「人類祖語」の再構成の試みについて(85) | 気まぐれな梟

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 今日は、鬼束ちひろの「HYSTERIA」から、「ネオンテトラの麻疹たち」」を聞いている。

 

(25)太平洋沿岸型人称代名詞

 

 松本克巳の「世界言語の中の日本語(三省堂)」(以下「松本論文」という)は「太平洋沿岸型言語圏」の諸言語の「太平洋沿岸型」人称代名詞について、以下のようにいう。

 

 「この人称代名詞の基本的なシステムは、その基幹子音が1人称で*k-あるいは*n-、2人称が*m-によって特徴づけられる」が、「沿岸型人称システムの1人称における*k-形と*n-形は、本来は同じシステムの中の共存形であるが、多くの言語でそのどちらか一方に統合されるという形で変化が起こっている」

 

 「同じシステムの中で2つの形が共存する場合は、*k-形は動詞に付いて主語人称、名詞に付いて所有人称を表し、一方*n-形はもっぱら目的語人称を表すというのが原則である」が、「これは沿岸型人称代名詞の最も重要な特徴のひとつである」

 

 「太平洋沿岸型のkー形の1人称代名詞は、その基幹子音のk-が声門閉鎖や摩擦音の段階を経て、完全に消失するというような変化をしばしば起こし、その意味でk-はかなり不安定な子音である」ので、「この言語圏では、1人称代名詞に声門閉鎖やゼロ子音が現れた場合は、通時的にk-形から生じたと見て大体間違いがない」

 

 これまで見てきたように、崎谷満の「新日本列島史(勉誠出版)」(以下「崎谷論文」という)による現生人類の拡散過程と言語集団のY染色体DNAハブログループについての主張から、1人称単数の人称代名詞の基本形は、近藤健二の「言語類型の起源と系譜(松柏社)」(以下「近藤論文」という)による具格接辞*gaに起源する、現生人類の第1次移動に係わるna型と現生人類の第2次移動に係わるka型に分類できる。

 

 松本論文のいう「太平洋沿岸型」1人称代名詞の*k-形の「基幹子音」と*n-形の「基幹子音」の対立は、この人称単数の人称代名詞の基本形のka型とna型の対立によく似ているので、「太平洋沿岸型言語圏」の諸言語の人称接辞や人称代名詞の祖型がどういう構成であったのかということと、この両者の関係について、以下、検討する。

 

(26)ミャオ・ヤオ諸語

 

(a)ミャオ・ヤオ系集団の故地とその後の移動

 

 「先史時代の東アジアの言語について」で述べたように、松本論文は、中国の古代史書の「東夷」について、以下のようにいう。

 

 「中国では有史以来、中原に住む「漢民族」(古い名称は「華夏族」)に対して周辺の非漢族を「東夷」「南蛮」「西戎」「北秋」などと呼んで差別してきた」が、「歴代の中国史書で「東夷」「南蛮」そしてまた「百越」と呼ばれてきた諸族がほぼ、太平洋沿岸型言語を話す諸集団(言うなれば「太平洋沿岸民」)それに該当すると見てまず間違いない」

 

 「中国史書で古く「東夷」と呼ばれた集団は、「華夏族」の本拠とされる「中原」(黄河中流域)から見てその東方、つまり黄河(および淮河)下流域から山東半島の一帯に住む「非漢人」を指したものと見られるが、すでに孔子の生きた春秋時代末期、この地域はほとんど「漢化」されてしまったように見える」

 「蚩尤とは、華夏族の始祖とされる黄帝と中原の指導権をめぐって熾烈な争いを演じ、「史記」では悪逆無道な反乱民の首領として描かれた伝説上の人物である」が、「その一方で、蚩尤はミャオ・ヤオ族の始祖として、現在でもこれらの諸族の間で手厚い崇敬の対象とされている」

「蚩尤の語源は、ミャオ語で「父」を意味するtsiと「祖父」を意味するyauの合成語tsi-yau(=父祖)に由来する」

 

 こうした松本論文の指摘から、古代の「東夷」、つまり黄河(および淮河)下流域から山東半島の一帯に住む「非漢人」はミャオ・ヤオ系の集団であったと考えられる。

 

