★★★ 5-14
「今度は最終日に観たりしないわ。何度でも観られる様に・・!」
キャンディはそう言って、公演の前盤に『ロミオとジュリエット』の観劇に訪れた。
しかし観劇を終えたキャンディの表情は暗く、帰りの車中小さな声でつぶやいた。
「お芝居はすごく良かったけど、もう見ない・・」
家に着くとテリィはキャンディの誤解を解くべく、説得にあたった。
「嫉妬するなよ、あれは演技だって」
すねているように見えるキャンディを半ばからかうような、真剣みのない口調。
「別にキスシーンなんか気にしてないわっ」
キャンディは逃げる様に自分の部屋に向かう。
「あれは皮膚と皮膚が接触しているだけさ。熱烈に見せているだけで、本当にキスしているわけじゃない」
テリィは冷静かつ具体的に説明しながら、キャンディに『本当のキス』を試そうとする。
冗談交じりで迫ってくるテリィを手で振り払いながら
「やめてよ、そんなことは気にしてないって言っているでしょ!?」
テリィに揶揄され、ついむきになって声を荒らげる。
「じゃあ、なに?何でそんなに不満そうな顔をしているの?そばかすちゃん」
テリィはキャンディの鼻先を指でつつきながら更にからかう。
「・・・胸が・・」
そこまで言って、キャンディは言葉に詰まった。
「胸?・・ああ、このシーンか?」
テリィはそのシーンを再現するように、キャンディの胸元にまっすぐ手を伸ばし、谷間にタッチする。
ジュリエットが自分の胸にロミオの手を誘導する、大型船のデッキでも再現したあのシーンだ。
「残念だけど、この演出は外せないんでね。諦めてくれ」
全く無感情な言い方。
「もういい、知らないっ」
テリィの手をパシッと叩くと、階段をすたすたと上がって行く。
「待てよ、キャンディ!」
慌てて追いかけてきたテリィはキャンディの腕をつかんだが
「自分の部屋で寝るわ。あなたは入って来ないで!」とパンっと振り払われ
バッタン―!!
ドアは勢いよく閉められた。
テリィが朝起きると、テーブルに一枚のメモが残されていた。
おはよう。早番なので、先に出ます。スープは温めてね。
「・・早番?珍しいな」
テーブルには既に朝食が用意され、鍋の中のスープはまだ温かかった。
その夜、テリィが仕事を終えて戻ると、部屋の中は真っ暗だった。
急な夜勤が入りました。ごめんなさい。夕飯は温め直して食べてね。
大きな鍋の中のポタージュスープは既に冷めていた。
「また二十人分作っちまったのか・・?」
その時はキャンディの粗相を笑っていられるだけの余裕があったが、キャンディの顔をまる一日見ることなく就寝するのは、少しこたえた。
そして更なる追い打ちを掛けるように、朝起きてもキャンディはまだ戻っていなかった。
凱旋!テリュース・グレアム 『ロミオとジュリエット』好演!
ロミオそのものの軌跡 純愛と名門貴族
キャスト
ロミオ・・・テリュース・グレアム
ジュリエット・・・オリビア・ファースト
マキューシオ・・・ジャスティン・グレイス
ティボルト ・・・ ジャックナイル・スタンリー
新聞の劇評は称賛の嵐だった。いつの間にか公になっていた名門貴族の家柄というテリュース・グレアムの素地が、余計に読者の興味を引き付けた。苦難を感じさせる新妻との駆け落ち話はテリュースという人物に箔をつけ、さながら現代版ロミオとジュリエットのようだと評された。
貴族と財閥令嬢―・・そんな二人の恋の成就に十年要したことはぼやかされ、その間海の向こうでロミオが数々の浮名を流していたことなど、まるで無かった事のように扱われた。
もちろん公爵家の無言の圧力だったり新聞社の忖度が働いたわけだが、本国ではまだ無名だったことも追い風となった。
全てがジャスティン・グレイスの功績、――と評しているのは、おそらくジャスティン本人だけだろう。
とにかく、劇団経営陣にとってこれ以上の宣伝効果はない。皆一様にほくそ笑んだ。
「――端麗な容姿、隠しきれない貴族の品格、テリュース・グレアムは誰もが想像するロミオ・モンタギューそのものである・・――だってさ。ハムレットの時も同じようなことを書かれていたな。しかしなんで凱旋なんて言葉が今頃出てくるんだか」
買ってきた雑誌を開きながらナイルが言うと、今度はジャスティンがぼやいた。
「イギリス出身だってバレちゃったからさ。・・確かにテリィほどこの役がピッタリはまる役者はいない。名家の生まれ、日常的に馬を乗り回し、呆れるほどの恋愛体質」
