多氏の出自について(8) | 気まぐれな梟

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 今日は、中島美嘉の「Glamorous Sky」を聞いている。 


 大和岩雄の「新版信濃古代史考(大和書房)」(以下「大和論文①」という)によれば、多氏の信濃国への進出は、おおむね以下のように行われた。


(1)河内国からの人の移動


 信濃国は以前は科野国と書いたが、「シナ」がつく地名は、相模国にあった師長国磯長郷と天皇の王陵の地であった河内国石川郡の磯長谷にあり、もともとは河岸段丘がある地形を言った。


 科野国には科野国造が、師長国には師長国造がいた。


 師長国造は、旧事本紀の国造本紀によると、令制の摂津国、河内国、和泉国である河内国の国造の凡河内国造や額田部連、額田部湯坐連の祖の天津彦根命を祖とする建許呂命の子孫であるというが、この建許呂命は、①常陸国の茨城国造、②上総国の馬来田(茨田)国造、③安房国の須恵(末)国造の祖であるという。


 また、旧事本紀の国造本紀によると、建許呂命は、多氏の始祖の神八井耳命の子であるともされており、この建許呂命を祖とする氏族は、道奥菊田国造、道口岐閉国造、石背国造で、神八井耳命の後ということになり、志紀県主や紺口県主、茨田連と同じく多氏の同族となる。


 この建居呂命の後裔という国造は、本来はみな、神八井耳命の後裔の建許呂命の後裔とされ、多氏の同族集団に参加していたと考えられる。


 このうち、①の「茨城」は、現大阪府茨木市(旧摂津国島下郡茨木村)の「茨木」、②の「馬来田(まくた)=茨田(まんだ)」は、河内国茨田郡の「茨田」、③の「須恵」は、陶邑の「陶(すえ)」であり、いづれも凡河内国造の管轄地内に存在する。


 茨城国造の「茨城」が摂津国茨木村の「茨木」から、馬来田国造の「馬来田」=「茨田」が河内国茨田郡の「茨田」から、須恵国造の「須恵」が和泉国の陶邑の「陶」から、名付けられたとすると、科野国や師長国の「科野」や「師長」は、河内国石川郡磯長の「磯長」の地名から付けられたと考えられる。


 地名の移動は人々の移動から来るので、摂津国、河内国、和泉国から、科野国(信濃国)や師長国(相模国)、茨城国(常陸国)、馬来田国(上総国)、須恵国(上総国)に人の移動があったと考えられる。


(2)信濃国への移動


 信濃国には5世紀後半から6世紀にかけて、河内国から馬を飼育する人たちが移住してきた。


 「延喜式」左馬寮式の「飼部」は、山城国6、大和国40、河内国108、美濃国3、尾張国9となっており、河内国が圧倒的に多く、河内国は馬の飼育の先進地であった。


 こうした馬の飼育に従事したのは、河内馬飼部氏、菟野馬飼部氏、沙羅々馬飼部氏、江首氏、尾張戸(尾張部)氏などの渡来人たちであった。


 5世紀後半ごろから河内国から信濃国に移住した人たちは、こうした馬の飼育の専門家である渡来人を伴っており、河内国石川郡磯長郷やその隣の同紺口郷に居住していた、多氏の同族である紺口県主に係わる人たちであったと考えられる。


 「延喜式」によれば、左馬寮、右馬寮が直轄する御牧(官牧、勅使牧)は、甲斐国3、武蔵国4、信濃国16、上野国9の計32牧で、信濃国はその半数近くを占めている。


 6世紀以降、馬の生産と飼育は、大和朝廷の重要な案件となっていったので、馬の生産と飼育に適した信濃国に、その先進地であった河内国から、専門家を含む人たちを移住させたと考えられる。 


 信濃国で最も早い時期の古墳は、4世紀後半に築造された、松本平にある前方後方墳の弘法山古墳で、この古墳から出土した土師器は、伊勢湾沿岸との濃厚な関連があるので、この古墳を築造した人々は、伊勢湾岸から木曽川を遡及してきた人たちであったと考えられる。


 松本平とともに信濃国の平坦地である「善光寺平」からみると、東の高地である信濃国の高井郡には、5世紀半ばから、百済の積石塚の墓制を受け入れた積石塚古墳が築造される。


 高井郡の「高井」は、高句麗国王の後裔と称する高井造からくるが、馬の放牧・飼育に適した信濃国に、5世紀半ばに大和朝廷が渡来人を送り込んだと考えられる。


 渡来人は、彼らの故地の高句麗や百済の馬の放牧地と同じ風土の信濃国に適合していったと考えられる。


 そうした積石塚古墳群で最大なものは、信濃国埴科郡(現長野県長野市松代町)にある大室古墳群であり、この古墳群の築造は5世紀半ばからであり、この古墳群を築造したのは、東国の地方豪族を、「杖刀人」などとして組織しようとした倭王武=雄略天皇が、「大室牧」で軍事力としての馬を確保するために、信濃国に送り込んだ渡来人であった。


