ブログというのは、アクセス数を増やすことが目的ではありません。



自分が社会に対して言いたいこと、表現したいことがある、その目的を達成するための手段であります。




ですから、アクセス数を増やすことを目的にブログやHPを作ることは、目的と手段を混同していると思います。



アクセス数を増やすのは簡単です。



ここにブログで、例えば、ある有名なアイドルグループの名前を書きますか。


そのあとに、有名アイドル・マ秘・流出・写真(激レア:動画あり・ब्राह्मी・閲覧注意)と書けば、明日にも、ブログのアクセス数は10倍になるでしょう。

良く分からない文字が入っている事こそSEOです。


因みに海外の通販やサイトの暗証番号は、特殊文字を入れておくとよい。



しかし、ブログとHPの違いというのが分かっていない人が多い。


ブログというのは、ログという言葉が入っているように、記録です。



ですから、芸能人が毎日ブログを更新して、



「おはよー、きょうはいい天気ですね~ **です~ これから買い物に行って、お昼はどこにしようかなぁ」

といったことを書いています。




そして、それを毎日読んでいる人は、その芸能人が自分の友人であると錯覚するわけです(本当はプロダクションの担当者が書いているのであり、本人が書いているわけでは必ずしもありません.



根拠:元・教え子のアイドル・タレントが、専属契約を結んだのでFBとブログは、閉鎖しますとのご連絡があった。東京で教えていると、岡山では考えられないことがある。「今日はドラマの収録がありますので塾は休みます…」えっ?「nhkの大河ドラマです」


これが、ブログの本質です。


ですから、私がHPをやめてブログに一本化している理由は、単に維持費がかからないから。

それだけの理由でしかありません。



ブログで重要なことはというと、過去記事の更新と、過去記事を上にあげることです。


そうしますと、アクセス解析というものが最も重要になります。



前も言いましたように、インターネットは怖いところがあるということで、プロに相談しています。


そうしますと、プロのアクセス解析ツールを見れば、こんなことがわかるのか、ということまで、わかるわけです。


極端に言えば、独自のサーバーを持っている大学や大手企業、官公庁からのアクセスはわかるわけです。



ブログとかネットの解析で最も重要なことは、「滞留率(そのブログの記事をどれだけの時間をかけて見たか)」と「直帰率(そのブログを見た後で、ほかの記事をみたかどうか)」、それに、一つの記事を見た人が、ほかのどの記事にアクセスしたか。




そういった数字が、もっとも重要なわけです。



ちなみに私のこのブログは、お気に入りまたはブックマークから見ている方が非常に多い。つまり、固定層がこのブログを見ていらっしゃるわけでして、御覧の方には感謝いたします。




このことが分かっていない例を挙げます。



ある私立学校のHPには、ブログをリンクさせています。




ここにはある程度関係があり、内情は知っています。



おそらく、教育や学校のことを知らない経営アドバイザーから、

「HPへのアクセス数を上げるにはブログのアクセス数を上げること、そのためにはブログを毎日更新することが重要である。なぜなら、HPを新たに見た人が、更新されていなければ見て損をしたような気持になるから」

とアドバイスされたに相違ありません。



これが販売業なら、今日は特売をするとか、あるいは今日の17時からはタイムセールをやるとか、こういうものは毎日更新してブログを見れば、確かにありがたいと思うでしょう。





しかし、塾や学校というのは、そうそう教育理念が変わるわけではありません


毎日毎日、昨日と今日で運営方針が変わるわけもない。



さて、その学校のブログは、確かに毎日更新されています。

ですがおそらく、上の人間がブログを毎日更新せよと命じ、下の者がしょうがないからブログを更新しているのでしょう。


しかし、その内容を常時発表していく能力がない。
で、当たり障りのないことしか書けないわけです。


国立大学の前期試験の合格発表の日の前後は、当然多くの方が実績を気にします。

しかしそのHPを見ていると、国立大学の合格発表が終わって、それから毎日、


今日は校庭に花が咲きました

とか、

今日はいい天気です

とか、

生徒が元気に走り回っている

とか、


そういったことばかり、毎日書かれています。


そんな身辺雑記をHPに連動させて、果たして、何の意味があるのでしょうか?




