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リュウチェル
止められなかった自殺
リュウチェルが、私より先に自殺した。
同志だと思っていた存在に先立たれた。
いつ死んでもおかしくないと思っていた。それは私も同じだ。
自分らしく生きることを選択したとき、それを潰そうとする圧倒的な多数の前で、
自分を貫くことは、あまりにしんどすぎる。
そして、嘘をつくことができない限り、心に負荷を背負いすぎる。
それでも、相談さえくしてくれれば、共に生きようと、支え合うことができた、と私は信じている。その関係性を築けなかったことが、君を自殺に追い込んだ。
たかだか、1kmほどのところにいたのに。
結婚すると言ったとき、やめておきな、と伝えたかった。今の社会制度の中で、自分らしくは生きられない。制度を変えない限りは、私たちは、幸せになど、生きられない。制度を変えること、制度が変わっていく様を楽しむことが、幸せだと、考え方を変えない限り、私たちは生きていけない。
君がやりたいと思っていたことは、理解している。
残されたものが、その想いを引き継いで、少しでもその実現のために、変革を志すよりない。これが、残されたものの、役目と信じて。
東海高校からのお詫び を批判する
東大殺傷事件から
@@@@
本校在籍生徒が事件に関わり、受験生の皆さん、保護者・学校関係者の皆さんにご心配をおかけしたことについて、学校としておわびします。
本校は、もとより勉学だけが高校生活のすべてではないというメッセージを、授業の場のみならず、さまざまな自主活動を通じて、発信してきました。また本校の長い歴史のなかで、そのような校風を培ってきました。
ところが、昨今のコロナ禍のなかで、学校行事の大部分が中止となったこともあり、学校からメッセージが届かず、正反対の受け止めをしている生徒がいることがわかりました。これは私たち教職員にとっても反省すべき点です。
「密」をつくるなという社会風潮のなかで、個々の生徒が分断され、そのなかで孤立感を深めている生徒が存在しているのかもしれません。今回の事件も、事件に関わった本校生徒の身勝手な言動は、孤立感にさいなまれて自分しか見えていない状況のなかで引き起こされたものと思われます。
今後の私たちの課題は、そのような生徒にどのように手を差し伸べていくかということであり、それが根本的な再発防止策であると考えます。
@@@以上が原文と思われる。
本校在籍生徒が事件に関わり、受験生の皆さん、保護者・学校関係者の皆さんにご心配をおかけしたことについて、学校としておわびします。
→学校として、お詫びすべき、という立場宣言と受け止めます。
本校は、もとより勉学だけが高校生活のすべてではないというメッセージを、授業の場のみならず、さまざまな自主活動を通じて、発信してきました。また本校の長い歴史のなかで、そのような校風を培ってきました。
→勉強だけが高校生活の全てだ、と言っている高校は存在しない。その当たり前のことから始まるこの謝罪文は何?
→さまざまな自主活動とは?
→校風とは?
◉曖昧な言葉で、お茶を濁すのが、当該の高校の校風、と私には見える。
◉自主的な活動とは、文科省管轄外の全ての活動か?具体的に何を指しているのかわからない言葉の羅列。
ところが、昨今のコロナ禍のなかで、学校行事の大部分が中止となったこともあり、学校からメッセージが届かず、正反対の受け止めをしている生徒がいることがわかりました。これは私たち教職員にとっても反省すべき点です。
→学校行事中止を理由にして、逃げを打とうという姿勢がありあり。授業はやっていたのではないのか?学校は、学校行事のためにある?とでも言わんばかりの日常授業の扱いが軽いのか?日々の授業においては、何をして来たのか?
→授業において、メッセージを伝えようとして来たのか?
→学校としての謝罪なはずの文書に、教職員にとっても反省すべき点だとしている、ということは、ほかに誰が、反省すべきだと、暗に言っているのか?当該の学生に反省しろと、迫っているのか?
