多氏の出自について(6) | 気まぐれな梟

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 今日は、石川優子の「シンデレラ・サマー」を聞いている。


 阿部臣から初期に分岐したと考えられる膳臣について、 加納久の「日本古代の国家と都城(東京大学出版会)」では、おおむね以下のようにいう。


(1)若狭国と膳臣


 若狭国の海岸は、リアス式海岸で、小さな半島がいくつも海に突き出ていて、そのそばには入り江が多数あり、また、対馬暖流の影響により、極めて温暖な土地柄で、田野は狭少である海の幸に恵まれている。


 「延喜式」で若狭国が貢進することになっている調などの品物は、その多くが海産物で占められ、豊富な魚介類及びその加工物である。


 これらの海産物は、琵琶湖の水運を利用すれば、京への運送はいたって便利であり、「延喜式」での京への行程日数は、上り3日、下り2日の短期間となっている。


 このような事情から、若狭国は志摩国、紀伊国、淡路国とともに、天皇や神の供御物である御贄(または大贄)を恒常的に貢進するべき国として指定されていた。


 木簡史料によると、若狭国からの貢納物は、遠敷郡の青郷以外の郷や大飯郡からは塩が貢納されており、御贄を貢納するのは遠敷郡青郷のみであった。


 越前国の敦賀は、大化前代には若狭国と同じ地域であり、令制で若狭国から分離したと考えらえ、「角鹿の塩」とは、若狭国の塩であった、と考えられる。


 奈良時代の製塩遺跡は、若狭国の海岸一帯にきわめて濃密に分布している。


 このように、若狭国は、紀伊国、備前国、周防国、尾張国とともに、有数の塩の産出国であった。


 若狭国の国造は、「先代旧事本紀」の「国造本紀」では、允恭天皇の時代に「膳臣の祖の佐臼米命の児の荒磯命」が国造とされた、とされているが、日本書紀の履中紀には、膳臣余磯は、稚桜部臣とされた、と書かれている。


 この「稚桜」は、若狭国の「若狭」から構想された名前であると考えられるが、若狭国は膳臣の重要な拠点であったと考えられる。


 若狭国の古代氏族の分布の特徴は、おおむね以下のとおりである。


 ①屯倉に係わる三家人や三家首が、多数居住している。


 これらの三家人や三家首は、渡来系氏族であり、その多くは製塩に係わる屯倉に係わっており、三家首は首姓を持ち、三家人たちを使役してそうした屯倉を現地で管掌して人たちであった。


 屯倉の現地管掌氏族には、例えば、大戸屯倉の現地鑑賞者であった大戸首などのように、その屯倉の固有名詞を付けた氏族もいるが、そうした固有名詞を付けない三家首は、屯倉の固有名詞を付けた管掌氏族よりは、新しく設定された氏族であると考えられる。


 その時期は、6世紀末から7世紀初頭であったと考えられる。


 なお、膳臣の若狭国への進出は、こうした屯倉の設定に先行していたと考えられる。


 ②秦氏が分布している。


 若狭国の秦氏の分布は、若狭国遠敷郡に秦人が、若狭国三方郡に秦勝が、居住している。


 ③若狭国三方郡には、別君と粟田・粟田部がいるが、若狭国遠敷郡にはいない。


 別氏は、畿内を中心としてその周辺及び西の方の国々に分布しているが、相模国を除いて東国には分布していない。


 こうした分布の特徴は、県主や阿比古などの古い形の姓と共通するので、若狭国の別君は、古くからの在地豪族であると考えられる。


 粟田・粟田部は、和爾氏を構成する粟田臣の部民であった。


 ④膳臣(稚桜部臣)の本拠地


 若狭国で最も広い平野部は北川流域の上手であり、古墳時代前期後半の前方後円墳が集中しているところであるが、この若狭国遠敷郡に三家里がある。


 膳臣の本拠地は、屯倉に係わる、三家里付近であったと考えられる。


(2)志摩国と膳臣


 志摩国は、若狭国と同様に、天皇の御食料を貢ぐ御食国であった。


 AD729年(神亀6年)の「志摩国輸庸帳」によると、志摩国で調庸の負担義務を有する21歳から65歳までの成人男子の課丁数は1,062人であり、1戸に課丁が平均して3人いたとすると、戸数は約350戸、1郷が50戸とすると、約7郷分の人口であった。


