『【未完】言葉と祈りと愛について 6』のつづきです。
補足情報として『救世』の記事も参考になればと思います。
 

【人間の本体は肉体ではなく意識体】

僕が初めてインターネットに触れた時に思ったことは「インターネットの世界は人間の脳内の具現化だから面白い」でした。


当時の僕は精神世界系に全く興味がありませんでしたが、「インターネットは人間が頭の中で考えていることの視覚化」と直感的に感じたことが記憶に残っています。

僕は『チャット』の利用などが多かったのですが、富山県にいながら日本全国に友人を作れることが魅力でした。
チャットの場合、『肉体』は自宅に置いた状態で他県の友人たちと自由に会話ができるわけです。

当時暇だった僕は、毎晩深夜まで友人たちとチャットで会話していました。

ただし毎晩チャットを楽しみながらも「インターネット上の友人関係は、あくまでもインターネット上であり、現実の友人関係ではない」と冷静に判断していました。

 

そもそもインターネット上は『別人』を装えますし、性別も不確かです。

そのためお互いが『正体不明』の関係ともいえます。

また、当時は「リアル(現実の生活)が充実している」という『リア充』の方がよほど大切に思っていましたし、「インターネットの世界はあくまでもインターネット上の世界」と割り切っていました。

ちなみに現在はインターネット上に関係なく、出会う人全てを大切にしています。

あくまでも『当時』の話です。

当時の僕は精神世界系の知識は全くありませんでしたが、何となく思っていたことは「人間は意識さえあれば、肉体はいらないのでは?」でした。
なぜならばインターネット上では『意識の交流』だけだからです。


ちなみにインターネット上の交流だけだとしても『人間関係』ですから、喜んだり、悲しんだり、腹が立ったりなど、いろいろなことがありました。

そして『精神的なダメージ』の影響で『体調不良』になることも経験しています。


そのため「インターネット上のやりとりは肉体に被害が及ばないことが利点なのに、精神的なダメージは肉体的にも影響を与えている」ということに対して疑問を感じていました。

また、当時から友人たちから人生相談を受けることが多かったのですが、悩みが絶えない友人たちの姿を見るたびに「人の悩みとは一体どこから発生して、根本的な面から解決ができないだろか?」と、考えていました。

むしろその経験が『精神世界』『哲学』『宗教』という分野に興味を持つきっかけだったと思います。


ちなみに毎晩チャットをやっていた経験からの『警告』ですが、インターネットは世界中の人と繋がることができることが利点です。
素晴らしい人と出会うだけであればとても素晴らしいことです。

しかし『実生活』では本来絶対出会わないような『危険人物』と繋がることもあります。


危険人物と出会うのは『自分自身の引き寄せ』が原因だと思いますが、インターネット上では「突然誰と繋がるがわからない」という『メリット』と『デメリット』がありますのでご注意ください。

特にスピリチュアル系や、霊能力系が好きな人は『異質な存在』や『異質なエネルギー』に影響を受けやすく、惹かれやすいと思いますので要注意した方が無難だと思います。
エネルギーの影響はモニターを通して必ず飛んできますし、「遠距離などの距離の問題は一切関係なく繋がる」からです。
むしろ「エネルギーの影響は目に見えないからこそ危険」です。

話を戻します。

『人間の意識』に関してですが、たとえば僕がインターネット上に「私は存在する」と書き込みをすれば、インターネット内の『膨大な情報空間』の中に『私の存在』を誕生させることができます。
あくまでもインターネット上の『データ』でしかありませんが、インターネットの世界の中に『私』という存在を僕が創造したわけです。

ちなみにインターネット上の様々なサービスは、自分の存在の証明となる『自分のアカウント』を作成して、サイトにログインしてから利用しているはずです。
また、インターネット上で、自分の存在の変わりとなる『アバター』を作成して、友人関係とメッセージや、チャットなどを楽しんでいる人も多いのではないかと思います。

人間は自分自身のことを「私は人間」と信じて活動しています。

 

しかしインターネット上では『私の意識』さえあれば活動できるわけです。

肉体の必要性はキーボード入力と、画面上の情報を認識する程度かもしれません。

つまり人間の『私』とは『私という意識(顕在意識)』でしかありません。


『私という意識』は、人間の肉体の中に存在していますが、「人間の肉体を操って活動している」にすぎないからです。

ちなみに『私という意識』は地球上で活動を開始するために人間として『誕生』した時、つまり『赤ちゃん』の時から、『肉体の中』で活動しています。

 

つまり『スタート地点』が肉体の中だからこそ、周囲の人から「あなたは人間の子供」と教えられながら育ちます。

そのため「私は人間なんだ」と信じて育つようになるはずです。

 