インターネットとブログの使い方を間違えている例だと思います。




さてこのUBQブログに関しては、以前、内閣府のHPで安倍首相の米国議会演説が切り取られているが、どうして、登壇のシーンから載せないのかと指摘しました。


すると、翌日には、内閣府のHPが、安倍首相の登壇のシーンからに変更されておりました。




東京大学医学部のHPで、日本語では東京大学医学部出身の多くの医学者を紹介した後に、「故人」と記載していました。


しかし英語版では、「ノーベル賞を受賞するはずでしたが、残念ながら受賞前に亡くなられました」という記述がありました

これを短時間に日本語と英語を切り替えて確認し、ブログで指摘しました。


東京大学のアクセス解析能力はすごいものだなと思いました。

見破られたのですね。



そのあとで、東京大学医学部のHPを見ると、ちゃんと書き換えられていて、「ノーベル賞受賞に値する研究をされた」と記載がありました。


また、市民病院の案内がおかしいと書いたら、岡山のローカルニュースで、、同じ構成で取り上げられ、案内版が撤去されました。


どうも、私のブログは東京大学や内閣府のHPを書き換えさせるだけの指摘ができているのだと思われます。



先日あるところで、イングランド人の方と日本の歴史について少しお話をする機会がありました。


その方が、Heian Era とか Edo Era とおっしゃるので、私は、


「era よりもむしろこの場合、period の方がいいのではないか」


と申し上げました。


そこでまた、非常にためになる議論をし、なおかつ後で勉強しました。





確かに辞書をひいてみると、era は大きな時代の区分であり、そのあとに、period という単語が書いてあります。


そこでまず、日本の時代区分を考えてみました。





奈良時代、平安時代、鎌倉時代、江戸時代、明治時代、大正時代・・・これらを見るとすべて、地名であったり元号であったりするわけです。





一方で、例えば中国をみると、「漢の時代」という言い方がありますが、これはもちろん、漢民族という言葉がありますね。








洛陽時代とか洛陽王朝という言葉は聞いたことがありません。





朝鮮半島でも李氏朝鮮という言葉があります。





また西洋においても、ササン朝ペルシア、アケメネス朝ペルシア、あるいはヴィクトリア時代、ロマノフ朝ロシア・・・といったように、こういった時代においては、民族および王朝やその王や皇帝、有力な権力者の名がつけられているわけです。





ところが、日本においては、例えば、江戸時代というのは江戸民族であるとか、江戸人種というのが支配した時代というわけではありませんね。


平安遷都に関しても、「奈良民族を暴力的な革命でもって平安民族が倒して新たな王朝が始まった」などという事実はありません。


単に元号や地名が変わっているだけです。





このように、日本の歴史において・・時代と言った場合、徳川時代とか、平家時代とか、源氏時代という言葉自体が存在しないように思われます。





そこには、民族や家の名前や人の名前は一切入っていません。





となれば、欧米や中東、中国の歴史観や王朝の変遷を日本にそのまま当てはめることは間違いだと思うのです。





紅巾(こうきん)に1368(いさむや)明の朱元璋というのを高校時代に丸覚えした記憶があります。


さて、受験生の方には、明というのはいったいどこからついた名前か、それを考えることが勉強ではないでしょうか。





日本の歴史において、地名が付いている場合(江戸時代や鎌倉時代など)、これはやはり、武士の力が強かった時代のようです。





西洋で「ローマ帝国の時代」と言った場合に、これはやはり地名というよりは、キリスト教を公認したローマ帝国の時代という意味でしょう。


これは、多民族、多宗教の広範囲な国や地域をまとめる上で必要なことだったのでしょう。





この era と period という言葉の違い一つをとっても、大いに英語の勉強になった次第です。





つまり、英語を勉強するということにおいては、単に英語の文や単語を日本語に置き換えたり、あるいは日本語の文や単語を英語に置き換えたりすることは危険であり、まったく勉強の本質とかけ離れているわけです。





英語を勉強する。だから英語をペラペラになるように留学する。


それは、国際理解とか英語で勉強するということではないと思います。





何も留学をしなくても、eraやperiodという単語が欧米の概念でどのように使われているか、一方日本の概念でどのように使われているかといったことを考えることが、英語を勉強するということにつながるのではないでしょうか。





何度も申しますが、日本の歴史について勉強することは国際理解の第一歩であり、それがひいては外国の文化を勉強する第一歩であると思います。














・would /used to

を比べて説明する先生が信じられない。日本語でまとめているのであろう。

 

would

は現在の習慣を表すwillの過去に過ぎない。性質がコロコロ変わるわけはないから継続的。・・・・だったものだと昔を懐かしんでいるわけではない。

 

used to は現在と対比しているから

 

There was a tree.

