豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(15) | 気まぐれな梟

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 今日は、「愛と青春のうた [Disc 1]」から、小椋佳の「さらば青春」を聞いている。

 

 服部英雄の「河原ノ者・非人・秀吉(山川出版社)」(以下「服部論文」という)は、秀吉の親族や周辺の人物の社会階層について以下のようにいう。

 

(4)周辺の人物像

 

 盛田嘉徳「河原巻物」(法政大学出版)では「足軽・河原ノ者」を並記する「応仁記」を引用しつつ、「手柄を立てて出世する者もできることは当然で、豊臣氏の旗下にも、出身が中世賎民、またはそれに近いと思われる武将が幾人もある」と記述している。


 日本史において信長・秀吉の時代はもっとも流動的でダイナミックな時代であった。おそらくは侍身分を解体した明治維新期にも匹敵しよう。これまでも豊臣秀吉は身分の流動性・上昇を代表する人物であったが、ふっうは一介の百姓から身を起こしたとされている。もしも賎の環境に身を置きながら、天下人、関白になった、となれば、さらに時代は混沌としていた。


 秀吉旗下で賎民階層の出自だった可能性をもつ人物とは誰を指していたのだろうか。

 

(a)福島正則

 

 縁者である福島正則は「大工(番匠)の子」(福島記〈「知新集」巻二)とも「桶屋の子」ともあった。桶屋は俗説というが、ほぼ同義である。その父は竹を得て箍を締め、ときに棺桶も作った。「盈筐録」一六二巻に「父は与衛門とて卑賤の者なり」とある。

 

 服部論文が紹介している記事によれば、福島正則の父は「卑賤の者」とされているが、おそらくこれは、彼が職人であったことを指すのであって、福島正則の父が賎民階層の出自だったということではないと考えられる。

 

(b)加藤清正

 

 加藤清正は「あのう石つきの子」とする「古老物語」の記述もある。穴太は石工だが、「散所」とされており、「出雲」「駿河」「伊豆」のように国名で呼ばれていた。賎視されていたことはほぼ確実であるが、これは清正の技量からする、後からできた話かもしれない。

 

 服部論文が紹介している記事によれば、加藤清正の父は、「散所」とされ賎視されていた「あのう石つきの子」とされているが、この加藤清正の場合も、おそらくこれは、彼が職人であったことを指すのであって、加藤清正の父には、刀鍛冶だったという伝承もあるので、彼が賎民階層の出自だったということではないと考えられる。

 

(c)大谷吉継


 阿部弘藏「日本奴隷史」(大正十五年、第八章)は「績武家閑談」に、関ヶ原役の前、眞田信幸の弟幸村を罵りたる言に、己れは穢多の大谷めに随へと怒りたることが見える、としている。大谷吉継を指していようが、彼はライだったとされるから、そこからの混同かもしれない。しかしそのようにみられがちな人物が秀吉周辺に多かった。

 

 この大谷吉継の例も、これだけで彼が賎民階層の出自だったということはできないと考えられる。

 

(d)堀秀政


 永原慶二「中世社会の展開と被差別身分論」(「部落史の研究」前近代編)に皮革に従事する棟梁は、「掃部」(掃部丞)を称することが多いとある。

 

 次に示す七条文書は連雀商人が拠点をもちながらも、各地に行商していた姿を伝える。戦国大名と皮革商人との結びつきを示す史料として、部落史研究上、著名な史料である。

 

 (印文「義元」)
 薫皮・毛皮・滑革以下れんしゃく商人、他国江皮を致商売と一昔、其所来町人等、皮を持否事問尋、荷物二隠置者糺之、押置可注進申、但寄縡於左右、荷物違乱不可申、或号権門被官不勤其役之類、堅可申付、有先例故皮留之趣如件
 天文十三辰甲
   四月廿七日

       大井掃部丞殿            (「静岡県史資料編」八、中世三、七条文書 六七九号)
 

