甲骨文の誕生と漢語の形成について(74) | 気まぐれな梟

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 今日は、鬼束ちひろの「シンドローム」から、「碧の方舟」を聞いている。

 

 落合淳思の「殷王世系研究(立命館東洋史学会)」(以下「落合論文3」という)は殷王世系の成立と実際の王統について以下のようにいう。

 

(3)世系の成立(再編)時期

 

(a)象甲・般庚・小辛・小乙への祭祀は同列

 

 「第一期では、祖乙以降には継承関係を示した祭祀を行わないが、これは父輩の祭祀も同様であり、第一期には父輩の王が四人いる(象甲・般庚・小辛・小乙)が、いずれが直系かを明確にしないまま祀っている」

 

 「しかし、このうち例数の多さと「母庚」の祭祀から、第一期にも小乙が直系の父であると認識されていたと考えられる」ので、「武丁自身は小乙・母庚を直系とし」た「関係だったが、形式的にはすべての父を直系・傍系の区別なく」「祀っていたのである」

 

 「もし、小乙以前に王統が統合され、唯一の王統で武丁が小乙を継いだのならば、武丁が小乙を直系とすることに支障はないはずであり、従って第一期祭祀からは、武丁が王統を統合し、統合した対象を世系上では小乙と同列の「父」として扱ったために、小乙が直系であることを明確にしなかったと判断できる」

 

(b)祭祀上で重要視された武丁

 

 「祖乙から武丁までの先王のうち最も多く祀られたのは、一二間期は父丁、第二期も同じく父丁であり、第三期は祖丁だが、第三期の「祖丁」は大半が武丁を指す称謂と考えられる」

 

 「第五期は武乙であり、武丁は「祖丁」を含めても武乙より少ないが、武丁は第五期に近親の直系王に対して行われる「丁」祭の先頭の王である」

 

 「このように、武丁はいずれの時期も祭祀上で重要視されており、武丁による王統の統合を支持している」

 

(4)王統の分裂と統合はなかった

 

(a)直系の明示は不要 

 

 落合論文3は「もし、小乙以前に王統が統合され、唯一の王統で武丁が小乙を継いだのならば、武丁が小乙を直系とすることに支障はないはずであ」るというが、直系合祀とは有力な「直系」の先王をまとめて合祀するもので、それをすることで現在の王が「直系」であることを明示しようとしたものなどではない。

 

 現在の王の権威と権力は先王の正統な継承者であることに依拠しているのであって、それは先王が「傍系」か「直系」かに関わらない。

 

 遠い過去の先王への祭祀では「直系」の先王のうちで有力なものへの祭祀が重視されたが、それは先王への祭祀が、現王への「現世利益」のために行われたものであったので、全ての先王を祭祀するのではなく、その時点で「現世利益」が最も得られ得そうな先王を選択して、それらを合祀するという形で行われたのであった。

 

 そして、直近の先王に対しては、彼らが現王と身近な存在であったので、彼らからの現王への「現世利益」も大きくなると考えたので、合祀せずに個別に祭祀したのである。

 

 そうすると、武丁が四人の父輩の王(象甲・般庚・小辛・小乙)を、「いずれが直系かを明確にしないまま祀っている」というのは、彼らを身近な先王として重視して個別に祭祀していたためであり、小乙を現王の「直系」の「父」であると明示できなかったからではなかった、と考えられる。

 

 また、張光直の「中国青銅時代(平凡社)」(以下「張論文」という)によれば、殷王の王位の継承は、先王の姉妹の子が現王として即位し、殷の王族の二大支族連合の間で交互に王位を継承するという制度によって行われたという。

 

 そうすると、現王と先王の間には仮に「直系」継承ではあっても父系の血縁関係などはなく、先王が「直系」の王であるかどうかは、現王の権威や権力に関わらないものであったと考えられる。

 

 落合論文3が「直系」に拘るのは、殷王世系の復元という目的があるからであるのだろうが、そうした問題意識は後世の学者が持つものであって、即位した殷王が持つものではなかったのである。