木がここにあった。

There used to be a tree.

 

なら、たぶん今は木はない。

 

規則的・不規則という説明もおかしいのであって。木があれば、一分後に無くなった上に3分後にもう一度見たら。また生えていたなんてことはない。

 

せめて持続的・継続的と教えるべきだ。

 

what he used to beは昔とは変わった彼というニュアンスだ。

 

もちろん、パターンで教えてはいけないので、辞書で確認してください。

 

what Japan shoud be

考えられる。

 

 

■UBQの女子教育

ところでね、「昔の彼」ときいても「昔、付き合っていた彼氏」という意味じゃないからね。

 

 

 

「元カレに浮気されて彼氏をとられた」

 

いや、君がもともとスペアで本命じゃなかったの!最初から騙されていたの。くらいのことは云うからね。

 

 

 

 

 

 

 

火星に生命が存在する確率。・・・・いるかいないかのどちらかだから1/2








無茶を言うな。





ところが、惑星Xに物質Sが存在する確率。これは1/2なら無茶でしょうか?








つまり、多くの生命体は、水で構成されているから、0度から100度の間でなければ、存在できないはずという知識(思い込み)によって棄却されているわけです。





フレッド・アトニーブは、「任意の自然数の中から、ある自然数を指定すれば」エントロピーは無限大になるといっている。




ですから、「任意に選んだ2つの自然数が素数になる確率」なんて人間のおごりです。その前に人間が任意に選べるのでしょうか?

海外 タクシー 怖い 危険 ぼられる 流し 安全な乗り方 闇タクシー などというテーマでネットにいろいろ書かれているが、私の場合です。



個人で海外旅行に行ったときは、基本的にタクシーは使わないことにしている。バスに乗って、一般市民に交じって普通の暮らし振りを見た方が勉強になるからだ。


そうはいっても、飛行機が遅れたりしてどうしても空港からホテルまでタクシーに乗らないといけない場合もある。


タクシーに、ぼられないように気をつけないといけない。一番良い方法はタクシー代は・・・ホテルを予約しているのでホテルにチャージ(タクシー代はホテルが立て替えて払うとの意味)する、といってフロント・デスクまで運転手にきてもらうことだ。


ぼられるのは不愉快だがもっと怖いのは、いつの間にか、人気のないところに連れて行かれ、気が付くとタクシーの周りを怖そうな人が何人も囲んでいる・・・・ということだ。


(*)お大切な注;ぼられて抗議するとその場で射殺されることも海外では実際に(エクアドル)おこっている。臨機応変に対応されたい。


私のリスク管理:タクシーのなかで携帯電話を掛けること。電話代がもったいないから、話しているふりでも良い。


「・・・ホテルですか?(親しげに)予約している・・・です。お久しぶりですね。」等


尚、日本語でしゃべっていても、ところどころにジャパニース・アンバサダーとかオフィシャルとか、適当に現地の方でありふれた名前を入れましょう


空港からタクシーに乗ったところです。(ここで運転手に、今はどこを走っていますか?・・・ホテルまで、後、どのくらいですか?と聞く、電話をかけた状態で運転手の名前を聞くともっと良い)、空港から・・時…分に黄色の・・・・タクシー(タクシー会社の名前)に乗って、もうすぐホテルに着きます。今夜の夕食は打ち合わせ通りですので、支配人によろしくお伝えください。」


*言葉が通じなくともニュアンスは通じる。ここは嘘も方便と割り切って演技すること!


