最後の努力[上]
著 塩野七生 〈新潮文庫〉
本のカバーより
ローマの再建に立ち上がったディオクレティアヌス帝は紀元293年、帝国を東西に分け、それぞれに正帝と副帝を置いて統治するシステム「四頭政」(テトラルキア)を導入した。
これによって北方蛮族と、東の大国ペルシアの侵入を退けることに成功。
しかし、膨れ上がった軍事費をまかなうための新税制は、官僚機構を肥大化させただけだった。
帝国改造の努力もむなしく、ローマはもはや、かつての「ローマ」ではなくなっていく。
本文より
〈紀元284年に皇帝になりローマ式に「ディオクレティアヌス」と名を改めてからのこの人物についてならばわかっているが、
それより以前の「ディオクレス」と名のっていた時期の彼についてはほとんどわかっていない。
変死したヌメリアヌス帝の警護隊長であったことは確かだが、それ以外のこととなると、紀元245年前後にアドリア海の東岸の、現代ならばクロアツィア国内になるスプリトの近辺で生れたということしかわかっていない。
父母の名も不明で、農園で働いていた解放奴隷の息子という説もあるくらいの下層の出身だった。
ローマ時代には成年を意味した十七歳に達するや軍に志願したとすれば、以後の二十年はローマ軍の兵士として過ごしたことになる。〉
紀元三世紀のローマは、蛮族の侵入を阻止するのが精一杯で、軍の実力者が皇帝にならざるおえない時代だったようです。
ディオクレティアヌスが帝位に就いた紀元284年の時点で、安全保障と、帝国の構造改革が対処を迫られ重要視される問題でした。
性格は正反対の二人だったようですが、ディオクレティアヌスは武将としてのマクシミアヌスの才能を、誰よりも正確に評価していたようです。
ローマ帝国の皇帝という最高権力を、他人に分与するなどということは、普通ならばやらないけれど、ディオクレティアヌスは、マクシミアヌスを「カエサル」(帝位後継者を意味する)に任命し「二頭政」がはじまります。
そして、帝国の東方と西方を二人の皇帝が分担して担当する「二頭政」が機能した七年間で、当面の問題はひとまずにしろ解決したのです。
サン・マルコ広場の元首邸の入口に置かれ、今に至る。
「四頭政」
紀元293年、帝国西方のマクシミアヌスはコンスタンティウス・クロルスを、
帝国東方のディオクレティアヌスは、ガレリウスを「カエサル」に任命し、「四頭政」が実施されます。
四人全員が、ローマ軍団でキャリアを積んだ軍の精鋭で有能な武将でした。
オリエント全域。小アジアからシリア、パレスティーナを通り、エジプトまで網羅。
ガレリウスに、託された地域は
ドナウ河防衛線の南に広がる全域。当時ならばパンノニア、モエシア、トラキアに分かれていた地方だが、ギリシアもふくめたバルカン全域。
ブリタニア、ガリア、ヒスパニアに、ジブラルタル海峡をへだてて向き合う北西アフリカ。
マクシミアヌスが担当するのは
現代ならばドイツ南部になるドナウ河の上流一帯からはじまって、アルプスを越えて達する本国イタリア、そしてコルシカとサルディーニャとシチリアの島々を経て、現代ならばアルジェリア、チュニジア、リビアが並ぶ北アフリカ。
しかしこれによって、巨大化した軍機構と並び立つ、巨大な官僚機構が誕生したのです。
皇帝ディオクレティアヌスは、軍事力を増強することで、蛮族の侵入をくい止めるのには成功しました。しかし、軍事力の倍増に加え、税を納める人の数よりも税を徴収する人の数のほうが多くなってしまうのです。
皇帝ディオクレティアヌスが実施した新税制により、長くローマを成り立たせていた「中央政府」、「地方自治体」、「個人による利益の社会還元」という三本立てのシステムは崩壊します。
このように政局の不安定と危険を内包しながらも、紀元305年ディオクレティアヌスはマクシミアヌスを誘って、あっさりと皇帝を退位してしまいます。
ディオクレティアヌスにしてみれば、帝位20年に達し、帝国の立て直しに必要な改革はすべてやり終えた、という思いだったのかもしれませんし、六十歳となり皇帝の心労と激務の連続に疲れていたのかもしれません。