甲骨文の誕生と漢語の形成について(75) | 気まぐれな梟

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 今日は、鬼束ちひろの「シンドローム」から、「弦葬曲」を聞いている。

 

 落合淳思の「殷王世系研究(立命館東洋史学会)」(以下「落合論文3」という)は殷王世系の成立と実際の王統について以下のようにいう。

 

(7)実際の殷王統(祖乙~武丁)

 

(a)同版関係

 「祖乙から小乙までは第一期にすべての王名が見えているが、祭祀上では継承関係が直接には記されないため、同版関係からこの時期の継承関係を分析する」

 

 「第一期の先王の同版関係をまとめた表」「を見ると、各先王は世系上の近い王との同版が多く、上甲~示癸、大乙~祖乙は同版が多く、「近い先王」として認識されていたことが分かる」

 

 「祖乙以降も同版が多いが、祖乙~小乙はさらに細かく、祖乙・祖辛・祖丁・小乙・・・a群、羌甲・南庚・・・b群、象甲・盤庚・小辛・・・c群の三群に分けられる」

 

(b)羌甲と南庚

 

 「a群とc群についてはその部分に限り一〇を超えていることから明らかであるが、b群については七例と同版がやや少なく、一見、羌甲-小乙や南庚-小乙の六例などと大差がないように感じられる」

 

 「しかし、延べ同版中の割合で見た場合、小乙の同版九〇例中の六例は六・六%にすぎないが、羌甲の同版総数三二例中の七例はニー・九%、南庚の同版総数二七例中の七例は二五・九%と高く、つまり羌甲-南庚の同版は、数字の違いは小さくても分母(延べ同版数)が少ないのであるから、羌甲と南庚が「近い先王」として選択的に祭祀されていたことは明らかである」

 

 「また、羌甲と南庚については、第一期の王卜辞である𠂤組卜辞では祀られておらず(他の先王祭祀は上甲から小乙まですべて賓組と同じである)、この例でも羌甲・南庚が別系統の祭祀対象として認識され、この二王が一群であることを支持している」

 

(c)a群・b群・c群の関係

 

 「a群中の祖乙は、上甲あるいは大乙以降の直系合祀に列していることから、上甲・大乙に繋がる「直系王」として認識されていたことは確実であり、また小乙(父乙)もその配妲の妣庚(第一期は母庚)が多く祀られており、a群が武丁から見た直系として認識されていたと考えられる」

 

 「b群・c群については、共に祖乙より前の先王との同版が少なく「直系王」として認識はされていないが、b群とc群の間での同版は少なく、互いに独立した系統であったことが分かる」

 

 「また、c群はすべて親族称謂の「父某」で称され、武丁との血縁関係で記すのに対し、b群は固有称謂で称され血縁関係を明らかにしないことも、b群とc群が異なる存在であることを示している」

 

(d)妣己とa群、妣庚とb群

 

 「第一期には「高妣己」「高妣庚」の称謂があり、第三・五期の祭祀からこの妣己・妣庚は祖乙の配妣と考えられるが、a群・b群との同版数を見ると、妣己はa群が二四例、b群が四例と大きく異なるのに対し、妣庚はa群が六例、b群が七例であり、先の例と同様に分母の大きさを考えれば妣庚はb群と同版の比率が高い」

 

 「つまり、第一期においては妣己とa群、妣庚とb群が近い関係にあると認識されていたのであり」、「さらに妣庚については、一二間期~第三期に羌甲が準直系とされ、かつ第二・三期には羌甲の配妲に妣庚が祀られていることから、祖乙の配であった妣庚が羌甲の配とされ、この部分の世系が改編されたことが推測でき」る。

 

 「つまり、一二間~第三期における羌甲の「準直系」的な扱いは、南庚から見た場合の直系であると位置づける認識の反映だったのである」

 

(e)a群・b群・c群の違い

 

