初の薬剤師ドラマ


 病院薬剤師を扱ったドラマがはじまる、と、4月段階で言われていた。

 コロナ案件で、撮影が遅れたらしく、9月末まで放送していた。

 薬学部の推薦入試を受ける学生をみている関係から、このドラマのことが、その面接で話題になる可能性が高く、みておかねばならないドラマ、として浮上した。


 臨床薬剤師という職種を確立しようと、北里薬学部が、ある時期に全力で力を入れていたことが、ようやく一つの形になったのか、と、ペーパー薬剤師の私には映った。


 薬剤師とはなにか、なにをする仕事か、と問われても、ぼんやりと調剤薬局で事務的にこなしているものには、答えられないのではないか、その曖昧さが、薬剤師という仕事を、不当に価値の低いものとして、医師から扱われてきたのではないか、と言った批判は、今まで何度となく薬剤師の内部ではされてきたはずだ。

 その枠を脱するために、4年制薬学部を6年制に再編し、臨床に力を入れ始めて、約10年の歳月が経過した。まだまだリアルな動きは、私には捉えられないが、病院単位では、今までとは異なる臨床的な役割が期待され実践されようとしていることが、このドラマを通して少し伝わってきた。


 医者になれなかったから、薬学部行きます。

 この消極的すぎる価値を持って薬学部に進む学生の圧倒的な多さ。

 医師への過剰すぎる期待を煽る医療系ドラマの多すぎる情況。

 そんな私の苛立ちを少しばかり緩和するのには、このドラマは役立ったようには思う。

 一方で、医者こそが全てだと考えているアホすぎる学生のアホな思考を、少しばかりは修正できる内容をこのドラマは、質的には有していた部分があるかもしれない。医者だけが、医学をやっているわけじゃない。医学を明白に支えている医学研究者としての薬学研究者の姿も、少しは垣間見えただろう。


 それぞれの仕事には、それぞれの仕事の原理的な価値と意味が存在している。逆にいえば、原理的な価値と意味が存在しているものが仕事として、価値づけされ、今の資本制社会の中の一つの部品として、位置付けられている。その位置付けを改良しようと、模索する動きは、ドラマになる。ただ凡庸に与えられた仕事をこなすだけの日常をドラマ化するのは難しい。


 薬剤師に、非日常的な側面が与えられ、それを臨床家として、主体的に担おうとする存在が可視化されたことは、意味があったと、私には思える。


sj

2020.9.30.


追加

 私立薬科大による学部教育六年制への移行は、ある種の要求闘争として、取り組まれたものと認識している。それを阻んできたのは、国立薬学部連合体だった。薬学部を研究者養成機関とみる国立に対して、薬剤師養成機関とみる私大の間の対立構図が、六年制への移行を、かなりの年月、遅らせた。6年制は2006年設置、2012年卒が初。

 

追加2

    このような動きは、社会運動としては、全く取り組まれた形跡がない。ただただ問題提起のしようがないからなのか、中途半端な改良主義的な変革だからなのか。

 例えば、看護師ならば、その職種にまつわる労働現場のキツさが、医療労働運動から取り組まれている。准看、正看の差別待遇問題や、給与問題も、この何十年もの間、ずっと話題になってきた。専門学校からの看護師へのルートから、四年制大学の看護学科からのルートが、この10年間で随分と増えた。制度改革とそれにまつわるところで、幾つもの運動が形成されただろうと思う。

 それとの比較の上で、随分と薬剤師の運動は弱いように思う。

 今回のドラマでは社会運動的なものとの接点は、私には見えなかった。

 

潰されそうになっている学生

潰されそうになっている学生


 2ヶ月休止した授業の再開後2回目で、難問の演習をすることで、潰されそうになっている学生。物理という教科は、難度が高い。それだけ、現象の解析がうまく進んでいるとも言える。自然科学の中においても、抜群に研究が進んだものだ。

