豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(17) | 気まぐれな梟

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 今日は、「愛と青春のうた [Disc 2]」から、青い三角定規の「太陽がくれた季節」を聞いている。

 

 菊池浩之の「角川新書 豊臣家臣団の系譜(角川書店)」(以下「菊池論文」という)は、秀吉の初期の家臣団について以下のようにいう。

 

(3)「公家成」させない論理

 

 本能寺の変以前、秀吉の親族衆を構成していたのは正室・寧の実家である杉原(木下)家、養家の浅野家の人々だと指摘したが、かれらの中で公家成しているのは、異母兄・杉原家定の長男・木下膊俊だけである(家定の末男・小早川秀秋も公家成しているが、これは秀吉の養子としてのものなので、木下家としては算入しない)。


 意外なことに、養兄の浅野長政、その子・浅野幸長はともに公家成していない。


 同様に、親族として重用されていながら、公家成していない人物がいる。
 

 秀吉の叔父・小出秀政、その子・小出吉政である。
 

 奈良興福寺の塔頭・多聞院で書き継がれた日記「多聞院日記」の天正二年九月五日条に「小出(秀政)「大政所ノ妹ヲ女房二沙汰也」との記述があり、小出秀政を秀吉の親族と語っており、一族であることは間違いない。


 「彼(小出秀政)は秀吉がまだ羽柴筑前守を称していた時期に、すでに羽柴の姓を与えられており、秀吉が天正十年、明智光秀を討つために姫路城を出発するに当たっては、彼と実姉の夫三好武蔵守一路(秀次らの父)とに留守をまかせているから、早くから秀吉のよき援助者だったに相違ない」(「豊臣女系図」)。

 

 留守を任されていたということは、秀吉の信任が厚い反面、戦力としては期待されていなかったということだ(ちなみに、秀政は、秀吉の叔父といっても老人ではなく、秀吉より三歳若い。当時は四三歳の働き盛りだった)。


 秀政は豊臣家の家政を司る、いわば執事のような役割で、親族としてその代表を務めていた。そして、秀吉は秀政の後継者として義兄の浅野長政を充てた。

 

 すなわち、小出秀政は秀吉の側近「六人衆」の一人であり、浅野長政はその後継組織である「五奉行」の筆頭である。

 

 おそらく、秀吉は、執事のような位置付けにある小出秀政、浅野長政をあえて公家成から外したのであろう。

 

 菊池論文は、後段でも次のようにいう。

 

 「秀政は秀吉が羽柴を称していた時代、秀吉の弟秀長以外では唯一、羽柴を称したほど、秀吉の寵愛を受けていた」という(「豊臣大坂城」)。さらに慶長元年には豊臣姓を下賜された。限りなく親族衆に近い扱いにもかかわらず、官位は従五位下播磨守、天正二二(一五八五)年に和泉岸和田城三万石を与えられただけで終わった。


 目立った武功もなく、豊臣家の家政を担当する裏方に位置づけられたようだ。

 

 こうした菊池論文の指摘から、親族として重用されていながら、公家成していない、小出秀政、浅野長政は、豊臣家の家政を担当する裏方に位置づけらていたため、公家成から外されていた、言葉を変えて言えば、彼らを公家成させるメリットを秀吉は感じてはいなかったのだと考えられる。

 

 菊池論文は、以下、秀吉家臣団をその形成過程と形成順によって、小六世代、二兵衛世代、七本槍世代に区分して論じているので、順次見てきたい。

によって、

 

(4)小六世代

 

  菊池論文は、「豊臣家臣団のシニア・グループ」である「三長老」について、以下のようにいう。
 

 豊臣家臣団は織田・徳川に比べて異様に若い人材によって構成されていた。年長の重臣といえば、蜂須賀正勝、前野長康、生駒親正の三人である。かつ、この三人はもともと岩倉織田家の家臣で、仲も良かったらしい。
 

 そして、蜂須賀、前野、生駒の三人は親戚でもあった。
 

 生駒親正の従兄弟(生駒家長)の娘が、蜂須賀正勝の嫡子(蜂須賀家政)、前野長康の甥(坪内家定)にそれぞれ嫁いでいるのだ。

 