 「第三期に見える祖乙の配には、「妣己祖乙爽」が一例ある一方、「妣己妣庚祖乙爽」が一例あり、第三期の期間内に再び妣庚が祖乙の配とされたことが分かるが、第三・五期は武丁以前の先王に対する祭祀例数の均質化が見られることから」、「単一系統による継承を想定した世系として形式化されたと考えられる」

 

 「一方c群については、一二間期以降の祭祀では重視されることは全くなく、b群のように配妣を含む継承関係に対する解釈の特徴や変化もなく、世系上でも実際の王統上でも完全に傍系に位置する」が、「それにも関わらず武丁が「父某」と呼称していることは、武丁期における王統の統合の傍証とすることができ、何らかの形の政治的統合があり、その結果、本来別系統であった祭祀対象を「父」として殷王世系に取り込んだものと考えられる」

 

 「なお、a群によるb群c群の統合順は、第一期の王卜辞のうち、𠂤組には前述のように羌甲と南庚の祭祀が無く、賓組では羌甲と南庚が祀られていることから、𠂤組は賓組よりも早期に当たると考えられる」

 

 「つまり、b群の統合はc群よりも遅く、𠂤組もしくはその前の段階でc群が統合され、賓組または𠂤組と賓組の間の段階でb群が統合されたのである」

 

(8)

 

(a)羌甲・南庚は「別系統」ではない

 

 落合論文3がいう祖乙以降のa群、b群、c群の先王のうち、a群の羌甲と南庚が「「近い先王」として選択的に祭祀されていた」のは、「甲骨文の誕生と漢語の形成について(71)」で述べたように、「彼らが武丁の時代になってから先王祭祀の対象とされたことに起因しており、相互に父系の「血縁関係」があったからではない」

 

 「また、羌甲と南庚が武丁の時代になってから先王祭祀の対象とされたのは、武丁の「父」の世代の先王である盤庚の「祖」に相当する先王として南庚が、同じく象甲(陽甲)の「祖」に相当する先王として羌甲が、それぞれ重視されたからであったと考えられる」

 

 落合論文3は、「羌甲・南庚が別系統の祭祀対象として認識され」ていたというが、この「別系統」というのも意味が良く分からない。

 

 落合論文3の「別系統」を素直に解釈すると、羌甲・南庚は先王ではないということになるか、または、殷王が併存していたということになるが、そんなことがいえるような根拠は何もないのである。

 

(b)祖乙の配の妣庚と羌甲の配の妣庚は別人

 

 落合論文3は、「第一期には「高妣己」「高妣庚」の称謂があり、第三・五期の祭祀からこの妣己・妣庚は祖乙の配妣と考えられる」が、「第一期においては妣己とa群、妣庚とb群が近い関係にあると認識されていた」といい、「第二・三期には羌甲の配妲に妣庚が祀られていることから、祖乙の配であった妣庚が羌甲の配とされ、この部分の世系が改編されたことが推測でき」る、という。

 

 ここでの落合論文3の議論は、「祖乙の配妣」の妣庚と「羌甲の配」の妣庚が同一人物であることを前提としているが、妣庚とは庚支族出身の妣ということであって固有名詞ではないので、祖乙と羌甲がともに庚支族の別人の女性を配妣としていたということであった、と考えられる。

 

 なお、張光直の「中国青銅器時代(平凡社)」(以下「張論文」という)によれば、羌甲が直系王とされていることと二大支族連合の間での王位の継承順から、羌甲は祖辛の「子」であったという。

 

 そうであれば、祖乙と羌甲は二世代離れていることになるので、彼らが同一人物の妣庚をともに配妣とすることはあり得ないと考えられる。

 

 落合論文3は、「祖乙の配であった妣庚が羌甲の配とされ、この部分の世系が改編されたことが推測でき」る、というが、「祖乙の配であった妣庚」と「羌甲の配とされ」た妣庚が別人であったとするならば、「この部分の世系が改編された」などという「推測」を行う必要はなくなる。

 

 落合論文3は、要するに、殷王世系はその時々で自由に改編が可能であったというが、それはあまりにも恣意的な操作主義である。

 

(c)a群・b群・c群は世代の違い

 

