オリバラをめぐるいまの情況をどう眺めるか

 都知事石原による五輪誘致運動が開始されたからやむなく、五輪問題について語らざるを得ない情況に置かれたことが何度もある。

 五輪開催に、基本的に私は反対。

 国家意識、ナショナリズムを鼓舞する動きが強まること。
 競争主義が煽られること。

 などを基本的な軸として、考えてきた。

 誘致に成功した以上、開催に異議を唱えるのは、どうかと思う、といった突きつけをくらったこともある。
 その際に、一住民として、生活しづらくなるのは、困る。電車が混む、五輪中心の生活を強制される、といったことが、どんどん出てくるだろうから。それを最小限にするために、反対の意思表示をしておくことに意味があるのではないか、というはなしをしたことを覚えている。住民として困る、という主張には、異議を唱えにくいものだと考えている。

 いま、目前に迫っている五輪だが、かなり、その意味合いが変わってきているのではないか、と私には見える。

 無観客ならば国威発揚は、難しい。

 マラソンで、都内をランナーが走り、子どもたちにヒノマルを振らせまくる、という風景は、無くなった。

 聖火ランナーが走ってはいるが、各地で反対運動が起きていることが、報告されている。聖火ランナーとして走ることの価値に、善なるものを見みいだしているであろう当事者に、その価値観はおかしくないか?と、対置すべきものが提示できる情況が創り出されつつある。反対意見がきちんと併立している情況を作り出せていることを、素直に私は喜びたい。

 五輪が素晴らしい、とする価値観に対して、五輪に反対するという価値観が、きちんと成り立ったまま、20日前になった。
 五輪開催集団としては、決して望ましい情況ではない。開会式を執り行うとしている時間帯に、反対デモが起きる。つまりは、開催時に同時に、開催反対の声がはっきりと上がることが、決まった。それなりの規模で、五輪反対派のデモが競技場周辺で起きる。

 五輪開催が、都民の総意ではないことが、はっきりと示せることは、価値あることだと、私は思う。
 これからの20年、日本という国家がどの向きに舵を切るのか、極右勢力の思い通りにはいかない、ということが、はっきりしたということだと、私は見ている。
 その意味においてホッとしている。


 石原慎太郎という都知事が10年居座った。その間に、さまざまなことが起きた。都立大学は解体された。都立病院も解体攻撃を受けた。
 それでも、それぞれが陣地戦で粘り強く抵抗を続け、民意を反映しようと悪戦苦闘している。
 
 先日、世田谷区教委が、観戦動員を破棄した。こころある教員、保護者、学生がギリギリまで粘り腰で闘ってきた結果なのだと、私は評価する。

 いくつかの教委はまだ、観戦動員を目論んでいる。都教委は、態度を留保したままだ。
 
 7.7.の夜の報道では、7.12より、まん防から緊急事態宣言に切り替えになるという。いよいよもって、新しい次元に達した、ように見える。緊急事態=戒厳令状態で、五輪を強行突破しようとする五輪開催勢力と、生活をかけて反対する住人との血みどろの闘いがはじまることになる。
 そのことを知った海外からギリギリに到着するであろう競技参加予定者は、どのような気持ちだろうか?
 
 2021.7.8.朝10時