「いやいや、ロミオ・モンタギューはもっと単細胞だ。冷静沈着なあいつじゃ、完璧なロミオからは十点足りない。逆上したら何をしでかすか分からない危うさが欠けてるね」
得意げに語るナイルの言葉に、ジャスティンが思わず反論する。
「じゃあ訊くが、お前のティボルトは完璧なのか?役に文句ばっかり言ってるくせに」
「受けてもいない役に合格したら文句の一つも出るさ。そういうジャスティンこそ、ロミオの親友役なんてなんのジョークだよ。最大のライバルのくせに。どうだ、役をトレードするか、お前こっちをやりたかったんだろ?」
今回のオーディションは形骸的なものだったようで、受けた役柄と無関係の配役が目立った。
「適性を見越して監督が決めた配役だっ、今更嫉妬深いティボルトなんてごめんだね」
「へ、こっちだって願い下げだ。女々しいマキューシオめ!」
「おい、もう一度言ってみろナイル・・!」
二人が言い争っていると、奥のバスルームからテリィが出てきた。
「・・名監督だな。舞台上で君たちが繰り広げる殺し合いのシーンは、実生活さながらだ。ところで君たち、俺の楽屋で何をしている」
「何って、用があって待っていたのさ。ここにある花束、一つ貰おうと思って」
ナイルが拝むようなしぐさをした時、「テリュースさーん、入っても宜しいですか?」
ジュリエット役のオリビアが、楽屋のドアをノックした。
どうぞとすかさず声を出したのは、何の権限もないナイルだ。
「あ、みなさんお揃いで・・。す、すみませんっ、、シャワーを浴びてらしたんですね・・」
真っ赤な顔で下を向くオリビアを見て、テリィはラフに着ていたバスローブの帯をキュッと締め直した。
「テリュース、いくら後輩だからって、紳士がレディの前でその格好はだらしないぞ、服を着ろよ」
早すぎる返事の意図はこれか、と、ニヤニヤ顔のナイルを張り倒したくなってくる。
「失礼、レディ。君の視線、もっと上にできる?で、要件は?」
テリィが自分の顔を指さしながら言うと、オリビアはその指に誘導されるように、まだ髪が濡れているテリィの顔に視線をずらした。
「あ、あの・・、さっき監督に言われたんですけど、バルコニーで別れ際にキスをするシーン、・・唇を離してからもう一度した方が、名残惜しい感じが出るんじゃないかって―・・。どうでしょう?」
テリィは少し考えて「・・ああ、分かった。明日のリハーサルで試してみよう。じゃあ」と返事をした。
ジュリエットに歳が近く、純粋さが内から滲み出ているという理由で、大役に抜擢された新人オリビア。
つい最近まで研修生の域を出なかったのに、はまり役とばかりの熱演ぶりに、テリィはその成長を頼もしく感じていた。・・感じてはいたが―
楽屋のドアを閉めた途端、テリィは床に向かって大きく肩を落とした。
「テリュースさん、大好きです。キスは一回じゃなく二回しましょう、濃厚なやつね!」
ナイルが女性の声色をまねてからかうと、今度はジャスティンがテリィの声色を真似た。
「胸を触るシーンも見直そう。あの短時間では、君の胸に失礼だ。ごめん、僕には愛してやまない妻がいる」
二人そろってフフフっ・・と不気味に笑った。
「ふざけるな・・!だいたい俺のどこが恋愛体質だっ」
テリィは怪訝そうに返す。
「おや、無自覚?学生の頃馬小屋で寝たんだろ、おてんばターザンと。お前のそういう真摯な態度が、女を惑わすんだろうなぁ。俺なんかより、よっぽどたちが悪い」
「馬小屋で寝たのはキャンディだけだ、俺じゃない!これ以上言ったら、足をへし折るぞ!」
テリィはバンっと衣装戸棚を開け、苛立つように服の袖に腕を通し始めた。
訳の分からないテリィの言葉に、ナイルとジャスティンは眉を寄せる。
「・・その、おてんばターザンって何だ?」
斬新なフレーズに、早速ナイルが食いついた。
「テリィの愛妻。この前そう呼んでたんだ。おてんばは分かるが、ターザンってのが?・・もしかしてキャンディは筋肉バキバキだったりして?お前の体の鍛え方も半端ないからなぁ、その体、どこで作ってるんだよ」
――鍛えてない。敢えて言うならターザンごっこか?・・しかし何となく言いたくない。