 皮留とある。天文十三年(一五四四)今川氏が大井掃部丞に対し、連雀商人が他国にて薫皮ほか毛皮・なめし革を販売することを禁じた。


 大永六年(一五二六)六月十二日今川氏親朱印状は、かわた彦八に対し、川原新屋敷を安堵して、皮の役を申し付けている(「静岡県史資料編」八-同九二〇号)。享禄元年(一五二八)十月二十八日寿桂尼朱印状は同じく彦八に同内容を保証するとともに、急用の皮については国中を走り廻って調達せよ、と命じている(同一〇二号。その宛先はいずれも大井新右衛門尉であった。大井掃部丞は新右衛門尉の後継者であろう。大井掃部丞はかわた頭(彦八か、その継承者)への命令権(支配権)をもっていた人物で、同時に連雀商人に対する強い支配権をもっていた。連雀もカワタ頭も大井の支配下にあった。

 

 掃部といえば堀秀政の父(秀重、伯父とも)も、祖父も掃部大夫であった(「織田信長家臣人名辞典」)。堀久太郎(秀政)が皮多の軍事支援を受けたことは脇田修「河原巻物の世界」に指摘がある。皮多の軍事支援を受けたこと自体はどの大名にも共通する。

 

 堀秀政の父や祖父掃部は掃部大夫を称したのだが、福島正則の弟の正晴も掃部介を称しているので、掃部を称していたということだけで彼らが賎民階層の出自だったということの証拠にはならないと考えられる。

 

 堀秀政の父や祖父掃部は掃部大夫を称したのは事実で、堀家の代々の当主は掃部大夫を称したようであるが、堀秀政の父は美濃国の斎藤道三の家臣であり、秀政は美濃国厚見郡茜部で生まれているので、堀家は美濃国の在地領主であったと考えられる。

 

 堀秀政は、初めは豊臣秀吉に仕えていたが、永禄八年(一五五三)に織田信長の小姓・側近となり、以降、織田信長の家臣として出世していくのであり、豊臣秀吉の固有の家臣であったとは考えられない。

 

 そうすると、堀秀政は武士であり、美濃国の在地領主であって、そもそも豊臣秀吉の固有の家臣ではなかったと考えられる。

 

(e)蜂須賀小六


 蜂須賀小六が野臥総帥だったことは「太閤記」のような俗書にしか記述がない。渡邊世祐「蜂須賀小六正勝」(一九二九)のように野盗説を完全否定する論者もいるが、大名権力に対し、何の根拠もなく捏造するだろうか。

 

 渡邊説が俗説を否定した最大の根拠は、天正十七年(一五八九)頃には矢作川は「渡し」で、慶長五、六年(一六〇〇~○頃になってはじめて架橋されたという点にある。しかし建武二年(一二三五)に橋はあった(「太平記」)。もともと橋は架橋と流失をくりかえす。天正十七年に橋がなかったからといって、その四〇年前の天文二十年(一五五二当時にも矢作川橋が存在しなかったとは断定もできないし、橋の上でなくとも接点をもつことはできた。

 

 「太閤記」では「夜討強盗を営みとせし、その中に能兵共多く候」、そのなかで「番頭にもよろしき者」を、小六も含めて一〇名ほどを列記している。特異な武装集団の頭領蜂須賀小六と、そして彼と主従契約を結びえた秀吉との連合なくして、美濃攻撃は不可能だった。

 

1)蜂須賀正勝は岩倉織田家の家臣だった

 

 服部論文は、蜂須賀小六正勝は、夜討強盗を営みとしていた、特異な武装集団の頭領で、秀吉と主従契約を結んでいたという。

 

 しかし、菊池浩之の「角川新書 豊臣家臣団の系図(角川書店)」(以下「菊池論文」という)は、蜂須賀正勝について、以下のようにいう。

 