 古代中国に、チベット・ビルマ系の集団であった殷(商)や周の前に、それらに匹敵するような国家権力が存在したことは間違えがなく、ここではそれを仮に「夏」と呼ぶと、夏の拠点都市は二里頭遺跡であり、河南龍山文化を継承したその文化の波及範囲の中心は、淮河と汾河の間の河南で、汾可と黄河下流域との間の河北にあった、後の殷(商)に繋がる先商文化と対峙していた。

 

 そうすると、夏は殷(商)や周とは異なり、東や南にその出自をもつ文化・文明であったと考えられ、黄河上流域のチベット・ビルマ系集団と黄河(および淮河)下流域から山東半島付近のミャオ・ヤオ系集団が黄河中流域で接触・混住し、それらの集団の接触部分に形成された権力・文化が夏であり、夏の母体はチベット・ビルマ系の集団の影響を強く受けたミャオ・ヤオ系の集団であったと考えられる。

 

 松本論文によれば、この「東夷」の後裔は、「史記・五帝本紀」で、江淮(長江・淮河流域)の住民とで、荊州(現在の湖北省)でしばしば反乱を起こしたとされた「三苗」(別名「有苗」または「苗民」)であったが、「殷・周時代になると、三苗の後裔と見られる集団は、現在の湖北省のあたりに住む「荊蛮」と呼ばれ、さらに、秦漢時代には、長江中流の洞庭湖周辺を住処とする「武陵蛮」「五渓蛮」「長沙蛮」などと呼ばれるようになった」

 

 「これらの名称に現れる「蛮」は、現在苗族の呼称となっているiao,Mong(Hmong)、Mun,Mienなどと同源のⅿ-で始まるこれらの集団の族名を表したもので、これが現在ミャオ・ヤオ(苗・瑶)と呼ばれる集団の直接の発祥源となった」

 

 「ミャオ・ヤオの族名としてのMyao、Mong、Mun、Man(蛮)は、ヴェトナム北部のムオン(Muong)、かつてモン王国を築いたモン(Mon)などとおそらく語源的につながる族名で、元もとこれらの言語で「人間」を意味して」おり、「ここにもミャオ・ヤオ諸語とモン・クメール北西群との密接なつながりが窺われる」

 

 「「苗」という族名が一般化したのは唐・宋以後」であるが、「ヤオ(瑶)族の自称「棉」「門」も「蛮」と同源の族名と見てよ」く、「中国史書でいわゆる「南蛮」の「蛮」も、「苗」と同じく、元はミャオ族の名称にほかならなかった」

 

 「こうして、「東夷」は「南蛮」へと名称を変えることによって中国本土からは姿を消すことにな」り、今日では「中国西南部の貴州省を中心に四川、湖南、福建、広州、雲南の各地、そこからさらにインドシナ半島北部にまで散在し、現状で見るかぎり、典型的な残存分布の様相を呈する」が、それは、漢民族に圧迫されて移動していったためであった。

 

 崎谷論文によれば、ミャオ・ヤオ語族のY染色体DNAハブログループはO2aであり、漢民族のY染色体DNAハブログループはO2bで、両者は共通のO2集団が分岐したものであり、O集団から分岐したのがO1集団とO2集団で、長江下流域にいたタイ・カダイ系集団とそこから分岐して台湾に渡ったオーストロネシア系集団のY染色体DNAハブログループがO1aで,長江上流域から中流域にいたオーストロアジア系の集団のY染色体DNAハブログループがO1bであったので、華北のO集団が黄河流域に拡散したのがO2集団で、そのうち黄河下流域に拡散したのがO2aの集団で、黄河中流域に拡散したのがO2bの集団で、華北のO集団が長江流域にまで南下したのがO1集団で、そのうち長江下流域に拡散したのがO1aの集団で、長江の上・中流域に拡散したのがO1bの集団であったと考えられる。

 

 そしてその後、漢民族の圧迫によって、O1aやO1b,O2a集団は、中国大陸の辺境から東南アジアにかけて分布するようになったのである。

 

