「人類祖語」の再構成の試みについて(83) | 気まぐれな梟

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 今日は、鬼束ちひろの「HYSTERIA」から、「swallow the ocean」を聞いている。

 

(17)「シナ・チベット型」の人称代名詞

 

 松本克巳の「世界言語の中の日本語(三省堂)」(以下「松本論文」という)は、ユーラシア大陸の諸言語は「ユーラシア内陸言語圈」と「太平洋沿岸言語圈」とに区分できるが、「ユーラシア内陸言語圈」の諸言語の人称代名詞は、その「基幹子音」の違いによって「ユーロ・アルタイ型」と「シナ・チベット型」の2種類に区分できるという。

 

 この「シナ・チベット型」の人称代名詞について、松本論文は以下のようにいう。

 

 「「シナ・チベット型」と名づけられる人称代名詞」「の基幹子音は、1人称が*k/*ŋ、2人称が*n」「として特徴づけられる」が、「このタイプの人称代名詞の場合、語族を超えた広域分布は、今のところユーロ・アルタイ型ほどはっきりした形で捉えられない」

 

 「特にエスキモー・アリュート諸語の人称代名詞は、独立代名詞、人称接辞を含めてその現れ方が非常に複雑なために、正確な祖体系を再構することが難し」く、「また北米アサバスカ語族の人称代名詞との関係も、今のところ推定の域を出ない」

 

 松本論文は、以下、シナ・チベット諸語、エスキモー・アリュート諸語、アサパスカ諸語の人称代名詞を例示していくが、エスキモー・アリュート諸語は北アメリカの極北地帯に分布する言語であり、アサパスカ諸語は北アメリカの北西部に分布するナデネ言語集団のことである。

 

(18)東アジアへの現生人類の拡散

 

 崎谷満の「新日本列島史(勉誠出版)」(以下「崎谷論文」という)によれば、東アジアでの現生人類の拡散過程は、概ね以下のとおりであったという。

 

 南ユーラシアから北上して中央アジアに移動した現生人類のうちY染色体DNAハプログループのQの集団と同じくDの集団はさらに北上して南シベリアのアルタイ・サヤン地域やバイカル湖の周辺に進み、Qの集団はそこからさらに北上してシベリアに拡散していったが、Dの集団は華北に南下し、そこから黄河を遡上してチベット高原に移動し、そこに源流があったメコン川やイラワジ川、サルイン川に沿って南下してインドシナ半島に移動したり、華北から中国東北部、朝鮮半島を経由して日本列島中間部に移動していった。

 

 中央アジアにしばらく滞留していたY染色体DNAハプログループのNOの集団は、QやDの集団に遅れてそこから東進して華北に移動し、華北でNとOの集団に分岐し、Nの集団はそこから北上してシベリアから北欧に拡散したが、Oの集団は華北から南下して華中、華南、チベット高原に進み、その後、一部は華北から朝鮮半島南部を経由して日本列島の九州北部に流入し、一部は華南から台湾に渡り、フィリピンからインドネシアやポリネシアなどの南太平洋の当初に拡散したが、その一部は、フィリピンから黒潮に乗って北上し、朝鮮半島南部と九州南部に流入した。

 

 こうした崎谷論文の指摘から、中国の華北やチベット高原には先にY染色体DNAハプログループのDの集団が拡散していて、その後にその基層集団の上にOの集団が拡散していったと考えられる。

 

 つまり、本来のチベット・ビルマ語族のY染色体DNAハプログループはDであったと考えられる。

 

 Y染色体DNAハプログループのOの下位系統と語族との関係を、O1aがタイ・カダイ語族やオーストロネシア語族、O1bがオーストロアジア語族と朝鮮半島の無文土器時代人と朝鮮半島南部から渡来した初期の弥生人、O2aがミャオ・ヤオ語族、O2bが漢民族だとすると、崎谷論文によれば、チベット人のY染色体DNAハプログループの構成比はDが50.4%、O2bが35.2%となる。