 しかし、教育課程がそのことをそのまま直に反映されることは、なんとしても避けなければならない。物理学を専攻するようになるものが、学んでいるわけではないわけで。

 当該の学生は、医学部進学予定者。

 

 高認(旧 大検)を経て、大学入試に臨もうとしている学生で、きちんと授業を受けてきていないし、基礎物理をそこそこかじった程度。しかも、コロナの件で、2ヶ月休止した後すぐの授業で、東大の過去問を提示され、2時間、わからないものを、延々とやりあったらしい。

 わからないことが、さらにわからなくなり、負の連鎖が始まり、最後に、あまりにわからなくなって、涙が込み上げてきて、声を上げて泣いたという。3月からやってきた内容が無化し、雲散霧消し、自分の存在がちっぽけすぎて、なくなってしまったのだ。


 担当した講師は、一体どういうつもりだったのだろうか?

 私的には、この話を、怒りを持って聴き止めた。また、この講師がやらかしたな。

学生の状態を把握せずに、難問を提示して、学生の理解を確かめずに、ただただ独演する。

なんのために、個別指導をしているのかわからない、空中分解した授業をやりまくっている講師だから、その餌食にされたのだと、私は理解した。


 物理を指導する講師の中には、この手のタイプは案外多い。しかし、その発想で、個別指導をするのは、あまりに学生に対して失礼だ。時間あたり、1万円以上支払われている授業で、このザマは、ないだろう。これは教育ハラスメントと呼んで良い類のものだ。


 私は、当該学生に対して、2ヶ月休止の再会のコマは、復習として、延々単元を振り返った。猛烈なスピードで、基礎から中級ラインを全単元に渡り、回した。それが上手く行ったことを見届けてから、新規の内容を導入するという、教育学の原則に従って、原則どおりに動かした。

 ここで、無理をしてどうするのか? 様々なことがあって、高認を経て、医学部大学受験に向かっているケースをテキトーな難問処理で乗り切ろうとする講師の行為に、怒りが吹き出した。


 そして、この話を少ししたものから、ありえない批判をもらった。

 「医学部志願者が、難問を前にして、泣いた?」ありえない。

  難病患者を前にして、その学生は、泣くのか?と、言い放った。

 

 全く位相の違う話を混同して、物理講師を守ろうとするありえない発想。

 

 難病患者を前にして、難しいと涙を流すことはあるだろうし、なんともできない自分の非力さを悔しがることもあるだろう。泣いてはいけないという話ではない。泣かざるをえないから涙が出るのだ。そのことを全く理解していない、頓珍漢な批判が飛び出したことに、私のイライラは、まさにマックスに達した。


 わかり合うことは、難しい。

 わかりあえると考えることは、簡単だが、分かり合えないことの方が多い。

その現実を踏まえた上で、しかし、わかり合おうとするために、何ができるか、それを模索していくよりない。

 物事が簡単に進むはずはない。

 

 大きな矛盾した系の中を、私たちは、生きていくよりないのだから。



 SJ 










志望動機というナンセンスな問い


医学部においては、志望動機が問われる。

ナンセンス、だと思って眺めてきたし、今もそう感じている。

医師の子どもとして育ったわたしにとって、医師になるための理由など、どこにでもあったし、敢えて問われるべき理由がわからない。


しかし、このたび、医師になりたいと書かれたメモの志望動機のあまりの奇妙奇天烈ぶりに、のけぞるよりない、と感じたケースがあった。


なるほど、このレベルの志望動機を書かれたら、あるいは、話したら、百パーセント落とせるな、とその志望動機を問わざるを得ない大学側の気持ちが、少しばかり、理解できた。


薬学部に在籍する者が医師になりたい、と考えることは、しばしばあることだ。その中の1人と思われるものから送られた志望動機は、【ひとのためになりたい】ということを本人は主張したいのだろうが、そう考えた場面が、学校で靴を揃えて校長に褒められた、ということから来ている、らしいのだ。そして、それが、何らの根拠も示されず、そのとき医師になりたいと考えた、と言っているとしか理解できない論理になっている。