「密」をつくるなという社会風潮のなかで、個々の生徒が分断され、そのなかで孤立感を深めている生徒が存在しているのかもしれません。今回の事件も、事件に関わった本校生徒の身勝手な言動は、孤立感にさいなまれて自分しか見えていない状況のなかで引き起こされたものと思われます。
→蜜をつくるな、という社会風潮を原因として、この一件を見ているならば、高校を廃止して責任を取ってほしい。蜜をつくるな、とするならば、授業を通して、密な関係性を対置すれば良いだけの話であり、密な関係性を模索して来ていたのか?そのことが問われているにもかかわらず、一切そこには踏み込もうとしない。
→孤立間に苛まれた存在を作り出した原因は、当該高校の授業実践の内容にある。まず、そのことを認めよ‼️社会風潮のせいにするな‼️その点を見ずに、いったい何を謝罪しているのか?全く視点がずれまくっている。
今後の私たちの課題は、そのような生徒にどのように手を差し伸べていくかということであり、それが根本的な再発防止策であると考えます。
→手を差し伸べていないという現実を認めたのか?まずはっきりと自分たちの至らなさを率直に認めよ。そこからしか始まらない。
▲こんなふざけた謝罪文ならざる謝罪文しか出せないから、今回の一件が起きたのだろうな、と私には見える。
ゼロから組織を組み直すことが必要だと、私は感じる。あるいは、廃校にしろ的な勢いで、組み直しが必要だろう。
sj
追加
上の文を読んだとき、気持ち悪い謝罪だ、と感じた。謝罪したくないのか、する気がないのか、何を謝罪して良いのか、わからない、といった、なんのための文書かわからない。
大きな事件になり、学校名が割れ、組織防衛の為の言い訳の文か?と思った。
真摯な姿勢がまったくない。
原因を自分たちの教育指導には求めないという錯倒した感覚がにじみだした悪文。
なぜこんな文書を、高校名を隠し、無署名で出したのか?
オリバラをめぐるいまの情況をどう眺めるか
都知事石原による五輪誘致運動が開始されたからやむなく、五輪問題について語らざるを得ない情況に置かれたことが何度もある。
五輪開催に、基本的に私は反対。
国家意識、ナショナリズムを鼓舞する動きが強まること。
競争主義が煽られること。
などを基本的な軸として、考えてきた。
誘致に成功した以上、開催に異議を唱えるのは、どうかと思う、といった突きつけをくらったこともある。
その際に、一住民として、生活しづらくなるのは、困る。電車が混む、五輪中心の生活を強制される、といったことが、どんどん出てくるだろうから。それを最小限にするために、反対の意思表示をしておくことに意味があるのではないか、というはなしをしたことを覚えている。住民として困る、という主張には、異議を唱えにくいものだと考えている。
いま、目前に迫っている五輪だが、かなり、その意味合いが変わってきているのではないか、と私には見える。
無観客ならば国威発揚は、難しい。
マラソンで、都内をランナーが走り、子どもたちにヒノマルを振らせまくる、という風景は、無くなった。
聖火ランナーが走ってはいるが、各地で反対運動が起きていることが、報告されている。聖火ランナーとして走ることの価値に、善なるものを見みいだしているであろう当事者に、その価値観はおかしくないか?と、対置すべきものが提示できる情況が創り出されつつある。反対意見がきちんと併立している情況を作り出せていることを、素直に私は喜びたい。
五輪が素晴らしい、とする価値観に対して、五輪に反対するという価値観が、きちんと成り立ったまま、20日前になった。
五輪開催集団としては、決して望ましい情況ではない。開会式を執り行うとしている時間帯に、反対デモが起きる。つまりは、開催時に同時に、開催反対の声がはっきりと上がることが、決まった。それなりの規模で、五輪反対派のデモが競技場周辺で起きる。
五輪開催が、都民の総意ではないことが、はっきりと示せることは、価値あることだと、私は思う。
これからの20年、日本という国家がどの向きに舵を切るのか、極右勢力の思い通りにはいかない、ということが、はっきりしたということだと、私は見ている。
その意味においてホッとしている。
石原慎太郎という都知事が10年居座った。その間に、さまざまなことが起きた。都立大学は解体された。都立病院も解体攻撃を受けた。
それでも、それぞれが陣地戦で粘り強く抵抗を続け、民意を反映しようと悪戦苦闘している。
先日、世田谷区教委が、観戦動員を破棄した。こころある教員、保護者、学生がギリギリまで粘り腰で闘ってきた結果なのだと、私は評価する。
いくつかの教委はまだ、観戦動員を目論んでいる。都教委は、態度を留保したままだ。
7.7.の夜の報道では、7.12より、まん防から緊急事態宣言に切り替えになるという。いよいよもって、新しい次元に達した、ように見える。緊急事態=戒厳令状態で、五輪を強行突破しようとする五輪開催勢力と、生活をかけて反対する住人との血みどろの闘いがはじまることになる。
そのことを知った海外からギリギリに到着するであろう競技参加予定者は、どのような気持ちだろうか?