 

(19)漢語はクレオール

 

 「先史時代に東アジアの言語について(7)」で述べたように、松本論文は、以下のように、漢語とはミャオ・ヤオ系の言語とチベット・ビルマ系の言語のクレオールであるという。

 

 「「漢民族」とは何かという問題に立ち返ると、それを一言で要約すれば、日常の伝達手段として「漢語」を話す集団と定義できる」が、「この「漢語」と呼ばれる言語」は、「系統的には明らかにチベット・ビルマ系言語に属し、人称代名詞のタイプから見ても、この点は疑問の余地がない」が、「この言語は」、「チベット・ビルマ系言語とは類型論的に大きく異なり、むしろ太平洋沿岸諸語と多くの特徴を共有する」

 

 「漢語のこのような二面性は」、「この言語が成立した極めて特殊な歴史的事情に由来すると見なければならない」

 

 「この言語は、これまで述べたきた沿岸系の「東夷」(より具体的には「三苗」つまりミャオ・ヤオ系)の言語とチベット系のいわゆる「西戎」(古文献で「氐」「羌」などと呼ばれた諸族の祖集団)の言語が接触・混合した結果生じた一種の「クレオール」(ないしリングワ・フランカ)として最も適切に性格づけられる」

 

 また、松本論文は、人称代名詞の1人称の漢字の「我」や2人称の漢字の「汝」などと貝偏の漢字について、以下のようにいう。

 

 「人称代名詞、とりわけ1人称代名詞として使われている「我」という文字」は「典型的な「仮借文字」つまり音だけを借りた文字で、元もと「ギザギザ」(の形をした武器)を表す象形文字だった」が、「その音はほぼ/ ŋa/と表せるような音である」

 

 「さらにまた、甲骨文資料の中には1人称代名詞「我」のほかに、2人称を表す「女」や包括人称と見られる「余」という文字も現れている」が、「これらの文字の声母は、それぞれn-、y-/ ʒ -、韻母はいわゆる「魚韻」で、日本の漢字(呉)音では/nyo/、/yo/という形で現れる」

 

 これらは「いずれも、「我」と同じように、音だけを借りた仮借文字で、その音形は、紛れもなく「シナ・チベット型」の人称代名詞を表している」

 

 「また、甲骨文に見られる語順のタイプも、チベット・ビルマ諸語のそれとは大きく異なり、すでに後代の漢語のそれと大差のない非整合的なSVO型の様相を呈示している」

 「漢字で「財、貨、賓、買、責、資、貢、購」など財貨や商活動などを表す文字は、いずれも「貝」という字を基盤にして作られている」が、「この文字は、言うまでもなく、海でしか獲れない子安貝をかたどったもので、甲骨文の中にもすでに現れている」

 

 「「貝」を基盤としたこのような文字形成とその発想は、チベット系言語を母語とする内陸の牧畜民の間では到底起こりそうもない」

 

 「牧畜民にとっての富・財宝は、何よりもまず家畜であ」り、「同じように内陸の牧畜民だったユーロ・アルタイ系の例えばラテン語で、財貨を意味するpecuniaという語は、pecusr家畜(特に羊)」に由来し、ほぼ同じ意味を表す英語のfee(古英語でfeoh)も、これと同源のドイツ語のViehで見るように、もともと家畜を意味していた」

 

 「海に産する貝殻が富や財貨の役を果たすのは、太平洋地域に住むマレー・ポリネシア系諸族の一部で比較的最近まで見られたように、海と縁の深い沿岸民族ならではの現象である」

 「漢語の「雑種性」とは、沿岸型言語を基層としてその上に支配者として重なった内陸牧畜民の言語という形で形成されたものにほかなら」ず、「この雑種性は、言語だけでなく漢字という文字体系にもそのまま反映している」

 

