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SOURIRE通信 再刊1号 2026ー04
再刊号にふさわしい話題は何か、と考えてみた。
以下の3つのことが思いついた。順に書き進めてみたいと思う。
1、教室に導入された机のこと
2、場の継続性
3、通信を出すことの意味
1、教室に導入された机のこと
十余年前、予備校を辞めるに際して、自分の場を持つために創り出したSOURIREだったわけだが、その際、必要とした机は、二子玉川の無印から用賀まで、何度も自力で手持ちで、持ち帰った。10卓ほどを何度にも分けて、必要に応じて持ち込んだ。当時、時間的な余裕があり、さらに、何をどうしたものかと途方に暮れていたこともあった。そんな中で取られた手法が、なるべくできることは自力で手作りで行っていく、ということだった。
それから10余年の歳月を経て、この3月に、卒業生が引っ越しをするというので、要らなくなった机があるということになり、その机を引き継ぐこととした。ご家庭で長年使われた机であったが故に、一部傷がついていたりと、人間が使用してきた証のようなものがあった。寄贈者はそのことが「場をよくないものにしてしまうのではないか?」という危惧を持っての導入となった。
が、場の協力者(アート担当)がこの机の様子を見て、いくつかの提案がなされた。傷が見えないように「アートを施せば良いだけの話」として、塗料を塗りつけて、その後ワックスをかけることとなった。すると、寄贈された机がまったく別のものとなり、「生まれ変わった」ように見えた。再・創造された、と感じる。寄贈者本人からは、安堵の言葉が出てきた上に、「場の持つ力の大きさ」について、話し合うことができた。
今後、寄贈者が近未来において自らが主体となって展開する実践活動の参考になる出来事となることを願っている。
場の必要性に応じて、必要なものを必要な形で変革していく、という発想が、この机の変化において、充分に機能したと感じた。リサイクルし、リユースする中で、場の変革がなされたことを意味しているのだと考えている。
2、場の継続性
10余年の間、SOURIREを維持するとは思ってもみなかった。
一時的に、退避的に、予備校以来の継続生を診るための場所として機能させることにしたに過ぎなかったわけだが、卒業生を中心として、紹介者があり、鷺沼・坂口英語塾で紹介されるなどという事態が相次いで起き、来室者が続出した。一時は、物理講師を外部から招いて、担当してもらっていた時期もあった。
やがて、外でやっていた仕事があまりに忙しくなり、SOURIREで担当するコマが激減していく現象に見舞われた。が、継続して関わってくれる学生のおかげで、閉鎖することなく、地道に場を維持することができた。感謝しています。
少なくとも、2027年度終わりまでは、この場を維持するつもりで、今を生きている。
その後のことは、想定することを避け、この場を もっと楽しめる場にするべく、アート担当を中心として、場の再・創造運動を展開している最中です。
今後の展開にも期待していただければ、と思います。
かつて予備校では20年余の歳月を過ごした。途中いくつもの難題にぶつかり、ほとんど出講しない時期もあったが、ある種の信頼関係は常に残されていた中で、関係が太くなったり細くなったりということを繰り返した。学生との関係は基本的に常に全体として良好で、「学生の側に立って思考を組み立てるという流儀」を守って今までやってくることができたのだと思っている。
SOURIREの場の主宰として10年を経過してきたわけだが、学生の側に立って思考を組み立てるという流儀の確率とともに、新しいなにかをここからさらに創り出していくべきタイミングになったのだと感じている。
3、通信を出すことの意味
10年前、SOURIRE通信を刊行している。新しい場を創り出そうとしている、創り出しているという臨場感を確認しそれを、伝達し、意思疎通を図るためのツールとして。しかし、それもおそらく10号くらいまで続いたところで、頓挫していると考えている。報告すべきことは何か、ということに行き詰まり、途中で、勢いが止まってしまうのだ。
「ハッとすること」「それ面白い」と言えることが、常に発生する関係性の中で生きているはずなのに、それを、言語として伝えようとすると、あるとき、その飽和点がおとづれる、ということを繰り返してきた。
今回、その飽和点を再びもたらしてしまうのか、何号まで継続していけるのか、についてはまったくの未知数であり、これは、読者の皆様との「共同行為」として成り立っている。どのような共同行為をなし得るのか、今後の動きを見守っていくよりない、と考えている。
「こんなことあったよ!」という報告をお待ちしています。
2026−04ー14
SJ
