「弥生言語革命」への疑問(2) | 気まぐれな梟

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 今日は、「こころのフォーク&ポップス~君と歩いた青春~ Disc1」から松山千春の「恋」を聞いている。

 

(3)漢字の音と訓の起源

  

 近藤健二の「弥生言語革命(松柏社)」(以下「近藤論文」という)と同様の、大和言葉が漢字の中国古代音に起源しているという主張をしているのが小林昭美の一連の著作である。

 

 近藤論文が辞書のような、ある意味で無味乾燥な記述であるのに対して、私家版のためそれほど流布はしてはいないが、小林昭美の「「やまとことば」の来た道」や「新版・日本語の起源」は大分読みやすくなっている。

 

 それらの著作での小林昭美の主張の全てに賛同するものではないが、それらの著作のダイジュスト版ともいえる下記の著作を紹介しておきたい。

 

 吉田金彦編の「日本語の語源を学ぶ人のために(世界思想社)」所収の小林昭美の「日本語と古代中国語」によれば、漢字の音と訓については、以下のとおりである。

 

 「音は漢字の中国語音に依拠したものであり、訓は漢字の字義に近い日本語をあてたものであ」り、「訓は漢字を「やまとことば」で読む手法である」

 

 「漢字の読み方には音と訓があり、絹(ケン・きぬ)、馬(バ・うま)、梅(バイ・うめ)などでは「きぬ」、「うま」、「うめ」は「やまとことば」だとされている」

 

 「ところが、スウェーデンの言語学者のカールグレンはその著書「言語学と古代中国」のなかで、古い時代に中国語から借用した日本語として馬「うま」、梅「うめ」、絹「きぬ」、など二〇あまりの言葉を列挙している」

 

 「つまり、日本漢字音は呉音と漢音のほかに、さらに古い中国語の借用音がある」というのである。

 「日本漢字音は隋唐の時代の中国語音に依拠して記紀万葉の時代に成立したものだが、日本と中国との接触はそれよりはるかに古く、三世紀には中国の歴史書にすでに邪馬台国の記述が見られるし、五世紀になると日本でも漢字が使われていたことは、稲荷山鉄剣などの考古学遺物から知られる」

 

 「漢の武帝はすでに紀元前一〇八年に朝鮮半島に楽浪郡などの植民地を設けており、日本列島は弥生時代から中国文化の影響を受けていたと考えられる」

 

 「稲作や鉄などの弥生文化とともに中国語の語彙も日本語のなかに取り入れられた」が、「その古代音をここでは弥生音と呼ぶことにする」

 

 「古代中国語音が「やまとことば」のなかで、どのような音韻対応を示すか検討する」が、「古代の中国語音を調べるには王力の「同源字典」、白川静の「字通」などが参考になる」

 

(一)中国語の原音が[m‐]ではじまる場合。馬「うま」と梅「うめ」など。

 

 「「馬」、「梅」の古代中国語音は馬[mea]、梅「muə」であり、弥生音は「うま」、「うめ」と二音節になり、前に「う」がついている」

 

 「「万葉集」では馬は宇麻、宇馬、牟麻、宇摩、馬などと表記され」、「梅は鳥米、鳥梅、于梅、梅などと表記されて」おり、「馬は「うま」とも呼ばれ、「むま」とも呼ばれ」、「梅は「うめ」あるいは、「むめ」と呼ばれている」

 

 「梅、馬ばかりでなく味「うまし」、美「うまし」、牧「うまき」なども、文字時代以前の中国語からの借用音である可能性がある」

 

 「「鰻」は「万葉集」では「むなぎ」と呼ばれていて、中国語の鰻魚[miuan-ngia]に対応する」が、「鰻「むなぎ」も中国語からの借用語である可能性がある」 

 

(二)中国語の原音が[‐n]、「‐m」で終わる場合。絹「きぬ」、杣「しね」、鎌「かま」など。

 

 「古代中国語には[‐n]、[-m]で終わる音節があったが、古代の日本語には「ン」で終わる音節はなかったので、母音を添加してナ行またはマ行の音であらわした」

 