 なお、菊池論文は、秀吉の家臣で、秀吉より年長と思われる家臣は以下の通りであるという。


・桑山重晴  (一五二四~一六〇六) 尾張出身
・寺沢広政  (一五二五~一五九六) 尾張出身
・蜂須賀正勝 (一五二六~一五八六) 尾張出身
・生駒親正  (一五二六~一六〇三) 尾張出身
・前野長康  (一五二八~一五九五) 尾張出身
・古田重則  (一五二九~一五七九) 美濃出身か?
・別所重棟  (一五二九~一五九一) 播磨出身
・谷衛好   (一五三〇~一五七九) 美濃出身

・古田重則  (一五三一~一五八四) 尾張出身 秀吉の義伯父
・別所重棟  (一五三一~一五八三) 尾張出身
・蒔田広光  (一五三三~一五九五) 尾張出身

 

 こうした菊池論文の指摘から、妻側の親族の杉原家と浅野家を核として、秀吉側の弟秀長や姉の夫一路などの近親者も家人として付加して形成された最初期の秀吉家臣団が、拡大していく過程で、彼らの経験不足を補う形で、元は岩倉織田家の家臣で織田信長の直臣となっていた蜂須賀正勝、前野長康、生駒親正の三人が、おそらく、蜂須賀正勝と豊臣秀吉がともに戦った縁で、織田信長から秀吉の与力に付けられ、蜂須賀正勝と同じ岩倉織田家の家臣として親交のあった前野長康、生駒親正の二人も、蜂須賀正勝に誘われる形で、同じく織田信長から秀𠮷の与力とされたのだと考えられる。


(5)二兵衛世代

 

  菊池論文は、秀吉が織田政権下での有力家臣となった時点での、秀吉家臣団の中心的存在であった竹中半兵衛と黒田官兵衛等の世代の家臣について、以下のようにいう。

 

 秀吉が織田家臣団の一員として、近江の浅井家を攻略し、中国経略で活躍した時の家臣(与力を含む)は、主に一五四〇年代生まれである。


 俗に軍師と呼ばれる竹中半兵衛重治と黒田官兵衛孝高を半兵衛と官兵衛という二人の兵衛、つまり「二兵衛」と呼ぶこともあるようだ。そこで、秀吉と同い年の加藤光泰から一五歳年下の仙石秀久までを「二兵衛」世代と呼ぶ。


 二兵衛世代は美濃出身者が多い。これに対し、尾張出身者は豊臣秀長、小出秀政、木下家定、浅野長政と秀吉の近親ばかりで、近親以外は堀尾可晴、山内一豊くらいである。


 元亀・天正の一五七〇年代、秀吉を支えていた三〇代の主力家臣は、美濃出身者で構成されていたということだ。しかし、関ヶ原の合戦(一六○○年)の頃、かれらは世代交代の時期に差し掛かり、大身の大名に飛躍することができなかった。

 

 菊池論文がここで例示しているのは以下の人物である。

 

・加藤光泰 (一五三七~一五九三)美濃出身
・前田玄以 (一五三九~一六○二)美濃出身
・豊臣秀長 (一五四〇~一五九一)尾張出身 秀吉の異父弟
・小出秀政 (一五四〇~一六○四)尾張出身 秀吉の義叔父
・小堀正次 (一五四〇~一六○四)近江出身
・木下家定 (一五四三~一六○八)尾張出身 秀吉の義兄
・堀尾可晴 (一五四三~一六一一)尾張出身
・竹中重治 (一五四四~一五七九)美濃出身
・増田長盛 (一五四五~一六一五)近江出身?
・黒田孝高 (一五四六~一六○四)播磨出身
・一柳直末 (一五四六~一五九〇)美濃出身
・山内一豊 (一五四六~一六○五)尾張出身
・山崎片家 (一五四七~一五九一)近江出身   

・浅野長政 (一五四七~一六一一)尾張出身 秀吉の義兄
・田中吉政 (一五四八~一六○九)近江出身

・青木一重 (一五五一~一六二八)美濃出身 
・仙石秀久 (一五五二~一六一四)美濃出身 

 