 この人口に対して、耕作すべき田は極めて少なく、「和名抄」に書かれた国ごとの田数は、志摩国が最も少なく、124町94段とされているので、志摩国内の田では口分田を規定通りに班給できず、伊勢国と尾張国の田を志摩国の農民の口分田として班給していた。


 この場合は、班給された口分田を耕作したのは伊勢国や尾張国の人で、志摩国の人は、そこから一定割合を給付されたと考えられる。


 志摩国の国司は、膳臣の後裔の高橋朝臣が世襲した。


 天皇の食膳奉仕に係わる役所である内膳司の長官である奉膳の定員は2名で、次官である判官の定員は6にんであったが、それは、令制以前から、天皇の食膳奉仕は、膳臣と安曇連の2氏が行っていたという体制を継承している。

 

 高橋朝臣と安曇連は、食膳奉仕の職務をめぐって争い、高橋朝臣は、提出した「高橋氏文」が認められ、AD792年(延暦11年)に安曇連は失脚し、以降、奉膳の職は高橋朝臣が世襲することとなった。


 志摩国は内膳司が領有する国であり、高橋朝臣は、内膳司の奉膳と志摩国の国司を兼務して世襲していった。


 「新撰姓氏録」によると、膳臣が高橋朝臣とされたのは、AD683年(天武12年)であった。


(3)膳大伴部


 志摩国に関係する木簡史料には、大伴部の人名が多い。


 大伴部は、西国よりも東国に多く、相模国、武蔵国、下総国、美濃国、上野国、下野国、陸奥国などに濃密に分布しているが、志摩国にも居住していたと考えられる。


 前述の「高橋氏文」によると、膳臣の始祖伝承では、景行天皇の東国巡幸の時に、安房国で蛤を調理して、天皇に献上したので、膳臣を賜姓された、とされている。


 「高橋氏文」によると、景行天皇は、「諸の氏人、東方の国造十二氏の枕子(稚児)を各一人づつ進まつらせ」て、膳臣に賜った、とされている。


 これらから、東国と膳臣の関係は非常に深いと考えられる。


 武蔵国造の地族には、膳大伴部を称した人がおり、膳臣が率いる膳夫(膳部)は、主として東国の国造の指定によって編成されていたと考えられる。


 ここから、東国の大伴部のかなりの部分は、膳大伴部であり、膳臣n係わるものであったと考えられる。


 膳臣の後裔の安曇連は、膳臣とは反対に、西国に展開しており、大和朝廷での天皇の食膳奉仕の体制、西国を安曇連が、東国を膳臣が、それぞれ分担して行うものであったと考えられる。


 なお、膳臣における若狭国や志摩国に当たるのが、安曇連における淡路国であったと考えられ、淡路国の国司は、藤原仲麻呂の乱のころまで、安曇連が世襲していた。


(4)膳臣の本拠地


 阿部臣の本拠地は、阿部寺の付近の大和国十市郡安部村であったが、その近くに膳臣に係わる膳夫寺があり、その所在地の、現奈良県樫原市膳夫町の付近が、膳臣の本拠地であったと考えられる。


 以上のような狩野納論文の指摘から、膳臣の東国進出は、阿部臣が東国進出して組織していった現地の豪族たちを、阿部氏から分岐した膳臣が、分割して組織して行くという形で行われたと考えられる。


 だから、膳臣の職掌に係わる若狭国の三家人や三家首は、阿部氏の同族集団に参加しているのである。


 また、多氏の組織していった「大部」の一部が分化して、阿部臣の「丈部」や膳臣の「膳部」「膳大伴部」となっていったと考えられる。