左右の典型的思考に嵌り自由を失うのではなく、自らの身体的感覚を重視しそこから考える | ユビュ王の呟き

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右でも左でもない政治について語るブログです。
左右の典型的思考に嵌り自由を失うのではなく、自らの身体的感覚を重視しそこから考える。
反グローバリズム、反ワクチン関連の話題を中心にしていきます。

 

「左右の典型的思考に嵌り自由を失うのではなく、自らの身体的感覚を重視しそこから考える」

 

このブログを始めるにあたってプロフィールにこう書いたのは、右も左も言うことがステレオタイプだよな、と常々感じているんですね。

左にはもともと「資本論」という経典があるので、そもそもの性質からして教条主義に陥りがちなんですが、右も右で反韓反中とか、憲法改正とか、靖国神社参拝とか、だいたい主張していることは決まっている。

1人1人違う人間なのになぜこうもテンプレをコピペしたみたいに言うことが同じになってしまうのかと。

ここで大事なのは「自らの身体的感覚を重視しそこから考える」ことだと思うんですね。

 

 

人が自分の考え方を決定するときは「外部から取り入れる」という手法を取りがちだと思います。

明治維新以来の日本は西欧文明を模範とし西欧という「外部」から思想を取り入れてきたわけなのですが、僕はそれが日本人の身体的感覚に果たして合うものであったのか非常に疑問なのです。

しかし模範が西欧である以上日本はその生徒であるという、従属的で優劣関係の明確な立場に置かれるわけで、それがさらに戦争に敗けて以降はますますその立場が強まったように思える。

 

 

かといって右の言うように戦前の日本に回帰せよとか、「美しい日本」などというのも違和感がある。

すでに戦前の日本の段階で西欧に対し自分たちを劣位に置く見方をしていたわけで、回帰する時点としては浅すぎるんですね。

 

 

それならば明治維新以前の武士の時代はどうかというと、もうすでにサムライなんて滅んでいるでしょ。

今の日本人にサムライのような名誉のために腹を切るような誇り高い生き方をしている人はいませんよね。

今の日本人の素性はサムライではなく、江戸時代の鈍百姓でしょう。

現代は一億総鈍百姓時代です。

その鈍百姓たちが拝金主義に夢中になり、軽挙妄動を繰り返した結果が今の衰退日本なのかもしれません。

 

 

 

 

以前のブログで書いた記事ですが、三島由紀夫はこう言っています。

 

 

実は私は「愛国心」といふ言葉があまり好きではない。
何となく「愛妻家」といふ言葉に似た、背中のゾッとするやうな感じをおぼえる。この、好かない、といふ意味は、一部の神経質な人たちが愛国心といふ言葉から感じる政治的アレルギーの症状とは、また少しちがつてゐる。
ただ何となく虫が好かず、さういふ言葉には、できることならソッポを向いてゐたいのである。
この言葉には官製のにほひがする。また、言葉としての由緒ややさしさがない。どことなく押しつけがましい。
反感を買ふのももつともだと思はれるものが、その底に揺曳してゐる。
では、どういふ言葉が好きなのかときかれると、去就に迷ふのである。愛国心の「愛」の字が私はきらひである。
自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向う側に対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである。

 

 

三島由紀夫は右翼というイメージがありますが、意外にも愛国心という言葉が好きではなかったのですね。

赤字にした箇所で三島は、彼にとって日本とは内面的な存在であると言っているんだと思います。

このような視点が僕は重要だと思うのだけど、日本とは外部化され対象化されたものではなく、内在的なものであるという見方ですね。

この見方に従うならば、思想や論理は外部からもたらされるものではなく、内在的なものから生み出されなければならないということになるんですよね。

 

 

こういう見方は文学者や小説家にとってはよく分かる話だと思うのですが、かといって世間一般で広く支持されるかといえば、そうではない気がするんですね。

なぜなら人間は外部に視点が向きがちで、内面にはなかなか向かないからです。

また日本には西欧という「外部」を優位に置くことで、自らの「内部」を劣位に置いているので、意識するしないに関わらずこれを抑圧する構造があるのだと思います。

 

 

この構造に対し、右は日本を三島の言うように「その国といふものを向う側に対象に置いて、わざわざそれを愛する」、つまり日本を外部化することで西欧という外部と対峙させようとしている、という図式になるのかもしれない。

しかしそれは「わざとらしくて」「官製のにほひがする」というわけですね。

 

 

ちょっと、何を言っているのか理解してもらえているか分からないので、一つ例を挙げようと思うのですが、「進撃の巨人」という漫画がありましたよね。

あれは巨大な壁に囲まれた島に、過去の記憶を改ざんされた人々が住むという設定がなんだか今の日本っぽいとか、深読みの好きな人たちに好まれそうな漫画ですが、始祖ユミルというのが出てきますよね。

始祖ユミルは巨人の力の源泉であり崇拝の対象なのだけど実は王の奴隷で、人々の深層意識の奥深くに鎖に繋がれている。

その深層意識の回路に接続されることで主人公のエレンはユミルと出会うのだけど、細かい描写は省くとして、ここに描かれているイメージはまさに日本人に内在する「日本」のイメージなのかなと思ったのです。

 

 

自分の内面に目を向け意識を深堀していくということは、なかなか大変なことです。

しかも経済的に特になることでもないので、そういうことを考えている人はますます少ない。

しかしそうした作業を経ない思想(というと小難しくなるので、単に「考え方」と言ってもいい)考え方は、自分の身体感覚に合致しない宙に浮いたものになりがちです。

そのように単にその場その場の都合でPCにOSをインストールするように外部から自分の考え方を植え付けるというのは、本当の意味で考えたことにはならない。

そして一番恐ろしくも有害なのは、外部(マスコミや政府、外国等)により僕たちの考え方が誘導されてしまうということです。

直近でも起きたコロナ禍やワクチン問題はそのような仕組みによってもたらされたと考えます。

それに対するには、「自由」であること、まさに言葉本来の意味である「自らに由る」ことが重要であると。

僕はそう思うのですがいかがでしょうか。