体感器を背負った面白いヤツラ~パチンコ・攻略プロ達の青春回顧録

体感器を背負った面白いヤツラ~パチンコ・攻略プロ達の青春回顧録

1990年代バブル経済末期、世間の流れとは関係の無い処で暗躍していたネタプロ(攻略プロ)達のアップダウンな日常風景

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次の朝ノンビリと開店の20分前に店についたら、入り口には人だかりができていた。


おそらくスロットか何かのモーニングだろう。


【注・・・当時は朝一からスロットを打つ客を対象に、数台に1台ぐらいの割合で最初から7が入っている台をサービスで用意していた


開店時間の10分前にドアが開き、モーニング狙いの客が一斉にスロットコーナーへ走り出して行ったのを尻目に、私は昨日座ったルーセントの台へ行き、クギが変わっていないことを確認してからライターを上皿に置いた。


開始時間までマダ間があったので、私が何の気なしにコーヒーを飲みながら店内をブラブラしていると・・・居たのだ!


ベンツ小林が!


情けないが、私はビックリしてしまった。


なにせ雑誌に出ている人物が眼の前にいるのだ。


”ああ、ホントに居たんだ・・・”


彼はクルクループ(注)のシマで知り合いと談笑しながらコーヒーを飲んでいた。


【注・クルクループ・・・デジタルではなく、クギ調整のみでデキが決まる飛び込みタイプの権利モノ。この手の台で稼ぐには相当な腕のあることが前提条件となる】


声をかけようかとも思ったが、イザとなったらどうも気後れしてしまって言葉が出なかった。


私は知らん顔をしてルーセントに戻り、開店の音楽が鳴ると黙々と打ち出した。


その日も結局、陽が暮れるまでルーセントを打っていた私だったが、合間合間にコッソリとベンツさんの様子を伺いに周りをウロチョロして観察していたのだが・・・


1列・20数台あったクルクループの中で、彼の台は明らかに大当たり回数が多かった。(クルクループの客付きはほぼ100%)


これがデジタル台だというのなら話は別だが、飛び込みタイプの権利モノとなると1日のアタリ回数に台の優劣が出やすい。


私の眼力では判断がつかなかったが、おそらく彼(ベンツ小林)はクルクループのクギと台の個体差(いわゆる、ヤクモノのクセ)を正確に判別していたのではなかろうか?


とするならば、彼の力量は相当なものだろう。


雑誌で公開している日記には多少の色は付けていたかも知れないが、それを補っても余りあるモノが彼にはあるような、そんな印象を私は持った。


そう考えたのには実はそれなりの根拠があって・・・


この日の夕方6時ぐらいだったろうか、休憩がてらクルクループのシマへ行ってみるとベンツさんの姿が見えない。


そして、彼の打っていた台は空席になっている。


”エッ、もうアガったのか!?” 


当時普及しだした台枠上に設置してあるデータ端末から計算すると、ザックリ言って3~4万円ほどは抜いて行ったことになる。


”クギは!?”


私は着席して、クルクループ特有のクセのある入賞口とその付近の誘導部分のクギに眼を凝らした。


・・・・・・・分からない(笑)


ここで台のクギ調整がパッと見抜けて ”ベンツの奴も良い腕を持ってるな” などと言えれば恰好が良いのだが、私の力量では無理だった。


もともと、この手の台はクギ調整が微妙な事に加え、おそらくは個体差によるデキが大きかったのだろう。


また言い訳ついでに加えると、一般に攻略をやる人間というのはネタの数値や手順などに関してはシビアなのだが(アタリの幅が0.3秒だとかランプ同調が100分の1秒だとかetc)、その分クギ調整に関してはいい加減になる傾向があるのだ。


私はルーセントのシマへ戻って出玉を交換し、すぐさまベンツさんの打っていたクルクループへと台替えした。


”なんだ、マーク屋(注)みたいな真似をして、セコイ奴だな”


【注・マーク屋・・・他人の打っていた優秀台の後釜を狙う連中のこと。自分で台選びをするだけの力量が無い人間が多い】


そう思われるかもしれないが、私はカネが欲しくてベンツさんの後番に座ったわけではない。


確かめたかったのだ。


その台の性能を。


果たして1時間ほど打ってみた結果分かったことには・・・その台は間違いなく優秀台だった。


飛び込み率もさることながら、何よりもヤクモノのクセが抜群だったのだ。


”ベンツはホンモノだ”


