読書の合間、私は一冊の随筆集を開いてみる。

以前にその焦点の当て方に関心を抱き購入した作家清岡卓行氏の「手の変幻」という本である。



 函のイラストを見てのとおり、「ミロのヴィーナス」をはじめとした芸術作品などの手指から感じる作者の考察が、随筆調や散文詩調に書き綴られているもので、格調高いフェティシズムを感じさせる作品集である。

 その中の一編である「思惟の指」という半跏思惟像、いわゆる広隆寺の弥勒菩薩像について散文詩調に綴られた作品を開いてみる。

 まず「思惟」という言葉について調べてみると、〈しい〉〈しゆい〉の二通りの読み方があることが分かる。
前者は心で深く考えることを意味しており、後者は仏教における考えることの他、浄土の荘厳を明らかにすることという意味が含まれているという。


 成る程と今更のように気付き感心することとして、この詩作の題名「思惟の指」とその内容は見事に両方の意味を兼ね備えている。

 では荘厳とは何か、宗教的な重々しさがあって立派なこと。見事でおごそかなことの他、天蓋・瓔珞などで仏像・仏堂を飾ることも意味していることに、重ねての感心を抱く。

 そして、その静かなる表情と厳かなる佇まいの中、滑らかに宙に向いて伸びている右手の中指は、人間の高潔さを示しているのではないだろうかと作者は考える。

 実際の像の写真を見ながら、私もこの中指の真似事をしてみるも、私の短い指ではまるで様にならないし、指の微妙な曲線が描けないのである。

 この曲線美が描けるのは、スリムで長い指と心が澄み渡った人だけであろうか。
そのような人が羨ましくも思うのである。