追記:Aiからの評価・指摘を受けながら作成を続けているが、Aiにもっと任せると、「とても素晴らしいもの」が作成されてしまうことを私は知っている。それだけ、Aiは優れているし、ある種のモデルのようなものを持っているし、それを最も簡単に表現してくれる。ある種の悔しさと諦め、そして、それをどのように利用して今を創り出すかという視点に移行させることに、注力して1年くらいが経過している。その間にもAiはどんどん進化を続けていることがリアルタイムでわかる。
そんな中で、私がわたしの通信を再発行しようとしていることの意味がこれから、問われ続けていくこととなるだろう。
SOURIRE通信 再刊準備号
何が飛び込んできたんだろう?と思われたことかもしれません。
当通信は、一定の読者を想定している。
◯学峰館予備校、溝の口AVENIRなどを経て、用賀SOURIREに行き着いた私SJと関わりを有形無形の形で持ってくれた人々。
◯学生運動、社会運動、教育実践運動に伴走する中で、私SJと関わりを持ってくれた人々。
今まで、何度か通信を発行してきた。
これらとは少しばかり異なる雰囲気を出しながら、「今を語り合えたら」と思っている。
唐突だが、今この瞬間の気持ちを準備号として書いてみる。
☆高校を卒業して、ものを考え始めてから、数十年の月日が経過している。
もともとは、理系の学者になろうとして、大学に入った。が、そこでみたもの感じたものは、私がそれ以前にぼんやり考えていたものとは、まるで違うものだった。ノーベル賞に相当するような研究をしよう、などときっと思っていた私がいたはずだが、そんな考えは吹き飛んだ。
医師になることを拒否して、理系の学者になろうと思っていたはずだったのに、ここでさらに進路に困ることになる。そこで、教育学に専攻を変えて、なんとか生き延びて今がある。
大学を変え、専攻を変える中で、少しずつ自分を取り戻し、高校生の頃には君は文系科目ができないからと言われ続けていたわけだが、、社会について、個人の思想について、言語について、考えられる、興味をもてるようになっていった。理系学生が見事に文転したのだ。
☆戦争のこと。
私の親は戦時下を生き抜いてきた人たちだった。幼少期から戦争体験については、当時は聞きたくもなかったが、聞かされてきた。戦時下を生き抜いた人々の価値観のもとに育てられていた部分がある。「贅沢をしない」
親自身の価値観なのか、その時代を生き抜いたものの価値観なのかは、もちろん判別できないが、資金がないわけではないのに、贅沢な暮らしをすることを拒否していたようなところがあった。
今まで、こんなに「戦争の近く」で生きていると思う瞬間は無かった。平和教育といったものの大事さはもちろん認識しているわけだが、学生に熱く語ってみせることがあったとしても、どこかまだ、戦争そのものには距離感があったものと思う。極右政権の誕生が世界の至るところで起き、現実に、大国が戦争をどんどん仕掛けている。その縮小版は今まで何度も見て来たことではあるが、今度ばかりは少し事情が違うのではないのか、と思う気持ちがある。
10年前、安保法制をめぐって、反戦運動は少しばかり盛り上がった。その中で、私も職場にしていた渋谷からわずか30分の距離に国会があるのだから、そこで様子を見るのもありだなと感じて、集会のある時には、駆けつけるようにしていたことがある。
2026−4−8。時間があったので、国会前に駆けつけてみた。そこには大きな動きがあった。これからどうなるのかは、未知数だが、大きな民衆の側の怒り、戸惑い、不安がその場で表現されていたのだと感じている。
「若者の保守化」「右傾化した時代」という認識を20年くらい前から意識してきたが、これが「極右化した時代」と認識を改めるときが来たのだとはっきりと感じている。その中で、どのように意識を転換していくのか、固定化されたものと考えずに、意識の変革をどのように創り出していくのかをこれからさらに検討していきたい。
そんな今を綴りたいと思う。
☆Aiのこと。
学生時代、人工知能を研究しているゼミに何度か参加したことがある。その概念を使った思考を参照してきた部分もある。それから数十年。あの頃の議論が、今のAiの進化を結実させているのか、と思うと、隔世の感がある。初期Ai的なものに、あまりにできることが少ないと感じて、ほとんど接触を経ってしまっていたわけだが、ここ数年のAiのすさまじいまでのすさまじい進化は、それを摂取し、利用しないと、情報処理の問題として、質的にまったく異なるものとなることが、明らかだと認識するようになった。
今まで、英文や現代文を扱うことを私は避けてきていた。が、これだけAiが進化したならば、視点をきちんと持っていれば、英文・現代文をAiが作成した文書を通して、理解を深めていくことが可能であると考えることができるようなところに、意識を集中することができるように、なってきたものと考えている。