それが分れば良い。


私はナゼか納得した気持ちになって、1人勝手に悦に入っていた。


だが、納得して気持ちが落ち着くと急に私は自分のマーク屋もどきの行動が恥ずかしくなり、そそくさと席を立って店を出たのを覚えている。


”ここはベンツのホームグラウンドなのだ。ひょっとしたら彼がひょっこり戻って来るかも知れない。そしたら・・・・・”


そしたら、マーク屋もどきの自分としては気まずい事この上ない。


もちろん、仮に彼と出くわしたとしても何か文句を言われる事は無いだろうし、そもそも彼の方が私の事なんか気にも留めていなかったとは思うが・・・


時折コーヒーを持って、素知らぬ顔で後ろからコソコソ台を盗み見していた事が心の何処かにヤマシサとして引っ掛っていたのだろうと思う。


なので、私はそそくさと席を立ち店を出たのだ。


店を出ると、辺りはスッカリ暗くなっていた。


私は景品をカネに換えるとクルマに乗り込み、今度こそ本当に帰るべく高速へと向かった。



                      おわり



この頃(1990年代)は今から振り返れば、ちょっとしたパチンコブームだった。

 

当初は1,2誌しかなかったパチンコ雑誌があっという間に増えていき、いつしかコンビニにパチンコ雑誌のコーナーが設置されるほどになっていった。

 

中でもガイド(パチンコ必勝ガイド)とマガジン(パチンコ攻略マガジン)の2誌がツートップで、それぞれが魅力的なコンテンツをラインナップして良くも悪くも競い合っていたと思う。

 

そのコンテンツの代表格なのが、当時有名だったパチプロ各氏による ”パチプロ日記” だ。

 

大御所の田山幸憲さんを筆頭に、安田一彦さん、石橋達也さん、ベンツ小林さん、飛鳥一平さん・・・といった華やかなプロ達による誌上での公開日記が人気だった。

 

その中でも異色なスターだったのがベンツ小林さんだろう。

 

なにせ彼の戦績たるやほぼ100%に近い勝率で、しかもその収支が尋常ではなかった。

 

日当5万、10万は当たり前で、毎月の収支が60~100万円にも達していたからだ。

 

我々同様ネタプロだと言うのなら話は分かるんだが、彼は基本的には権利モノ主体の平打ち(時折ネタもやっていたようだが)で、ちょこちょこ美味しい開店周りをするといったスタイルだったのだからビックリだ。

 

巷では ”あんなの人気稼ぎのウソに決まってるじゃないか” などと揶揄する人もいたほどの好成績だったが、真相は分からない。

 

ただ、”ベンツ小林なんてホントはいない。雑誌屋がつくった架空の人物だ” というのは間違いだ。

 

なぜなら私がこの眼で、彼が打っているのを観た事があるからだ。

 

あれは確か、個人的な野暮用で関西方面へ行った時だったと思う。

 

用事を終えた私は、地元の某地方へ帰る朝、フト思った。

 

”確か、ベンツ小林が打ってる店って、こっから近くだったなあ・・・”

 

(当時、彼は自分の打っているパチンコ店を誌上で公開していた)

 

思い立ったがナントヤラで、私は物見遊山に ”ベンツ小林見学” をすることにした。

 

当時彼がホームグラウンドにしていたパチンコ屋に着いたのは昼過ぎだったと思う。

 

店内に入って、一通りシマを見て周ったんだがベンツらしき人物はいない。

 

まだ昼過ぎだし、早上がりする時間でもないし・・・やっぱりアリャ騙りだったのかな。

 

(彼は昼休憩はとらないと言っていたので昼食という事はない)

 

それでもまあ折角大阪の阪南まで来たんだ、物見遊山に打ってみるのも一興だろう。

 

私は先ほど見て周った時に見つけた甘釘のルーセントに座って打ち出したのだが・・・

 

【注 ”ルーセント”・・・フィーバールーセント。確率200分の1・出玉2400発のノーマルセブン機。回転効率が良く、ノーマルセブン機にしては珍しくカネになった】

 

遊びで打ったルーセントが思いのほか調子良く、たいしたカネも使わずにラッキーナンバーが入ってのアタリとなり、あれよあれよと言う間にポンポン当ってドル箱を積む事になった。

 

こうなったら、もう眼の色が変わってしまうのが我々(パチンコで食べる人間)の悪いクセ。

 

結局、ナンダカンダで止めるタイミングが見付からず、夜の9時過ぎまで打つというシゴトモードになったのを覚えている。

 

