★★★8-7
鉛のように重い足はなかなかマーロウ家へ向かわず、役作りを理由にしばらくアパートに身を寄せていた。
スザナの誕生日が過ぎてしまったことは分かっていたが、芽生えてしまったスザナに対する黒い気持ちを、どうしても払拭することができなかった。
帰ってこない俺を心配し、ある日スザナが楽屋を訪ねてきた。


『・・テリィ・・・着替えを持ってきたわ』
『珍しいな、君がここに来るなんて』
『・・・今夜はお帰りになる?』
『どうかな・・。次の短期公演の稽古が大詰めで』


俺を見る不安げな眼差し。
俺はスザナの微妙な変化に直ぐに気が付いた。
スザナも俺の変化に気付いたようだ。
衣装戸棚からこつ然と消えた大きな封筒――
その紛れもない事実を中心軸に、くるくると時計の針を追いかける様に探り合う俺達。

秒針がつくるカチコチというわずかな音が楽屋の中を支配する。
スザナは何もきいては来なかったが、お互いけん制し合っている内に俺は気付いた。
・・スザナは俺に、手紙を返したかったのではないかと。
そして冷静な判断力が戻ってきたことで、いくつか分かったことがあった。


『・・私、、二十二歳になったの・・』
『・・そうだな』
『お祝いしてくださらないの・・?ささやかだけど、今夜は家で――』


手紙は何年も前に書かれたもの・・。今のキャンディじゃない。
スザナは過去にも手紙を隠したことがあったのだから、そんなスザナの気質を俺は知っていた。
手紙を理由にスザナを見限るのはおかしくないか。
何より当時の俺が受け取っていたとしても、結局スザナを選ぶことに変わりなかったはずだ。
(結果が何も変わらないなら、俺は単にスザナに対する責任から逃げたいだけじゃないのか・・!?)


『―・・スザナ・・、俺は』
『・・なに・・』
『――俺は・・・』
ガタン・・!!
『スザナっ!?』
『・・いたい、、痛い・・っ、助けて、テリィ・・・』
『幻想痛か!?スザナ・・!』


スザナは乱れた呼吸で倒れ込み、無い脚を触る素振りをした。
俺はすぐさまスザナを抱き上げ、病院へ急いで搬送した。
脳が錯覚を起こすのか、無いはずの足がまるで有るかのように痛みを感じる原因不明の症状。
このような事は度々起こっていた。


『テリィ・・、家に帰りたい、あなたと』
『スザナ、俺はこの後舞台が』
『行かないでっ、テリュース・・!・・そばにいて・・』


この怪我も、痛みも、本来負うべきは俺だったかもしれない。
落ちてくる舞台照明から身を挺して俺を守ったスザナの咄嗟の行動。
スザナだっておそらく考えて行動したわけではないのだ。
一人の女優の人生を一瞬で台無しにしてしまった十字架は、一生背負っていかなければならない。
俺はスザナから離れることなどできない――

結局のその日の舞台は代役に任せ、俺はスザナの痛みが消えるまで寄り添った。
スザナの手を握りながら、一晩中考えた。
俺はどうしたらいい?結婚はできない、だけど他にどうしたら・・


『目が覚めたのか。薬でまる一日眠っていたんだ。・・痛みは?』
『・・テリュース、舞台は』
『昨日は代役を・・。明日から家に医師か看護婦を常駐させるよ。もっと早くからそうするべきだった』
『そんなっ、私なら―!』
『舞台の為じゃない。・・俺もその方が安心なんだ。お抱え医師なんて当たり前のことだ』
『当たり前・・?テリュース、あなた・・いったい―』
『遅くなったけど、・・誕生日おめでとう、スザナ』


