豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(16) | 気まぐれな梟

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 今日は、「愛と青春のうた [Disc 2]」から、甲斐バンドの「裏切りの街角」を聞いている。

 

 菊池浩之の「角川新書 豊臣家臣団の系譜(角川書店)」(以下「菊池論文」という)は、秀吉の初期の家臣団について以下のようにいう。

 

(1)親族衆の線引き


 (a)信長・家康の親族衆の線引き

 

 信長・家康は、近親のうち、どこからどこまでが親族衆かを線引きしていた。

 

 たとえば、織田信長は天正九(一五八一)年二月に京で馬揃えを行った際、「御連枝の御衆」という一隊を設けており、信長は子息および兄弟・甥を親族衆だと認識していたようだ(「織田家臣団の系図」)。


 家康もまた、子息及び異父弟を親族衆だと認識していたようだ。江戸幕府の大名は親藩・譜代・外様に分類されるが、親藩は家康の四人の男子(尾張・紀伊・が罔徳川家ヽ越前松平家)と異父弟(久松松平家)の子孫だった。

 

(b)秀吉の親族衆


 これに対し、秀吉がどこまでを親族と認識していたかは明らかでない。


 和田裕弘氏はその著書「織田信長の家臣団」の中で、秀吉の親族衆について

 

 「秀吉の一族にはめぼしい人材がいなかったとされる。縁戚の福島正則や加藤清正は有能だったが、その活躍は本能寺の変後である。両者とも豊臣政権下で大抜擢されたが、血縁関係の深い正則の方が清正よりも重用された。

 

 唯一の人材は、出色の出来だった弟の小一郎長秀(のち秀長)だけである。(中略)秀長のほかには、母方の縁戚である青木勘兵衛重矩・秀以父子、小出播磨守秀政くらいである。姉妹の夫についてははっきりしたことが不明であり、信長時代にはこれといった事跡は伝わっていない。


 このため、正室の「ねね」(浅野形麗の養女)の系統を頼った。「ねね」の実家に連なる木下祐久、同家定、杉原(木下)家次、同小六郎、浅野長勝、相婿の浅野長吉(長政。浅野長勝の甥)らが主なところである」

 

と述べている。


 つまり、本能寺の変(一五八二年)以前は秀吉自身の親族に人材が乏しかったことから、正室・寧の実家である杉原(木下)家、養家の浅野家の人々で親族衆を構成していたらしい。

 

 寧の実家・木下(杉原)家にしても養家の浅野家にしても、閨閥といえるような有力者は存在しない。秀吉が出世したから、その親族として大名に取り立てられた者ばかりである。

 

 「一代でのし上がった秀吉には譜代といえる家臣は皆無だった。こうした場合、一族を頼るのが常套手段だが、秀吉の一族にはめぼしい人材がいなかった」(「織田信長の家臣団」)という、和田裕弘氏の手厳しい指摘は的を射ている。

 

 菊池論文はこのようにいうが、初期の秀吉が「正室・寧の実家である杉原(木下)家、養家の浅野家の人々で親族衆を構成していた」のは、秀吉は母の「なか」が婚姻関係に無かった複数の男と性交渉を持った結果の子であって、(木下)弥右衛門も正確には「なか」の下女としての奉公先の主人であり、弥右衛門の死によって「なか」との関係は消滅し、おそらく筑阿弥にも確実な親族などは不在であった、つまり秀吉には、どこかに生物学的な父はいたのだろが、社会的な「父はいなかった」からであったと考えられる。

 

(c)浅野長政

 

 浅野弾正少弼長政(一五四七~一六一二)は、通称を弥兵衛といい、天正二(年に従五位下弾正少弼に叙任された。


 諱ははじめ長吉。文禄元(一五九二)年頃に長政と改名したという(以下、長政に表記を統一する)。素直に考えるなら、秀吉の義兄として信長から偏諱をもらい、秀吉から一字もらって「長吉」と名乗ったのだろう(そう考えると、長政の養父の諱にたまたま「長」の字が付いているのは不自然で、長勝という名前も後世に創作したものと考えた方が良さそうだ)。

 

 菊池論文はこのようにいう。

 

 浅野家については、「豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(8)」で、菊池論文のこうした指摘も参考として、尾張国丹羽郡浅野村の在地領主であったと述べた。

 

 在地領主であれば、代々の武士としての諱もあったはずであるが、菊池論文が指摘するように、長勝という名前も後世に創作したものであったとすれば、浅野家の系譜に登場する浅野家の歴代の先祖の名も恐らく創作されたものであり、そうであれば、もしかすると、浅野家が武士となったのは、それほど昔のことではなく、浅野村に住んでいた名主層の農民が、例えば、南北朝とかの戦乱の時代に武士となったときに、住んでいた村の名を取って浅野の姓を名乗ったのかもしれないと考えられる。