(b)人称代名詞

 

 松本論文の例示によると、ミャオ諸語の1人称単数の人称代名詞は、湘西苗語we、黔東語vi、川黔滇語ko~wɛ、モン・シジュウア語、モン・ダウ語ku、プヌ語tcuŋ/kjuŋ、シェ語vaŋ、2人称単数の人称代名詞は、湘西苗語mu、黔東語mi(ŋ)、川黔滇語ni~kau、モン・シジュウア語kao、モン・ダウ語ko、プヌ語kau、シェ語muŋ、である。

 

 また、ヤオ諸語の1人称単数の人称代名詞は、勉方言ye、藻敏方言tsyɛ、標敏方言kəuで、2人称単数の人称代名詞は、勉方言mwei 、藻敏方言mui、標敏方言məiである。

 また、松本論文は、ミャオ諸語の2人称単数の人称代名詞について、以下のようにいう。

 

 「ミャオ諸語の中の「川野滇」と呼ばれる四川、貴州、雲南の3省に分布する苗方言で、2人称にmiと並んでkauという形が現れ、さらにインドシナ半島に分布するモン・ンジュア語とモン・ダウ語(系統的には中国の「川幹潰」方言とつながる)、またその下の欄に示した、(湖南省西部から広西壮族自治区北部にかけて分布する)布努語では、2人称が全面的にkau/koのような形をとっている」

 

 また、松本論文は、ミャオ諸語やヤオ諸語の1人称単数の人称代名詞のwe、vi、wɛ、tcuŋ、ye、tsyɛなどの「語頭子音w/v、tgなどは明らかに*k[u]-から派生したものであ」り、「ミャオ・ヤオ諸語の1人称は、すべてk-形で統一され、n-形は現れない」ので、ミャオ・ヤオ祖語として*ku/*kauを推定している。

 

 松本論文は「we、vi、wɛ、tcuŋ、ye、tsyɛなどの語頭子音w/v、tgなどは明らかに*k[u]-から派生したものである」というが、それらの音のうちwe、vi、wɛ、ye音はk音からは派生せず、kuのuが→ua→wa→ya/vaという音変化をしたと想定できるので、松本論文が指摘しているように「太平洋沿岸型のkー形の1人称代名詞は、その基幹子音のk-が声門閉鎖や摩擦音の段階を経て、完全に消失するというような変化をしばしば起こし、その意味でk-はかなり不安定な子音である」ことから、これらの語は、語頭のkが消失しuが音変化して形成されたものであり、その原型はkuであったと考えられる。

 

 また、ミャオ諸語のプヌ語tcuŋやヤオ諸語の藻敏方言tsyɛのtcuやtsyは、具格接辞*tiに起源するtiであり、プヌ語tcuŋ/kjuŋのuŋやシェ語vuŋのuŋは、具格接辞で*gaに起源するŋaであったとすると、それらの語は、kuの前にtiを付加したり、kuの後にŋaを付加して形成されたものであり、それらの原型はkuであったと考えられる。

 

 2人称単数の人称代名詞は語頭にmを持つものとkを持つものがあるが、近藤論文の指摘を参考にすると、このmは具格接辞*maに起源するma のmであり、これらの基本形はmaであったと考えられる。

 

 また、ミャオ語の黔東語mi(ŋ)やシェ語muŋは基本形のmaにŋaが付加されたものであったと考えられるが、シェ語の1人称単数の人称代名詞vuŋも含めて、これらの語の基本形にŋaが付加されたのは、漢民族に追われて雲貴高原や東南アジアの山岳地帯に移動したミャン・ヤオ系の集団は、その移動先で接触した、チベット・ビルマ系のY染色体DNAハブログループDの集団から、彼らののna型の人称代名詞を一部受容して、それを本来の基本形に付加したためであったと考えられる。

 

 松本論文が指摘するように、ミャオ諸語の「川野滇」では、2人称にmiと並んでkauという形が現れ、さらにインドシナ半島に分布するモン・ンジュア語とモン・ダウ語や布努語では、2人称が全面的にkau/koのような形をとっているが、松本論文はその理由を「問題はこのkauであるが、これは紛れもなく1人称からの転用形である」などといい、「これらの言語で元の1人称代名詞は1人称でKu、2人称でkauというような形で、2つの役割を分かち合うことになった」という。