日本人が空港で消息を絶った。これではまずい。空港から何時に・・・・社の黄色いタクシーに乗ってから・・・・ということになれば、警察はタクシーの運転手から捜査をするであろう。犯罪の抑止力になる。



特に、始めての国でタクシーに乗車した場合に、

「どこから来たのか」

「この国は初めてなのか」

などと聞かれた場合に、

「初めてだ」

などと答えることは危険です。




私の場合には、「I‘m a Japanese officer.(公用で来ました)」

とか、あるいは、「ODAで来た」と言ってごまかしています。




若い学生で、Japanese officerと相手に思われないようであれば、タクシーのドライバーには

「この国に友人がいて、会いに来ました。何度も来ています。友人がホテル(または駅)で待っています

とでも答えたらいいでしょう。

特に一人旅の女性の方は参考にして頂きたい。


さまざまなワーグナー演奏を、バイロイト祝祭劇場で聴いてまいりました。


そこで常に思うことは、


「音楽においてCDと実際の演奏(オペラの場合は舞台)を絶対に比べてはならない」



ということです。


CDは極端な話、休み休み歌っていますし、ライブといわれているCDでも、後で聞いてみると、かなりの編集が入っているということがあります。



例えば、朝比奈隆のカテドラル教会でのブルックナー演奏は、ライブのように思われています。

ところで、実際には、7番の最後で終わる前に、大きな声で「ブラボー」と叫んだ方がおられました。LPになることをみこしていたのでしょう。が、後に発売されたLPで聴いてみると、その部分はすべてカットされておりました。



何でも、もう一度その音だけを録音しなおしたそうです。




さて、ティーレマンの指輪については、実演に接したことがあるのですが、まったく感動いたしませんでした。

それは、何と言っても、理知的に過ぎるのです



無条件に人を興奮させ、アジテイトするようなワーグナー芸術の本質とはかけ離れたものでした。



さて、ワーグナーの指輪というのは大作でありますが、その中で、いくつか覚えているのがあります。



一つは、何と言っても、アダム・フィッシャー。

これは、シノポリが急逝したことを受けて、祝祭劇場全体が異常な盛り上がりを見せていたわけです。

当然、一般のCD演奏とは違います。



また、バイロイト音楽祭の実演に最も生で接している人はだれかという質問に対しては、当然のことながら、劇場のスタッフであります。



ここで劇場のスタッフというのは、各扉に女性(ワルキューレと呼んでいますが)が、万が一の火災などの際の避難に備えて、各扉の前にいらっしゃる方です。

御存じのように、バイロイト祝祭劇場は現在のドイツの消防法ではもはや建てられませんから、各扉にこういう方が待機されておられるわけです。

私は、この方々は当然、舞台を観ていないと思っていたのです。



ところが、ジュゼッペ・シノポリのワルキューレの父と娘の別れの場面です。

ここは、ニーベルンゲン(注)の指輪の中で最も感動的な場面でありますが、ふと気が付いてみると、左側の女性が涙を流しながら聞いているのです。



そして驚くべきことに、右側の劇場のスタッフが、涙を流しながら聴いているのです。どちらも女性です。



劇場のスタッフについてはわかりませんが、左側にいた女性にあとでお聞きし

てみると、



「バイロイト祝祭劇場に来るのは、これが二度目です。一度目は、自分の父を亡くした時に来ました。二度目は、自分が母親になって来ました。娘を失う親の気持ちを、子どもと親という立場で再び眺めたら、涙が出てきたのです」



とおっしゃっていました。





そのほかにも、ジェームズ・レヴァインやダニエル・バレンボイム等、多くの指輪を聴いてまいりました。



現代最高のワーグナー指揮者は、ペーター・シュナイダーだと思うのです。






そもそも飲食業において何故重要なのか?それは簡単です。


客は味が変わると、勝手に味が落ちたと思うからです。


最近はお年寄りのお客さんが増えたから、少し薄味にしたとか、今日は天気が乾燥しているから、持ち帰りの寿司の海苔巻を炙らないようにしようとか、このお客さんは、・・・だから筋切は機械でなく包丁で、という職人の配慮がわかる、お客さんは一人もいないからです。



http://www.hiranojp.com/lineup/product/ 「平野製作所様hp」より。