 

(d)杉原家次

 

 北政所・寧の実家は杉原家といい、系図上の家祖は杉原七郎兵衛家利という。ただし、「寛政重修諸家譜」の家利の項には「祖父のときより尾張国に住す」という記述があるのみで、生没年も不明である。


 家利には一男二女があり、長男が杉原七郎左衛門家次、長女・七曲が浅野又右衛門長勝の妻、次女・あさひが杉原助左衛門の妻(寧の母)という。杉原七郎左衛門家次(一五三一~八四)は寧の叔父にあたり、秀吉が出世するにつれて、親族衆として重用された。

 

 菊池論文はこのようにいう。

 

 杉原家利については、「豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(5)」で述べたが、杉原家利の家系は鍛冶職人の家系であったと考えられる。

 

 杉原家利の家系は杉原家の分家筋の家系で、その子の家次は杉原家の本家筋に養子に入って有力な「連雀商人」となり、織田信長の下で弓衆の頭であった浅野長勝が彼の妹の「七曲」と結婚したことで、杉原家と浅野家の繋がりができ、杉原定利の子の「おね」と豊臣秀吉の結婚の条件として、「おね」かが浅野長勝の養子となるったことで、豊臣秀吉と杉原家、浅野家が繋がっていくのであった。

 

(e)木下姓

 

1)杉原家定が秀吉から木下姓を与えられて木下家利になった

 

 寧の兄弟は、異母兄・木下肥後守家定(一五四二~一六〇八)だけだったようで、家定は秀吉から木下姓を与えられ、その子孫は木下を名乗っている。


 秀吉が青年期に木下姓を名乗っていた理由の一つに、寧の実家・杉原家が過去に木下姓を名乗っていたからという説がある。しかし、系図を見る限り、そうした形跡はなさそうだ。秀吉が杉原家から木下姓を拝借したのではなく、秀吉が杉原家へ木下姓を与えたと考えた方が妥当だろう。

 

 秀吉は有力大名らに豊臣姓を与え、羽柴という苗字を名乗らせた。江戸時代になると、ほぼすべての大名が復姓して豊臣姓を名乗らなくなったが、木下家は豊臣姓を使い続けた。「寛政重修諸家譜」でも源姓松平氏、平姓織田氏……という並びに、豊臣姓木下氏が掲げられている。

 

2)木下姓は織田信長が秀吉に下賜したもの

 

 ここでは菊池論文は触れてはいないが、織田信長は家臣の武将たちに姓を下賜しており、秀吉が鍛冶職人の家系の出自であったとすれば、彼には武士のような姓はなかったt考えられるので、木下の姓は、織田信長が秀吉に下賜したものであり、その時期はおそらく秀吉が織田信長のもとで部下を持た武士となった時期であったと感がられる。

 

 そうであれば、木下の姓の謂れは、おそらく、秀吉の容貌や姿かたちが猿のようであったので、「木から下りた猿」とでもいう意味であったと考えられる。

 

3)系譜の不明な木下姓

 

 桑田忠親著「太閤家臣団」では「このほか、木下氏の同族と思われる人々に、木下半右衛門尉一元・木下小次郎・木下祐久・木下仙蔵・木下勘解由左衛門尉利匡・木下周防守延重・木下助兵衛尉秀定・木下左京亮秀規・木下将監昌利・木下宗連・木下半介吉隆・木下山城守頼継などがいた」という。最後の木下山城守頼継は大谷吉継の養子であるが、それ以外の人物の具体的な血縁関係は不明である。

 

 菊池論文はこのように、豊臣秀吉と同時代に具体的な血縁関係は不明であるが木下姓の武士たちが存在しており、木下山城守頼継は大谷吉継の養子であるが、彼を除いた人たちは「木下氏の同族と思われる」という。

 

 また、「豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(8」」で述べたように、宝賀寿男の「豊臣秀吉の系図学(桃山堂)」(以下「宝賀論文」という)によれば、近江国浅井郡尊勝寺村の称名寺の住職の次男が木下吉隆で性慶が木下吉隆の甥であったとすると、吉隆の実家は寺の住職の家系であり、吉隆は初めは右筆として秀吉に仕えたとされるので、おそらく秀吉に見いだされて武士になったのだと考えられ、そうであれな彼の「木下」という姓は、秀吉が下賜したものであったと考えられる。

 