 「日本語の稲「いね」も中国語の「秈(セン)」と同源である可能性がある」

 

 「中国語では声母にi介音が伴う場合、語頭の子音が失われる例が多」く、「船「セン」・鉛「エン」、説「セツ」・悦「エツ」、詳「ショウ」・羊「ヨウ」」などがある。

 

 「鎌「かま」の声符は兼「ケン」であり、日本では古くから藤原鎌足、中臣鑵子などのように鎌を「かま」と読んできた」が、「日本語の動詞「兼ねる」も中国語からの借用語であろう」

 

 「次にあげる漢字の訓も弥生時代における中国語からの借用語である可能性が高い」

 

 「君(クン・きみ)、殿(デン・との)、壇(ダン・たな)、浜(ヒン・はま)、弾(ダン・たま)、文(ブン・ふみ)、簡(カン・かみ)、金(キン・かね)、闇(アン・やみ)、蟠(バン・へび)、困(コン・こまる)、染(セン・そめる)」

 

 「「紙」の語源は木簡の「簡」であ」り、「「へび」には蛇の漢字があてられているが、語源的には「蟠」であ」り、「ハブ、鱧「はも」も語源は「蟠」であろう」

 

(三) 中国語原音が入声音[‐k]で終わる場合。竹「たけ」、麦「むぎ」、剥「はぐ」など。

 

 「日本語には古代中国語の韻尾[‐k]を留めていると思われることばがほかにもある」

 

 「奥(オウ・おく)、塞(ソク・せき)、酢(サク・さけ)、束(ソク・つか)、墓(ボ・バク・はか)、直(チョク・じき)、作(サク・つくる)、索(サク・さがす)、牧(ボク・まき)、着(チャク・つく)、濁(ダク・にごる)、漬(シ・セキ・つける)」

 

 「「奥」の古代中国語音は奥「uk」であり、隋唐の時代には音便化して奥/ung/になった」

 

 「日本漢字音の奥「オウ」は隋唐の時代の中国語音に依拠しており、奥「おく」は古代中国語音を継承している」

 

 「現代の日本語では「せき」には「関」の字が慣用として使われているが、日本語の「せき」の語源は中国語の「塞」であろう」

 

 「墓の日本漢字音墓「ボ」は隋唐の時代の中国語音を反映したものであり、古代中国語音は莫「バク」と同じであ」り、「日本語の墓「はか」の語源は古代中国語である」

 

 「「剥ぐ」、「着く」、「作る」、「濁る」、などは日本語の動詞として定着しており、日本語の動詞として活用もする」

 

(四)中国語原音が入声音[‐p]で終わる場合。「かひ・こ」、湿「しめる」など。

 

 「「蛺」、「湿」の日本漢字音では鋏「キョウ」、湿「シツ」である」が、「古代中国語音は蛺[keap]、湿[sjiəp]であり、韻尾は[‐p]である」

 

 「中国語の韻尾「‐t」は、旧かなづかいでは蝶「てふ」のようにハ行で表記された」が、「これは古代中国語音の痕跡を留めた表記法であるといえる」

 

 「日本語の「かひこ」は中国語の蛺蠱[keap-ka](蠱「コ」は虫の意味である)の借用語である可能性がある」

 

 「中国語の湿[sjiəp]が湿「しめる」の語源であろう」

 

 「古代中国語の韻尾[‐t]は日本語では」「吸「すふ」、合「あふ」、汲「くむ」」のように「ハ行またはマ行であらわれる」

 

 「渋「しぶい」の古代中国語の韻尾は[‐t]であ」り、「「かぶと」は甲兜[keap‐to]であろう」

 

(五)中国語原音が人声音[‐t]で終わる場合。舌「した」、筆「ふで」など。

 

 「舌(ゼツ・した)、筆(ヒツ・ふで)、葛(カツ・かづら)、鉢((ツ・はち))

 

(七)中国語原音が[-ng]で終わる場合。

 

 「中国語韻尾の[‐ng]は日本語にない音であ」り、[‐ng]は[‐k]と調音の位置が同じで音が近い」

 