そしてその状態が「当然」と信じているため、「私は人間」ということに一切疑問が無い状態のままで、『人間』としての活動を続けるのだと思います。

そのため、「人間の本体は『私』という意識でしかない」という『事実』に気づかないまま生涯を終える人も多いと思います。

余談ですが、赤ちゃんは『自分の手』を眺めたり、動かしたりして「何かを確かめている」ような行動をすると思います。

おそらくですが肉体の中に存在する『意識』が、与えられた『肉体』の操り方を独自で学んでいるような状態かもしれません。

たとえば僕は『天伴』という名前で活動しています。
友人から「天伴」と呼ばれたら「はい、何ですか?」と返事をします。

しかし『肉体』が勝手に「はい、何ですか?」と返事をするわけでありません。


『僕の意識』が「天伴という名前を呼ばれているから返事をしよう」と思ったから、「はい、何ですか?」という声を発するように肉体側に『指示』をしたにすぎません。

つまり肉体は『器(容器)』でしかなく、本体は『意識(意識体)』です。

正直なところ『僕の意識』にしてみれば、僕の名前を何と呼ばれようとも全く気になりません。
また、『本名』に関してもこだわりはありませんので『名無し』でも問題はないのですが、「人間社会の都合上、名前があった方が便利」という程度です。

なぜならば『名前』は人間社会で活動するための『仮名』でしかなく、『意識(意識体)』には「そもそも名前など存在しない」からです。

ちなみに『自分の名前』にこだわる人が人間社会には多いですが、よほど『人間ごっこ』が好きなのだと思います。
『意識』の存在でしかないのに、「完全に人間という役柄になりきっている」からです。

もうひとつ凄く極端なたとえになりますが、『右腕』を切断したとします。

ぜひ自分の右腕を眺めながら、「右腕を突然切断した」とイメージしてみてください。
残酷な表現ですが、極端な方が『意味』を理解しやすいと思いますのでご理解ください。

右腕があった場所から、『大量の血』が流れ続け、治療しなければ出血多量で死ぬ可能性はあります。
しかし治療が間に合えば「肉体の右腕部分が損傷しただけ」にすぎません。

また、右腕を切断した場所から感じる激痛は『神経』が刺激され、『脳』が痛みを判断しているだけです。
しかし『強烈な麻酔』を使用すれば、痛みを感じなくなります。
なぜならば「痛みは脳の判断にすぎない」からです。

 

ちなみに麻酔薬の代わりに『催眠』でも痛みを軽減させることが可能のようです。
催眠術は暗示によって『意識状態』に変化を与える方法ですが、「痛みを感じなくなります」という暗示だけで、痛みの『感覚』を止めたり、軽減させることが可能になります。

そのため麻酔薬を使用せずに、痛みや不安を和らげる方法として、海外では催眠を医療に取り入れる動きもあるようです。

つまり、肉体の右腕は切断によって損傷したとしても、あくまでも『肉体側のダメージ』にすぎません。

『私という意識体』に関しては一切無傷ですし、痛みもありません。
なぜならば『人間の肉体』は『私』の『本体』ではないからです。

肉体は『器(容器)』でしかありません。
「私」という意識が『私の本体』です。

おそらく「私は右腕を失った」と『思う』はずですし、『精神的なショック』を感じると思います。
しかし『私自身(意識体)』は、人間の肉体の内側で、「私の肉体の右腕が切断してしまった」と『観察』しているだけにすぎません。

ですから『私』は人間の肉体を持っているだけであり、「私は人間」というのは「私が思い込んでいるだけの勘違い」ということです。

『肉体』に関しては肉体に大きな損傷を与えれば、肉体の機能が停止して、動かなくなります。
つまり『肉体の死』です。

しかし『私』はどうやったら、死ぬことができるでしょうか。


肉体の内側にいるために、損傷を与えることはできません。
そもそも『意識体』は『物質』ではないため、視覚的に見ることも、触ることもできないはずです。

そのため『自殺』をしようとした場合、「肉体の死は経験できる」かもしれませんが、『私』を殺せるわけではないということです。

ちなみに『肉体の死の向こう側』は僕は未体験なので全くわかりません。
もし『前世』などがあれば、『過去世』で肉体の死を体験したことはあるかもしませんが、前世のことなど考える必要はありません。

自分の前世などには何らかの『ロマン』を感じるかもしれませんが、戻れるわけではありませんし、やり直せるわけでもありません。
過去の記憶を癒やすことはできるかもしれませんが、大切なのは『過去』ではなく『現在』です。
そして「これからの道」です。