 こうした事例からすると、菊池論文が列挙している木下姓の武将たちの木下姓の多くは秀吉が下賜したものであり、彼らは秀吉の「同族」等ではなかったと考えられる。

 

 なお、尾張国には犬山城の近くに木下村があったというので、木下姓の在地武士も、木下村の出自で木下の姓を名乗っていた農民や町人、職人などもいたとは思われるが、彼らは、源氏とか平氏とかの有名武士の系譜に連なる人たちではなかっと考えられる。

 

4)「重修真書太閤記」の「一本木下系図」

 

 宝賀論文のよれば、栗原信充の「重修真書太閤記」には、佐々木源氏の高島流の一族の木下氏の系譜が所収されていると、以下のようにいう。

 

 「重修真書太閤記」に、栗原信充が嘉永二年(一八四九)九月付で書いたまえがきがあるが、この本の構成は、本文で語られる秀吉の一代記について、所々で栗原信充が解説し、蘊蓄を披露するというもので、初編の第一冊を見ると、秀吉の曾祖父が比叡山を抜け出し、浅井郡長野村に帰ってきたというくだりの後、先に紹介した高島氏のことが出てきます。

 

 一本木下系図に佐々木高島隠岐守高信八代、越中守高泰の子氏泰、木下郷に住せしかば木下源四郎と云。母は浅井郡長野村の人にて種姓、定かならずとかや。氏泰の弟に僧あり。東塔学林坊住と注す。この僧恐くは昌盛なるべし。

 

 高島高泰は、「諸系譜」において秀吉の曾祖父を婿に迎えている人物ですが、栗原信充が見ている木下系図では、浅井郡長野村の女性を妻としていると書かれていることが注目されます。長野村とは秀吉の先祖の出身地として、史料に記されていますが、長浜市の丁野のことであろうと推量されます。小谷城のふもとにあり、大名浅井氏の本来の居住地といわれています。

 

 もうひとつのポイントは、高泰の子に僧があり、比叡山の東塔にいたということです。栗原信充はこの僧が秀吉の曾祖父とされる昌盛法師ではないかと推定しています。「諸系譜」では、高泰の婿(義理の子)とされている秀吉の曾祖父が、実子だという話になります。

 

 栗原信充が話題としている木下系図は伝来していないので、これ以上のことは何とも言えないのですが、栗原信充の手元には膨大な史料があり、私たちには未知の系図があったということです。

 

 菊池論文が紹介している「重修真書太閤記」の「一本木下系図」は、おそらく、(木下)弥右衛門の系譜を佐々木源氏の高島流の系譜に接合したものであったと考えられるが、その木下姓は、弥右衛門が秀吉の実父であったということを前提にしているので、この系譜は偽系図であったと考えられる。

 

 ただし、(木下)弥右衛門に係る幾つかの系譜がみな、その祖が比叡山から下山してきたとすることには、近江国浅井郡丁野村の鍛冶職人の系譜とすれば、おそらく史実の核があると考えられる。

 

(2)秀吉の従兄弟たちは親族衆ではなかった
 

 秀吉自身の縁戚として福嶋、加藤、青木、小出家があったが、かれらが親族衆として認識されていたかは不明である。

 

(a)秀吉の従兄弟たち

 

「寛政重修諸家譜」や「断家譜」等によれば、秀吉には以下の従兄弟がいたようだ。


・福嶋左衛門大夫正則(一五六一~一六二四)

・加藤主計頭清正  (一五六二~一六一一)
・小出播磨守吉政  (一五六五~一六一三)
・小出遠江守秀家  (一五六七~一六〇三)
・福嶋掃部頭高晴  (一五七三~一六三三)
 

 これ以外にも生年不詳の青木紀伊守重吉(一矩・秀以ともいう)が秀吉の従兄弟らしい。


 従兄弟と一口にいっても、父方、母方の従兄弟がいる。「寛政重修諸家譜」によれば、福嶋兄弟の母が「豊臣太閤秀吉の伯母木下氏」。小出兄弟の母が「豊臣太閤秀吉の姑」。「断家譜」によれば、清正の母が「秀吉公伯母」だという


 櫻井成廣氏、宝賀寿男氏らが青木家に伝わる系図、および「諸系譜」(国立国会図書館所蔵)を調査して作成した系図では、かれらはすべて母方の従兄弟だという(「豊臣女系図」「豊臣秀吉の系図学」)。

 

 寧々の祖母を大政所(秀吉の母)の姉とするなど、かなり怪しい点は否めない。

 