 豊臣家臣団は織田・徳川に比べて異様に若い人材によって構成されていた。年長の重臣といえば、蜂須賀正勝、前野長康、生駒親正の三人である。かつ、この三人はもともと岩倉織田家の家臣で、仲も良かったらしい。そして、蜂須賀、前野、生駒の三人は親戚でもあった。生駒親正の従兄弟(生駒家長)の娘が、蜂須賀正勝の嫡子(蜂須賀家政)、前野長康の甥(坪内家定)にそれぞれ嫁いでいるのだ。

 

2)織田信長の直臣だった蜂須賀正勝

 

 「寛永諸家系図伝」の蜂須賀正勝の項に面白い話が載っている。


 元亀元(一五七〇)年、金ケ崎の退き囗の際に、秀吉が信長に殿軍を申し出ると、「信長其儀に同じたまひ、(蜂須賀)正勝ならびに木村常陸介・生駒甚介(親正)・前野将右衛門(長康)・加藤作内(光泰)右五人をのこしをかれて、異儀なく人数(=兵)を引とらる。又秀吉退陣の時ハ、正勝しつはらひ(尻払=最後)たり。此後所々数度の戦場に秀吉にくミして旗下となる」。


 つまり、金ヶ崎の退き囗の際に、信長が蜂須賀、前野、生駒、木村、加藤を秀吉に附け、これを機にかれらが秀吉の与力になったのだという。実際には、それ以前から蜂須賀らが秀吉の与力になっていたと考えられるが、初期の秀吉を支えていた五人がセットになっているのは興味深い。

 

 菊池論文によれば、蜂須賀正勝は、前野長康、生駒親正とともに岩倉織田家の家臣であって、生駒親正の従兄弟(生駒家長)の娘が、蜂須賀正勝の嫡子(蜂須賀家政)、前野長康の甥(坪内家定)にそれぞれ嫁いで、蜂須賀、前野、生駒の三人は親戚でもあったという。

 

 岩倉織田家の家臣であったこと、同じ岩倉織田家の家臣たちと婚姻関係があることからすると、同じ階層同士が通婚することからも、蜂須賀正勝は武士で、尾張国の国人クラスの在地領主だったと考えられる。

 

 そして、蜂須賀正勝が、元亀元(一五七〇)年の時点で正式に織田信長から豊臣秀吉の与力とされたのであれば、それまでの蜂須賀正勝は織田信長の直接仕えていたのであり、蜂須賀正勝が豊臣秀吉の指揮の下で一緒に戦っていたとしても、蜂須賀正勝と豊臣秀吉の正規な主従関係は、この時に成立したのだと考えられる。

 

 そうすると、蜂須賀正勝と豊臣秀吉の矢作川橋の出会いとか、蜂須賀正勝が野臥総帥だったとか、特異な武装集団の頭領だったとかいう話には、根拠はないと考えられる。

 

3)蜂須賀正勝は主君を転々と変えていった「川並衆」に属する在地領主

 

 菊池論文は、蜂須賀正勝の出自について、以下のようにいう。

 

 蜂須賀小六正勝(一五二六~八六)は、通称を小六、彦右衛門、修理大夫。諱は正勝といい海東郡蜂須賀村(愛知県あま市蜂須賀)の土豪で、はじめ犬山城主・織田信清、次いで岩倉城主・織田信賢、斎藤道三に仕えたという。


 「寛政重修諸家譜」では、永禄三(一五六〇)年に信長に転じて桶狭間の合戦で軍功をあげ、元亀元(一五七〇)年の金ヶ崎の退き囗で秀吉とともに活躍し、それを機に秀吉の与力になったという。


 巷間伝わる矢作川の出会いはウソだとしても、もっと早くから秀吉に仕えていたと思うのは筆者だけではないだろう。「織田信長家臣人名辞典」では、「太閤記」で永禄九(一五六六)年九月に秀吉の仲介で信長に仕えた説を紹介しているが、それくらいが妥当なところかもしれない。

 