手の甲にしたそのキスは、お互いの肌のように固く冷たかったのを覚えている。


「結局元のさやに納まるようにマーロウ家へ戻ったものの、内心途方に暮れていた。結婚という一番簡潔な責任の取り方でなければ、他にどんな方法があるのか・・。出口のない迷路にいるようだった」
「テリィは・・、手紙の事は問い詰めなかったのね?」
確認するようにキャンディは訊いた。
「隠した理由など聞くまでもなかったし、返すタイミングを計っていたんだと思うとね」
「なぜそう思ったの?お互い何も話さなかったのに」
「・・俺はスザナに結婚を誓っていた。キャンディと会うつもりもなかった。それなら手紙を破り捨ててしまえばいいことだ。証拠を消してしまえば、ばれる恐れはない。しかしスザナはそれをしなかった。返すべきだと、良心の呵責に苛まれていたんだろう」
キャンディは胸がキューっと苦しくなった。
自分の罪を公にする勇気ほど、投げ出したいものはない。
悔恨の情にかられ、いつかはバレるかもしれない恐怖との狭間で、どちらにも行けず立ち往生してしまったスザナ。
愛する人の目を躱しながら送らなければならなかった日々は、どんなに心苦しかったことだろう。
「手紙がテリィの手に渡ったと知って、スザナは内心ホッとしたんじゃない?テリィが許してくれて」
「――君は、そう思うのか?」
「え・・?」
一瞬テリィの顔が冷たく見えた。
「・・確かに俺は問い詰めたり責めたりはしなかったが、あった事をなかった事にはできないさ」
氷の幕を張ったようなテリィの目は、見えない何かを威嚇しているようだった。

「悶々と生き惑う中で、俺はハムレット役にのめり込んでいった」
 ――ハムレットのように、とことん感情が振り切れたなら、どんなにラクだろう―
「演じている時だけは気分が高揚した。不安定極まりない内面と反比例するかのように、役者としての外面は強固なものになっていき、公演はロングランに次ぐロングラン、翌年のイギリス公演まで決まっていった」
それを聞いたキャンディは納得したように小さく息をついた。
「・・だから『ハムレット』は支持されたのね。今、分かったわ・・」
キャンディの思いもよらぬ言葉に、テリィはハッとした。
「その内面の苦悩と葛藤が、演技に奥行きを与えたのね。だから人々の心を打った。ママが以前言ってたの。役者は自分の経験を力に変えて成長していくって。私との別れが、芝居に活かされているって。・・こんなことを言ったらあなたは嫌かもしれないけど、私、ハムレットの苦悩がそのままあなたの苦悩に見えた。どう生きていくべきか葛藤する、ハムレットそのものに――」


To be,or not to be ,that is the question.

生きるべきか 死ぬべきか  それが問題だ

「・・確かに、そんな劇評が言えるのは、君と母さんだけだな。一見公私ともに順風満帆のように見えただろう、俺の葛藤を知っていたのは、あの時はただ一人。・・舵を失った難破船のようになっていた俺の心に、灯台のごとく光の道筋をくれたのは、母さんだった」
「ママが・・?」
「婚約の報道が出てしばらくした頃、母さんが突然アパートに尋ねてきたんだ。見たこともないような地味な格好で」

 

握りしめている雑誌を見て、母さんの要件は理解した。

テーブルに散乱している手紙を無言で見ている母さんの視線が痛くて、自分から話を切り出した。


『ごめん、いま片付けるよ。・・忙しくて、気が回らなかった―・・読み返していたわけじゃないんだ。たまたま・・、そう、たまたま―』
『・・心残りがあると、忘れられないものよ。・・辛いの?』
『忘れるのは、もう諦めてる・・。だから辛くはない』
『・・――そんな状況で、なぜ婚約式を?スザナ・マーロウと結婚するつもり?』

『・・その記事は事実じゃない。だけど俺には・・スザナを・・幸せにする義務がある』
『テリュース・・、幸せって何か分かっているの?愛する人に愛されることは至上の喜びよ。でも、あなたはスザナに与えられないんでしょ?あなたの心がスザナに向かない以上、スザナは少なからず不幸だわ』
『なら俺にどうしろと!?俺が側にいることをスザナは望んでる。俺にできることは―』
『恋愛や結婚だけが、幸せの絶対条件ではないわ。幸せは多様なのよ。種類も、程度も、人それぞれ違うわ。スザナの幸せが何なのかは、あなたが決めることじゃないはずよ!』
『・・・スザナの幸せは・・、芝居の世界にいることだった―・・。でもそれは俺が奪って―』
『サラ・ベルナール
は足を失っても、座って舞台に立ち続けているわ!』
『彼女とはキャリアも状況も違うっ!表舞台に立つことは、スザナにとって苦痛以外の何者でもないんだ』
『表舞台に立つ事だけが芝居の全てじゃないでしょ?世の中には体にハンデを負いながらも、生きがいを見出し、立派に生きている人は大勢いるわ。私が出演している舞台の、この演目もそうよ』


