東京から程近い観光地で知られ、
かつては企業の保養所が軒を並べるほどだったM湖の周回道路沿いに
ラーメン店を構えるAさんは、こう話し始めた。
「そりゃぁ、バブルの頃はひと夏で一年分稼ぎましたよ。
あとの10ヶ月店閉めても贅沢しなけりゃ、十分でしたからね。
だから、最初カウンターだけだった店に無理やり
テーブルの置ける分増築しましたよ。」
確かに増築された客席は入り口を入ってすぐ右のカウンターの奥にあり、
カウンターに人が座ると後ろを通れるかどうかの先にある。
「ところが、バブル崩壊後はこのありさまですよ。
かと言って今更他に移ったりするような資金はないし、
まぁ借金を作らないで生活ができるから・・・。」
Aさんの店は、目の前の道路の向こう側はすぐ湖で、
背後は林が迫っていた。
ホテル群からは少し先にいったところで周囲には店も民家もなく。
林の間を切り開いて道を作ったことがうかがわれる。
店の正面ののれんには大きく「支那そば」と書かれていた。
Aさんは大きく息をするとぽつりぽつりと話し出した。
「ある年の夏が終わって間もなくの頃でした。
その日の夜は客が少なく8時前に閉めようかと思っていたところへ
一組の男女が入ってきたんです。」
「あちらの席、よろしいですか。」
増築された客席の方を指して女性がAさんに聞いた。
ちょっとためらったが、
「あっ。どうぞ。」
天気の良い一日で雨の降った記憶もなかったが、
女性の髪が濡れているように見えた。黒い髪が妙にウエーブしていた。
女性の方がやや年上かもしれないと思った。
男はうつむいていたので良くわからなかったが、学生のような気がした。
「こちらのおすすめのラーメンは何でしょう?」
やはり、女性が口を開く。
「満足ラーメンですが。」
いわゆる全部のせである。
「ひとつでもよろしいですか。」
「結構ですよ。」
「では、お願いします。」
厨房からは死角になって客席は見えない。
会話もなく静かに待っている。
お盆にのせてラーメンをもっていったときも
男のほうは依然として声を発していない。
「お水は、セルフでお願いしますね。」
女性のほうが
「ありがとうございます。」
といったきり、Aさんは、声も音も聞こえなかったそうです。
しばらくして二人が現れた。
「ごちそうさまでした。おいくらですか。」
「950円で」
「こちらでお願いします。」
そう言って出された千円札は濡れていた。
湿っている程度ではなく。
「なんでこんな濡れた札なんか出すんだ。」
Aさんは、思ったが、
お釣りを渡そうと顔を上げるとそこに二人の姿はなかった。
そして、テーブルの上にはラーメンがひとつ、
Aさんがおいたそのままで置かれていた。
・・・続く・・・