対応する。

 

 この例に関する限り、日本語共通語の中段母音eは首里方言の狭母音iに対応し(e: i)、日本語共通語の中段母音oは首里方言の狹母音uに対応している(o:u)。

 

 日本語共通語の中段母音が琉球諸語の狭母音にかなり一貫して対応するからと言って、琉球諸語の共通祖先である琉球祖語には、中段母音と狭母音の区別がなかったとみなすのは早計であり、また実際にこの見解は誤りである。

 

 日本語共通語の中段母音に対応する琉球諸語の母音は様々であり、方言ごとに音変化のパターンが様々に異なっている。

 

          網   雨   身   目

 琉球祖語         *ami   *ame   * mi  * me

 奄美語  大和浜 ?ami     ?ami      mi:      mi:

                  亀津  ?ami     ?ami      mi:      mi:

   沖縄語  伊江島 ?ami     ?ami       ni:      mi:

 宮古語  大神       am       ami    miɯ       mi:

                  平間   am       ami     mii        mi:

      池間        aŋ       ami     mi:        mi:

 八重山語 石垣        aŋ       ami     mi:        mi:

 与那国語 与那国     aŋ       ami     mi:        mi:

 

           臼  音   黒  これ

 琉球祖語         *usu   *oto   * kuro  * kore

 奄美語  大和浜 ?usi     ?uthu    k?uru     khuri

                  亀津  ?usi     ?uthu     kuru     khuri

   沖縄語  伊江島 ?usi     ?utu      k?u:      ɸuri

      首里   ?u:si     ?utu     kuru:     kuri

 宮古語  大神        us      utu          ffu      kuri

      池間       usi      utu          ffu       kui

 八重山語 石垣       usi      utu        ɸɸu       kui

 与那国語 与那国   utci      utu        ɸɸu      khu:


 上記を見ると、確かに日本語共通語の中段母音には狭母音が対応するが、共通語のiとeの区別とuとoの区別に対応する区別が琉球諸語にも観察されることが明らかになる。

 

 例えば、大和浜方言、亀津方言では、日本語共通語のiに対応する母音と共通語のeに対応する母音は、確かにともに狭母音であるが、前者は前舌母音i(亀津方言はl)であるのに対して後者は中舌母音iであり、互いに異なっている。

 

 また、大神方言、平良方言、池間方言、石垣方言、与那国語では、日本語共通語のiに対応する母音が(鼻音の後でかつ短母音の時)脱落しているが、共通語のeに対応する母音は脱落していない。

 

 さらに石垣方言では、1音節語で長母音化した環境において、日本語共通語のiに対応する母音はi:であるのに対して、日本語共通語のeに対応する母音はi:であり、両者の区別がある。類似の区別は大神方言・平良方言にも認められる。

 

 伊江島方言では共通語のmi, meに対応する音節の母音はともにiであるが、問題の区別は先行する子音に転移しており、前者はni、後者はmiとして反映されている。


 日本語共通語のuとoに対応する母音の区別に関しても同様であり、脱落と非脱落によって区別が認められる方言や、異なる母音として反映されている方言もある。

 

 また、母音は同一であるが、区別が先行する子音に転移して、両者が子音の違いによって区別されている方言もある。例えば大和浜方言では共通語のkuとkoに対応する音節の母音はともにuであるが、子音が異なっており、前者は声門化音k?であり、後者は帯気音khである。

 

 日本語共通語の狭母音i,uに対応する母音と日本語共通語の中段母音e,oに対応する母音の区別が琉球諸語に認められる事実は、当該の区別が琉球祖語にも存在していたことを意味する。

 

 琉球祖語の母音としては、前者に関しては*iと*eが、後者に関しては*uと*oが再建される。もう1つの母音*aを加えて、琉球祖語に5母音が再建される。

 

 中段母音の狭母音化は、琉球諸語に極めて広範に観察されるが、琉球祖語の段階ではまだ生じておらず、琉球祖語が娘言語へと分岐していった後に生じた碵行変化である。


 強調せねばらならないことは、琉球祖語に再建される5母音と日本語共通語における5母音には一対一の対応がないことである。日本語と琉球諸語の共通祖先である日琉祖語には5を超える数の母音が再建される。日琉祖語の母音は日本語共通語と琉球祖語と異なる形で合流を遂げており、確かに両者はともに5母音体系ではあるが、それぞれの母音の由来が異なる。

 

  平子他論文は、日本語共通語の狭母音i,uに対応する母音と日本語共通語の中段母音e,oに対応する母音の区別が琉球諸語に認められる事実は、当該の区別が琉球祖語にも存在していたことを意味するというが、母音が区別されていた言語、つまり九州語が琉球諸島に流入したので、琉球諸語でもその区分を受け入れたのであり、ただそれだけのことである。

 

 平子他論文は琉球祖語として、「網」*ami、「雨」*ame、「身」*mi、「目」*me、「臼」*usu、「音」*oto、「黒」*kuro、「これ」*koreを例示しているが、既に指摘した「臼」*usu以外にも、崎山論文によれば、「身」*mi、「目」*me、「黒」*kuroは、オーストロネシア諸語に起源しており、「これ」*koreは、「こ」*ko-「あれ」*a-reに起源する言葉であるので、平子他論文がここで例示している言葉は、日本列島で日本語として発達・完成された後で、琉球列島に流入してきた言葉であったと考えられる。

 

 ということは、平子他論文が主張する「琉球祖語」とは、日本語として発達・完成された、紀元後一一~一二世紀ごろの新しい「九州語」であったことを証明しているものであると考えられる。

 

 そうであれば、平子他論文による「日琉祖語」の議論は、無意味な議論であると考えられる。

 

 なお、平子他論文が例示した琉球諸語の方言の比較表を見ると、北琉球と南琉球でその語形が異なっているが、これは、北琉球と南琉球の基層言語の残存の度合いの違いを反映しているものであると考えられる。

 

 参考までに、崎山論文は以下のようにいう。

 

 上代日本語の一人称単数「身」*miは、単数を複数で表現する「尊厳の複数化」により、祖語形の複数形が単数形に転用されたもので、一人称複数のオーストロネシア祖語形*miがオセアニア祖語形*məyを経て、上代日本語の一人称複数「身」*məiとなり、そこから*miと音変化したものである。

 

 「まなこ(目)の「ま」が示すように、上代日本語の「目」*maは、マライ・ポリネシア祖語形*mataのの前部要素*maに起源するものであり、この*maにオーストロネシア諸語の属格(処格)後置詞*-iが付加された*ma-iが音変化して*meや*me:が誕生したものである。

 

 上代日本語の「黒」*kuro、*kuraは、意味的には暗闇から色彩の「黒」が連想されて、西部マライ・ポリネシア祖語*gəlap「闇」が音変化したものである。 

 

 以上のように、平子他論文が主張する「琉球祖語」とは紀元後一一~一二世紀の九州語であり、琉球諸語の諸方言の語形の違いは、その日本語として完成された言語であった九州語が、琉球列島の基層言語の残存の度合いによって変化洲たことで形成されたものであり、その「琉球祖語」と上代日本語を比較した結果として平子他論文が構想する「日琉祖語」は、架空のものであると考えられる。

 

 なお、この程度の議論しかできないのは、平子他論文の祖語の再建についての方法論や理論の決定的な誤りに起因するもので、彼らは何でこの程度の議論しかできないのか、ちょっと不思議な気がする。