 チャリティ公演   
The Miracle Worker  奇跡の人―

『目も見えない、耳も聞こえないという、あの女性の話か・・?』
『知っていて?私はサリヴァン先生を演じているの。暗闇の中で生きていた少女ヘレンに、希望の光を与えた家庭教師。・・アン・サリヴァンもね、一度は視力を失っているのよ。だからこそヘレンを導くことができたの。奇跡の人はヘレンじゃなく、アンなの。・・・あなたはアンに、なれなくて?』
『―・・俺が、アン・サリヴァン・・?』
『スザナが本当にあなたを愛しているなら、あなたの幸せを蔑ろにできるわけないのよ。―・・ただ、どうしていいかスザナにも分からないんだわ。だから、あなたも伝えるの、正直な気持ちをっ!あなた達二人に、どういう幸せの形があるのか、もう一度考えてみて』


母さんは一枚のチケットとその言葉を残して出て行った。
同じ街にヘレンが住んでいることは知っていた。その著書にも触れた事があったが、世の中には偉大な人がいるものだと、自分と結びつけて考えたことなど無かった。
何かヒントがあればと、急きょチケットを追加し、気が乗らない様子のスザナを強引に連れ出した。

その芝居を観た時の衝撃と感動は忘れられない。同じことをスザナも感じたようだ。
想像を絶する努力で、三重苦だった少女は言葉を取り戻し、今や世界中飛び回り、体と心に闇を抱えた人たちを励まし続けているという。
大切なのは、目が見えるかどうかではなく、心に光を見出す事。
身体のハンディキャップに引け目を感じることなく、普通の人と同じように生きて欲しい。
そんな強いメッセージを感じる芝居だった。

正直な気持ち―・・俺の正直な気持ちをスザナに話してみよう。


『・・スザナ、君が俺に向ける愛と同じものを、俺は君に返すことはできない。・・君の想いは分かっているつもりだ。だからこそ、俺のこのどうしようもない想いも・・・分かってくれると思う。こんな俺たちが神の前で夫婦の誓いを立てることは、偽りでしかない』
『・・そう・・よね・・。私は・・あなたに愛される資格なんて・・』
『――だけど、君には幸せになってもらいたい。その気持ちに偽りはない。夫婦としてではなく人と人として、俺たちなりの幸せを探してみないか。こんな俺でよければ・・傍にいるよ』
『・・いてくれるの・・?・・あなたには、他の選択肢もあってよ?』
『―・・ないよ。そんなものはとっくにない。君が俺を要らないと言うまで、一人で立てるようになるまで、君の片足になるよ。・・例えそれが、生涯に渡ろうと』


スザナは目尻に涙を溜めながら頷いた。
俺はスザナが一番望む種類の愛を与えることはできない。
その代り、それ以外の全ての愛を与えられるよう努力しよう。
生きがいを、幸せを、光を、スザナが感じられる様に。
アン・サリヴァンのようにスザナの杖となり、スザナと共に生きよう―

一見するとプロポーズともとれる俺の言葉だったが、スザナにはその真意が伝わったように思えた。
それ以降、愛の言葉やキスをねだられることがなくなり、俺をダーリンと呼ばなくなったからだ。

同時に俺のキャンディへの想いは昇華されていった。


キャンディ・・。
忘れられない、忘れられるはずがない・・。
だけど俺は今まで通り、何もできない。
ただ遠くから、君の幸せを祈るだけ。


せめてアパートの部屋にいる時だけでも
胸に深く刻まれた君の笑顔を、思い出してもいいだろうか・・。
君を想い続けることを、神は赦してくれるだろうか――

 

 

illustration by Romijuri 

転載・SNS・Pinterestへの転送一切禁止

 


どこかであなたが今 わたしと同じ様な
涙にくれ 淋しさの中にいるなら
わたしのことなどどうか 忘れてください
そんなことを心から願うほどに
今でもあなたはわたしの光


自分が思うより 恋をしていたあなたに
あれから思うように 息ができない
あんなに側にいたのに まるで嘘みたい
とても忘れられない それだけが確か
あの日の悲しみさえ あの日の苦しみさえ
そのすべてを愛してた あなたとともに・・・


 米津玄師 「LEMON」より


 

 

8-7 テリュース

 

次へ左矢印左矢印


 

。。。。。。。。。。。。。

ワンポイントアドバイス

 

サラ・ベルナール

1844~1923年

フランスの舞台・映画女優 コメディフランセーズ入団。

公演中に受けた怪我が悪化し、膝の骨結核になってしまったため、1915年70歳の時に右足を切断した。

しかしその後も舞台に立ち続けた。

スザナの事故は、サラを意識して書かれたものかもしれませんね。

 

テリィのアパートでのエレノアとテリィの会話は、4章⑱「開演」のエレノアの回想部分に伏線がありました。

 

 

米津玄師「Lemon」

 

 

 

PVアクセスランキング にほんブログ村