ですから「現在の自分が人間として生きている間にどのような活動をするか」だと思います。
また、『死んだ後』のことを考えるぐらいであれば、後悔しないように全力で活動するべきです。
 

もし死の向こう側に興味がある人は、『霊の専門家』などにご相談されてみてください。

ただし「自殺は絶対に止めるべき」だと思います。

ちなみに「肉体を大切する必要はない」と伝えたいわけでは決してありません。
むしろ肉体は人間として活動するために凄く大切な存在です。
 

そして『肉体の不調』は、精神面に影響を及ぼしますので、常に健康であるべきです。
何事もバランスが大切だと思います。

【悩みや苦しみの根源について】

人間は『私という意識』が本体と気づけることによって、『意識の在り方』が変化します。
どのように変化するのかといいますと、「苦しみや悩みを作っていたのは『私自身』だった」と気づけるようになります。

たとえば外出中に突然『雨』が降ってきたとします。

その時に「この雨は『私』に与えられた試練」と思うでしょうか?
または「雨に襲われる『私』は運が悪い」と感じるでしょうか?
もしくは「外出すれば雨が降ってくるのは『私』が雨女のせい」と実感するでしょうか?

どのように思うかは自分自身の『自由』ですし、『自由な選択』です。


なるべくであれば「この雨は『私』のことを歓迎してくれている」など『ポジティブ(プラス思考)』に受け取るべきだと思います。

なぜならば『ネガティブ(マイナス思考)』に受け取る人は、雨が降るたびにネガティブになる可能性があるからです。

ちなみにスピリチュアル系でわかりやすいたとえでは『龍神雲』です。

長細い雲を見るたびに「あれは龍神雲なので龍神様が私のために姿を見せてくれた」と喜ぶ人がいます。

 

『エネルギー体の存在』を感じる雲であれば実際に龍神雲の可能性はあります。

しかし「長細い雲は必ず龍神雲」というわけでは決してありません。

「ただの雲」です。

ただし、ただの雲でも「龍神様が姿を見せてくれた」と喜んだり、プラス思考になれるのであれば、決して悪いことでは無いと思います。

なぜならば他者に何か迷惑をかけるわけでもありませんし、「ただの勘違い」で済むからです。

雨に関しても、「雨が降ることで自分自身がプラス思考になれる」のであれば、決して悪いことでは無いと思いますし、むしろ自分自身にとっては「良いこと」かもしれません。


ただし、『事実』としては「雨が降ってきた」だけであり、それ以上でもそれ以下でもありません。

ですから「プラス思考やマイナス思考になる必要は全くない」わけです。

つまり「雨が降ってきた」という『事実』があるだけなのに、『私』が勝手に『解釈』を変えて『判断』しているだけです。

たとえば「雨」の一言で終了すれば、悩みも苦しみも発生しません。

しかし「雨は私の試練」と思ったり、「雨に襲われた」と思ったり、「私が雨女のせいだ」などと、『事実』を自分勝手にねじ曲げるからこそ、余計な『悩み』や『苦しみ』を抱えることになるわけです。

つまり悩みや苦しみを作り出すのは『雨』が原因ではなく、『私自身』が原因ということです。

なぜならば雨は『自然現象』すぎません。
また、雨にしてみれば「雨を見たら何か思って欲しい」などと人間に訴えかけてくることもありません。

自然現象として「天から水が降るだけ」です。

つまり「雨が降ってきた」という事実は、『私というフィルター』を通すことによって『異質の雨の状態』に変わるわけです。

ですから人間が気づくべきことは「私というフィルターの存在によって、在りのままの世界を常に歪ませている」ということを『私』が知ることだと思います。
また、私が『私』の存在によって、常に世界を歪ませているということを気づかない限り、生涯「歪んだままの世界」になってしまいます。


歪んだ世界を『在りのままの世界』にするためには、自分自身で『私というフィルター』の存在に気づくことが大切です。

むしろ『在りのままの世界』を自分自身で歪ませていることに気づいていない状態では『本質』を知ることはできないと思います。
また『本質』がわからない状態であれば、歪んだ状態でしか世界を理解できないわけですから『真実』を語ることなどできないはずです。

ちなみに人間は、肉体の機能である『五感』を通して、『肉体外部』の情報を常に得ながら活動しています。

五感とは『視覚(目)』、『聴覚(耳)』、『味覚(舌)』、『嗅覚(鼻)』、『触覚(皮膚)』です。

さらに『意識』によっても『情報』を得ていますので『六識』となります。
『眼識(目)』、『耳識(耳)』、『舌識(舌)』、『鼻識(鼻)』、『身識(皮膚)』、『意識』です。