 菊池論文は、宝賀論文の紹介する系譜で、寧々の祖母を大政所(秀吉の母)の姉とするのは、かなり怪しいというが、杉原家も秀吉の母「なか」の家系も、同じ鍛冶職人の家系であり、居住していた村も近隣であったとすれば、社会階層の同一性と地縁の存在によって、両者が同族結婚を繰り返していたという想定には、それ程の無理はないと考えられる。

 

(b)従兄弟の中でも特別待遇だった福嶋正則

 

 福嶋正則は他の従兄弟たちと一線を画した存在であったようだ。


 福嶋の家紋は沢瀉であるが、これは桐紋を与えられる以前に秀吉が使用していた家紋である。

 

 家紋研究の泰斗・沼田頼輔氏はその著書「日本紋章学」で

 

 「豊臣秀次がこの紋章を馬標に用いたことは「御指物揃」に見られる。後世、木下氏(豊後日出領主)もまたこの紋を用いたので、恐らく、この紋章は、木下氏の家紋であると思われる。木下氏と氏族関係にある福島正則もまたこの紋章を用いた。これらの事実から考えると、沢瀉紋は木下氏一門と密接な関係を持っていたようであるが、文献上にはまだ的確な証明を得ていない」

 

と語っている。


 ところが、秀吉の家紋が沢瀉だと示唆する文献があるのだ。「寛政重修諸家譜」の池田備中守長吉の項で、「天正九年豊臣太閤の養子となり、羽柴を称し、沢瀉の紋の旗五本をあたへらる」(傍点引用者)との記述がある。


 ちなみに木下家(旧姓・杉原)の家紋も沢瀉である。『寛政重修諸家譜』には「家伝に、沢瀉は杉原の家紋にして代々これを用ふ」とある。ところが、当の杉原家では「萩の丸」を家紋に使い、沢瀉を使用していたとはおくびにも出していない。

 

 おそらく、秀吉が何らかの理由で沢瀉紋を使いはじめ、木下家、福嶋家に下賜したのであろう。

 

 菊池論文が指摘するように、秀吉が彼の妻の実家であった木下家に下賜した沢瀉紋を福島正則にも下賜しているのは、秀吉が福島正則を特別ん重視していたことの反映であったと考えられる。

 

(c)福島正則と加藤清正の出世過程の比較

 

1)福島正則の出世過程

 

 「寛政重修諸家譜」では「幼稚より豊臣太閤につかへ」とあり、正則がいつ頃から秀吉に仕えたのかは定かでないが、二〇〇石を賜ったという。秀吉の中国経略に従い、初陣は天正六(一五七八)年の三木城攻めという。山崎の合戦後の勝龍寺城攻めで武功をあげ、三〇〇石を加増される。


 天正一一(一五八三)年四月の賤ヶ岳の合戦で、一番槍・一番首の武功をあげ、五〇〇〇石を与えられ、「賤ヶ岳の七本槍」の一人と讃えられた(残りの六人は三〇〇〇石)。


 天正二二(一五八五)年七月に秀吉が関白に任ぜられると、慣例によって諸大夫二一名を置き、正則もその一人に撰ばれ、従五位下左衛門尉に叙任され、左衛門大夫と名乗った。


 天正一五(一五八七)年の九州征伐に参陣。その後の国分けで、伊予を与えられていた小早川隆景が筑前に転封となり、正則はその跡を受け、伊予国今治一一万三〇〇〇石の大名となった。わずか二七歳の大抜擢である。


 次いで、小田原征伐に参陣し、文禄・慶長の役では朝鮮に渡って奮戦した。話は前後するが、文禄四(一五九五)年八月に関白・豊臣秀次が改易されると、正則はその跡を受け、尾張清須二〇万石に転封された。また、慶長二(一五九七)年七月に従五位下侍従に叙任され、豊臣姓・羽柴名字を与えられている。

 

2)加藤清正の出世過程

 

 天正二(一五七四)年に長浜に赴いて秀吉に仕え、天正四(一五七六)年に元服。近江長浜付近で一七〇石を与えられる。秀吉の中国経略に従い、初陣は天正九(一五八一)年の鳥取城攻めという。翌天正一〇年三月の備中冠山城攻めで一番槍の手柄を立て、一〇〇石を加増される。

 

 天正一一(一五八三)年の賤ヶ岳の合戦で「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられ、三〇〇〇石を賜った。その後、小牧・長久手の合戦、四国征伐に参陣。


 天正一五(一五八七)年の九州征伐に参陣。その後の国分けで肥後一国を与えられた佐々成政が失政の責を負わされて翌天正十六年閠五月に切腹すると、その跡を受け、北半分の肥後隈本(熊本)二五万石が清正に、南半分の肥後宇土二〇万石に小西行長が封ぜられた。