 

 松本論文によれば、「1人称代名詞の2人称への転用」とは、「ほかの言語圈ではほとんど例のない、環太平洋言語圈だけに固有の現象」であり、「2人称をめぐって、敬語法ないし待遇表現の影響によって生じたと見られるもので」ある、という。

 

 しかし、ある言語において敬語法ないし待遇表現が発展するためには、その社会が高度に発展している必要があるが、雲貴高原やインドシナ半島の山岳地帯に残存する言語のみでそうした敬語法ないし待遇表現が発展するとは思えないので、これらの転用は「敬語法ないし待遇表現の影響」などではなく、一部のチベット・ビルマ諸語の人称代名詞が、1人称単数のŋaに体して2人称単数がnaとなるように同じn音型の子音の母音交替で1人称と2人称を区分しているのに影響された結果であったと考えられる。

 

 以上から、ミャン・ヤオ諸語の人称代名詞は1人称単数がkuを、2人称単数がmuを基本形としていたと考えられる。

 

 なお、近藤論文によれば、人称代名詞は、ゼロ標識の人称接辞+存在動詞+連用形接辞で構成された副詞句から出来たというが、ミャオ・ヤオ諸語の存在動詞が何かよく分からないしミャン・ヤオ諸語に連用形接辞があったのかもよく分からない。

 

 そこでミャオ語の存在動詞をyuavとすると、オーストロアジア諸語のモン語の存在動詞がuaで、クメール語の存在動詞がtrauvなので、それらの基本形を例えば仮に、auなどと想定することにする。

 

 ヤオ諸語のショオ語の存在動詞はtshiであるが、これは、具格接辞*tiに起源するtiが音変化したもので、多くの言語でtiが音変化した-iが連用形接辞になっているので、i連用形接辞の基本形とすることにする。

 

 そうすると、ミャオ・ヤオ諸語の1人称単数の人称代名詞はø-ku-au-i「私ありて」がその起源であり、それが短縮してkiとなり、それがさらに音変化してミャン諸語の湘西苗語we、黔東語vi、川黔滇語wɛ、ヤオ諸語の勉方言などのyeなどに変わったと考えられる。

 

 同様に、ミャオ・ヤオ諸語の2人称単数の人称代名詞はmu-au-i「あなたありて」がその起源であり、それが短縮してməiやmiとなったと考えられる。

 

(27)オーストロアジア諸語

 

 オーストロアジア諸語について、松本論文は以下のようにいう。

 

 「オーストロアジア語族は、通常、インドシナ半島に分布するモン・クメール諸語とインド東部に散在するムンダ諸語の2つの語派に分けられ」、「人称代名詞の側から眺めると、モン・クメール諸語は。概略、雲南省南部からインドシナ半島北西部にかけて分布するグループとカンボジアからマレー半島にかけて分布する2つのグループに分けることができる」ので、「前者を仮に「モン・クメール北西群」、後者を「モン・クメール南東群」と名づけ」るが、「この区別は、もっぱら1人称代名詞の形に基づくものであ」り、「モン・クメール北西群は1人称がk-形で現れ、一方南東群の1人称は、基幹子音がn-で現れる」

 

 これに対して、インド半島に分布するムンダ諸語は、「インドシナ半島のモン・クメール諸語と地理的にかけ離れているだけでなく、語順のタイプを含めた形態・統語法のさまざまな面で、モン・クメール諸語と大きく異なっている」が、「1人称の基幹子音は一貫してn-で現れ、a-(またはi-)の増幅成分を持つその独立代名詞形は、モン・クメール南東群のそれとほぼ完全に一致する」ので、「人称代名詞の側から眺めると、両語群の密接なつながりは一目瞭然で、その同系性には全く疑問の余地がない」

 