ホントならその後、夜の高速にのって帰途につけばいいのだが、そうもいかないのがパチプロという人種で、特に急ぐ理由も無かった私はルーセントで抜いた分で安いビジネスホテルに泊まり、次の日も(そのルーセントを)追いかけることにした。

 

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この回は回想コラムなのでパチンコの経過云々は省きますが、あの時のルーセントは、かなりの甘釘調整だったのを覚えてます。

 

分かり易く言えば千円辺りの回転数が40~43回転はあったんじゃないかなあ・・・(2.5円換金)

 

又、次の日であればベンツ小林さんがいるかも知れない、そう考えて泊まりにしたのを覚えてますね。(ルーセントで宿代の小銭が拾えたからですけど・・・)

次の朝、我々一行は宿を後にした。


昨夜は明け方まで飲めや歌えやの大盛況で、皆アルコールの残った頭での別れだった。


私・ヨシロー・タクミの3人は沢井に挨拶を済ませると、クルマに荷物を積み込み、下戸の私が運転席に座って宿の駐車場を出た。


バックミラーには見送ってくれているシゲの姿が映っている。


”ああ、これでホントに終わったんだ・・・”


私は感慨深い気持ちになった。


たった1日ではあったが、今回のシゴトは我々3人にとって貴重な体験になった。


沢井の仲介で話がつけてある以上、何も気にする事はない。


いくら抜いたって地元のプロ連中と揉める事もなければ、店から追い出される事もない。


”ならば最初から長打を連発して、イヤ、そもそも飛ばさずに1日中連チャンさせてやればいいじゃあないか”


そう考えて臨んだ我々だったが、実際には・・・そう巧くはいかなかった。


ヨシローはもちろん、タクミでさえ前半は凡ミスから飛ばしてしまう場面があったし、私にしても後半、長打を引っ張る事が出来たから良いようなものの、アレはかなりの綱渡り的な運びだった。


理由は簡単。


心理的なモノだ。


これは我々3人に限ったことではないが、前半の不調の原因は初見の店での心理的な安定度、つまり平常心が足りなかったせいだ。


自宅やホテルの部屋でならハイスコア(高い連チャン率)が出せるのに、現場ではそれが活かしきれない。


攻略打ちというのは手順そのものは決まっているのだが、それだけで抜けるというワケでもない。


やはり打ち手の精神的な部分も相当関係してくる。


”腕がある” というのは、自宅やホテルで高連チャン記録を出せることではなくて、赤髪のように現場でそれが再現できることを言うのだ。


そしてまた、世間というのは狭いところもあれば、広いところもある。


世の中には赤髪のようなモンスター級の人間もいるのだ。


今回のパワフル編はこれで終わるが、最後に簡単な収支を書いておく。


記憶があいまいだが、当時のメモを頼りに記帳してみると・・・


1人あたりの平均収支・・・プラス19万3千円


そっから場代の5万円を差っ引いて、純利益・・・14万3千円


となっている。


私の感覚では1人あたり3万円ほど多いかなといった所だったが、それは赤髪が1人で2人分抜いてくれた御蔭だった。(赤髪は1人で45万円ほど計上していたと思う)