 菊池論文は、蜂須賀正勝は、元亀元(一五七〇)年の金ヶ崎の退き囗で豊臣秀吉の与力とされる「もっと早くから秀吉に仕えていた」というが、「永禄九(一五六六)年九月に秀吉の仲介で信長に仕えた」のならば、その時点では、蜂須賀正勝は織田信長の直臣であったのであり、豊臣秀吉と蜂須賀正勝の関係は、一緒に戦う同僚・先輩ではあっても、主従関係はなかったお考えられる。

 

 なお、蜂須賀家は、蜂須賀正勝の父の正利の代から美濃国の斎藤氏に仕えていて、正勝は父の死後蜂須賀村を出て美濃国の斎藤道三に仕え、正勝の初名の利政は道三の名の利政の偏諱を受けたとされているが、道三が長良川の戦いで死亡したので岩倉織田家に仕え、岩倉織田家の織田信賢が織田信長に攻められて降伏すると、犬山織田家のに仕え、犬山織田家の織田信清が甲斐国に逃亡して、初めて、蜂須賀村に帰って織田信長に仕えたとされる。

 

 また、豊臣秀吉が蜂須賀正勝が織田信長に仕える際にその仲介をしたとされるが、豊臣秀吉が自分の父だったと自称していた(木下)弥右衛門が」蜂須賀正勝の下で戦っていたことによる縁であったともされる。

 

 おそらく、蜂須賀正勝と豊臣秀吉との最初の戦いは、永禄九年(一五六六)の墨俣城の築城で、そのときに豊臣秀吉や前野長康と協力した「川並衆」という、稲田大炊助、青山秀昌、長江景親、梶田景儀などの木曽川の水運に係わっていた土豪たちの一人として、蜂須賀正勝とその弟の正元が参加していたのだと考えられる。

 

 そして、蜂須賀氏も、木曽川の川筋に拠点を持つ在地領主で、木曽川の水運にも関わっていたので、「川並衆」の一員であったと考えられる。

 

 菊池論文は正勝の母親について、以下のようにいう。

 

 正勝の母親について、「尾張群書系図部集」では二つの説を載せている(「寛政重修諸家譜」には記述はない)。一つが津島衆・大橋中務大輔定広の娘、もう一つが安井弥兵衛の娘(浅野長秀吉の義兄・浅野長政と、秀吉に仕えることになった蜂須賀小六正勝がたまたま親戚だとは考えにくいので、本書では小六の母親を大橋家の出身とする。

 

 おそらく、菊池論文が指摘しているように、正勝の母親は尾張国海東郡津島湊の土豪集団であった津島衆のひとつの大橋家の大橋中務大輔定広の娘であったと考えられるが、そうであれば、この婚姻は、蜂須賀家が代々「川並衆」一員であったことの根拠となるものであると考えられる。

 

4)蜂須賀家の系譜

 

 菊池論文は、蜂須賀家の系譜について、以下のようにいう。

 

 蜂須賀家は尾張守護・斯波家の末裔を自称している。

 

 「尾張群書系図部集」では、「本国寺志」の文明一四(一四八二)年の記述に、蜂須賀彦四郎直泰、同右京亮胤泰、同豊前守俊家の名が見え、胤泰は奥田を名乗っていたと指摘している。奥田家は斯波家の支流で、管領・斯波義将の弟である斯波伊予守義種を祖とする(ただし、本書に掲載した系図では、斯波義将の弟に蜂須賀二郎兵衛尉景成という人物を配して、正勝まで繋げている)。


 つまり、「蜂須賀氏は奥田氏と同族である可能性を示唆している。奥田氏が斯波氏の一族であることは、かなり確実視されるので、(新)蜂須賀氏が斯波氏一族とする説には一応の根拠が有る」というのだ(「尾張群書系図部集」では、斯波氏の一族とみられる新蜂須賀氏、新田氏の末裔とみられる古蜂須賀氏の存在を掲げている)。

 

 斯波氏は初代の家氏以降の代々の当主が尾張守を称したことで足利尾張家と自称していたが、尾張守護職とされたのは、応永七年(一四〇〇)の斯波家第六代当主斯波義重のときのことであり、「川並衆」の在地土豪が斯波家第五代当主斯波義将の弟に出自するとは思えない。