有名な偉人の文書をリード文とすることが当たり前である、という認識が私にあったわけだが、Aiが作り出す現代文を微調整することで、Ai現代文と呼べる類の文書がきちんと作成できる。テーマを決め、そのレベルを調整し、必要な問いを作成させれば、一人ひとりの興味に即したオーダーメイドな教材が現実的に作り出せる、ということなのだ。
一例を挙げる。「料理専門学校」にいくことになった学生に、その興味に即して、英文を作成している。
「炒めるとは?」「キャベツの歴史」「スプーンの歴史と人間の関わり」「玉ねぎを使った料理とその影響」など、テーマを指定し、文法事項として入れてほしいものを指定し、内容の抽象度や単語レベルを瞬時に調整すれば、読ませたい、読みたい英文を、容易に手に入れることができる。まだまだ手探りな感じはあるが、これを続けていけば、画期的な学習法として、定着する可能性を感じている。
英語・現代文といった今を生きていくための道具として、必要なものを、これを嫌がる理系学生に対して、鋭く提起できるようになるのではないかと、興味を持って実践し始めている。
☆これからのこと。
創刊準備号として、ここまで書き進めてみた。今を書き記すことで、過去の体験と未来の未知の体験がつながるのだと考えている。次々と、今起きていることを書き進めることで、過去にあったことと、これからのことが結合して、近未来への道が見えてくるのだろうと思っている。
当通信は私SJだけが創るものではなく、これを読んでくれた読者がその今を語ることで成り立つものであるとも考えています。通信への寄稿など無理のないところでお願いできれば、幸いです。
2026ー04−13
SJ
追加:この文書を作成するにあたり、Aiとの対話に依存していることを書き記しておきます。
リュウチェル
止められなかった自殺
リュウチェルが、私より先に自殺した。
同志だと思っていた存在に先立たれた。
いつ死んでもおかしくないと思っていた。それは私も同じだ。
自分らしく生きることを選択したとき、それを潰そうとする圧倒的な多数の前で、
自分を貫くことは、あまりにしんどすぎる。
そして、嘘をつくことができない限り、心に負荷を背負いすぎる。
それでも、相談さえくしてくれれば、共に生きようと、支え合うことができた、と私は信じている。その関係性を築けなかったことが、君を自殺に追い込んだ。
たかだか、1kmほどのところにいたのに。
結婚すると言ったとき、やめておきな、と伝えたかった。今の社会制度の中で、自分らしくは生きられない。制度を変えない限りは、私たちは、幸せになど、生き られない。制度を変えること、制度が変わっていく様を楽しむことが、幸せだと、考え方を変えない限り、私たちは生きていけない。
君がやりたいと思っていたことは、理解している。
残されたものが、その想いを引き継いで、少しでもその実現のために、変革を志すよりない。これが、残されたものの、役目と信じて。
東海高校からのお詫び を批判する
東大殺傷事件から
@@@@
本校在籍生徒が事件に関わり、受験生の皆さん、保護者・学校関係者の皆さんにご心配をおかけしたことについて、学校としておわびします。
本校は、もとより勉学だけが高校生活のすべてではないというメッセージを、授業の場のみならず、さまざまな自主活動を通じて、発信してきました。また本校の長い歴史のなかで、そのような校風を培ってきました。
ところが、昨今のコロナ禍のなかで、学校行事の大部分が中止となったこともあり、学校からメッセージが届かず、正反対の受け止めをしている生徒がいることがわかりました。これは私たち教職員にとっても反省すべき点です。
「密」をつくるなという社会風潮のなかで、個々の生徒が分断され、そのなかで孤立感を深めている生徒が存在しているのかもしれません。今回の事件も、事件に関わった本校生徒の身勝手な言動は、孤立感にさいなまれて自分しか見えていない状況のなかで引き起こされたものと思われます。
今後の私たちの課題は、そのような生徒にどのように手を差し伸べていくかということであり、それが根本的な再発防止策であると考えます。
@@@以上が原文と思われる。
本校在籍生徒が事件に関わり、受験生の皆さん、保護者・学校関係者の皆さんにご心配をおかけしたことについて、学校としておわびします。
→学校として、お詫びすべき、という立場宣言と受け止めます。
本校は、もとより勉学だけが高校生活のすべてではないというメッセージを、授業の場のみならず、さまざまな自主活動を通じて、発信してきました。また本校の長い歴史のなかで、そのような校風を培ってきました。
→勉強だけが高校生活の全てだ、と言っている高校は存在しない。その当たり前のことから始まるこの謝罪文は何?
→さまざまな自主活動とは?
→校風とは?