 「漢語と呼ばれる言語は、そのクレオール的な起源とその後に行われた種々雑多な話者集団の吸収・併合に加え」、「漢字という表意文字システムをほとんど唯一の支えとしてきた」が、「このような文字言語をその媒体とすることによって、「漢語」はその人工語的な性格を時代と共にますます強めていったと思われる」

 

 「漢語を特徴づけるあの徹底した語の「単音節性」という現象も、おそらくその背後に、一語一字一音節を原則とする漢字の表記システムが大きな要因として働いていたに違いない」

 

 松本論文の指摘から、漢語とは沿岸航海民の言語と内陸牧畜民の言語のクレオールであり、その結果、接辞を省略した「単音節性」の言語として形成されたのだと考えられる。

 

 なお、松本論文は、「漢語を特徴づけるあの徹底した語の「単音節性」という現象」は、「一語一字一音節を原則とする漢字の表記システムが大きな要因として働いていた」と主張するが、それは反対で、クレオールとしての性格から「漢語を特徴づけるあの徹底した語の「単音節性」という現象」が生まれ、それを前提として、その言語を表記する「一語一字一音節を原則とする漢字の表記システム」が生まれたと考えられる。

 

 また、松本論文は、沿岸航海民の言語が基層言語であり、その上に内陸牧畜民の言語が重なってクレオールとなったというが、Y染色体DNAハプログループDの集団を内陸牧畜民とすると、内陸牧畜民の言語が古い基層言語であり、それに、Y染色体DNAハプログループD2aの新しい沿岸航海民の言語が重なったのであり、その過程は、チベット・ビルマ語族の殷人による、ミャオ・ヤオ語族だったと想定される二里頭遺跡の権力の打倒のはるか以前から進行していたと考えられる。

 

 Y染色体DNAのハプログループと言語の対応では、一般的には、O2bが漢民族を含むチベット・ビルマ語族であると言われるが、それは、本来のチベット・ビルマ語族の基層集団のDの集団とそれに後から重なったO2aの集団が混血し、基層集団であったDの集団の言語を受容してO2bの集団が形成されたために、表面的にそうなったのであり、本来のチベット・ビルマ語族のY染色体DNAのハプログループはDであったと考えられる。

 

 なお、松本論文は、漢字の「文字体系は、チベット系牧畜民の到来以前、すでにこの地域に何らかの形で存在していたと考えなければならない」というが、「甲骨文の誕生と漢語の形成について」で述べたように、甲骨文は殷後期になって初めて作られたものであり、それ以前に「文章表記をする文字」としての漢字は存在しなかったと考えられる。

 

 以上から、松本論文が例示しているシナ・チベット諸語の人称代名詞の漢語の事例については、その成り立ちを、モンゴル諸語やツングース諸語の人称代名詞の構成と同じように、人称接辞+存在動詞+連用形接辞という形で構成することは出来ないと考えられる。

 

 また、漢語が、松本論文がいう「ユーラシア内陸言語圏」のチベット・ビルマ系の言語と同じく「太平洋沿岸言語圏」のミャン・ヤオ系の言語が混合して形成されたクレオールであったとすると、漢語の人称代名詞の体系はミャン・ヤオ諸語の人称代名詞の体系に影響を受けている可能性があるので、漢語の人称代名詞の検討の前に、ミャン・ヤオ諸語の人称代名詞の検討が必要になると考えられる。

 

 そこで、まず、漢語以外のチベット・ビルマ諸語の人称代名詞を検討し、その後にミャン・ヤオ諸語などの人称代名詞の検討をしてから、漢語の人称代名詞を検討する。

 

(20)シナ・チベット諸語

 