 落合論文3は、a群・b群・c群の関係について、「a群が武丁から見た直系として認識されていた」が、「b群・c群については」、「「直系王」として認識はされていないが、b群とc群の間での同版は少なく、互いに独立した系統であった」といい、「c群はすべて親族称謂の「父某」で称され、武丁との血縁関係で記すのに対し、b群は固有称謂で称され血縁関係を明らかにしないことも、b群とc群が異なる存在であることを示している」という。

 

 このように落合論文3は、「a群が武丁から見た直系」であるが、b群とc群は「互いに独立した系統であ」り、「b群とc群が異なる存在である」というが、こうした「区分」とは、「甲骨文の誕生と漢語の形成について(70)」で述べたように、c群が「武丁を本人として、その一世代前の世代の殷王を「父」と呼」んだもので、a群が武丁の「「父」の代の支族ごとの先代の王を基本的に「祖」と呼」んだもので、「甲骨文の誕生と漢語の形成について(71)」で述べたように、b群が「武丁の「父」の世代の先王である盤庚の「祖」に相当する先王として南庚が、同じく象甲(陽甲)の「祖」に相当する先王として羌甲が、それぞれ重視された」ので、「武丁の時代になってから先王祭祀の対象とされた」ものであった、と考えられる。

 

 そうすると、a群、b群、c群の区分は、基本的に同一の系譜の中の世代の違いであって、それらを「互いに独立した系統であ」ったとか、「異なる存在であ」ったなどということはできない、と考えられる。

 

 そして、a群、b群、c群の区分を系譜の分断とする落合論文3の主張は、分断された系譜が自由に統合され得たという、恣意的な操作主義であると考えられる。

 

(d)父某は世代を表している

 

 落合論文3は、「c群については」、「一二間期以降の祭祀では重視されることは全くなく」、「世系上でも実際の王統上でも完全に傍系に位置する」が、「それにも関わらず武丁が「父某」と呼称していることは、武丁期における王統の統合の傍証とすることができ、何らかの形の政治的統合があり、その結果、本来別系統であった祭祀対象を「父」として殷王世系に取り込んだものと考えられる」という。

 

 しかし、仮にc群が「一二間期以降の祭祀では重視されることは全くなく」、「世系上でも実際の王統上でも完全に傍系に位置する」のは彼らが傍系王であったからであり、「それにも関わらず武丁が「父某」と呼称している」のは、彼らが殷の王族内の武丁の「父」の世代の人物であったからであり、殷代の「父」とは、自分の実父だけでなく、殷代では自分の一つ上の世代の親族の人物をみな「父」と呼んだのであるから、それは何か特別なものではなかったと考えられる。

 

 落合論文3が、武丁がc群を「「父某」と呼称していることは、武丁期における王統の統合の傍証とすることができ」るというのは、世代を区別したものであった「父某」の呼称に対する過剰な意味付けであり、また、そうした主張を「根拠」として、「本来別系統であった祭祀対象を「父」として殷王世系に取り込んだ」ということには、「根拠」など何もないと考えられる。

 

 落合論文3の主張は、ここでも、「別系統」の系譜が自由に統合され得たという、恣意的な操作主義であると考えられる。

 

 なお、落合論文3の「a群によるb群c群の統合順」の議論も、それぞれ独立した系譜の統合などはなかったので、無意味な議論であると考えられる。

 

(9)実際の殷王統(武丁以後)

 

(a)甲骨文の世系上には現れない実際の王統

 

 「武丁以後は甲骨文と同時期となるが、実際の王統は甲骨文の世系上には現れず、祭祀対象からの推測も困難である」

「なぜならば、祖乙~小乙については第一期に世系が未成立であったために先王への認識を取り出すことが容易であったが、武丁以後については、既成の世系に追加あるいは多少の変化を加えるだけで継承されていったために、かえって実際の王統を読みとることが難しいからである」

 

(b)武丁の配妣

 