 天正二〇(一五九二)年の朝鮮出兵では一万の兵を率いて、小西行長とともに先陣を任される(文禄の役)。


 明国(中国)と講和する段階で、秀吉の意向に忠実に沿おうとする清正と、現実的な落とし所を探る小西行長との路線対立が露わとなり、小西と石田三成の讒言に遭って、清正は秀吉の勘気に触れ、文禄五(一五九六)年四月に日本へ召還、謹慎命令を受ける。


 同文禄五年七月、京阪地方を大地震が襲い、謹慎中の清正が真っ先に伏見城に駆け付けたことで、感激した秀吉が清正の謹慎を解き、豊臣姓を与えたといわれている。

 

3)福島正則と加藤清正の出世過程の比較

 

 菊池論文の記述を参考にすると、福島正則と加藤清正の出世過程には、以下の違いがある。

 

 初陣は、福島正則が天正六(一五七八)年、加藤清正が天正九(一五八一)年で、両者には三年の差がある。

 

 加藤清正が豊臣秀吉に仕えたのは天正二(一五七四)年で、天正四(一五七六)年に元服して一七〇石を与えられ、福島正則がいつ頃から秀吉に仕えたのかは定かでないが、二〇〇石を賜っている。

 

 福島正則は天正一〇年六月の山崎の合戦後の勝龍寺城攻めで武功をあげ三〇〇石を加増されていて、加藤清正は天正一〇年三月の備中松山城攻めで一番槍の手柄を立て、一〇〇石を加増されている。

 

 天正一一(一五八三)年の賤ヶ岳の合戦では福島正則も加藤清正も「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられたが、三〇〇〇石を賜った加藤清正に対して、福島正則は一番槍・一番首の武功をあげ、五〇〇〇石を与えられた。

 

 天正一五(一五八七)年の九州征伐では、まず最初に、伊予国今治一一万三〇〇〇石が福島正則に与えられ、佐々成正の切腹後に、肥後国隈本二五万石が清正に与えられ、文禄四(一五九五)年八月に関白・豊臣秀次が改易されると、福島正則はその跡を受け、尾張清須二〇万石に転封された。

 

 福島正則は、慶長二(一五九七)年七月に従五位下侍従に叙任され、豊臣姓・羽柴名字を与えられているが、加藤清正が豊臣姓を与えられたのは、文禄五年七月であった。

 

 こうしてみると、福島正則と加藤清正の年齢はさほど変わらず、二人とも秀吉の母「なか」の妹の子である点も共通なのだが、菊池論文が指摘するように、福島正則の出世は加藤清正よりも早かったと考えられる。

 

(d)福島正則の出世が加藤清正よりも早かった理由

 

 菊池論文は、福島正則と加藤清正の出生と生育経過について、以下のようにいう。

 

 「寛政重修諸家譜」では、正則の父・福嶋市兵衛正信(?~一五九七)の項に「尾張国海東郡二寺邑に住し、のち豊臣太閤につかふ。室は豊臣太閤秀吉の伯母木下氏」とある。

 

 加藤主計頭清正(一五六二~一六一二は、尾張国愛知郡中村の加藤弾正左衛門清忠(一五二七?~六四)の子に生まれる。幼名・虎之助。母は秀吉の伯母といい(「断家譜」)、秀吉の従兄弟にあたる。


 清正は父を早くに失ったので、「清正の母は義弟が津島で刀鍛冶をしていたので、これを頼って清正を連れて津島へ移った。津島は中村から西へ十ニキロ、津島神社の門前町である。清正は、この津島で十三歳まで義叔父の世話になった」という(「加藤清正のすべて」)。

 

 菊池論文によれば、福島正則が生まれた「尾張国海東郡二寺邑」は「尾張国海東郡花正庄二寺邑(現愛知県海部郡美和町二ツ寺)」であり、加藤清正が生まれたのはおそらく中村で、清正の母は清正の父の死後、尾張国海東郡門真荘津島(現愛知県津島市神明町)に移住しているが、両者の出生と生育経過にはさほど大きな違はないと考えられる。

 

 両者ともに秀𠮷の母「なか」の妹の子であり出生と生育経過にもちがいはなく、年齢も同じくらいであったとすると、両者の唯一の違いは、おそらく秀吉に仕え始めたのが、福島正則の方が早かったということであったと考えられる。

 

 福島正則と加藤清正に差が付いたのは、この経歴の違いと、おそらく福島正則の方が有能だと秀吉に評価されていたからであったと考えられる。