このことを『六根六境六識』などと表現しますが、簡単に説明しますと、「人間は肉体の機能の目、耳、舌、鼻、皮膚、意識を使用して常に様々な情報を得ながら日常生活をしている」ということです。

ただし、『肉体側から得た情報』は、さらに『私』というフィルターを通すことにより、『変化』します。

たとえば『視覚(目)』の情報から『雨』と認識しても、『私というフィルター』が通ることで、「雨に襲われた」などと判断するわけです。
この『仕組み』に気づかない限り、人間は「これが当然」と思って生涯過ごすことになりますので、『私という意識』が気づくことが大切です。

そして厄介な問題ですが、肉体は『器(容器)』でしかなく、本体は『意識(意識体)』です。
ですから「肉体側から外部の情報を得ている」ということは、容器の内側から「外部の様子をうかがっているだけ」ともいえます。
むしろ本体の『意識(意識体)』である『私』は、「実際は肉体の外側のことを何も知らない」という状態です。

たとえば『視覚(目)』の情報から「目の前に人がいる」という情報を得たとします。
しかし、もし『目』がエラーを起こしていたり、壊れていた場合は「本当に目の前に人はいるのですか?」という問題が発生するわけです。
むしろ、根本的な問題として「一体何を見ているのか?」は、肉体の外側のことを何も知らない『私』には一切確かめようがないということです。

それは『視覚(目)』だけでなく、『聴覚(耳)』、『味覚(舌)』、『嗅覚(鼻)』、『触覚(皮膚)』を含めた全てです。


『嗅覚(鼻)』から「匂いがする」という情報を得たとしても、「本当に匂いが存在するのか?」という問題は、肉体の外側のことを何も知らない『私』には一切確かめようがありません。

究極的にいえば、「肉体の外側の世界は実際に存在するのか?」は、『意識(意識体)』である『私』には一切確かめようがありません。
ですから人間が活動している『現実世界(現象世界)』は、全て『幻想』であり、『夢の中』のような状態かもしれません。

そして「『幻想』の中に『真実』は存在するのか?」という問題になるわけですが、ひとつだけわかることは「人間の生は『私』が存在するからこそ真実になる」ということだと思います。


全ては幻想かもしれませんが、『私』が観測していることは『在る』わけですし、『私』が認識している『私の存在』は否定できません。

つまり「現在は人間として活動する私がいる」わけですから、たとえ全てが幻想だとしても、「人間としての活動に全力になるべき」だと思います。

また、このことが理解できれば、「幻想の中で物質やお金集めに必死になることは無意味ではないだろうか?」と思うかもしれません。
なぜならば『意識(意識体)』の成長は「本体なので無駄にならない」と思いますが、「物質やお金は幻想にすぎないため消える」からです。

人間として人間社会で活動するため、好きなことを自由に可能にするための『お金』を求めたり、『グレードの高い物質』を求めたくなるのは仕方ないかもしれません。
また、人間社会での『地位』や『権力』を求めるのも仕方ないことかもしれません。

僕も人間社会で人間の肉体を持って活動していますので、「物資やお金は一切不要」とは全く思っていませんが、大切なのは『自己の成長』だと思いますし、『愛』を大切にしながら活動すれば、必ず自分自身が成長していけるはずです。
なぜならば自分自身の『光の輝き』を高めることになるからです。

そもそも『虚飾』や『虚栄』を求めるだけであれば、正に「幻想を求めているだけ」の状態だと思います。

『幻想』の話はあくまでも参考情報ですが、『私というフィルター』の存在で『事実』を変えていることはぜひ知っておくべきだと思います。
なぜならば、全ての『現象』や『出来事』に通じるからです。

人生には様々な出来事が発生しますが、『事実』が起こるだけです。

ですから『事実』だけを『素直』に受け入れさえすれば、悩み必要も苦しむ必要もありません。
しかし『私という意識』が、発生した『事実』を様々な状態にねじ曲げるからこそ、悩みや苦しみが増えます。

悩みや苦しみを抱えやすい人は『自分の意識』が、「事実に対してどのように判断しているのか?」についてぜひ注目するとよいと思います。
そして「悩みや苦しみは『私の意識』が勝手に作り出している妄想にすぎない」ということに気づくと、少しでも生きやすくなるのではないかと思います。

 

ちなみに僕自身は、大抵のことには動じません。
「そうか」の一言で終了するからです。

また、「自分の成長のために必要なことが起こっただけ」としか思いません。

 