 靴をそろえること、にどれほどの意味があるのか、という深い疑問。靴を揃える暇があったら、もっと人の役に立つことができるだろう?と素朴に感じる。靴は揃えなければならないとするアホすぎる秩序意識を創出したいのか?とも感じる。


 百歩譲って、靴を揃えることに、重大な価値があったとしよう。それを褒め称えた、校長にも、重大な価値があった、としよう。そこで作り出された価値は、教育学的な価値であり、子どもへのしつけ、学校的な価値の内面化に成功した例として、取り出されるべきものだろうと、わたしは考える。これは、教師になるための志望動機として機能させることは、不可能ではない、とは考えられる。しかし、医師への志望動機として取り出す、その価値意識のズレのなかに、そもそも医師をどういう存在として描き出しているのか、についてのグランドデザインの異質さを感じ取らざるを得ない。


 ナンセンスな問いに、その意味があると理解するとともに、恐るべき層が、医師になろうとする時代が到来してような、恐怖を覚える出来事であった。


sj



マスクをめぐる一断面


吉祥寺の眼鏡屋にて、マスクを売っているのを見た。一方で、薬局にはない。

まさに、おいおい、な事態。


薬屋が薬を売らずに、なにをやっているのか?的な価値の転倒が起き始めている。

マスクは、医療用具だと思っていたが、日用品として売られてもいた。

が、メガネ屋とは、ちがうだろう?確かに装着する体の部位は、ほんの一部かぶるかもしれないが。


天ぷら屋にもマスクげ並ぶなど、もはや、薬局というものが固有に持っていたはずの価値が崩落しているかのようだ。


2020.5.7.13.30



断水


世田谷区内では、5.7.において、水道管工事が施行され、断水が発生した。


古い水道管を新しい耐震化の水道管に取り替える工事、だという。


13時から17時のあいだ、断水すると、4.30.付で、ビラがポストに入っていた。

そして、実際、13.30.の段階で、断水していた。


マジで?と思って、様子を見に行ったが、確かに工事をやっている。

やむなく、都の水道局に、クレームの電話。

【今、断水している。工事のためだ。ステーホームと言いながら、断水するのは、明らかにおかしい。こんな状態では、ステーホームは、できない。緊急事態宣言は、延長されたわけだが、それでもこの工事、今やりますか?どう考えてもおかしい。

このあとまだ、一週間ほどこの工事をやるらしい。上のものに伝えて、すぐに辞めさせてください。】


と、一方的に話し、問題点を指摘して、切った。

問題意識は、一瞬で、電話に出た都職員とは共有した。私から、上の人間と話して議論することでもないので、要求を一方的に伝える手法をとって、電話代を節約した。


緊急事態宣言、というもの自体に、私は反対だが、緊急事態だという理由で、行政がやりたい放題やるのは、明らかに間違っている、と思ってクレームを入れた。行政によって、どこまでも人権を蹂躙できるなどと、考える思考方法があるならば、それを潰しておかねばならないわけで。


いちいち、面倒なことを言っていかねばならないのは、ほとほと疲れるが、やれるところで反撃しておくよりない。


SJ

2020.5.7.戒厳令延長1日目


追加

 不必要に水を止めるとか、非常事態と認識しているならば、しちゃいけないことでしょ?となぜ認識できないのかが、わからない。

 非常事態だから我慢しろ?とでも言いたいのか。放置したら、どんどん行政権力が、私たちの生活領域に食い込んでくる、という危機意識を持ちました。



岡村の差別発言

「新型コロナウイルスの感染拡大を受けて女性の収入が減り コロナが明けたら美人さんがお嬢(風俗嬢)やります」


 この文書に限って、一体何がどのように問題なのか、刻んで見る。

 

 「コロナウイルスの拡大によって、収入が減る」この主張はまさにその通りで、そのことを巡って、私自身どうしたものかと、日々奔走している。社会的な関係性が切断されないように、次にどのような事態が起きるのか見えない中で、一定の準備と、一定の予測を立てながら、進められることを進めていくよりないと思いながら。