 松本論文が例示している、シナ・チベット諸語のうちの蔵語の川西走廊の羌語の1人称単数の人称代名詞はqaで、2人称単数の人称代名詞はno、古典チベット語の1人称単数の人称代名詞はŋaで、2人称単数の人称代名詞はkhyod、ヒマラヤ西部のブナン語の1人称単数の人称代名詞gyiで、2人称単数の人称代名詞はhan、ネパールのタカリ語の1人称単数の人称代名詞はŋɔで、2人称単数の人称代名詞はkyaŋ、ヒマラヤ南部のトゥルン語の1人称単数の人称代名詞はgoで、2人称単数の人称代名詞gana、アッサムのポド語の1人称単数の人称代名詞はaŋで、2人称単数の人称代名詞naŋ、ビルマのアチャン語の1人称単数の人称代名詞はŋaで、2人称単数の人称代名詞naŋ、雲南のビス語の1人称単数の人称代名詞はgaで、2人称単数の人称代名詞naとなる。

 

(a)1人称単数の人称代名詞

 

 松本論文が例示している、シナ・チベット諸語の1人称単数の人称代名詞は、近藤健二の「言語類型の起源と系譜(松柏社)」(以下「近藤論文」という)を参考にすれば、古典チベット語やアチャン語のŋa、羌語のqaやタカリ語のŋɔ、ポド語のaŋは、具格接辞の*gaが音変化したŋaを基本形としているが、ビス語の1人称単数の人称代名詞のga、トゥルン語のgo、ブナン語のgyiは、具格接辞の*gaが音変化したgaを基本形としているように見える。

 

 しかし、松本論文の例示によると、ヒマラヤ南部のリンプ語のaŋgaやアッサムのポド語のaŋといったヒマラヤ山脈付山麓付近の言語の1人人称単数の人称代名詞には、その祖型が2語であった痕跡を残すものが存在している。

 

 例えば、リンブ語のaŋgaがa-ŋgaで、ポド語のanがa-nであったとすると、それらの本来の語形はga-ŋaやga-naであり、naがŋaが音変化したものであったとすると、それらの語形の祖型はga-ŋaとなり、さらにそれは具格接辞*-gaを二つ重ねたga-gaであり、それは、その二つを差別化する意味でga- na としたものであったと考えられる。

 

 そして、チベット・ビルマ諸語のうちの多くではga-naの2語のうちのnaが残存したが、gaが残存した言語もあったのだと考えられる。

 

 なお、松本論文は、例示したシナ・チベット諸語の人称代名詞の一覧表について、「表で見るように、これらの言語の中でチベットからヒマラヤ地域に分布する諸言語だけが、その2人称独立代名詞にg/k-で始まる特異な形を持っている」というが、これまで見てきたように「チベットからヒマラヤ地域に分布する諸言語」に1人称独立代名詞の「g/k-で始まる特異な形」は存在している」。

 

 また、松本論文は、「チベットからヒマラヤ地域に分布する諸言語」が、こ「の言語のk/g-形の起源について、専門家の間でもまだ定まった解釈がなく、ここでもこの問題には特に立ち入らない」といって、ヒマラヤ山脈付山麓付近の言語の1人称単数の人称代名詞のgaやgyi、goなどの起源についての解釈を保留している。

 

 しかし、近藤論文が指摘しているように、人称代名詞が具格接辞から形成された人称接辞に起源しているとすれば、チベット・ビルマ諸語の1人称単数の人称代名詞の祖型はga-ŋaであり、チベット・ビルマ諸語の1人称単数の人称代名詞はna型であったが、そのうちのgaが残存した言語がヒマラヤ山麓から雲南高原にかけて散在し、それ以外多くの言語ではŋaが残存したと考えられる。

 

 近藤論を参考にすると、人称代名詞は、ゼロ標識の人称接辞+存在動詞+連用形接辞の副詞句から誕生したと考えられるので、古典チベット語を例にとると、岩尾一史、池田巧編の「チベットの歴史と社会(下)(隣川書店)」所収の星泉の「チベットの文法を動的に見る」(以下「星論文」という)や海老原志穂の「チベット諸方言を俯瞰的に見る」(以下「海老原論文」という)などの諸論文によれば、チベット文語の存在動詞はyooとなり、また属格接辞を連用形接辞だとすれば、連用形接辞はkyiとなる。

 