 こうした松本論文の指摘から、このオーストロアジア系集団もミャオ・ヤオ系集団と同じように、長江の上・中流域からインドシナ半島やインドシナ半島に移動したのであるが、彼らは、漢民族に追われる前から稲作文化を持って華南からインドシナ半島、そしてインド半島に移動していった。

 

 インド半島やインドシナ半島に稲作を広めたのは彼らであったが、彼らはその後、漢民族によって長江流域から追われることになる。

 

 「先史時代の東アジアの言語について」で述べたように、松本論文は、オーストリア系集団の移動過程について、以下のようにいう。

 

 中国史書に出てくる「濮人」や「百濮」は、「古くは長江上流域(四川盆地)の先住民で、春秋戦国時代は楚の西南部に接して居住していた」が、「その後ミャオ・ヤオ族と同じように、漢人に圧迫されて中国南部の辺境へ追いやられた集団」であり、「後漢から三国時代には、濮農人は四川南部から雲南・貴州の地に拡がり、「文面濮農」、「赤口濮撲」、「黒縁濮濃」等と呼ばれ、唐朝にもしばしば入貢した」が、「それ以後、史籍にもその名がほとんど表れず、歴史の舞台から姿を消した」

 

 また、「「史記列伝」の中で「西南夷」として登場する、戦国時代に雲貴高原で栄えた「夜郎」王国や「滇」王国などもオーストロアジア系集団に帰属させることができる」が、「紀元後8世紀以降(唐・宋代)、この地に興った「南詔国」や「大理国」は、少なくともその支配層はチベット・ビルマ系で、前者はおそらく現在のロロ(彝)族、後者は白族の先蹝集団のようであ」り、「9世紀半ば、ビルマのイラワジ川中流域に進出して「ピュー(驃)」と呼ばれる古い王国を征服して「パガン(蒲甘)王国」(ビルマ国の前身)を興したのも、これと同系のおそらく南詔系集団と見てよい」

夜郎王国の「国内には、濮系と僚系の集団が併存または混在していたらしいが、後者の方が新来の支配民」であり、「秦漢時代、雲南瀾滄江(メコン川上流)西部の永昌盆地、上述の濮水流域に興った「哀牢」という国もおそらく濮人系で、現在の徳昂族や布朗族の直接の祖集団と見てよい」

 

 このように「古代の中国西南地域(現在の四川、貴州、雲南諸州)には、オーストロアジア系、タイ・カダイ系、チベット・ビルマ系など、さまざまな言語が複雑に入り混じっていた」が、「「年代的な観点からは、おそらくオーストロアジア系が最も古い層を形作っていたと見てよい」

 

 こうした松本論文の指摘から、ミャオ・ヤオ系の言語には移動先の先住民族の在地のチベット・ビルマ系の言語や共に漢民族に追われて移動してきたオーストロアジア系の言語、タイ・カダイ系の言語の影響を相互に受けていると考えられる。

 

 また、崎谷論文は、Y染色体DNAハブログループO1bのオーストロアジア系集団は、華北でO1集団が形成されたた後で、華北から中央アジアを経由してインド半島西南部に入り、東南に移動してインド半島東南部に到り、そこからインドシナ半島北部を経由して中国大陸南部に入り、長江流域に到ったが、その後、漢民族に長江流域から駆逐された、という。

 

 つまり、近藤論文によれば、オーストロアジア系諸語の中ではムンダ諸語が最も古いということになるが、一度中央アジアから華北に移動した集団が再度中央アジアに戻り、そこから、インド半島とインドシナ半島を経由して華南に移動するという移動ルートの想定は、かなり無理があり、従えない。

 

 なお、長江流域のO1b集団のうちオーストロアジア系集団がそこから南下していったのに対して、そこから北上していった集団は、朝鮮半島を経由して日本列島中間部に移動し、日本列島に弥生文化をもたらしたと考えられる。

 

 そうすると、稲作を開始したのはオーストロアジア系の集団であったので、稲作に係わる単語や文化が、ムンダ系の集団から稲作を受容した南インドのドラヴィダ系のタミル人や雲貴高原やインドシナ半島の山間部のミャオ・ヤオ系の集団と古い日本人の社会とで共通性を持つのは当然のことであると考えられる。