 

 なお、落合論文3の「武丁が王統を統合し、統合した対象を世系上では小乙と同列の「父」として扱ったために、小乙が直系であることを明確にしなかった」という「判断」は、直系合祀に含まれていない→直系が明示できない→王統が分裂していた、という根拠のない憶測に基づくものであるとともに、殷王は自らの「直系」の先王を必ず明示しなくてはいけないという、これまた根拠のない思い込みによるものでもあり、従えない。

 

(b)躍進による殷王朝の中興

 

 落合論文3は「武丁はいずれの時期も祭祀上で重要視されており、武丁による王統の統合を支持している」というが、「武丁による王統の統合」とは王統の分裂を前提としており、そうした王統の分裂が直近の先王たち直系合祀に含まれていないことから推測されたものである。

 

 しかし、前述したようにそうした推測は成り立たないので、武丁が「いずれの時期も祭祀上で重要視されて」いるのは、「武丁による王統の統合」などとは関係がない。

 

 武丁が「いずれの時期も祭祀上で重要視されて」いるのは、西方から伝播した二輪馬車の戦車部隊が武丁の時代に実用化され、強化された軍事力によって殷王朝が中興したからであり、また、同じく西方から伝播した表音文字の情報を参考にして、武丁の時代に甲骨文字が誕生したからであった。

 

 こうした武丁の時代の文武両道での躍進の故に、武丁は後世「高祖」と称され、侯家荘の殷王の墓域には武丁の家族の区画が特別に設定されたのである。

 

 落合論文3は、引き続き以下のようにいう。

 

(5)実際の殷王統(上甲~祖乙)

 

(a)祖乙以前の傍系王

 

 殷世系の早期「部分の直系王については、第一期から第五期に至るまで変化が全くな」く、「第一期の段階で世系として完成していたのであり、従って、甲骨文における世系や祭法の変遷過程から実際の王統を推測することができ」ず、「甲骨文からは世系として構成された過程を知ることは不可能である」

 

 「傍系については」、「第一期の祭祀にはその名がほとんど見えず、祀られている卜丙・小甲も、先王としての認識が未確立である」ので、「祖乙以前の傍系王は、甲骨文の第一期以降に世系として構成されていったものであり、その過程を甲骨文から分析することが可能である」

 

(b)諸神

 

 「第一期などのいわゆる「旧派」の時期には河・岳といった自然神が見られ、これらは風雨や穀物の実りに関係し、あるいは祭祀対象となり、あるいは王に「祟」する存在となっている」

 

 「これに近いものに王亥・兕・蘷・伊尹・咸戊・学戊などがあり、これらは「自然神」と分類されることが多いが、気象や収穫に影響する記述は少なく、主に祭祀対象となるか、王に「祟」する存在である」

 

 「王亥や蘷は文献に見える上甲以前の先公に比定されることもあったが、第一期の直系合祀では上甲が祭祀上の始祖となっており、それ以前の祖先神は存在しない」

 

 「また伊尹(第一期には「黄尹」の称謂が多い)は文献では湯王(大乙)の相とされるが、第一期の同版関係からは伊尹と大乙に特仁強いつながりは見られない」

 

 「つまり王亥や伊尹などは、甲骨文の祭祀に取り込まれてはいるが、本来は殷王世系とは別系統の祭祀対象なのであり、殷王世系とは別系統であるために、同版に世系上の特定の時期の先王が多いということはなく、第一期にはいずれも早期から後期まで平均的に同版になっている」

 

 「従って、これら王亥・伊尹などは「先王」ではなく、実りや風雨に影響する河・岳のような「自然神」ともやや異なる存在であるので、暫く「諸神」と呼称しておく」

 

 なお、「先王については世系上で近い王との同版が多く、同版関係から世系上の大まかな位置が判断できる」

 

(c)卜丙と小甲

 