「だんまりとはずいぶんご機嫌斜めだな。夫婦喧嘩でもしたか?・・あぁ、もしかして観劇でキャンディの機嫌を損ねた?まあ、新妻に見せるのは少し残酷な演目だったかもな。なぁに、オリビアの気持ちは内緒にしといてやるよ。もしかして、この山のように積み上げられたファンレターも見られちゃった?」
ジャスティンは目をキラキラ輝かせながら、化粧台の前に積み上げられた手紙の束を指さした。
「・・・キャンディが来た時は隠したよ」
嫉妬が怖くて隠したわけじゃない。昔の事を掘り起こされたら、厄介だと思ったからだ。
ファンレターの中に紛れていたキャンディの手紙。楽屋に届くはずだった―
一瞬陰ったテリィの表情の変化をジャスティンは見逃さなかった。
「何だ?・・そんなにこじれているのか?吐けよ、吐かないと剣を突き刺すぞ。その古傷、分かりやすい目印だ。ちょうど心臓の真上だろ?オリビア、ガッツリ見てたぜ、この胸板」
ジャスティンは着替えの邪魔をするように、テリィの胸に芝居用の剣を突き付けたが、テリィは怪訝そうに振り払うと「おい、余計なことはキャンディに言うなよっ!?」と声を張り上げた。
その言葉に何かを感じたのか、ジャスティンは急に真顔になり、互いの鼻がぶつかるほど顔を寄せてきた。
「・・テリィ、ついでに訊きたいことがある。――お前、挙式したのか?」
「何をいまさら―」
「スザナと式を挙げたのかって訊いてるんだっ、答えろっ―!!」
「・・・――で、花束貰ってもいいよな?・・・・これ、カーネーションの犬が・・犬が・・、かわいいやつ」
この重々しい空気をどうしてくれると、ナイルが仕方なしに口を挟んだ。
ジャスティンもテリィもハッと我に返り、元の会話に戻す。
「好きなのを持っていけ。・・何かの記念日か?」
「ああ、彼女の誕生日。――あ?こんなに花束があるのに赤いバラが無い」
眉尻を下げるナイルに、ジャスティンはさっき読んでいた雑誌を見せる。
「これこれナイル、この記事を見ろ、『テリュース・グレアム、好きな色は黒、嫌いな色は赤』。ハン、取ってつけたように書いてある。お前が記者に書かせたんだろ?」
ニヤリと笑うジャスティンを、テリィは涼しい顔で無視している。
「意味わかんね~、なんでデマをわざわざ流すんだよ。赤が一番好きなはずだ、車を見りゃ分かる」
「いいやナイル、テリィが一番好きなのは『白』だ。そうだろ?『赤』は愛しい妻の為に指定席を空けたってことさ、ご執心ですこと」
ジャスティンは女心だけでなく、男心を見抜くのにも長けている。
「・・ナイル、俺の楽屋に赤い花が届くことは無いと思え。プロポーズの時は自分で用意しろ」
テリィに言われ、ナイルは引きつったように笑った。
「はいはい、そんな予定は当分ございません。じゃ、このカーネーションを貰っていくぜ。本当はお前の車も借りたいぐらいだが、残念、ボンネットが凹んでなけりゃな~。いい加減直せよ」
「それはお役にたてませんで。ニューイヤー休暇まで直すつもりはないから。覚えておいてくれ」
「ああ、あれか、アメリカに新婚旅行だっけ?向こうで直すつもりなのか?」
「ニューヨークで買ったもんでね」
新婚旅行と言えば聞こえがいいが、要は後手に回ったアードレー一族への挨拶行脚の旅だ。
「ロンドンでも直せるだろうに律儀だね。しかしあんな場所が凹むなんて何にぶつけた?」
ナイルが何の気なしに質問すると
「俺だよ。気付いたらああなってた。昔からカッとなると、人や物にあたる癖があるようだ」
着替え終えたテリィが、衣装戸棚の扉をバンッと蹴るのを見て、ナイルはビクッとした。
よく見ると壁にも一か所二か所、蹴破ったような跡が確認できる。
警告するようにジャスティンが付け加えた。
「ナイル、舞台用の剣以外でテリィと喧嘩するなよ。・・絶命する、ティボルトのごとく」
学院史に名を残す不良少年。伝説の内容を思い出したナイルは青ざめる。
「・・・さっきの言葉撤回。プラス十点。テリュース・グレアムは完璧なほどロミオだ」
家には灯りがついていた。
仕事から戻ったテリィは急いでドアを開けると、夕飯が用意されてはいたが、キャンディの姿がない。
まだ冷めてはいない料理と共に、メモが一枚残されている。
明日も早番になってしまいました。朝早いので先に休みます。おやすみなさい。
「――またかよ!?早番、早番って、いったい俺との約束はどうなっているんだ!とっくに反古か!?」
(俺を避けているのか!?キスシーンなんて所詮演技なのに、何がそんなに嫌なんだよ!)
