前者の一つが元禄の改鋳です。
下記書籍から引用します。
[新装版]徳川吉宗の人間学/PHP研究所

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-------引用ここから-------
五章 「亨保の改革」は成功したか
大岡忠相「貨幣改鋳」を策する
江戸時代において、大岡の貨幣改鋳以前に、2つの大きな改鋳が行われています。最初の改鋳は、六代将軍綱吉の時代。元禄八年(1695)八月、綱吉は当時通用していた慶長金銀の改鋳に取りかかることを認めました。のちの勘定奉行荻原重秀の貨幣改鋳案が採用されたのです。(中略)この改鋳によって、政府は莫大な「出目」を得た。その量は、金で四百五十万両、銀で四百五十六万両あったといわれています。この荻原重秀の行為を不正なものであるとする新井白石は、家宣に彼を罷免させ、正徳四年(1714)、正徳金銀を鋳造した。彼は、その形状から大きさ、品位など、すべて家泰の慶長金銀と同じにしたのです。しかしこれは儒学者の理想主義にすぎず、経済はデフレとなって、不況が促進される結果におわってしまいました。白石は、荻原の貨幣改鋳は不正なものであり、貨幣は純粋なほど良い、世の中はそれで正しく動くと、現代から見ればはなはだ単純とも思える貨幣に対する認識を持っていたようです。(p141-142)
-------引用ここまで-------
政府が得た出目というのは現代で言えば、財政ファイナンスそのものです。それを実施した荻原重秀は結果として大成功を収めた。(もちろん、ハイパーインフレなどにはなりませんでした。)
しかし、いつの時代にも正しいことをやろうとすると邪魔する人がいます。今でもいますね、「財政ファイナンスだ」とか、「ハイパーインフレになる」とか、「通貨の信認が大事だ」とか言ってるアホウが。江戸時代のアホウは新井白石でした。彼は「ダメなものはダメ」とかつての土井たか子のような論理でデフレ政策を実施し、日本を大不況に陥れたのです。
現代の日本人も、このような歴史を真摯に受け止めることが必要でしょう。
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