★★★8-20
「キャンディ、そろそろいくか?」
お皿を下げようと席から立ち上がったキャンディに向かって、テリィは声を掛けた。
「・・やっぱり弾く?」
キャンディは不安そうに返す。
「その為に練習してきたんだろ。早くっ」
テリィはキャンディの手をとって、グランドピアノへ誘導した。
「キャンディがピアノを弾くの!?」
アーチーとアニーは驚きのあまり大声を上げた。
キャンディがピアノを弾く姿など見たことがなかったからだ。
「・・スコットランドのサマースクールで練習して以来なの。上手く弾けるか分からないけど」
「サマースクールで?」
――いつそんなことをしていたのか。

全く記憶にないアーチーとアニーはぽかんと口を開けた。
鍵盤を前にしてキャンディは緊張を隠せなかった。
ピアノの傍に立っていたテリィは、小刻みに震えているキャンディの左手をキュッと握った。
「練習だと思ってやればいい。・・ここは家なんだ、何度弾いても構わないよ」
テリィの優しい眼差しに「・・そうね」、とキャンディは練習を思い出し、頬を染めた。


『あー、ちがう、ちがう。指は跳ねるな。そんなに元気に弾いたらだめだ。夜の戸張のように、流れる様にしっぽりと弾くんだ、いいかい?』

キャンディの隣に座っているテリィは軽くお手本を見せる。
『きれい・・まるで小川のせせらぎね、同じピアノの音じゃないみたい』
『ま、ノクターンだからね。心情に寄り添って』
『・・?ノクターンって何?愛しい人を想っている曲・・だったわよね?』
『ノクターンは夜想曲っていう意味だ。小夜鳴鳥の鳴く時間帯に、”今夜はよかった”って悦に浸っている恋人たち、って感じかな』
『・・それって―・・』
『そうだよ。少なくとも俺はそう捉えて、君を思い出して弾いてるぜ?君も俺を思って弾くといい』

テリィはぬけぬけと言った。
そんな事を聞いてしまった後に練習しても、もうその事しか思い浮かばない。
とはいえ、それが作曲者の心情ならば致し方ない。

キャンディは深呼吸すると、練習を思い出し、目を閉じた。


ノクターンのメロディに誘われて、思い出す あの日の夜
わたしを愛して――

・・零れてしまった想いに あのひとは言ったの
愛してるよ いつも  いつまでも・・

小夜鳴き鳥の鳴き声にまじって
あのひとの声が聞こえる
キャンディ キャンディ・・
夜霧のように下りてくる涙を 拭ってくれたのは あのひと?

そんなことを考えていたら ミスタッチしたわ
あのひとの口元が緩んで クスッと笑った
いま何を考えていた? 
同じことを考えていた?

わたしは右手 あのひとは左手
今夜は二人で 淑やかなノクターンを――

 


緊張のせいか始めは硬かったが音色も、この曲の優しいメロディに助けられ、しっとりと弾き終えた。
「ショパンのノクターン第二番ね!キャンディ凄いわ!」
指を組むように演奏を見守っていたアニーが、興奮して抱きついた。
キャンディは緊張の糸がほぐれたようにホッと息を吐く。
「上出来だ」
満足そうに微笑するテリィに向かって、スイッチが切り替わったようにキャンディは白い歯をキラリと光らせた。
「次はテリィの番よ!」
テリィの手を引っ張りピアノの椅子に座らせる。
「な、なんだよ、、そんな予定は無かっただろ!?」
「はい、ショパンの曲本なら有るわよ!何を弾きたい?先生!」
キャンディはササッと本を差し出した。
「――先生!?」
アーチーとアニーは思わず耳を疑った。キャンディどころの騒ぎじゃない。
あの学院一(いち)の暴れん坊がピアノを弾くなんて、想像すらしなかったことだ。
それは隣にいたエレノアも同じだった。
「テリュース、あなたピアノを弾けるの?」
答えたく無さそうなテリィを見て、キャンディの口は黙っていられない。
「私が最初に聞いたテリィの演奏は『モーツァルトの子守歌』でした!」
「・・え――・・」
エレノアの目から、予告も無く大粒の涙がポタポタとこぼれ落ちた。


――遠い昔の子守歌・・・

 

息子は覚えていてくれた。
エレノアの急変した姿を見て、思わずうろたえたのはアーチーだ。
曲のタイトルを聞いただけで、エレノア・ベーカーは真珠のような涙を零している。
アーチーは状況を呑み込めないまでも、自分のシルクのハンカチを憧れの女性に差し出し
「・・僕も、彼のピアノは聞いたことがありません」とだけ言って、ピアノの方に目を向けた。