頭に血がのぼったテリィは階段を駆け上がり、キャンディの部屋のドアを乱暴に開けた。
「キャン――・・!」
ハッとして、言葉を止めた。
キャンディは看護婦の制服姿のまま、デスクの上で腕を枕に眠ってしまっていた。
「・・白衣の・・天使・・・初めて見た・・」
開かれたままの分厚い医学書が腕の下からのぞいている。
(・・勉強していたのか・・?)
机の上に勤務表らしき紙も見える。
外科の看護婦二十人ほどの勤務シフトのようだ。
キャンディの所には矢印マークと早、夜、早と手書きで書き込まれ、別の二人の看護婦からその矢印は伸びていた。「シャルロット・・、レベッカ・・・。――そういうことか」
どうやらキャンディはその人たちの勤務を代わりに請け負ったらしい。
イギリスへ来てから早四か月。
舞台に追われていたとはいえ、キャンディの事は常に気にかけていたつもりだったが、病院の仕事については全くと言っていいほど無頓着だった。直ぐ隣なのに様子を見に行ったこともない。
自分と同じように働いているという事を、完全に見落としていた気がする。
(・・ごめん・・。キャンディ・・)
イブニングドレス姿の時とはまた一味も二味も感じが違うキャンディの白衣姿を見つめながら
「・・この姿で働いている君を見たくなったよ」と、フッと笑った。
ベッドに移そうと抱き上げた時、キャンディが寝ぼけ眼で反応した。
「・・あ、お帰りなさい・・。ごめん・・あした早番になっちゃったの・・・さきに・・寝ていい・・?」
もう寝てるじゃないか、とテリィは半ばあきれながら
「風呂もまだなんじゃないのか?せめて着替えてか―」
ベッドにおろした途端、タオルケットを抱きかかえ、胎児のように身を丸くして寝入ってしまった。
テリィはやれやれと思いつつ、そのあどけない寝顔をしばらく眺めていた。
朝—・・シャワーを浴びた時、胸の真ん中に赤いあざのようなものがあることに気が付いた。
一瞬テリィの顔が浮かんだが、シャワーも浴びずに寝てしまう疲労困憊の状態で、そんなことをした覚えはない。
(・・虫に刺されたのかしら・・)
すれ違いが続き、お芝居を観に行った日以降、ろくに会話もできていない。
昨夜寝る前、二言三言話した記憶がおぼろげにある。
(あれは夢だったのかな・・・テリィが直ぐ近くにいた気がするけど)
そんなことを考えながら早朝の病院へ向かう。
木の上から遠目に見える劇場の立派な建物に目線を移し、公演の夜のことを思い返した。
――胸が、苦しい・・
テリィの演じたロミオは、この一言に尽きた。
ハムレットの時もそうだったが、テリィ自身をそのまま投影したかのような役柄に、本人と演技との境界線が見えなくなる時が度々あった。
恋愛劇である『ロミオとジュリエット』はそれが際立ってしまった。
最初から最後まで恋に悩み苦しむロミオ。
赦されない恋の苦しみ、別離によって悲嘆にくれるさま、愛の告白のシーンでさえ、木に登ったりバルコニーから侵入したりと、あらゆる場面でテリィを連想させた。
さまざまな恋のセリフ全てが、自分に向かって投げかけられているように感じてしまった。
『役者って自分の経験を力に変えて成長するのよ。あの子の経験したことはそのままハムレットを演じる上で大きなアドバンテージになったの。あなたとの経験が役に活かされたってことなのよ』
ミス・ベーカーの言葉が胸にしみる。
ロミオの演技が、かつての悲傷の賜物だとしたら、正視することなどとてもできない。
ロミオの苦しみを十年もの間テリィに与えてしまったのは、間違いなく自分なのだから。
そう思うと、呼吸さえままならないほど胸が詰まった。
(船で同じ演目を見た時は何も感じなかったのに・・。テリィは演じていて辛くないのかしら・・・)
確かに普段のテリィからは過去の悲愴感は感じない。克服しているように見える。
だからこそ余計に、自分が感じた息苦しさを打ち明けるのは滑稽なように思えた。
5-14 すれ違い