神は細部に宿ると言いますが、そもそも「細部ってなんだ?」という話でもあります。
ある人にとってはどうでもいいことであっても、別の人にとっては根幹そのものである、ということは普通にある。
なんでそんなこと気にするの? という一見些細に見える感覚のズレによって、リアルな人間関係が崩壊したり、ということもあると思います。
これは結局、住んでいる世界が文字通り違うんだろうなと思うんです。
この表現自体は普通に使われますが、ただの比喩とかではなく、おそらくは本当に世界が違っている。
同じ場所にいて、同じ時間を過ごし、同じものを見たり聞いたり感じたりしていても、それでもなおそれぞれが生きている世界というのは違っている。
だから面白いとも言えるんですが、面倒も生じるんだよなあ、と思うんです。
この差異を多様性などと表現するんですが、以前私は、「多様性を受け入れるとか無理だろ」とブログか動画で言った気がします。
なぜなら、受け入れられるものというのは結局は自分が許容できる価値観の範囲に限られており、そこから外れたものは受け入れられない以上、多様性というものにはどうしても限界があるから。
真に多様性を受け入れた社会というのを作るのであれば、結局は価値観を共有できる人間同士で分かれて暮らすしかないんじゃない? 誰もいないなら一人で暮らすしかないんじゃない? とも思ったりするんです。
だからこそ、人を中心に世界を考えるのは危険がある。
なぜなら人は、自分の価値観しか認められないから。
でも世界を中心に考えれば、世界というものはどんな価値観でも認める、というか別になんでもいいじゃん、となる。
世界に意志があるのかどうかは知りませんが、世界というやつはおそらく、個々の人間がどんな価値観を抱いていようがどうでもいいと考えている。
それが救いになるという人は、多分たくさんいるんだろうなと思うんです。
本当の意味でどうでもいいという扱いを受けたとき、そこに自由を感じるという人たちが。
なぜなら、自分の価値観を露骨に否定されてきたり、あるいは露骨ではないにしても「あなたの価値観は受け入れられない」と有形無形の態度で示され続けてきたり、という人は多いだろうから。
それをする側に悪意があったかとかは置いといて、結局のところ、そういった行為は虐待になってしまう。
だから「どうでもいい」というのは虐待をしてないということであり、それだけでもとてつもない救いがある。
ああ、自分って存在してもいいんだ、と思えるようになるから。
人の中に愛はないとか、人の中に真実はないっていうのは、つまりはそういうことなんだろうなと思うんです。