 信濃国への外来文化の波及ルートは、木曽川の遡上とともに天竜川の遡上があるが、天竜川を遡上してきた信濃国伊奈郡には、5世紀半ばから古墳が築造され始め、5世紀後半からは古墳及びその周辺から馬具や馬の骨等が出土するようになる。


(3)河内国から伊勢国経由の移動


 信濃国伊奈郡の「伊奈」は、猪名部氏の「猪名」から来る地名であるが、「新撰姓氏録」では、各地の猪名部を管掌した猪名部造は、伊香我色男命の後で、物部氏の同族とされている。


 猪名部は渡来系氏族で、船大工を職掌としており、摂津国の豊島郡と川辺郡の境界を流れる猪名川の流域が本拠地であり、この地域は猪名県ともいわれた。


 猪名部氏の本拠地の近隣に豊島牧があるが、豊島郡で豊島牧を管掌していた豊島連は、「新撰姓氏録」では多氏の同族とされている。

 

 猪名部氏は全国に居住しているが、伊勢国の員弁郡にも居住していたので、摂津国の猪名部氏は、伊勢国を経由して、信濃国に移住したと考えられる。


 信濃国には伊那郡には手良村があり、その手良村には、大百済毛、小百済毛の地名があったが、「手良」は、「新撰姓氏録」では「百済の秦羅君の後」とされている百済系の渡来系氏族の「弖良公」の「弖良」である。


 「新撰姓氏録」では「為奈部首」について、「伊香賀色乎男命の六世孫、金連の後」という氏族と、「百済国の人、中津何波手自り出づ」という氏族の二つを載せているが、猪名部氏や弖良氏は一緒に信濃国伊那郡に移住しており、どちらも百済系の渡来系氏族であったと考えられる。


 6世紀代の科野国造は伊那郡を本拠地としているが、科野国造となった人びとは、「科野」が河内国石川郡の「磯長」から来ていることから、河内国に居住した多氏の同族の「志紀県主」や「紺口県主」の一族であったと考えられる。


 信濃国と伊勢国は名前が共通する郡や郷が多く、伊勢国の員弁郡 →信濃国の伊那郡、伊勢国の多気郡の麻績郷→信濃国の伊那郡、筑摩郡、更級郡の麻績郷、伊勢国の員弁郡の耶摩郷→信濃国の筑摩郡の山部郷、伊勢国の安濃郡の跡部郷→信濃国の小県郡の跡部郷、伊勢国の河曲郡の海部郷→信濃国の小県郡の海部郷、伊勢国の三重郡の刑部郷→信濃国の佐久郡の刑部郷、など、これらは、伊勢国から信濃国への人々の移動を示す。


 多氏の伊勢湾沿岸での海上交通の拠点は、舟木直や島田臣、丹羽臣がいた伊勢国北部の員弁郡や朝明郡、尾張国西部の丹羽郡や中島郡であったと考えられるが、科野国造となる人たちは、「物部氏の同族」を称する猪名部氏や百済系の渡来系氏族とともに、河内国から伊勢国を経由して信濃国の伊那郡に移住していったと考えられる。

 

 その移住ルートは、伊勢国の員弁郡から三河国の宝飯郡の豊川河口(小坂井町伊奈)へ移り、豊川を遡り、天竜川に出て、天竜川を遡ったと考えられる。


 また、豊川から一部は伊豆半島に渡り、那賀川の河口付近から上流に移住しており、静岡県賀茂郡松崎町江奈の近くには、式内社の伊那上神社と伊那下神社が鎮座している。


 科野国造は、6世紀代には、伊那郡から北上し、小県郡に入り「安宗郷」に定着した。


(4)阿蘇国からの移動


  「和名抄」によれば、信濃国小県郡の安宗郷は塩田平に比定されているが、この「安宗」の地名は、九州の肥後国の「阿蘇」に関連する。


 「先代旧事本紀」の「国造本紀」によると、科野国造と阿蘇国造は、ともに多氏の始祖の神八井耳命の後であるとされており、「阿蘇家落系図」によれば、科野国造の祖の武五百建命の別名は建磐竜命とされ、この建磐竜命は、「延喜式」神名帳では阿蘇神社の祭神となっており、阿蘇国造の祖の速瓶玉命の父であるとされている。


 そして、武五百建命の父は、敷桁彦命とされているが、この「敷」は志紀県主の「志紀」である。


 ここから、多氏の同族である志紀大県主に係わる人たちは、九州の肥後国の阿蘇国造の人たちを率いて、信濃国に移住してきたと考えられる。


 阿蘇山周辺も馬の生産と飼育の適地であったので、信濃国よりも早く、河内国から馬の生産と飼育の専門家の渡来人たちが、多氏の同族の志紀県主によって、移住させられていたと考えられる。