2021.7.8.朝10時
五輪問題の現況
2021.6.24.天皇ナルヒトを通して、宮内庁のトップが、【新型コロナウイルス感染症の感染状況を大変心配されている】との発言をした。
天皇による政治介入であることは、間違いがない上に、いよいよもって、東京五輪の矛盾が、ナルヒトによる政治介入まで、引き起こすレベルに達するほどに、極点に達した、と見ることもできる。
ナルヒトにして、東京五輪の開催に、重大な疑問がある、ということとして、二重三重の意味で問題が爆発しつつある。
成田検疫の問題も露骨に明らかになりつつある。民衆の行動を制限する目的で行われている検疫だが、見事に、スルーして、成田から大阪まで移動に成功した、五輪競技参加予定者がいる。
検疫体制の矛盾とそのありようが、浮き彫りにされた。
排外主義に堕ちることなく、現象を眺めることが必要だろう。
空を飛ぶ鳥には、国境線などない。軽々と人間が引いた国境線など乗り越えてくる。つまり、人間の都合で引いただけの線など、一部の人間にしか通用しない、ただただ権力的な線に過ぎない。
国境線は民衆が引いた線ではない。
日本という国家の権力が、その線の内側を管理しようとして、検疫を行なっているわけだが、それがものの見事に失敗し、デルタ株やデルタプラス株の侵入を許し、更なる変異株を、東京五輪開催の先には、東京で、引き起こすことになるのだろう。
この事態をいかに迎え撃つのか?が、問われている。
検疫体制の強化で、日本国内だけを【安全に】保つべく行動するのか。
ウイルスの変容を冷静に押さえて、情報を全て開示した上で、議論するのか。
視点を変えて考えてみる。
国立競技場でレースをする必要があるのか?