 チベット・ビルマ諸語の1人称単数の人称代名詞の原型がga-naであったとすると、その祖型は、ø- ga-na-yoo-kyi「私ありて」と復元されるが、-yoo-kyiはその後、それらの諸言語では脱落したと考えられる。

 

(b)2人称単数の人称代名詞

 

 松本論文が例示している、古典チベット語の2人称単数の人称代名詞のkhyodは、タカリ語のkyaŋとよく似ているが、より古形を残しているタカリ語を例にすると、kyaŋはky-a-nという3語で構成されており、その原型は、ki-ga-ŋaであったと考えられる。

 

 そうすると、これまで見てきたように、チベット・ビルマ諸語の1人称単数の人称代名詞の祖型がga-ŋaであったとすると、タカリ語の2人称単数の人称代名詞kyaŋの祖型は、1人称単数の人称代名詞の祖型にga-を付加したものであり、ヒマラヤ南部のリンブ語では1人称単数の人称代名詞aŋgaであり、2人称単数の人称代名詞がkhɛnɛであることからも、チベット・ビルマ諸語の2人称単数の人称代名詞の祖型は、1人称単数の人称代名詞の祖型ga-ŋaにga-を付加したga-ga- ŋaという3語の構成であり、近藤論文が指摘するような副詞句としてはø-ga-ga-na-yoo-kyi「私たちありて」であったと考えられる。

 

 アチャン語やポド語のnaŋはna-ŋaで、トゥルン語のganaはga-na、ブナン語のhanはga-nであるが、それらは、1人称単数の人称代名詞のga-ŋaからgaが脱落したように、祖型のga-ga-ŋaからgaが脱落し、またそこから音変化することで現在の語形になったと考えられる。

 

 そうすると、羌語noやビス語naなどの1語の2人称単数の人称代名詞は、祖型の3語から2語が脱落して現在の語形となったと考えられる。

 

(C)松本論文の議論は誤り

 

 松本論文が例示しているシナ・チベット諸語の人称代名詞の一覧表では、1人称単数の祖語を*ŋa、2人称単数の祖語を*naとしているが、松本論文も例示しているように、2人称単数の人称代名詞は、ヒマラヤ西部では、マンチャト語ka?、カナウル語kn、ブナン語hanで、ヒマラヤ南部では、バヒン語ga、ツゥルン語ganna、リンブ語khɛnɛで、ネパールのタマン語ai、タカリ語kyaŋなどとなっており、これらの2人称独立代名詞の松本論文がいう「g/k-で始まる特異な形」を「この問題には特に立ち入らない」として無視することで「暫定的」に想定されたものである。

 

 しかし、これまで見てきたように、2人称単数の人称代名詞の祖型がga-ga-ŋaという3語構成であり、そこから1語や2語が脱落することで、nで始まるものとgやgが音変化したkで始まるものが誕生したと考えれば、nとgやkga人称代名詞の中で共存していることを説明出来る。

 

 また、松本論文は、「多くの言語で1人称の語頭に現れるŋ-という子音は、一般音韻論的な観点から見ると、非常に有標性の高い音である(世界の多くの言語でこのような音は、通常、語頭には生起しない)」ので「「1人称を特徴づけるこの基幹子音は、*k/gのような音から派生したという可能性も考えられる」が、そうだ「とすれば、その鼻音性は2人称代名詞n-の影響つまり一種の同化作用によって生じたものかもしれない」という。

 

 しかし、近藤論文によれば、人称代名詞や人称接辞は具格接辞の*-gaが基本形であり、naは*-ga→-ŋa→naという音変化の過程を経て誕生したものであり、-kaは*-ga→-ga→kaという音変化の過程を経て誕生したものであるので、「ŋ-という子音」は「*k/gのような音から派生した」のではなく、その反対であり、「その鼻音性は2人称代名詞n-の影響つまり一種の同化作用によって生じたもの」でもなく、その反対であったと考えられる。

 

 以上から、チベット・ビルマ諸語の人称代名詞の起源についての松本論文の主張には従えない。