多氏の出自について(7) | 気まぐれな梟

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 今日は、MONGOL800の「小さな恋のうた」を聞いている。


 多氏の東国への進出過程を考えてみる。


 宝賀寿男の「古代氏族の研究③阿部氏(青垣出版)」(以下「宝賀論文」という)によると、多氏の東国への進出過程では、伊勢国北部と尾張国西部が重要な中継地となっている。


(1)多氏は大和国から伊勢国を経由して東国に来住した。


 宝賀論文では、おおむね以下のようにいう。

 古事記の神八井耳命の系譜では、その子孫として、意富臣、科野国造、道奥石城国造、常陸仲国造、長狭国造、伊勢舟木直、尾張丹羽臣、島田臣を挙げる。 


 伊勢舟木直に係わる舟木の地名は、伊勢国では、多気郡に舟木村があり、朝明郡の芦田郷戸主に舟木臣東君が見え、南北朝期には、一志郡や朝明郡に武士の舟木氏が見える。


 美濃国では本巣郡に、尾張国では山田郡に、遠江国では榛原郡に、下総国では海上郡に、それぞれ舟木郷が見える。


 島田臣の本拠は尾張国海部郡島田郷であるが、島田郷には式内社の憶感神社があり、祭神は水神の於箇美神である。


 この祭神は、多神社の祭神と関係がある。


 島田臣に係わる島田の地名は、伊勢国では一志郡の郡家所在地である一志村の西隣に島田村があり、一志村の対岸の堀ノ内村には、南北朝期に舟木氏が築城している。


 伊勢国の員弁郡にも島田村があり、付近には、額田、平群、久米、筑紫という筑前国の地名がみられ、筑前国那珂郡にある櫛田神社と同じ式内社の櫛田神社が、島田村の南方の丘陵地になる朝明郡に鎮座している。


 伊勢国の朝明郡には、大金郷(四日市市大鐘)には式内社の大神社があり大和国の多神社の裔社であるといい、その神職は舟木直の末裔という。


 大鐘の東南の大矢知村にある式内社の耳常神社は春日大明神、舟木明神といい、祭神は神八井耳命で、神職は舟木氏であり、大矢知村の朝明川対岸の広永にある耳常神社の論社の祭神は神八井耳命である。


 伊勢国の飯野郡には、式内社の意非多神社があり、大和国の多神社の末裔が伊勢国に来て、この地を開拓して神社を建立したと伝える。


 美濃国の多芸郡には、島田村があり武士の島田氏の本願地であった。


 美濃国の安八郡には、壬申の乱のときに湯沐令として多臣品治がいて、大海人皇子の命を受けて挙兵した。


 美濃国の本巣郡には、「御野国本巣郡栗栖太里戸籍」によれは、多氏の同族の小子部連が管掌した小子部がいた。


 島田の地名は大和国にもあり、大和国の添上郡の和爾の北隣の八島郷に式内社の島田神社があって、神八井耳命の孫の五百建命と健磐龍命を祭神とし、島田臣同祖の氏神であるという。