 

 おそらく、「川並衆」の在地土豪であった蜂須賀家が、家格の上昇とともに、その系譜を斯波氏の一族の奥田氏に接続したのだと考えられるが、菊池論文が指摘しているように、斯波氏の一族とみられる新蜂須賀氏、新田氏の末裔とみられる古蜂須賀氏が存在しているとすれば、斯波氏の一族とみられる新蜂須賀氏は、本来の新田氏の末裔とみられる古蜂須賀氏の一部が、その系譜を斯波氏に結び付けたもので、本来の蜂須賀氏の出自での主張は、新田氏の末裔であったと考えられる。

 

 しかし、新田氏と尾張国とに、子孫が土着するような係わりがあったとは考えられないので、おそらくこの、蜂須賀氏が新田氏の末裔であったという主張も、史実ではなく、蜂須賀氏の系譜は不明であると考えられる。

 

 そうすると、蜂須賀氏は高名な武家の出自ではないが、出自の不明な尾張国海東郡蜂須賀村の在地土豪であったと考えられる。

 

5)蜂須賀正勝が賎民階層の出自ではなかった

 

 以上みてきたように、蜂須賀氏の出自は在地土豪であって、蜂須賀氏が野臥総帥だったとか、特異な武装集団の頭領だったとかいう話は、蜂須賀氏が「川並衆」の一員として、そういう「野臥」や「特異な武装集団」をは以下に持っていて、それらを活用して戦に臨んでいたことによって、蜂須賀氏が、それらの集団の「頭目」とされたことで、それらの集団と同一視されていったことによるものであったと考えられる。

 

 そして、木曽川の水運を労働力として現地で担った人たちの中には、非人などの被差別階層の人達も多くいたはずであり、「川並衆」はその水運の仕事で、非人たちと接点があり、「川並衆」の戦いには非人たちも多数動員されていたと考えられるので、蜂須賀正勝は在地土豪の出自であったが、「川並衆」の一員として、非人などの被差別階層に人たちとのsっ店にいたのだと考えられる。

 

 そうであれば、服部論文が、蜂須賀正勝が賎民階層の出自だったと主張するの誰馬、その主張には従えない。

 

(f)埴原加賀守

 

 清須城代だった埴原加賀守も「祖父物語」では「甲州ノ巡礼ナリ」、「太閤記」では信州出身、巡礼だったとある。

 

 埴原加賀守は信濃国埴原谷で代々をしていた次郎右衛門の子であるが、巡礼姿で諸国武者修行の旅に出て、織田信長の家臣となったとされ、「甫庵太閤記」では、信長が有能な士を諸国から身分にとらわれずに直臣として召し抱えた実例の一つとして登場し、「尾州の清須城代埴原は信州はい原谷より出し順礼なりしを、めしをかれ、親しく愛し給ひき」と書かれている。

 

 埴原加賀守は織田信長の家臣であり、豊臣秀𠮷の初期の家臣ではなかったが、身分に囚われずに人材を登用していた織田信長下には、武士階層に出自する家臣の他に、武士以外の階層に出自する家臣たちが、おそらく相当数、存在していたのだと考えられる。

 

 埴原加賀守は、幼少より八條流馬術を学び、八条近江守の門弟になって、巡礼姿で諸国武者修行の旅に出たといったとされるが、おそらくこれは、彼が織田信長に自分を売り込んだ時の「口上」で、事実ではなかったと考えられる。

 

 埴原加賀守には信濃国筑摩郡中山村埴原の出身であったという伝承と、甲斐国の出身であったという伝承があり、父が百姓であったとすれば苗字などはなかったはずで、埴原の出身ということで「埴原」と名乗っただけで、東国の出身ではあったろうが、伝承されている出身地が正しいという根拠もないと考えられる。

 