 「第一期に見える卜丙は「先王」よりもこうした「諸神」に近い特徴を持っており、祖乙より前の先王が王に「祟」する記述が少ないのに対し、卜丙の「祟」が見え、また世系の早期から後期まで平均的に同版になっている」ので、「第一期においては卜丙は「諸神」もしくは「先王以外の祖先神」として認識され、「先王」としては認識されていなかったのであり、その後殷王世系に取り込まれていったのである」

 

 「小甲についても、先王との同版や先王特有の記述には関連せず、また例数も少ないことから、第一期の段階では卜丙と同じく「先王」として認識されていなかったと考えられる」

 

 「なお第一期には、卜丙・小甲以外にも賓組に「竜甲」「掃壬」、午組に「内乙」「卜戊」「天癸」などの固有称謂があるが、その後の祭祀には見えないことから、世系へ取り込まれなかったと考えられる」

 

(d)傍系王の系譜への追加

 

 「このように、祖乙以前の[傍系王]は、第一期以後に追加され(殷王世系に繋げられ)たものであり、実在の王として考えることはできない」

 

 「なお、甲骨文の傍系王の付加には、すべて祖乙以前に対して行われているという共通点があり、逆に祖乙以後の傍系王は第一期にすべて見え、それ以後の付加は行われていないが、これは、既定部分であった祖乙以前への付加が世系の操作としては容易であり、そのため「王」として付加することは祖乙以前に対して行われたのであり、逆に祖乙以後は」、「混乱していたものを一つにまとめた世系であるため、部分的な付加であっても世系全体の解釈に影響するため付加が難しかったと考えられる」

 

(6)傍系王は実在の先王であった

 

(a)先王と祖先神

 

 落合論文3は、「王亥・伊尹などは「先王」ではなく」、「「自然神」ともやや異なる存在であるので、「「諸神」と呼称しておく」といい、卜丙は「「諸神」もしくは「先王以外の祖先神」として認識されていた」という。

 

 白川静の「中国の神話(中公文庫 中央公論新社)」(以下「白川論文」という)によれば、殷王系譜の先公第二系の諸王は初期の殷王朝の宗廟の配置を計負荷したものであったという。

 

 また、この「甲骨文の誕生と漢語の形成について」で以前指摘したように、上甲を祖とする殷王系譜は湯王天乙の時代に初めて形成されたものであるので、白川論文が指摘するように殷王系譜の先公第二系の諸王が架空の存在であったとすると、実在の先王は湯王天乙に始まると考えられる。

 

 殷人が旧黄河流域を南下して漳河流域に定住して「商」を建国したとすると、契丹やモンゴルなどの遊牧民の祖先伝承と系譜伝承から、殷人も湯王天乙の時代に殷王系譜が形成される以前から、祖先神に始まる系譜を保持していたと考えられる。

 

 しかし、そうした祖先神の伝承と祖先神に始まる系譜は、新興勢力であった「乙」支族出自の湯王天乙が殷人の王となって殷王朝の開祖となったことで一度リセットされ、新たに湯王天乙に始まる系譜が形成されていったのだと考えられる。

 

 そうすると、「史記」殷本紀の殷王系譜や卜辞の殷王系譜は、殷人が保持してきた本来の祖先神の伝承や祖先神から始まる系譜のほんの一部分であったのであり、その殷王系譜に加えられなかった「祖先神」のひとつが王亥であったと考えられる。

 

 張論文が指摘しているように、王亥には牛の牧畜の開始に関わる伝承があり、かつて殷人の文化英雄としての「祖先神」として構想された痕跡がある。

 

 また、伊尹についても、伊河流域の洪水神の伝承と夏の桀王から離反して湯王天乙を補佐したという伝承、殷王の大甲を一時的に追放したという伝承を持っているので、伊尹は伊河流域の支配者で湯王天乙の殷王朝の創設の効臣であったと考えられる。

 

 落合論文3は「第一期の同版関係からは伊尹と大乙に特に強いつながりは見られない」というが、伊尹が殷王族の二大支族連合の「丁」支族か「丙」支族に属したとすると、伊尹と殷王との関係は大乙と伊尹の関係だけに留まらないので、他の殷王も伊尹を祭祀したとすれば、「伊尹と大乙に特に強いつながりは見られな」くなるのであり、そのことは、事実としての伊尹と大乙の「特に強いつながり」を否定するものではない。