感染病を爆発させてまで競い合いたいならば、もはや、それぞれの地で、同じ時間に、それぞれが、時間を競い合って、ヴァーチャルに競い合えば良いではないか?SNS上のゲームのように。
例えば、ロンドンのスタジアムで、イギリスからの参加者は100メートル走を7月31日12時に開始する。予選などいらない。本戦のみの一回勝負。同様に、北京で、シドニーで、と参加したい者が、その競技場で、走ればよい。何も東京に集まる必要などもはやない。個人競技は、すべてその要領で戦えばよいであろう。
命を削ってまで戦いたいというのならば、その世界は、バーチャルな世界で、それぞれの立場でよろしくお願いしたい。
そして、やがては、その価値観がすたれ、スポーツとして時間を戦うことから、離脱していくことを、私は願いたい。
集団競技について。例えば、バレーボール。国家別のチームを作ることを辞めよ。各チームは、それぞれが、属している国家から1人だけ。言語も違う、指導方法も違う、そんな中で、共同、協働して、なにごとかを作り出そうとする、というのならば、それはそれで、一つの価値をもたらすだろうと、思う。
くだらない国家編成チームは、辞めよ。
2021−6−25
追加
宮内庁トップによる発言を、ときの政府権力は、必死になって揉み消そうとあがいている。ナルヒトの発言ではなく、宮内庁トップの個人的な見解として。
パワーゲームを展開せざるを得ないほどに、国家の中枢部分に、動揺が走っていることがわかる。
ときの政府権力の思い通りには、事態は動かなくなっていることが、ハッキリとしてきた。
初の薬剤師ドラマ
病院薬剤師を扱ったドラマがはじまる、と、4月段階で言われていた。
コロナ案件で、撮影が遅れたらしく、9月末まで放送していた。
薬学部の推薦入試を受ける学生をみている関係から、このドラマのことが、その面接で話題になる可能性が高く、みておかねばならないドラマ、として浮上した。
臨床薬剤師という職種を確立しようと、北里薬学部が、ある時期に全力で力を入れていたことが、ようやく一つの形になったのか、と、ペーパー薬剤師の私には映った。
薬剤師とはなにか、なにをする仕事か、と問われても、ぼんやりと調剤薬局で事務的にこなしているものには、答えられないのではないか、その曖昧さが、薬剤師という仕事を、不当に価値の低いものとして、医師から扱われてきたのではないか、と言った批判は、今まで何度となく薬剤師の内部ではされてきたはずだ。
その枠を脱するために、4年制薬学部を6年制に再編し、臨床に力を入れ始めて、約10年の歳月が経過した。まだまだリアルな動きは、私には捉えられないが、病院単位では、今までとは異なる臨床的な役割が期待され実践されようとしていることが、このドラマを通して少し伝わってきた。
医者になれなかったから、薬学部行きます。
この消極的すぎる価値を持って薬学部に進む学生の圧倒的な多さ。
医師への過剰すぎる期待を煽る医療系ドラマの多すぎる情況。
そんな私の苛立ちを少しばかり緩和するのには、このドラマは役立ったようには思う。
一方で、医者こそが全てだと考えているアホすぎる学生のアホな思考を、少しばかりは修正できる内容をこのドラマは、質的には有していた部分があるかもしれない。医者だけが、医学をやっているわけじゃない。医学を明白に支えている医学研究者としての薬学研究者の姿も、少しは垣間見えただろう。
それぞれの仕事には、それぞれの仕事の原理的な価値と意味が存在している。逆にいえば、原理的な価値と意味が存在しているものが仕事として、価値づけされ、今の資本制社会の中の一つの部品として、位置付けられている。その位置付けを改良しようと、模索する動きは、ドラマになる。ただ凡庸に与えられた仕事をこなすだけの日常をドラマ化するのは難しい。
薬剤師に、非日常的な側面が与えられ、それを臨床家として、主体的に担おうとする存在が可視化されたことは、意味があったと、私には思える。
sj
2020.9.30.
追加
私立薬科大による学部教育六年制への移行は、ある種の要求闘争として、取り組まれたものと認識している。それを阻んできたのは、国立薬学部連合体だった。薬学部を研究者養成機関とみる国立に対して、薬剤師養成機関とみる私大の間の対立構図が、六年制への移行を、かなりの年月、遅らせた。6年制は2006年設置、2012年卒が初。
追加2
このような動きは、社会運動としては、全く取り組まれた形跡がない。ただただ問題提起のしようがないからなのか、中途半端な改良主義的な変革だからなのか。
例えば、看護師ならば、その職種にまつわる労働現場のキツさが、医療労働運動から取り組まれている。准看、正看の差別待遇問題や、給与問題も、この何十年もの間、ずっと話題になってきた。専門学校からの看護師へのルートから、四年制大学の看護学科からのルートが、この10年間で随分と増えた。制度改革とそれにまつわるところで、幾つもの運動が形成されただろうと思う。
それとの比較の上で、随分と薬剤師の運動は弱いように思う。
今回のドラマでは社会運動的なものとの接点は、私には見えなかった。