 「一二間期には世系上の母輩が祀られることはなく、武丁の配妣は祀られていない」が、「第二期になると「母辛」が祀られ、一二間期に武丁配妣が見えないことから、この「母辛」は第一二期の王である祖庚・祖甲の母として祀られていたと考えられる」

 

 「第三期には武丁の配妣に「妣辛」と並び「妣癸」が祀られるが、「妣辛」は第二期に見える「母辛」にあたることから、「妣癸」はこれまで祭祀のなかった祖己の母として祀られたことになる」

 

 「第三期には祖甲配妣の妣戊(母戊)が祀られていることから、世系上の祭祀では第三期の王は祖甲を継承したことになっているが、それにも関わらず傍系の配妣を祀っていることから、祖己(一二間期)と康丁・武乙(第三期)は近い関係にあったと考えられる」

 

 「第五期にも武丁の配に妣辛妣癸が見えるが第五期は世系の単系化の他、武丁以後は直系にのみ「丁祭」が行われ傍系と区別されていることから、具体的な血縁関係は認識されず単に配妣として祀られたと考えられる」

 

(c)小屯南地甲骨の貞人組

 

 「小屯南地甲骨の貞人組は、第一期王卜辞の𠂤組・一二間期の歴組・第三期の無名組に限られ、この三者が近い関係にあったと考えられ」、「貞人は一般に「期」が異なった「組」には見えないが、貞人「大」のみが第二期出組無周祭群と第三期何組に見え」、「第二期の出組周祭群と第五期黄組は、周祭を行っているなど様式が類似しており、近い関係にあったと推測できる」

 

 「第三期無名組と第五期黄組は祭祀方法や世系認識が異なり、また小屯南地出土には黄組が存在しないことから、無名組と黄組は繋がらないと考えられる」 

 

 「従って、「無名黄間組」は無名組の一部が文武丁代まで残存したものと考えられる」

「白組-歴組-無名組(「𠂤組系」とする)と出組周祭群-黄組(「周祭系」とする)が互いに排他の関係にあり、賓組-出組無周祭群-何組(「賓組系」とする)が両者に参加するという構造を見ることができる」

 

 「なお、賓組と出組無周祭群については継承関係が直接には見られないが、世系認識や」「貞人組の特徴が近く、同系統の勢力とすることができる」

 

 「また、各系統内部は近い勢力であることが確かなだけで、各系統内部の殷王が直系血縁を有するかどうかは明らかでない」

 

(10)「丁乙」制

 

(a)武丁の配妣は祖己、祖庚、祖甲の母ではない

 

 落合論文3は、「妣辛(母辛)」と「妣癸」が武丁の配妣であり、「妣癸」が祖己の「母」で、「妣辛(母辛)」が祖庚と祖甲の「母」であったというが、こうした主張は、祖己、祖庚、祖甲が武丁の実の子であり、実の兄弟であったということを前提としている。

 

 そうすると、落合論文3の主張では、「丁」「己」「庚」「甲」などの名は、殷の王族の支族の名などではなく、殷王が任意に付けた名であるということになり、殷王の名が殷王ごとに異なることや殷王の名に世代ごと規則性があることの理由を説明できなくなる。

 

 こうした、殷王の名が殷王ごとに異なることや殷王の名に世代ごと規則性があることの理由を説明したのが、張論文の「丁乙制」の議論であったが、そこでは、例えば、己支族に嫁いだ武丁の姉妹Aの子が祖己で、庚支族に嫁いだ武丁の姉妹Bの子が祖庚で、甲支族に嫁いだ武丁の姉妹Cの子が祖甲であったとされており、そうすると、殷王の王位は武丁から姉妹の子、つまり女系の甥へ継承され、それは丁支族から己支族への殷王の王位の移動であったと考えられる。

 

 そして、姉妹Aの子の祖己の姉妹に子がいなかったときには、姉妹Bの子の祖庚に王位が移動し、姉妹Bの子の祖庚の姉妹に子がいなかったときには、姉妹Cの子の祖甲に王位が移動し、その後、祖甲の姉妹の子の康丁が王位を継承したと考えられる。

 