 「コロナが明けたら美人さんがお嬢をやります」

 この発言に、まず、「美人」という表現がある。人を美醜という価値観で見ていることを、はっきりと示す表現だ。これは、お笑い芸人と呼ばれている差別者集団内では、差別語とは認識されていないのだろうが、美人と非美人がいるという表現として、機能している。人間を2つのカテゴリーに分類しようとする表現である。まず、これが、前段。

 次に、「風俗嬢」という表現がある。岡村がどういう意味で用いたのかは、その前後の文脈があるのだろうから、今は置いておく。「風俗嬢とは、風俗店に勤務し性的サービスを提供する女性従業員の俗称。ニューハーフも含める場合がある。」(wikipedia)「風俗嬢」という仕事をそのほかの仕事よりも下位に置かれるべき仕事と差別的な眼で見ていることが前提となっているものと思われる。

 故に、「美人」と上位カテゴライズされた存在が、下位に置かれた仕事に、「転落」する様を、描き出したものと捉えられる。

 そして、この認識の枠組みを岡村自身は、どのように捉えたのか? 

  収入が減る→美人風俗嬢の登場 として、描き出したのだ。


 この表現の一体何が、どのように問題なのか?

 

 収入が減るということの原因を、コロナウイルスに求めている点。コロナウイルスで、仕事がなくなることが、原因であり、その保証をきちんとしようとしない、日本政府の姿勢に問題があるにもかかわらず、そのことに触れていない点に、大きな問題がある。

 そして、本来社会的な問題であるはずの問題を、個人的な問題にすり替えて、「美人」という上位概念を差別的に用いて、下位にある(と岡村が観念的に思っている)「風俗嬢」という仕事につく、という現象が生じると、言い放っている。それが、あたかも、大量に発生するかのごとく、リアルに見てきたかのごとく差別を扇動している。 


 岡村の中に、職業に対する明白な差別意識があることが、この表現からわかる。仕事として、対等であり、そこで働くものの労働の苦しみや喜びといったものを一切考えることなく、ただ、差別を煽ることに堕ちてしまっている。 


 岡村がこの後の人生の中で、どのような価値観を形成していくことが望まれているのか?

 自らの差別意識を徹底的に洗い出すべきだろう。

 お笑いと称して、今までどれほどの差別的な表現を繰り返してきたのか、そのことを含めて人生を振り返るべきだろう。それらの行為が、今回の差別発言に連綿とつながっているのだ。


2020-5-1 SJ



共謀罪という名の治安維持法が、
衆議院を通過しようとしている。

それを放映しようとさえしない
「国営放送」という名のNHK

真に大事なことを伝えずに、
覆い隠す役割をしてきた情報業界

「犯罪を準備」していると睨まれたら
捕まえられる

    そんなことがあっていいわけないだろう?
皮膚の荒れ

皮膚が荒れたことに気づいたとき、しばらくは様子を見る。あれが治癒しないならば、市販薬でなんとか対応しようと試みる。

それでも治癒しないとき、皮膚科医師の診断を仰ぐべきかどうか、考える。

仰いだ場合、その医師の指示に基本的には従うべきだろうと私は考えているが、医師は神の手をもっているわけでもなく、薬を処方したり、切開したり、縫ったりするにすぎない。医師は患部に対して働きかけはするが、治そうとする主体はあくまで患者である私だ。

仰がなかった場合、皮膚の荒れに対して、私自身がまさに主体的に、患部に対して働きかけを行い、主体的に腹を据えて治癒することをめざしていくことになる。

医師という媒介項を導入するかどうかで、
一つの患部に対する働きかけには、
違いが出てくる。

さらに、医師という媒介項を導入したら、必ず治癒するというものでもない。

医師と患者の信頼関係は、それ故に極めて重要なことがらだ。

ときには、医師の診断を乗り越えて、自らの判断で自らの皮膚と向き合い、治癒に向けて、動き出さねばならないこともある。