 菊池論文が指摘するように、二兵衛世代は美濃出身者が多いが、これは織田信長の美濃斎藤氏の打倒と美濃の併合によって、織田信長の家臣団に美濃の在地武士たちが多数結集してきたことの反映であったと考えられる。

 

 そして、これも、菊池論文が指摘するように、彼らは、秀吉の近親者を除けば、みな大身の大名にはなっていないが、これは、織田信長の死後に秀吉の全国制覇の過程で大活躍していったのが、次代の「七本槍世代」であったことによるものであっ宝たからであったと考えられる

           

(6)七本槍世代

 

 菊池論文は、織田信長の死後に秀吉の全国制覇の過程で大活躍していった世代の家臣たちは「いわば新卒採用世代」であるとし、彼らを「賤ヶ岳の七本槍」に代表される「七本槍世代」と呼び、以下のようにいう。

 

 本能寺の変後、「賤ヶ岳の七本槍」として名を馳せた福嶋正則、加藤清正らの七人は、一五五〇年代中盤から一五六〇年代中盤生まれである。


 秀吉が浅井旧領を与えられ北近江の領主になったのが天正元(一五七三)年、長浜城に居を移したのが天正三(一五七五)年。それまで、秀吉の家臣は信長から預けられた与力で構成されていたと思われるが、その頃から秀吉は尾張から縁者を呼び寄せたり、近江で聡明な少年を探して、自分の家臣として採用しはじめたようだ。


 一五七〇年代前半に、元服前の一〇代の少年を小姓に取り立てると、だいたい一五五〇年代後半から一五六〇年代前半生まれになる。


 浅井旧臣には大物の部将も何人かいたはずだが、秀吉はかれらと反りが合わなかったようで、信長に返されたり、失脚したりした。

 

 秀吉は子飼いの家臣がとりわけ好きだったようだ。意外に美濃出身の「二兵衛世代」が大大名に出世できなかったのは、その下の「七本槍世代」を抜擢した結果であろう。


 秀吉の死後、かれらは「武断派」と呼ばれ、「文治派」と呼ばれた吏僚と対立していったが、「文治派」の石田三成、大谷吉継もまた一五六〇年代前半の出身であった。つまり、秀吉政権の中核を担っていた世代だといえる。

 

 「七本槍世代」は、豊臣家臣団の二世と秀吉子飼いの部将・官僚から構成されている。
 

 菊池論文がここで例示しているのは以下の人物である。

 

・脇坂安治 (一五五四~一六二六)近江出身 賤ヶ岳七本槍
・生駒一正 (一五五五~一六一〇)尾張出身 親正の子

・片桐且元 (一五五六~一六一五)近江出身 賤ヶ岳七本槍

・藤堂高虎 (一五五六~一六三〇)近江出身

・蜂須賀家政 (一五五八~一六三八)尾張出身 正勝の子
・桑山一重 (一五五七~一五八二)尾張出身

・小西行長 (一五五八~一六○○)摂津出身
・平野長泰 (一五五九~一六二八)尾張出身 賤ケ岳七本槍
・古田重勝 (一五六〇~一六○六)美濃出身?重則の子
・伊東長次 (一五六〇~一六二九)尾張出身 長久の子

・石田三成 (一五六〇~一六○○)近江出身 五奉行

・福嶋正則 (一五六一~一六二四)尾張出身 賤ヶ岳七本槍
・加藤清正 (一五六二~一六一一)尾張出身 賤ヶ岳七本槍

・糟屋武則 (一五六二~ ?  )播磨出身 賤ヶ岳七本槍
・加藤嘉明 (一五六三~一六三一)三河出身 賤ケ岳七本槍
・細川忠興 (一五六三~一六四五)京都出身 藤孝の子
・谷 衛友 (一五六三~一六二七)美濃出身 衛好の子

・寺沢広高 (一五六三~一六三三)尾張出身 広政の子

・一柳直盛 (一五六四~一六三六)美濃出身 直末の弟
・池田輝政 (一五六四~一六一三)尾張出身 恒興の子
・大谷吉継 (一五六五~一六〇〇)近江出身
・小出吉政 (一五六五~一六一三)尾張出身 秀政の子

・黒田長政 (一五六八~一六二三)播磨出身 孝高の子