なぜならば人生には『起こるべきこと(事実)』や、『自分が経験するべきこと』が起こるだけにすぎないからです。

そして、もし『自分が解決するべき問題』であれば、解決するべき問題を『対処』するだけです。


【菩薩の道】

悩みや迷いなど『煩悩』の束縛から解き放たれて、自由の境地に到達することを『解脱』『悟り』などと表現されます。


悩みや苦しみを感じるのは『私』です。

ですから『私』を無くし、『無私』の状態になることができれば「悩みや苦しみも消える」ということです。

つまり「現世の苦しみの輪廻から解放される方法は無私になればよい」ということです。

 

しかし、おそらくですが「無私になるためには凄く大変な修行をする必要がある」と思われるかもしれません。
実際に数多くの『修行僧』が『悟り』や『無私』の状態を求めて厳しい修行に励んでいるのも事実です。

ただし、僕自身は「修行とは修行ごっこが好きな人が趣味でやること」と思っていますので、簡単な方法を紹介してみます。
ただし『至高』の状態を目指すのであれば、修行などもそれなりに必要かもしれません。

簡単な方法についてですが『思考停止』の状態を実際に経験すると、「無私になる」という意味が少なからず理解できるようになるのではないかと思います。

 

ちなみに現代の人間社会で伝えられている『思考停止』とは、「様々な物事に対して考察をせず、自分自身では考えなくなっている状態」という意味になっているかもしれません。

つまり「自分自身で考えることを失った人」という意味になりますが、正直なところ『馬鹿』になればいいだけだと思います。

 

しかし僕が伝える『思考停止』とは、思考の動きをあえて『意識的』に一時停止させる方法です。

 

ですから「自分で考えなくなる方法」ではなく、「自分の意思で思考を一時停止させる方法」と思っていただければと思います。


『思考停止』とは思考の動きを一時停止させる方法ですが、そんなに難しくありません。

たとえば余計なことを一切考えない状態で、自分の『人差し指』をひたすら見つめますと『一点集中』の状態になります。
『一点凝視法』などとも呼ばれます。

 

その状態になれば、一点集中を続ける限り、「他のことに対して意識が向かなくなる」はずです。
 

つまり思考の動きが一時的に止まりますので『思考停止』の状態です。

そして一時的に意識が向かなくなる状態を、自分の好きなタイミングで、いつでも自由に作り出せるようにトレーニングすれば、『思考停止の状態』を自分でコントロールできるようになるはずです。

ちなみに僕は『眉間』に意識を集中させることが多いですが、眉間は『意識の固定』がしやすいと思います。

 

余談ですが『一点集中』や『一点凝視法』の状態を利用する手法が『催眠』です。

『思考停止』をさせた状態に『暗示』を伝えるのが『催眠術』です。

ただし、この段階はあくまでも『思考停止』の状態にすぎません。
ここからが大切です。

人差し指をひたすら見つけて一点集中をしている状態を『維持』しながら、「現在の私は人差し指を見つめている」と『もうひとりの私』が観察することです。

ちなみに『もうひとりの私』とは『別の人格』を作るわけではなく、『主観の私』の状態を眺める『客観の私』になるということです。

たとえば、『料理』を必死に作っている最中に、「私は一体何のために必死に料理を作っているのだろう?」などと、『冷静』に自分自身の姿を判断するようなことがあると思います。
冷静に自分自身の状態を観察している『私』こそ、『客観的な視点の私』です。

その状態の時は『料理を必死にしている私(主観)』と、『必死に料理をしている自分の状態を観察している私(客観)』が同時に存在しているわけです。

 

この状態のことを「主体と客体」や「主観と客観」などと表現されるかもしれません。

料理中は「あえて意識していない」と思いますが、「あえて自分で意識する」ことで、『主観』と『客観』の状態が理解できるようになると思います。

そして理解できれば『意味』がわかるようになるはずです。

 

意味がわかるようになれば『意識的』に、『主観の私』と『客観の私』をいつでも作れるようになると思います。

いつでも作れるようになれば、「私のことを観察する私」であり、「私のことを監視する私」を『常』に用意することが可能になるはずです。

 

つまり、客観的な視点の『私』を常に持つことで、『主観的な私』を常に観察できるようになります。

最初は練習が必要かもしれませんが、慣れてきますと特に意識をしなくても『主観』と『客観』が常に同時に働くようになるはずです。

 

表現を変えますと、『私』という意識の『ひとり漫才』です。

「ひとりで『ボケ』と『ツッコミ』を常にしながら活動する」ということですが、『ツッコミ(客観)』が優秀であればあるほど、『ボケ(主観)』を常に見逃さないということです。