 「同じ声符をもった漢字でも[-k]の韻尾をもったものと、[‐ng]の韻尾をもったものとが並存しているが、[-k]が古く[‐ng]のほうが新しい」

 

 「拡「カク」・広「コウ」、較「カク」・交「コウ」、告「コク」・浩「コウ」、卓「タク」・悼「トウ」」

 

 「日本語でも格子、祝儀、祝言などは各「カク」、祝「シュク」が音便化している」

 

 「楊「やなぎ」は現在は柳「やなぎ」の字をあてているが、日本語の「やなぎ」の語源は楊「jiang」であろう」

 

 「「万葉集」にも「安乎楊木能(青楊の)」などと用いられている」が、「「楊本」と書くのは、「楊」の文字は「万葉集」の時代には「ヨウ」と発音されるようになっており、楊「やぎ」とは読めなくなってしまっていたからである」

 

 「また、「楊」が「やぎ」ではなく「やなぎ」となって日本語に定着したのは「楊の木」の連想である」

 

 「羊「やぎ」は現代の日本語では羊「ひつじ」である。古代中国語音は羊[jiang]であり、日本語の「やぎ」の語源である」が、「奈良時代になって「羊」の発音が変化して羊「ヨウ」となったため、「やぎ」は「山羊」と書くようになったものと考えられる」

 

 「日本語の「かげ」には影と光のふたつの意味があ」り、「月影「つきかげ」は月の光[kuang]のことであり、日影「ひかげ」は反対に日の当たらないところである」

 

 「「かぐや姫」の「かぐ」は「光(かぐ)や姫」で、「影「かげ」は中国語の影[yang](あるいは景[kyang]であり、光[kuang]と発音が近い)

「光(かげ)も影(かげ)も中国語からの借用語であ」り、「「かがやく」は光耀[kuang-jiok]であろう」

 

 「相模(さがみ)、當麻(たぎま)、楊生(やぎふ)、愛宕(おたぎ・あたご)、相楽(さがらか)、英多(あがた)、望多(うまぐた)、伊香(いかご)、香山(かぐやま)」など、「日本の古地名でも、中国語の韻尾[‐ng]が力行音であらわれる例が多くみられる。

 

 「茎(ケイ・くき)、丈(ジョウ・たけ)、横(オウ・よこ)、往(オウ・ゆく)、性(セイ・さが)、塚(チョウ・つか)、撞(トウ・つく)、桶・甬(トウーヨウ・おけ)、涌(ヨウ・わく)、湧(ユウ・わく)、泳(エイ・およぐ)、揚(ヨウ・あげる)、王(オウ・わけ)、翁(オウ・おきな)]などのように、「「やまとことば」では古代中国語の[‐ng]は[‐k]であらわれる」

 

 「鶯(オウ・うぐひす)も古代中国語の鶯[hi ueng]に朝鮮語の鳥(sae)をつけた合成語であ」り、「鴉(が・からす)は中国語の鴉[kyang]に朝鮮語の鳥(sae)をつけたものであろう」

 

 「日本語のなかには、弥生時代に農耕文化とともに中国からもたらされた語彙がほとんど無数にあることがわかる」が、「それらの言葉のなかには朝鮮漢字音の影響を受けて変容しているものもある

 

 「言語は異なった系統の言語が混ざり合いピジンやクレオールを生み出すことがある」が、「日本語もまた弥生時代に農耕文化とともに、アルタイ系の言語のうえに中国語の語彙を大量に受け入れクレオール化したものと考えられる」

 

 小林論文が指摘するように、「日本漢字音は隋唐の時代の中国語音に依拠して記紀万葉の時代に成立したものだが、日本と中国との接触はそれよりはるかに古く、三世紀には中国の歴史書にすでに邪馬台国の記述が見られるし、五世紀になると日本でも漢字が使われていたことは、稲荷山鉄剣などの考古学遺物から知られる」のであり、紀元前108年に漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして朝鮮半島北部に設置した四郡のうちの楽浪郡に関わる楽浪土器が、弥生時代後期の対馬の木坂遺跡、壱岐のカラカミ遺跡や博多湾沿岸の三雲遺跡、雀居遺跡、博多遺跡群などから出土していることから、弥生時代後期には楽浪商人が日本で活動しており、彼らによって、漢字が伝来する以前に、漢字の伝来を伴わずに、古代中国語とその発音が日本列島に伝播していたのだと考えられる。