そんなエレノアの姿に、キャンディは心が打たれていた。
「・・マザーオブパールの涙ね。そう思わない?テリィ・・」
「・・確かにね」
家族の絆、母性愛、子宝 ――・・母と子の象徴であるマザーオブパール。
テリィは母の涙に導かれるように、モーツアルトの子守唄を弾き始めた。
今までの全てに感謝をこめて――
(・・ありがとう。母さん・・)


キャンディが十二年ぶりに聞いたその曲の音色は、午後の浅い光のようにやさしく空気に溶けていく。
真綿で包まれたゆりかごの中にいるような、昔と変わらない柔らかい音色。
音楽館で見た光景が、セピア色によみがえってくる。
鍵盤に落とされる伏し目がちな青い瞳に、今もときめく変わらない自分・・・。
最初は動揺していたエレノアも次第に落ち着きを取り戻し、奏でるメロディにそっと耳を澄ませた。

一番を弾き終わったところで、「準備運動はこれでおしまい」とおもむろに指を止めたテリィは、ぱらぱらと曲本を捲り「次はオーパス53-6だ、旧友
!」とアーチーの方を見た。
バチッと目が合ったように感じたアーチーは、一瞬狼狽した。
まともに目を合わせたのは、初めてのような気がする。
テリィは指をぽきぽき鳴らしたかと思うと、力強いリズムでいきなり演奏を始めた。
キャンディはハッとした。
( この曲・・!)
「ショパンの英雄ポロネーズ 六番だ。難易度の高い曲だぞ」
アーチーがその迫力のある演奏に心が奪われそうになった時、ピアノの傍に立つキャンディの様子がおかしいことに気が付いた。
エレノアと入れ替わる様に、今度はキャンディの瞳が涙で滲んでいる。
「・・どうかした?」

思わずアーチーがきくと、キャンディは声を詰まらせながら答えた。
「・・アーチーなら知っているかしら。この曲は弾圧下で戦う祖国を想って作ったと言われているのよ。・・・だから、テリィは、、この曲を弾く時はいつも――」
「いつも、何?」
「・・亡くなった弟とステアを思い出すって言ってたわ。・・きっと今も・・・、アーチーがいるからこの曲を・・」
そう言いながらキャンディの頬に涙がすっと伝った。
「・・ごめんなさい。いつもは泣いたりしないのに・・」

 ・・・ステア、アーチー、・・君たちにこの演奏を捧げよう――

テリィの心の声が聞こえてくる。
亡き兄を偲んで弾いてくれていると思うと、アーチーの目にもうかつにも涙が滲み、堪えられない。
「・・なんだよ・・。こんなフェイント・・、反則じゃないか・・」
上を向いて必死にごまかそうとするアーチーに、アニーはそっとハンカチを差し出した。
「はは・・涙って伝染するんだな。初めて知ったよ」
アーチーは強がりながらテラスの窓越しに移動し、背を向けるように曲に聞き入った。
これ以上自分の情けない姿を見せたくなかったからだ。

曲は転調と曲想の変化を繰り返し、舞曲の壮大なリズムを刻んでいく。
部屋全体が揺れているような躍動的な音とは対照的に、窓の外には冬の淡い水色の空が静かに広がっている。
薄く広がる雲の、更に上をアーチーはじっと見つめた。
( ・・兄貴、アンソニー、あいつにキャンディを任せてもいいよな・・?)


アーチーは降伏の白旗を空高くかかげた。

 



読者のロンさんから、許可をとって画像をお借りしました

 

 

 

8-20 アーチー

 

次へ左矢印左矢印

 

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ワンポイントアドバイス

 

空の写真は、読者のロンさんが撮影されました。

実際は山などが映っていたのですが、都合により編集させて頂いていますお願いアセアセ

実際の写真はこちらでご覧ください。

下矢印

 


作中のノクターン(夜想曲)の意味は、あくまでテリィの解釈です。

アラフィフは、よほどテリィのピアノを弾く姿に弱いのか

この回のコメント欄は、その話題で賑わっています。

 

キャンディキャンディの影響を受けたとされる韓国ドラマ「冬のソナタ」の話題もとび出しています。

ちなみに韓国語で「テリウス」は髪の長いイケメンを指し、語源は「テリュース」であることはあまりに有名ですね。

 

 

作中でテリィが弾いた曲

辻井伸行氏演奏による「英雄ポロネーズ」

※途中(1分40秒~)から曲の解説も入ります。

 

 

 

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