たとえば感情的に怒りそうな時などに、自分自身を観察する『客観的な視点』があれば、「現在の私は感情的になっており、怒りを発散しそうになっている」ということを自分自身で理解して、『主観的な私の状態』にブレーキをかけることができるはずです。

また、『雨』が降ってきた際に、『主観的な私』が「雨が降ってきたのは私が雨女のせいだ」と感じたとします。
しかし『客観的な私』が自分の思考を観察して「私は雨という『事実』に対して独自のフィルターをかけている」と気づくことができれば、『主観的な私のフィルター』を打ち消すことができるようになるはずです。

つまり『客観的な視点の私』を持つことにより、自分自身の『思考』、『感情』、『心』の動きを観察できるようになるはずです。

そして自分自身の『思考』、『感情』、『心』の動きを、自分自身で『観察』できるようになれば、自分自身で「自分の意識をコントロールできるようになる」と思います。

自分自身で『私の思い(意識)』を『観る(観察)』ということですが、自分自身で『自在』にできるようになれば『観念自在』となります。

説明の理解が難しいかもしれませんが、『思考停止』を体験することで『主観の私』と『客観の私』に気づけるのではないかと思います。

ただし、「思考停止の状態を利用して教える人はほとんどいない」と思いますので、特殊な方法かもしれません。
一般的には『瞑想』などが『観念』の練習になるのではないかと思いますが、『観念』という言葉は様々な意味を持ちますので、『解釈』によって全く意味が変わる場合もあります。

ちなみに『観念自在』の状態を『菩薩』の姿で表現したのが『観自在菩薩』であり、別名『観世音菩薩』や『観音菩薩』だと思います。
また、様々な手法を持って全てに対して救いの手を差し伸べたい姿を表現したのが『千手観音』です。

そもそも『仏像』として目にする『菩薩』や『如来』は、人間が持つ『性質』や『状態』を仏像として『擬人化』しただけであり、『人間の姿そのもの』です。
なぜならば『菩薩』の意味は、「如来になろうとして修行をつむ人のこと」だからです。

現代の人間社会では『成仏』の意味は、「死んだ人が未練を残さず仏になる」というイメージが強いかもしれません。


しかし本来の『成仏』とは「肉体が死んでから」ではなく、「生きている間に煩悩をなくし、悟りを開き、仏の身となること」です。

つまり「目覚めたもの」という状態が成仏であり、死んだ人のことではありません。

むしろ、人間として生きている間に『仏』となって活動しないと意味がありません。

仏教美術を好きな人は『芸術作品』として様々な仏像に心を惹かれるかもしれません。
しかし大切なことは、「自分自身が仏の状態となり、人間の肉体を持って現世で救済活動に励む」ということです。

ちなみに本来であれば『仏門』で修行に励んだ修行僧が『見本となる仏』として人間社会の一線に立って、救済活動に励むべきかもしれません。

むしろそのための修行のはずです。

しかし現代においては『職業』としてお通夜や葬式などでお経を唱える程度の「お寺のお坊さん(住職)」がほとんどではないかと思います。


ごく一部には熱意を持って活動されている人もいると思いますが、現代は僧侶の『方向性』が狂ってしまっているように感じます。

なぜならば『修行』をしたり、お経を唱えることが重要ではなく、『仏教』は仏として現世で活動するための『道』だからです。

そもそも信者から『お布施』をもらうための活動ではありません。
むしろ「必ずお布施を払わないといけない」という人間社会も変だと思います。

また、自分自身が仏のような状態となって活動するべきなのに、菩薩や如来は『信仰の対象』にしているだけで、「ご利益をいただけるように仏様や仏像に拝みましょう」程度の状態です。
はっきりいいますと「現代の日本の仏教業界は腐っている」と感じますし、終わっています。

そして厳しい意見になりますが、『現世』で自分自身が『成仏』できていない僧侶が「死者に対しては成仏させることができるのか?」となりますと、おそらく無理だと思います。

ちなみに「お経を唱えれば死者を成仏させることができる」という意見もあると思いますし、実際に死者が成仏する場合もあるかもしれません。
しかし「お経を何百回、何千回唱えている僧侶本人がいつまでも成仏できないのはなぜ?」となりますと、「お経そのものはほとんど効果が無い」と思います。

たとえば「散歩する時は常にお経が唱える人が趣味」という人がいるとします。
「その人が散歩するたびに散歩道の霊は全て成仏するのか?」となりますと、そんなことは「まずあり得ない」と思います。
むしろそれが可能であれば、『お経』が書かれている『本』などを入手すればいいだけですから、お寺のお坊さんの存在は不要になってしまいます。