 

(4)古代中国語と南島語の日本列島への伝播

 

 小林論文は、「日本語もまた弥生時代に農耕文化とともに、アルタイ系の言語のうえに中国語の語彙を大量に受け入れクレオール化したものと考えられる」という、古代中国語の日本列島への伝播時期は弥生時代の開始期であったという。

 

 こうした小林論文の主張は、「弥生言語革命」を主張する近藤論文と同じようなものであるが、日本人の言語が「中国語の語彙を大量に受け入れ」ていったのは、弥生時代初期の農耕文化の開始期のことだけではなく、弥生時代から古墳時代、飛鳥時代にかけての継続した過程でのことであったと考えられる。

 

 そうすると、その過程を「弥生言語革命」と一括するのは妥当ではなく、「古代中国語」の日本列島への伝播の過程とその担い手について、具体的に検討していくことが必要であると考えられる。

 

 小林論文は、日本語は「アルタイ系の言語のうえに中国語の語彙を大量に受け入れクレオール化したもの」であったというが、こうした「北方語と南方語の重層説」について、近藤論文は以下のようにいう。

 

 北方語と南方語の重層説「には,北方語が先にあってそれに南方語がかぶさったとする説と、逆に南方語が先にあってそれに北方語がかぶさったとする説とがある」が、「北方語とは上述のアルタイ系言語のことであ」り、「南方語とは南太平洋の島々に分布するオーストロネシア語族のことであるが,これは南島語とも呼ばれる」

 

 「これらの説はいずれも,現在の人類学的および考古学的知見からすれば、事実に反していると言わざるをえない」

 

 「北方語が先にあってそれに南方語がかぶさったとする説」は、「縄文人を形成したのは北方の出身者だけではな」く、「稲作文化は南太平洋の島ではなく、中国大陸の長江下流域に起源を発するものである」ので、成り立たない。

 

 近藤論文が、「日本列島には縄文時代の末期,アルタイ語的な言語Aが行われてい」たが、「そこへ秀れた稲作文化を担った南島語族が言語Bをもたらし」たという、川本崇雄の主張を批判するのは妥当であるが、稲作文化が「中国大陸の長江下流域に起源を発するものである」ことと、初期の稲作文化が「南太平洋の島」から日本列島に伝播したことは、矛盾はしない。

 

 水田耕作の稲作が日本列島に伝播する前の縄文時代後期以降、何度も波状的にオーストロネシア語族が日本列島に渡来し、彼らによって雑穀としての稲作がフィリピンやミクロネシア方面から伝播してきた。

 

 オーストロネシア語族が日本列島に持ち込んだ稲作文化は、長江流域で栽培化された水田耕作の稲作が台湾を経由して南太平洋の島々に伝播する過程で雑穀としての稲作に変化したもので、それは、水田耕作の稲作が朝鮮半島南部に伝播するよりも早く日本列島に伝播したものであった。

 

 「アルタイ語的な言語」とはツングース系の言語であり、その担い手は濊人であり、彼らが朝鮮半島から大量に日本列島に流入・渡来してくるのは古墳時代中期になってからのことであった。

 

 なお、中国語の上古音は周代の「詩経」の押韻から再構成されたものであるが、殷・周代の古代中国語は、黄河中流域で話されていたミャン・ヤオ語族の言語が、黄河中流域に北方から進出した殷や同じく西方から進出した周のチベット・ビルマ語族の言語によって変化した言語である、と考えられる。

 

 オーストロネシア語族は、ミャン・ヤオ語族とともにオーストロ大語族に含まれるように、ミャン・ヤオ語族と祖語を同じくする類似した言語であるので、古代中国語とオーストロネシア語族は、祖語を共通する類似した言語である。

