最近、とある動画のシリーズを見ていて思うのは、一番大事なのは人なのかもなあということ。

 

そのシリーズでは、同じゲームをいろんな人が同時に遊んでいて、その様子が動画として配信されているんです。

 

私はまだいくつかしか見ていないものの、動画によって面白さには明らかな差がある。

 

というより、「面白さ」という言葉がもっと複雑な陰影を伴っている。

 

見ていて普通に笑える動画であっても、でもまあもういいかという気分になって途中で見るのをやめることも結構ある。

 

一方で、爆笑できる場面はあるものの、特にそんなでもない平穏なシーンが続いているような動画であっても、なんか見るのが心地よい、続きを見たい、と思えるものもある。

 

その違いって結局、配信者が放っているオーラというか、なにかにあるのかな、と思うんです。

 

心に聞いてわかる無意識力というものも関係はしているのだろうけれど、単純にその無意識力の高い人の動画ほど面白いのかというと、まあ面白い可能性は高いかもしれないけれど、常にそれで決まるわけではない。

 

ただそこは、実際に発揮されている無意識力が動画によって異なるというのはあるのかもなあ、とも思うんです。

 

同じ配信者であっても、動画の題材やその日の調子、その他いろいろな要因によって発作を起こしたりしていれば、無意識力は下がる。

 

また見ている私も、自分の発作を起こすような要因がその動画に入っていれば、自分の無意識力が下がってしまい、「つまらない!」となるのかもしれない。

 

と書いてて疑問に思ったんですが、自分の無意識力が下がると、必ず「つまらない!」となるものなのか? ということで、それを心に聞いてみます。

 

「今回言っている意味での『つまらない!』には必ず近づくな。つまり発作によって文字通り発作的な楽しさは得られるかもだが、今回感じている『つまらない』とその対義語である心地よさっていうのは、自分本来の無意識力をどれだけ発揮できているかで決まる話やから」

 

そして、発作というものは私単体で起きるものでもなく、相手によってのみ起こるわけでも、まああると言えばあるんですが、ない。

 

ここらへんのややこしさを説明し理解するための理論が、前に話していたコミュニティ理論になるわけですが、こっちはこっちで多くの人にとっては結構難しいのかも? とも思ったりはします。

 

でもコミュニティ理論の根っこは単純で、人間ってどう転んでも他人の影響を受けるし、自分の思考や感情にもその影響は大なり小なり及んでいるよね、というもの。

 

それを「自分という存在の実態は、自分と他人たちによるコミュニティのようなものである」と表現していると、言ってしまえばそれだけの話なんです。

 

 

 

このブログの記事は全て、大嶋信頼先生が開発された「心に聞く」を用いて書いています。

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