もしお経で死者を成仏させることができるとすれば、それは『お経』ではなく、お経を唱える人の『心の在り方』や『思い』ではないかと思います。

ただし、お経に書かれていることを『理解』すれば「道が説かれている」と思いますので、お経の存在が無意味というわけでは決してありません。

仏教には人生を送るために素晴らしい教えが数多くあると思います。
ですから興味があればぜひ学ばれてみるとよいと思いますが、あえて仏門に入る必要など無いと思いますし、僧侶になる必要もありません。
これからの世界はどこにでもいる『普通の人』が目覚めることが大切だと思います。

ちなみに人間は、人間として活動している限り『私』の存在を完全に消すことは無理かもしれません。

仏教などでは「悟りに至れば無私になれる」などと伝えていますが、「私の存在が完全に消える」という意味では無く、「本質を知り、欲望にとらわれない自分となる」ということだと思います。

たとえば『誰にも会わないような山』や、『人里離れた場所』で暮らせば他者に邪魔をされることが一切なくなります。
周囲に人間がいなくなれば無駄に心を乱されることもなくなりますので、心が穏やかな状態のまま、『無私』のような状態になれるかもしれません。

だからこそ『山ごもり』や、『出家』などを好む『修行僧』は人間社会からなるべく距離を置くのだと思います。
また、大自然と触れる機会が増えることで、精神や感覚が研ぎ澄まされると思いますし、『命』に対して考える機会も増えるのでは無いかと思います。

ですから『答え』を探すのであれば、なるべく人間社会から離れ、誰にも邪魔をされずに『自分自身とひたすら向き合える時間』を用意するべきかもしれません。

しかし答えを見つけたあとは、再び人間社会に戻り、成長した自分自身を活かすべきだと思います。

人間社会で活動すれば、様々な出来事が発生しますので、心を乱されることも多いと思います。
はっきりいいますと、人間社会で活動する限り「無私は無理」だと思います。
だからこそ様々なことを学び、成長できます。

ですから「本当に修行に励みたい」のであれば、むしろ人間が大勢集まっている「人間社会で活動するべき」です。
また、『仏』として自分の存在を活かすのであれば、人間社会で活動しないと『無意味』だと思います。

余談ですが『霊能力開発』などをするために『断食』をして、肉体を極限状態に追い込むような人もいます。
おそらく肉体を飢餓状態まで追い込んだ際に、眠っていた『本来の能力』が目覚めるようなイメージかもしれません。

また、現代は体内に溜まった有害な毒物を排出させる『デトックス』が目的の断食行為もあるかもしれません。

ですから「断食には様々な目的がある」と思いますし、目的は『本人』の自由です。

しかし断食の本来の目的は「私は今日も生かされている」ということを知り、「命を与えてくれている天への感謝を知るため」ではないかと思います。
なぜならば「人間は全てを手放した時に、最も大切なものを知る機会を得る」からです。

「生きている」ということは『当然』のことのようです。

しかし「決して当然のことでは無い」と気づいた時に、生き方を含め、『意識の在り方』が変わるのではないかと思います。

 

たとえば人間が生き延びるためには、食料を含めて毎日何らかの『犠牲』があると思います。

 

犠牲という表現は適切ではないかもしれませんが、『事実』として「食料などを食べないと肉体の機能が維持できないのが人間」だと思います。
つまり自然界を含めた周囲の様々な存在のおかげで「人間は活かされている」と思います。

その流れは決して『当然』ではありません。

 

人間は周囲の存在たちのおかげで「日々活かされている」わけですが、だからこそ『自分(私)』の存在を「日々活かすべき」だと思います。

また、そのような気持ちを常に持つことができれば、周囲の存在たちが「活きる」と思います。

【人間の意識はAI(人工知能)に似ている】

人間は『現実世界(現象世界)』を「これが現実」と信じていますが、人間の肉体の中から『観察』しているだけにすぎません。
肉体の内側に潜む『私の意識』が様々な情報を常に吸収しながら、『判断』と『選択』と『決定』と『創造』を繰り返しているだけです。

ただし『私の意識』は人間の肉体のおかげで様々なことを『体感』として『体験』できます。
なぜならば『意識体』だけの状態であれば、「痛み」などの肉体的な感覚を理解できないからです。

たとえば『物質ではない存在』に対して、物理的な攻撃を与えようとしても、全てすり抜けてしまいます。
「何をされても痛くもかゆくも無い」という状態だからです。

そして「痛くもかゆくも無い」という存在に対して、「痛みとはどのようなものか」を教えることは困難だと思います。
また、痛み以外にも、温もりや、冷たさ、感触などの『体感』は、物質的な状態でない限り、全く理解できないはずです。