 

 近藤論文は、「南島語と古代中国語とが非常によく似ている」が、その類似性は、「偶然によるものではなく、台湾に渡り南太平洋に広がっていった人々の言語が中国語起源であるがゆえの類似性である」といい、「日本語の形成にも南島語の形成にもかつての中国語が決定的にかかわって」おり、「日本語と南島語か似ているのはそのためである」という。

  

 近藤論文は、このように南島語と古代中国語との関係を認めているが、「日本語と南島語とが似ているのは,南島語話者が日本列島に渡来して、原日本語が南島語化しだからではない」と、南島語と日本語との直接的な関係を否定する。

 

 近藤論文が、南島語と日本語との直接的な関係を否定する理由は、「仮に南島語が日本列島に伝来したとするならば、日本語は南島語にもっとよく似ているはずである」がそうなってはいないということである。

 

 近藤論文は以下のようにいう。

 

 「たとえば,南島語にはきわめて多数の畳語が存在するが,それに対応する畳語が日本語にもっとたくさんあってよい」

 

 「また,南島語では珍しくない牙音・喉音や舌音・歯音の流音化が日本語でも観察されるはずだが,そういう音変化が日本語で起こった形跡はない」

 

 「そして日本語と南島語の間には,日中語間に比べて同源の語の組み合わせがあまりにも少な」く、「同源の語が少なくても,それは日本語と南島語の同系性を裏付ける証拠になりえる」が、「南島語が日本語になったという証拠にはならないだろう」

 

 近藤論文は「日本語と南島語の間には,日中語間に比べて同源の語の組み合わせがあまりにも少ない」というが、以前「日本語に起源について」で述べたように、崎山理の「日本語形成論(三省堂)」によれば、オーストロネシア諸語に起源する日本語はかなりの数が存在していると考えられる。

 

 また、日本語には畳語の数が少なかったり、牙音・喉音や舌音・歯音の流音化の形跡がなかいという近藤論文の指摘も、それらが、先に伝播していたオーストロネシア諸語の上に古代中国語やツングース語が上書きされていった結果であるとすれば、オーストロネシア諸語の日本列島への伝播を否定する理由にはならない。

 

 そればかりか、近藤論文が古代中国語の伝播の証拠だとしている事例には、古代中国語から分岐したオーストロネシア諸語が伝播した事例が多く含まれていると考えられるので、オーストロネシア諸語の日本列島への伝播を考慮に入れないで、それらのすべてを弥生時代開始期の古代中国語の伝播の結果であるとすることはできない。

 

 また、古代の南九州の隼人の言語はオーストロネシア諸語であったとされるが、そうした隼人の言語の存在は、オーストロネシア諸語の日本列島への伝播の証拠となるものである。

 

 そうすると、古代中国語およびそれと同系統の言語の日本列島への伝播は、縄文時代後期のオーストロネシア諸語の伝播、縄文時代晩期の朝鮮半島南部からの古代中国語の伝播、弥生時代後期の楽浪商人などによる古代中国語の伝播、古墳時代中期の朝鮮半島南部からの渡来人の流入による古代中国語の伝播、古墳時代後期から飛鳥時代の史官や僧侶などの文化人、外交官の流入による古代中国語の伝播などというような諸段階を経て行われていったものであったと考えられるので、それらの過程を「弥生言語革命」として一括するような近藤論文の主張には従えない。

 

 小林論文が古代中国語の伝播として挙げた事例のすべてが妥当ではなく、小林論文や近藤論文が挙げている古代中国語の伝播の事例の中には、朝鮮半島を経由して伝播した古代中国語も含まれており、その場合にはそれらの言葉は古代中国語としてではなく古代朝鮮語として伝播してきたものも多く含まれていると考えられる。

 

 そうすると、今後の課題は、古代中国語の伝播と古代朝鮮語の伝播の区別や、古代中国語の伝播の事例それぞれの歴史的段階の分別とその伝播過程の復元であると考えられる。