◉曖昧な言葉で、お茶を濁すのが、当該の高校の校風、と私には見える。
◉自主的な活動とは、文科省管轄外の全ての活動か?具体的に何を指しているのかわからない言葉の羅列。
ところが、昨今のコロナ禍のなかで、学校行事の大部分が中止となったこともあり、学校からメッセージが届かず、正反対の受け止めをしている生徒がいることがわかりました。これは私たち教職員にとっても反省すべき点です。
→学校行事中止を理由にして、逃げを打とうという姿勢がありあり。授業はやっていたのではないのか?学校は、学校行事のためにある?とでも言わんばかりの日常授業の扱いが軽いのか?日々の授業においては、何をして来たのか?
→授業において、メッセージを伝えようとして来たのか?
→学校としての謝罪なはずの文書に、教職員にとっても反省すべき点だとしている、ということは、ほかに誰が、反省すべきだと、暗に言っているのか?当該の学生に反省しろと、迫っているのか?
「密」をつくるなという社会風潮のなかで、個々の生徒が分断され、そのなかで孤立感を深めている生徒が存在しているのかもしれません。今回の事件も、事件に関わった本校生徒の身勝手な言動は、孤立感にさいなまれて自分しか見えていない状況のなかで引き起こされたものと思われます。
→蜜をつくるな、という社会風潮を原因として、この一件を見ているならば、高校を廃止して責任を取ってほしい。蜜をつくるな、とするならば、授業を通して、密な関係性を対置すれば良いだけの話であり、密な関係性を模索して来ていたのか?そのことが問われているにもかかわらず、一切そこには踏み込もうとしない。
→孤立間に苛まれた存在を作り出した原因は、当該高校の授業実践の内容にある。まず、そのことを認めよ‼️社会風潮のせいにするな‼️その点を見ずに、いったい何を謝罪しているのか?全く視点がずれまくっている。
今後の私たちの課題は、そのような生徒にどのように手を差し伸べていくかということであり、それが根本的な再発防止策であると考えます。
→手を差し伸べていないという現実を認めたのか?まずはっきりと自分たちの至らなさを率直に認めよ。そこからしか始まらない。
▲こんなふざけた謝罪文ならざる謝罪文しか出せないから、今回の一件が起きたのだろうな、と私には見える。
ゼロから組織を組み直すことが必要だと、私は感じる。あるいは、廃校にしろ的な勢いで、組み直しが必要だろう。
sj
追加
上の文を読んだとき、気持ち悪い謝罪だ、と感じた。謝罪したくないのか、する気がないのか、何を謝罪して良いのか、わからない、といった、なんのための文書かわからない。
大きな事件になり、学校名が割れ、組織防衛の為の言い訳の文か?と思った。
真摯な姿勢がまったくない。
原因を自分たちの教育指導には求めないという錯倒した感覚がにじみだした悪文。
なぜこんな文書を、高校名を隠し、無署名で出したのか?
オリバラをめぐるいまの情況をどう眺めるか
都知事石原による五輪誘致運動が開始されたからやむなく、五輪問題について語らざるを得ない情況に置かれたことが何度もある。
五輪開催に、基本的に私は反対。
国家意識、ナショナリズムを鼓舞する動きが強まること。
競争主義が煽られること。
などを基本的な軸として、考えてきた。
誘致に成功した以上、開催に異議を唱えるのは、どうかと思う、といった突きつけをくらったこともある。
その際に、一住民として、生活しづらくなるのは、困る。電車が混む、五輪中心の生活を強制される、といったことが、どんどん出てくるだろうから。それを最小限にするために、反対の意思表示をしておくことに意味があるのではないか、というはなしをしたことを覚えている。住民として困る、という主張には、異議を唱えにくいものだと考えている。
いま、目前に迫っている五輪だが、かなり、その意味合いが変わってきているのではないか、と私には見える。
無観客ならば国威発揚は、難しい。
マラソンで、都内をランナーが走り、子どもたちにヒノマルを振らせまくる、という風景は、無くなった。
聖火ランナーが走ってはいるが、各地で反対運動が起きていることが、報告されている。聖火ランナーとして走ることの価値に、善なるものを見みいだしているであろう当事者に、その価値観はおかしくないか?と、対置すべきものが提示できる情況が創り出されつつある。反対意見がきちんと併立している情況を作り出せていることを、素直に私は喜びたい。
五輪が素晴らしい、とする価値観に対して、五輪に反対するという価値観が、きちんと成り立ったまま、20日前になった。
五輪開催集団としては、決して望ましい情況ではない。開会式を執り行うとしている時間帯に、反対デモが起きる。つまりは、開催時に同時に、開催反対の声がはっきりと上がることが、決まった。それなりの規模で、五輪反対派のデモが競技場周辺で起きる。
五輪開催が、都民の総意ではないことが、はっきりと示せることは、価値あることだと、私は思う。
これからの20年、日本という国家がどの向きに舵を切るのか、極右勢力の思い通りにはいかない、ということが、はっきりしたということだと、私は見ている。
その意味においてホッとしている。
石原慎太郎という都知事が10年居座った。その間に、さまざまなことが起きた。都立大学は解体された。都立病院も解体攻撃を受けた。
それでも、それぞれが陣地戦で粘り強く抵抗を続け、民意を反映しようと悪戦苦闘している。
先日、世田谷区教委が、観戦動員を破棄した。こころある教員、保護者、学生がギリギリまで粘り腰で闘ってきた結果なのだと、私は評価する。
いくつかの教委はまだ、観戦動員を目論んでいる。都教委は、態度を留保したままだ。
7.7.の夜の報道では、7.12より、まん防から緊急事態宣言に切り替えになるという。いよいよもって、新しい次元に達した、ように見える。緊急事態=戒厳令状態で、五輪を強行突破しようとする五輪開催勢力と、生活をかけて反対する住人との血みどろの闘いがはじまることになる。
そのことを知った海外からギリギリに到着するであろう競技参加予定者は、どのような気持ちだろうか?