 そうすると、祖己、祖庚、祖甲の母は武丁の姉妹であり、「妣辛(母辛)」と「妣癸」が武丁の配妣であったとすると、それらの武丁の妻と祖己、祖庚、祖甲の母は別人であったと考え得られる。

 

 なお、武丁の姉妹が嫁いだのが「己」「庚」「甲」支族で、武丁が「丁」支族の出自であったとすると、武丁の配妣はそれらの支族以外の「辛」「癸」支族となり、「庚」「辛」支族がどちらの二大支族連合とも婚姻関係を結べる「中立」氏族であったとすると、丁支族の出自の武丁の姉妹はみな「甲」「乙」の支族連合に嫁いでおり、武丁の配妣は「丙」「丁」支族の出自であったことになる。

 

 そうすると、武丁の婚姻関係や武丁の姉妹の婚姻関係は、二大支族連合間の世代ごとの殷王の王位の移動の制度を反映した規則性を示しているのであると考えられる。

 

 そして、そうであるならば、武丁の配妣の妣辛(母辛)」と「妣癸」が、祖己や祖庚、祖甲の母であったということを前提とした落合論文3の議論は、成り立つ余地はないと考えられる。

 

(b)甲骨文の世系上には現れない実際の王統はなかった

 

 落合論文3は「甲骨文の世系上には現れない実際の王統」が存在していたというが、武丁の配妣の妣辛(母辛)」と「妣癸」が、祖己や祖庚、祖甲の母であったが、卜辞の時期によって、そうした関係が卜辞の殷王世系に反映したりしなかったりしたという落合論文3の議論も、武丁の配妣の妣辛(母辛)」と「妣癸」が、祖己や祖庚、祖甲の母であったという前提が成り立たないので、同様に成り立たないと考えられる。

 

(c)殷王と小屯南地甲骨の貞人組

 

 落合論文3は、「小屯南地甲骨の貞人組」と殷王との関係について、「𠂤組-歴組-無名組(「𠂤組系」とする)と出組周祭群-黄組(「周祭系」とする)が互いに排他の関係にあり、賓組-出組無周祭群-何組(「賓組系」とする)が両者に参加するという構造」があるという。

 

 そして、賓組が武丁に対応し、歴組が祖己に対応し、出組周祭群が祖庚、祖甲に対応し、無名組が庚丁、武乙に対応し、黄組が文武丁、帝辛に対応するという。

 

 そうすると、落合論文3によれば、祖己、庚丁、武乙が「𠂤組系」と対応し、武丁が「賓組系」と対応し、文武丁、帝辛が「周祭系」と対応することになる。

 

 そして、落合論文3は、P104の図やP106の表4-3「実際の殷王統」によれば、これらの「貞人組」および「貞人組」の系列を、殷王の出身母体であったと考えているようである。

 

 落合論文3が、「小屯南地甲骨の貞人組」の「各系統内部は近い勢力であることが確かなだけで、各系統内部の殷王が直系血縁を有するかどうかは明らかでない」というのは、例えば、祖己、庚丁、武乙が相互に血縁関係を有していたのかどうかは分からないが、同じ集団から擁立された殷王であったということを言いたいのだと考えられる。

 

 しかし、こうした落合論文3の殷王世系についての考え方は、極論すれば、「史記」殷本紀の殷王系譜や卜辞の殷王系譜を全面否定するものであるが、その「根拠」は明らかではない。

 

 だから、「小屯南地甲骨の貞人組」の「各系統内部」の存在ではなく、殷王によって、または二大支族連合によって、卜占に使用する「小屯南地甲骨の貞人組」が異なっていただけであり、「小屯南地甲骨の貞人組」が誰を殷王にするのかなどの権限を持っていたわけではない、と考えられる。

 

 そして、落合論文3のこうした主張は、「史記」殷本紀の殷王系譜や卜辞の殷王系譜の「根拠」なき無視・軽視であり、殷王の系譜がその時々の事情で地涌に変更が可能であったという恣意的な操作主義に起因しているもので、従うことはできない。