 ただ、埴原加賀守が諸国を遍歴する巡礼の姿で織田信長の前に現れたのは確かであるが、もしかしたら巡礼をしながら寄食した先々で、その地の諸問題の解決のために自分の知識や経験を生かして助言することで、諸国を渡り歩いていたのかもしれず、おそらく知識人ではあったと考えられる。

 

 埴原加賀守が知識人であったとすれば、彼の出自が何で、どうして「巡礼」になったのかは分からないが、彼は、おそらく賎民階層の出自ではなかったと考えられる。

 

 埴原加賀守が巡礼の出自であったとしても、それと、彼が賎民階層の出自だったということとは別の事であると考えられる。

 

(f)がんまく一若

 

  宝賀寿男の「豊臣秀吉の系図学(桃山堂)」(以下「宝賀論文」という)は、豊臣秀吉が織田信長に仕えるきっかけを以下のようにいう。


 系図史料ではありませんが、ある程度の史実を踏まえていると見なされている「太閤記」(「太閤秀吉出生記」など異題あり)によると、若き日の秀吉を織田信長に紹介して仕官させたのは、同郷の友人「がんまく一若」であったといいます。

 

 素生そのころ信長公の小人頭にがんまく一若と云ふ者あり。かの一若、中中村の者なり。猿、父猿ともによく知りたり。


 と書かれています。ガンマクとは「岩捲」と書き、室町時代半ばから江戸時代初期にかけて、美濃国の揖斐川流域を拠点としていた刀鍛冶の一派です。岩捲氏信をはじめ、岩捲の銘をもっ刀が伝来しています。仕官の話が本当かどうかは別としても、秀吉の友人に美濃鍛冶の一族とおぼしき人物がいるとしたら、「太閤母公系」をはじめとする鍛冶系図を無視することはできないことになります。「太閤素生記」には、少年期の秀吉が木綿を縫う針を売りながら旅をする話が出ていますが、これも「鉄」にかかわる所伝です。
 

 こうした宝賀論文の指摘から、がんまく一若は元は刀鍛冶であって、豊臣秀吉よりも先に、おそらく小者か雑兵として織田信長に仕えていたのだと考えられる。

 

 小者も戦になれば雑兵として戦場に駆り出されたはずで、それは彼らにとっては、立身出世の機会でもあったが、同時に死と隣り合わせでもあり、その結果、そうした雑兵たちの損耗率は高かったので、そうした雑兵たちは恒常的に募集されていたのだと考えられりる。

 

 だから、既に小者か雑兵として織田信長に仕えている「がんまく一若」の紹介があれば、秀吉が織田信長に仕えること自体は比較的簡単であったと考えられる。

 

 このように(a)から(f)までの事例を検討した結果では、服部論文がいう秀吉旗下で賎民階層の出自だった可能性をもつ人物の該当者は誰もなく、また、服部論文の例示している人たちんは、在地領主の出自で、織田信長の家臣だった人たちが含まれており、そうした織田信長の家臣を除くと、残りの例示されている人たちはみな、職人や連雀商人などであり、都市や農村の下層階層に出自で、賎民階層の人たちと多くの接点を持ってはいたが、彼ら自身は賎民階層の出自だったわけではなかったと考えられる。

 

 なお、織田信長の家臣の中にも、在地武士の出自ではあっても、蜂須賀正勝のように、賎民階層の人たちと多くの接点を持っていた人たちがいたと考えられる。

 

(5)上昇する流動性の渦の中にあった被差別階層人たちとの接点にあった人々

 

(a)戦国大名と被差別民の結びつき

 

 服部論文は、戦国大名と被差別民の結びつきについて、以下のようにいう。

 

 戦国大名と被差別民の結びつきは、原田伴彦「日本封建都市研究」以来、前掲の豊田武や永原慶二らの論考、また柴辻悛六「甲斐の皮多文書について」(「甲斐路」一九、一九七二、石井片民)など多数の研究がある。

 

 文書をみるかぎり特権職人のようにさえみえるが、鐙・馬具・沓など皮革の供給にとどまらず、特殊部隊ともいうべき武力そのものでもあった。

 