 

 そうすると、落合論文3が列挙している王亥や伊尹以外の「兕・蘷・咸戊・学戊」などの「諸神」や、第一期の卜辞にみえる、賓組の「竜甲」「掃壬」、午組の「内乙」「卜戊」「天癸」などの固有称謂も、その背後に何らかの伝承と系譜を有していた初期の殷人の王や祖先神であった友考えられる。

 

 「史記」殷本紀の殷王系譜や卜辞の殷王系譜が既存の祖先神の伝承と祖先神に起源する系譜を否定して、湯王天乙によって新たに形成されたものであったとすると、その系譜に加えられているということは、「先王」として公認されているということであり、傍系王であることやその祭祀内容を理由として、系譜に記載されている先王に対して、「「諸神」もしくは「先王以外の祖先神」として認識され、「先王」としては認識されていなかった」とか、「実在の王として考えることはできない」ということはできないと考えられる。

 

(b)傍系王の追加

 

 落合論文3は、卜丙と小甲の祭祀内容が他の先王と異なっているということを理由として、彼らは当初は「先王」とはされておらず、その後、殷王系譜に追加されたのだという。

 

 しかし、先王が傍系か直系王かでそれらに対する祭祀内容が異なることはありうることである。

 

 「史記」殷本紀の殷王系譜や卜辞の殷王系譜では天乙から祖乙の間に、「史記」殷本紀の殷王系譜では外丙、中壬、沃丁、小甲、雍己、中丁、外壬の傍系王が、卜辞の殷王系譜でも外丙、小甲、雍己、卜壬、戔甲の傍系王がいたことになっているが、卜辞の第一期で再試されているのは外丙と小甲だけであり、これらの先王が実在したとすると、外丙と小甲は、それらの傍系王から特に選ばれて先王の祭祀を受けたと考えられる。

 

 落合論文3は、それらの傍系王は、本来は実在の殷王ではなかったが、後から殷王の系譜に地位貸されたのであるという。

 

 しかし、張論文が指摘するように、殷王の王位が殷の王族の二大支族連合の間で女系の血縁関係を媒介として継承されていったのだとすると、実在していない殷王を系譜に加えることは、そうした殷王の王位の継承システムを混乱させることになる。

 

 そうすると、殷王の系譜には記載されてはいない傍系王が何人もいて、その中から、時代によって祭祀対象位となる傍系王が選抜されることで、その傍系王が最終的に殷王系譜に記載されることになったのだと考えられる。

 

 だから、落合論文3の、時代の推移とともに実在しなかった傍系王が追加されていくという主張は、結局は、系譜はいかようにでも操作が可能であるという、系譜の操作主義であり、従えない。

 

 なお、落合論文3の、傍系王の追加は「既定部分であった祖乙以前への付加が世系の操作としては容易であり」、「祖乙以後は」、「混乱していたものを一つにまとめた世系であるため、部分的な付加であっても世系全体の解釈に影響するため付加が難しかった」という主張は、何を言っているのかよくわからない。

 

 落合論文3は、「既定部分であった祖乙以前への付加が世系の操作としては容易であった」というが、日本の古代天皇系譜で臣姓氏族の始祖の出自が後世に追加・架上された神武天皇から開化天皇の間に集中しているように、既存の系譜への追加よりも新たに創作された系譜への追加の方が容易なことである。

 

 だから、落合論文3が、祖乙以後の系譜が異なった系譜を統合して創作されたものであったとするならば、傍系王の追加があったとすれば、祖乙以後の系譜に追加されたはずなのである。

 

 傍系王の追加は「既定部分であった祖乙以前への付加が世系の操作としては容易であ」ったということはなく、そうすると、祖乙以前の傍系王は、実在しない架空の殷王が後世追加されたという、落合論文3の主張は成り立たないと考えられる。