蛇足かも知れないが付け加えておくと、沢井は当初の場所代5万円以上のカネは受け取らなかった。


宿を出る際、我々は挨拶に行った折にその旨を添えて包みを差し出したのだが ”場代以外は要らない” と返されたのだった。


そういったところも、沢井の大将としての懐の深さを表していたと思う。


又、パワフルには今回のイルミネーション・ネタ以外に ”ツーバイ・ネタ(注)” もあるのだが、それはまた次の機会にゆずることにして、今回は一旦区切りたいと思う。


【注・・・台枠左上にある2倍ランプの点滅を狙うネタ。イルミネタに比べて難易度が高かった】


長らくのお付き合い、ありがとうございました。




宿に帰ると、とりあえず皆でその宿にある露天風呂に浸かった。


それまでは大して言葉を交わさなかった連中が、湯船に浸かりながらその日の事を振り返ってアレコレと言葉を交わしている。


不思議なものだ。


アチコチから集められて来た知らない者同士が、たった1日一緒に打っただけで昔からの知り合いの様になるのだから。


少しのぼせた私が湯船から上がり、岩肌に座って涼んでいると、シゲが隣へ腰掛けた。


『よお、おつかれ。最後のマクリはごっつかった(注)やんか!』


【注 ”ごっつかった” ・・・関西弁で、すごかった・見事だったという意味】


『いやあ、ハマってた時に食事休憩を入れたのが良かったのさ。そっちの御蔭だよ』


そうなのだ、午前中調子が悪かった時にシゲが店裏で声をかけてくれたことを思い出した。


『それにしても今日のラストは皆、猛スパートやったなあ。まるでパワフル祭りみたいやったで』


そう言うとシゲは、ギュッとしぼったタオルで顔の汗を拭いた。


シゲの言う通り、まさに ”お祭り” だった。


そして、その祭りが終わった後の寂しさも、これまた同じであった。


『だね。だけど、そのお祭りも今日一日で終わりだと思うと・・・なんだか寂しいな』


『なんや、別に死に別れるわけやないんやから、生きとったら又どっかで会えるで』


”生きとったら又会える” なるほど、そういえばそうだ。


昼間、休憩をとって馬酔木に行った際に聴いた、彼が母親・父親ともに死に別れていた話を思い出した。


死んでしまったら二度と会えないが、生きてさえいればいずれどこかで会う事もある。


当たり前の事だが、シゲが言うと妙に腑に落ちた。


そして・・・我々の様な生き方をしていれば、否が応でもいずれどこかの店で顔を会わせざるを得ないのも、コレマタ事実だった。


ただ、その時にも又今回の様に仲良く一緒にシゴトが出来るとは限らないが・・・。


私は出来れば、シゲとはズッと仲間でいたかった。


友達と言うほど甘ったるいものではなく、戦友と言うほどガッチリしたものではない何かを、私は(そしておそらくはシゲも)感じていた。


だが、沢井の傘下にいる彼と単なる部外者の私が、グループの垣根を超えて個人的に付き合いを持つことは許されない。


ひょっとしたら何らかのシガラミから、次は敵として相対しなければならないのかも知れないのだ。


さもさらばあれ(それはそれで仕方がない)、我々は人生の自由を得る代償に世間的な幸せを引き換えたのだから。


おそらくシゲも私と同じことを考えていたのだろう。


『次に会うた時には・・・』 そう言いかけて一瞬口をつぐみ


『・・・今度はそっちが昼メシおごる番やで!』 作り笑顔の空元気で、そう言い放った。




★★★作者(キョウスケ)から★★★

Kやんさんのブログ『 kaneyantiさんのブログ  』 でわざわざ紹介して頂き、ありがとうございます。

これで読んでくれる人が増えれば、ヤル気もアップして文章も長くなるかも・・・(笑)





















パワフルのシマでは、常にフラッシュが走り、コーナー全体に金属音が鳴り響いていた。


誰かが権利を消化し終われば、又誰かの権利が発生する。


さながら、大当たり権利を皆でバトンタッチよろしくリレーしているようだった。


私からタクミへ、そしてヨシローへ、かと思えばシゲが、赤髪が、メッシュが、もちろん(本編では活躍していないが)地元のプロも。


まるで皆が1つのオーケストラの様だった。


ついさっきまでの感傷的な気分など吹っ飛んでしまい、私は狂ったようにアースタッチを決めて行った。


一体どれ位連チャンさせただろう・・・


何度もドル箱をカウンターへ交換しに行き、足下には特殊景品が山積みになっている。


ザッと計算しただけでも一人頭、18~20万円ほどは抜いていたんじゃなかろうか。


出遅れた私でさえ、なんだかんだでプラス15万円オーバーにまでなっていた。


赤髪に至っては、見当もつかない。


時刻を見ると、夜の9時過ぎ。


閉店までは後1時間30分(その地域は夜10時30分が閉店だった)あるのだが、沢井から ”終了” の伝言が入った。


どうやら店側から泣きが入ったらしい。


7人全員に90分間フルで抜かれたら、ゆうに40万円はいく。


”もうそろそろ勘弁してくれ”


そういう事らしかった。


それほどあの時のラストスパートは異常だったのだ。


私たちは全員、連チャンモード中の台を空けて、玉を流した。


【その空いた席に、さっきまで物欲しそうに観ていた一般客が座ろうとしたのだが、店員がパワフルの電源を落としてしまったのはやや気の毒だったが・・・】


皆、興奮して顔が上気していた。


店裏にある換金所に並びながら、皆口々に今日1日を振り返っていた。


火照った顔に夜風が心地よかったのを覚えている。


換金を済ませた者から順次、車に乗り込み、我々は沢井の指示で宿へと帰った。


【TVやそのテのDVDでは、一仕事終えた後は夜の街へ繰り出して・・・という件になることが多いが、実際には大金を抱えている関係上、当日は宿へ戻ることが多い】