 なお、この五百建命は、科野国造の祖とされ、健磐龍命は阿蘇神社の祭神である。


 多氏の同族とされる仲国造の本拠地の常陸国の那珂郡には大井郷があり、そのなかの飯富村には式内社の大井神社があって、その祭神は仲国造の祖の建借間命である。


 那珂川の下流西岸には島田の地名があり(水戸市島田町)、その近隣には、常陸国茨城郡島田郷に係わる南島田の地名がある。


 丹羽臣は、尾張国丹羽郡丹羽郷を本拠地としていたが、丹羽郷にある式内社の爾波神社を奉斎し、その祭神は神八井耳命である。


 尾張国海部郡には、憶感神社の西方近隣に海部郡の式内社の諸鍬神社があり、丹羽郡にも諸鍬神社が鎮座する。


 尾張国丹羽郡には丹羽荘於保村が見え、尾張国中島郡の式内社は多天神ともいう太神社である。


 遠江国磐田郡には飫宝郷があり、三河国碧海郡や設楽郡には豪族の島田氏が見え、駿河国志太郡島田から武士の島田氏が起こっている。


 陸奥国の河沼郡の飯谷神社の神職は舟木氏であり、会津若松市港町には舟木、島田の地名がある。


 以上から、宝賀論文では、多氏は大和国から伊勢国を経由して東国に来住したとする。


(2)島田臣や舟木直と和爾氏との近縁性


 宝賀論文では、おおむね以下のようにいう。


 多氏の同族の島田臣や舟木直の居住推定地は、和爾氏の居住推定地と重なる。


 舟木直や島田臣が居住する伊勢国一志郡には、和爾氏の同族の壱志君がおり、一志郡に隣接する飯高郡には同じく飯高君が居住する。


 島田臣の同祖の氏神とされる大和国添上郡の島田神社がある添上郡は、和爾氏の本拠地であった。


 以上から、宝賀論文では、島田臣や舟木直と和爾氏との近縁性を指摘する。


 こうした宝賀論文の指摘から、以下のように考える。


 ①飯高君の「飯高」は、多氏に係わる「意富」が変化して「飯富」となり、さらに変化して「飯高」になった例があるので、多氏に係わる名称である、と考えられる。


 ②多氏の前身集団は、5世紀前半には多遺跡で三輪山祭祀に従事していたが、加藤謙吉の「古代氏族研究堯書③ワニ氏の研究(雄山閣)「(以下「加藤論文」という)によれば、和爾氏が形成されるのは6世紀に入ってからで、和爾氏の中核となった氏族の一つである春日臣の活動が活発になるのは、5世紀後半ごろ、春日臣の部民の春日部や春日戸が組織されるのは6世紀前半で、それに少し遅れてそれらを統合して和邇部が組織された、という。


 ③加藤論文によれば、飯高君は、元は飯高県造といい、元正天皇を養育した氏族であるが、飯高郡で産出する水銀の交易を通じて、山城国の秦氏との関係ができ、また、山城国の大宅氏や小野氏などとの関係もできたことで、和爾氏の同族集団に参加していった、という。


 ここから、多氏よりも春日臣や和爾氏が後出するので、飯高君は、和爾氏の同族集団に参加していく前は、多氏の同族集団に参加していた、と考えられる。

 ④神と人の間に立って神祭りを行うという多氏の職掌から、食膳奉仕や食物供献儀礼の統括という職掌が派生したが、その派生した職掌は、阿部氏(饗氏)の時と同じように、春日臣が中核の一つとなって形成された和爾氏の職掌と重なることになる。

 ⑤この職掌の重なりは、相互の協力や連携も促したと考えられ、ここから、和爾氏の拠点であった大和国添上郡のに多氏の同族集団に参加していた島田臣に係わる島田神社が存在することになった、と考えられる。


 ⑥また、ここから、多氏が伊勢国や尾張国に進出していったのは、和爾氏が形成される前の、5世紀半ばから後半であったと考えられる。


 ⑦さらに、⑥から、多氏が東国に進出していったのは、多氏が伊勢国や尾張国に進出していった後であるので、それほど遅れないとすると、5世紀後半から6世紀初頭であったと考えられる。


 ⑧纏向遺跡があった庄内式期や布留式期のころから、奈良盆地や河内平野と全国各地を結ぶ交易ネットワークは存在し、5世紀代の大量の渡来人の受け入れと彼らが持っていた新しい技術を活用した、河内平野の大規模開発と新しい手工業拠点の形成は、その交易ネットワークを強化していった。


 ⑨大和朝廷を構成する中央豪族たちは、そうして強化されたネットワークに沿って人や物資を地方とやり取りし、そのネットワーク上にいた様々な氏族を、それぞれの中央豪族の系列下に組織していった。


 それは、はじめは、それらの氏族から誰かが大和朝廷に上番するときに、その仲介役となることから始まり、それが代々継続されることで、その中央豪族と各地の氏族との間に、特別な関係が構築される。


 そうした長い時間の後に、それらの氏族が、どこか特定の中央豪族を中心とした同族集団に、その系譜の末端に加わる一構成員として、参加していった。


 だから、氏姓制度や部民制が行われるかなり前から、交易ネットワークを通じた地方の在地氏族と中央豪族との関係は、存在していた。


 そして、それらの同族集団への組織化は、その土地の開拓を移民として行うというのではない限り、一つ一つずつ氏族を組織していくというのではなく、そのネットワーク上の氏族をまとめて組織していくという形で進められたと考えられる。


 ⑩ここからすると、多氏が掌握していた東国への交易ネットワークは、5世紀前半からその機能強化が図られ、5世紀後半には組織化が進み、6世紀前半には、多氏の氏名が成立し、同時に大部という多氏の部民が設定された、と考えられる。


 ⑪阿部氏が元は饗氏であったのなら、阿部氏よりも阿閉氏の方が饗に近く、阿閉氏の本拠地の伊賀国は、伊勢国方面からの物資と近江国方面の物資が合流して大和国に入る重要な中継基地であったので、多氏が重視していた伊賀国の饗氏(阿閉氏)が大和国に進出して拠点を形成したのが、阿部氏であったと考えられる。


 そして、6世紀半ばに阿部氏は政治的な地域向上させ、多氏が東国方面に構築したネットワークを継承・上書きし、多氏が6世紀前半に組織していた大部を阿部氏の部民の丈部に組み替えていった。


 多氏のもとに残った部民は、多氏がそうした交易ネットワークを通じて独自に移民を組織して開拓していったところに組織されたものと、皇子や皇女の名代として確保されていたものであった。


 多氏が独自に移民による開拓を行った例は、大和岩雄の諸著作に記載されており、以降、それらを見ていきたい。