実は私は「愛国心」といふ言葉があまり好きではない。
何となく「愛妻家」といふ言葉に似た、背中のゾッとするやうな感じをおぼえる。この、好かない、といふ意味は、一部の神経質な人たちが愛国心といふ言葉から感じる政治的アレルギーの症状とは、また少しちがつてゐる。
ただ何となく虫が好かず、さういふ言葉には、できることならソッポを向いてゐたいのである。
この言葉には官製のにほひがする。また、言葉としての由緒ややさしさがない。どことなく押しつけがましい。
反感を買ふのももつともだと思はれるものが、その底に揺曳してゐる。
では、どういふ言葉が好きなのかときかれると、去就に迷ふのである。愛国心の「愛」の字が私はきらひである。
自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向う側に対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである。

 

 

国旗というものになぜ自分が押しつけがましさを感じるのか考えたのですが、三島由紀夫のこの言葉がしっくりくるように思えたので引用しました。

赤字にした部分が特に重要だと思うのですが、言い換えるとするならば、内在的なものを外部化してそれを崇め愛するというのがわざとらしいという感覚ですね。歪んだナルシシズムというか、あまり自然な感じがしないのです。

 

 

関連して、ちょっと思い出したのが坂口安吾の「日本文化私観」の一節。

以下に引用する箇所ですね。

 

 

然しながら、タウトが日本を発見し、その伝統の美を発見したことと、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも現に日本人であることとの間には、タウトが全然思いもよらぬりがあった。即ち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた精神から日本が生れる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もない。日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ。彎曲した短い足にズボンをはき、洋服をきて、チョコチョコ歩き、ダンスを踊り、畳をすてて、安物の椅子テーブルにふんぞり返って気取っている。それが欧米人の眼から見て滑稽千万であることと、我々自身がその便利に満足していることの間には、全然つながりが無いのである。彼等が我々を憐れみ笑う立場と、我々が生活しつつある立場には、根柢的に相違がある。我々の生活が正当な要求にもとづく限りは、彼等の憫笑が甚だ浅薄でしかないのである。彎曲した短い足にズボンをはいてチョコチョコ歩くのが滑稽だから笑うというのは無理がないが、我々がそういう所にこだわりを持たず、もう少し高い所に目的を置いていたとしたら、笑う方が必ずしも利巧の筈はないではないか。

 

 

「説明づけられた精神から日本が生れる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もない。」

これはそのまま、よくある「ここがスゴいよ日本人!」系のテレビ番組にたいする批判になると思うのですが、外国人にそれを言わせるというのが特徴ですね。

つまり外部からの視点を置くことで内在的なものを明らかにするという構造になっています。

 

 

しかしこれはサルトルの言う「実存は本質に先立つ」という言葉から考えると、外部から見た自分⁼本質となり、内在的な自分⁼実存となります。

つまり内在的な自分は外部から見られた自分に先立つ、優越するという意味ですね。

外部から見られた自分は必ずしも本当の自分自身であるとは限らないということです。

しかし人間はしばしば他人から見える自分を自分そのものと思い込む。

よくある日本スゴい系の番組や、繰り返し語られてきた日本人論にはそのような陥穽があることは意識しなければならないでしょう。

 

 

ちょっと話がややこしくなってしまって、僕の言いたいことがうまく伝わっているか分からないのですが、もう少し続けましょうか。

僕は「ふるさと」という言葉、坂口安吾が好んで使っていた言葉ですが、これならしっくりくるんですね。

ところがこれが「国」となると、途端に距離が遠く感じ、なにか非常な冷たさを感じてしまう。

 

 

前の戦争で出征した兵隊たちの多くが守りたかったのは、どちらかというと「ふるさと」のほうではなかったかと思う。

そして「ふるさと」とは、その中に親や家族、友人がいて、山河が広がる風土の中で育まれ培われたものです。それは人間にとって相互的な関係だと思うんですね。

ところが「国」となると、「ふるさと」のような相互的な関係ではなく、一方的で垂直的な関係となってしまう気がします。

あの戦争で亡くなった兵士の7割程度が餓死か病死だったそうですが、何でそうなったかというと、やはり「国」のやることに文句を言うな、黙って従えという考えが「国」の中にあるからで、そういう考えは今に至るまでずっと変わっていないのだと思います。

「ふるさと」を守るつもりで出征した兵隊たちを待ち構えていたのは実は「国」で、その「国」が下した滅茶苦茶な命令のために悲惨な死に方で死んでいった。

「俺たちが国を愛したように、国も俺たちを愛して欲しい」とは映画「ランボー」の中のセリフですが、国は個々の人間を愛することは決してないのでしょうね。

 

 

そしてそんな国を愛せよと?

なぜ愛することを強制されなければならないのでしょうか。

「国」に対して従順であることは「国」にとって都合の良いことだからではないでしょうか。

三島由紀夫が「官製の嫌な言葉」といった理由は、どうもそのあたりにあるような気がします。