 朝鮮の役や高天神城、諏訪原城で用いられた攻城用具「亀の甲」は、戦車に牛の生肉付きの皮を被せて防弾、防火とした(「黒田家譜」ほか、「古事類苑」兵事部)。信長・秀吉軍団においても、当然に彼らの役割は重視された。彼らの力なくして戦争には勝てなかった。

 

(b)武力と金力、それが身分の流動を促した時代

 

 兵士とカワタ、貴と賤、どこに境目があるのかはわからないほどである。権力構造には貴賤が表裏の関係にあって、技量・才覚をもつ人物には「脱賤」は困難ではなかった。武力と金力、それが身分の流動を促した。

 

(c)被差別階層人たちとの接点にあった人々

 

 以上の服部論文の指摘から、豊臣秀吉が生育し武士として出世を開始していく頃の、彼を取り巻く人間環境を形成していた人々は、その多くが、被差別階層人たちとの接点にあった人々であった、と考えられる。

 

 そして、秀吉が依拠した人間環境は、金と武力、努力と智謀、そして運によって、被差別階層人たちも含む社会の下層身分の人達が、その身分を上昇させ、新しい社会関係を形成していという、激しい上昇する流動性の渦の中にあったものであったと考えられる。

 

 豊臣秀吉は、まだ幼い子供を四人連れて一人ぼっちだった秀吉の母「なか」が転がり込んだ筑阿弥の家から八歳で光明寺に口減らしのために出されるが、そこで問題を起こして追放される。

 

 そして、一〇歳で家を出て放浪した秀吉は、母の母系の鍛冶のネットワークを活用して、縁故を頼って鍛冶職人の下を転々とし、途中で一時的に非人に転落して清須の乞食村に流入するが、右手の指が六本あったことを逆手に取った、猿真似の大道芸を武器に、針を行商して生き延びていった。

 

 そして、遠江国で松下之綱に見いだされて武士になるが、そこでの立身出世に限界を感じて清須に戻り、「がんまく一若」の伝手を頼って織田信長に仕え、実力主義・能力主義の織田信長の下で、以降、立身出世をしていく。

 

 豊臣秀吉が生き延びることが来たのは、彼が母親の鍛冶のネットワークを活用できたからであり、彼が立身出世をできたのは、彼が仕えた織田信長の実力主義・能力主義があったからではあったが、彼がその要請に、彼が接点を持っていた下層階層の中の有能な人材を組織し動員できたからでっと考えられる。

 

 なお、豊臣秀吉が一時期、清須の乞食村に流入していたこと、大道芸を武器に針の行商を行っていたことを根拠として、彼が被差別階層の出自であったとするのは、鍛冶職人や行商人自体は、非人などとは異なって、蔑視はされても被差別階層ではなかったと考えられるので、誤りであると考えられる。

 

 豊臣秀吉と彼の親類縁者は、被差別階層との接点にいた人たちであったと考えられる。 

 

(6)ここまでの結論

 

 以上、服部論文、宝賀寿男の「豊臣秀吉の系図学(桃山堂)」(以下「宝賀論文」という)、菊池浩之の「角川新書 豊臣家臣団の系譜(角川書店)」(以下「菊池論文」という)に依拠して、豊臣秀吉の出自について述べてきた。

 

 その結論は、1)秀吉の母の「なか」の男性関係が不明確のため、秀吉の実夫は不明であること、2)秀吉の母系の家系、秀吉の「実父」とされている弥右衛門の家系、秀吉の妻の「おね」の家系は、みな鍛冶職人の家系であったということ、3)秀吉の親類・縁者などは被差別階層の人々との接点に位置していたということ、などであった。

 

 こうしてみると、渡邊大門「戦国大名は経歴詐称する(柏書房)」(以下「渡邊論文」という)の、豊臣秀吉の出自の論述の終わり以降に、まだこれだけの議論が存在するのである。