 科野国造と阿蘇国造の関係は、こうした馬の生産と飼育に係わるところから生まれており、それを媒介しているのは、多氏の同族である志紀県主であると考えられる。


 阿蘇国造の人たちが志紀県主に係わる多氏の人々に率いられて信濃国に移住してきたのは、6世紀と考えられる。


 「阿蘇家略系図」によれば、6世紀中ごろの欽明朝に、神八井耳命の子孫の金弓連が、舎人として供奉して、「金刺舎人直」といわれたとされており、金弓連の子の目古君は、6世紀後半の敏達朝に、舎人として供奉して、「他田舎人直」といわれ、伊那郡大領の祖であるとされている。


 また、同系図によれば、金弓君の子の麻背君が、科野国造になっており、麻背君の二人の子のうち、倉足が、諏訪評督に、乙穎が諏訪大社大祝に、それぞれなっている。


 なお、麻背君の「麻背」は「馬背」のことで、「馬の脱出を防ぐため、厩口に横にその背を制する棒」で「俗に「ませ」と呼んでいる」ものであり、「麻背」は、馬に係わる科野国造の始祖としてふさわしい名前である。


(5)物部氏との関係

 このように、科野国造が大和朝廷との繋がりを深めたのは、6世紀半ば以降であったが、馬の産地である信濃の重要性から、科野国造の伊那郡からの北上は、物部氏のバックアップがあり、物部氏の政策の一環として科野国造が信濃国全域に広がっていったと考えられる。


 物部氏は、物部氏の同族や物部氏が組織していた渡来系氏族を、信濃国に移住させている。

 

 信濃国水内郡の芹田郷は、物部氏の同族の芹田物部氏が移住して居住した地であり、長野県の「長野」の名前の元となった長野郷は、河内国錦部郡長野村(現大阪府河内長野市)に居住した渡来系氏族の長野氏が移住して居住した地である。


 「新抄格勅符」によると、物部氏が奉斎した石上神宮の神戸80戸の内訳は、信濃国50戸、大和国20戸、備前国10戸となっており、信濃国がその過半数を占めている。


 「和名抄」では、信濃国小県郡の阿宗郷の隣は跡部郷であるが、跡部氏は物部氏の有力な同族である。


 以上のような大和論文①の指摘からすると、多氏の東国や信濃国への移住の経過は、おおむね以下の通りであったと考えられる。


 ①5世紀後半に、河内国茨田郡茨田郷や摂津国三島郡茨木、摂津国豊島郡、河内国石川郡磯長郷、和泉国大島郡などから、茨田連、豊島連、紺口県主、末使主などが、志紀県主の統括の下に、上総国や常陸国、相模国、信濃国などに移住した。


 ②その移住は、河内国や摂津国から伊勢国を経由して進んだと考えられ、信濃国には天竜川を北上し、最初の定住地の伊那郡に到り、東国には太平洋岸を東進し、東京湾を北上し、房総半島の西岸から河川を遡及して、常陸国に至ったと考えられる。


 ③その移住には、猪名部氏などの氏族も同行したと考えられる。


 ④この移住が、第一次の移住である。


 ⑤6世紀半ばに、物部氏のバックアップを受け、科野国造の伊那郡からの北上に合わせて、阿蘇国造の一族が信濃国に移住してきた。


 ⑥6世紀半ばに、科野国造は、金刺舎人直や他田舎人直となり、物部氏を媒介として、大和朝廷との関係を強めた。


 ⑦この移住が、第二次の移住である。


 ⑧これらの移住は、馬の飼育と生産の拠点を拡大・充実することで、生産と軍事に使用するための馬を確保することを目的として、各豪族の競合関係を含みながら、国家的に行われた。


 ⑨第一次の移住も第二次の移住も、河内国志紀郡に拠点を持っていた、多氏の同族の志紀県主が、重要な位置を占めていたと考えられ、広義では、多氏の同族集団の移住、または、多氏の同族集団の組織化の進行・拡大であったと考えられる。


 ⑩こうした移住などの結果、多氏の同族を主張する国造が誕生した。


 ⑪多氏の移住の中心となったのは、河内国の多氏の同族である志紀県主であったが、時代が経過するにしたがって、河内国、摂津国、和泉国を管轄する凡河内国造の影響が強まっていき、本来は多氏の同族集団に参加していた国造が、凡河内国造の同族集団に参加するようになっていった。


 ⑫多氏の同族とされる国造が、凡河内国造の同族ともされる例があるのは、そうした推移があったからであると考えられる。


 ⑬志紀県主と阿蘇国造との関係は、阿蘇国造の信濃国への移住が6世紀半ばであったとすれば、その前から関係が構築されていたと考えられるので、5世紀後半には、構築されていたと考えられる。


 ⑭阿蘇国造は、志紀大県主および関係する渡来系氏族の指導を受けて、阿蘇山麓で馬を飼育・生産していたと考えられ、そうした馬の関係で、多氏の同族集団に参加していったと考えられる。