2021.7.8.朝10時
五輪問題の現況
2021.6.24.天皇ナルヒトを通して、宮内庁のトップが、【新型コロナウイルス感染症の感染状況を大変心配されている】との発言をした。
天皇による政治介入であることは、間違いがない上に、いよいよもって、東京五輪の矛盾が、ナルヒトによる政治介入まで、引き起こすレベルに達するほどに、極点に達した、と見ることもできる。
ナルヒトにして、東京五輪の開催に、重大な疑問がある、ということとして、二重三重の意味で問題が爆発しつつある。
成田検疫の問題も露骨に明らかになりつつある。民衆の行動を制限する目的で行われている検疫だが、見事に、スルーして、成田から大阪まで移動に成功した、五輪競技参加予定者がいる。
検疫体制の矛盾とそのありようが、浮き彫りにされた。
排外主義に堕ちることなく、現象を眺めることが必要だろう。
空を飛ぶ鳥には、国境線などない。軽々と人間が引いた国境線など乗り越えてくる。つまり、人間の都合で引いただけの線など、一部の人間にしか通用しない、ただただ権力的な線に過ぎない。
国境線は民衆が引いた線ではない。
日本という国家の権力が、その線の内側を管理しようとして、検疫を行なっているわけだが、それがものの見事に失敗し、デルタ株やデルタプラス株の侵入を許し、更なる変異株を、東京五輪開催の先には、東京で、引き起こすことになるのだろう。
この事態をいかに迎え撃つのか?が、問われている。
検疫体制の強化で、日本国内だけを【安全に】保つべく行動するのか。
ウイルスの変容を冷静に押さえて、情報を全て開示した上で、議論するのか。
視点を変えて考えてみる。
国立競技場でレースをする必要があるのか?
感染病を爆発させてまで競い合いたいならば、もはや、それぞれの地で、同じ時間に、それぞれが、時間を競い合って、ヴァーチャルに競い合えば良いではないか?SNS上のゲームのように。
例えば、ロンドンのスタジアムで、イギリスからの参加者は100メートル走を7月31日12時に開始する。予選などいらない。本戦のみの一回勝負。同様に、北京で、シドニーで、と参加したい者が、その競技場で、走ればよい。何も東京に集まる必要などもはやない。個人競技は、すべてその要領で戦えばよいであろう。
命を削ってまで戦いたいというのならば、その世界は、バーチャルな世界で、それぞれの立場でよろしくお願いしたい。
そして、やがては、その価値観がすたれ、スポーツとして時間を戦うことから、離脱していくことを、私は願いたい。
集団競技について。例えば、バレーボール。国家別のチームを作ることを辞めよ。各チームは、それぞれが、属している国家から1人だけ。言語も違う、指導方法も違う、そんな中で、共同、協働して、なにごとかを作り出そうとする、というのならば、それはそれで、一つの価値をもたらすだろうと、思う。
くだらない国家編成チームは、辞めよ。
2021−6−25
追加
宮内庁トップによる発言を、ときの政府権力は、必死になって揉み消そうとあがいている。ナルヒトの発言ではなく、宮内庁トップの個人的な見解として。
パワーゲームを展開せざるを得ないほどに、国家の中枢部分に、動揺が走っていることがわかる。
ときの政府権力の思い通りには、事態は動かなくなっていることが、ハッキリとしてきた。