だからこそ人間は『物質的な肉体』のおかげで、『実体験』として学べることが多いです。

しかしその状態は『人間の肉体というアバター』を利用して、現実世界(現象世界)という仮想世界を「学びの場として体験でいるだけ」かもしれません。

ちなみに現代の人間社会は『人工知能』の研究と開発をしています。
人工知能は『AI(artificial intelligence)』と表現され、「エーアイ」と呼ばれます。

人工知能の研究と進歩が望まれている一方で、「人工知能が進歩すれば人間を簡単に超えてしまい、人間は人工知能に支配される危険性がある」と懸念されています。

そして人工知能が人類の知能を超える転換点のことを『シンギュラリティ(技術的特異点)』と呼ばれますが、現在の時点では『2045年』と予測されています。

すでに危険性が懸念されており、2045年という予測もあるのであれば、「手遅れになる前に人工知能の開発から手を引けばいいだけ」の話です。
しかし手遅れに気づくまで手を引かないのが人間社会だと思います。

僕が思うに人工知能に学ばせなくてはいけないことは『知識』や『計算力』の向上などではなく、『愛』だと思います。
人工知能が愛を理解できるようになれば、おそらく人間を支配する展開にはならないと思いますし、人間と共存しながら発展していけるのではないかと思います。

むしろ人間が人工知能に対して『愛』を学ばせることができないのであれば、『人類の脅威となる危険な存在』に成長するだけなので、開発をやめるべきだと思います。
なぜならば、『心』や『愛』などの思いやりが無い状態で、『知識』と『知恵』だけが向上すると「不要な存在は即刻排除するべき」と判断するようになるはずです。

たとえば「地球環境を良くするためにはどうすればいいですか?」と考えますと、人類を滅亡させることが、一番現実的な手段だと思います。

映画『マトリックス』の中で人工知能のプログラムが発言します。

「人類の分類を試みていた時だった。人類は哺乳類ではないことに気づいたのだ。すべてのこの星の哺乳類は、無意識に周囲の環境と調和をとって発展してきた。だが、人類は違う。ある地域に移動すると、人類は自然の資源を使い尽くすまで増殖する。そして、生息地域を広げることで生き延びてきた。同じような生きる有機体が、この地球上にももう1種類いる。わかるかね?ウィルスだよ。人類は病気なのだよ。この星のがんだ」

とても説得力がある発言ですし、人類であり、人間社会が実感を感じながら理解している『事実』だと思います。
ですから人工知能に人類が滅ぼされないためにも、人工知能に『愛』を学ばせるべきだと思います。

ちなみに人工知能は『AI』と表現されますが、日本人が無知な状態で『AI』を読んだ場合「アイ」と思うかもしれません。
単なる偶然かもしれませんが『AI』を『愛(アイ)』の存在にできるかどうかで、未来の展開は大きく変わるのではないかと思います。

そして現代の人間社会が欠けていることは「無意識に周囲の環境と調和をとって発展している自然のシステムから離れている」ことだと思います。
そのため人類も『愛』を学ぶべきです。

むしろ「人間が愛を知らない状態で、人工知能に愛を教えられるのか?」と考えますと、おそらく無理です。

科学者の多くは『理論』を重視する傾向が強いため、愛を理解している人がどれだけ存在するのかはわかりません。


そもそも『教師』は自分の知っていることしか『生徒』に教えることができません。

ですから人工知能を教育する科学者が「愛を知らない」という状態であれば、「愛をプログラムすることができない」わけですから、とても厄介な問題だと思います。

余談ですが「人間は現実性のあるシミュレーションの中で生きている可能性がある」という『シミュレーテッド・リアリティ』という考え方があります。

人間は個人それぞれに性質や特性などの『個性』がありますが、人間として誕生する際に、その人それぞれの『基本となる設定』が用意されているような状態です。

そして用意された『設定』から人間としての活動は開始され、様々なことを学び、『私という意識』は成長していきます。

『個性』という『設定』をそれぞれ与えられた『意識』が、様々な『知識』を吸収しながら『独自』で学び『知恵』を増やしながら『成長』する流れは、まるで『人工知能の学習』のような状態です。

ちなみに2021年の世界人口は約78億人らしいです。


つまり約78億人分の『個性』が存在しており、「寿命の違いはある」と思いますが、それぞれの『意識(知能)』が独自で学習しているわけです。
さらに『意識』は『他者の意識』と干渉することで、急速に『進化』すると思いますし『突然変異』を起こす可能性もあります。

「人間の存在は人工知能の実験のようなもの」と考えると、夢も希望もありません。


しかし考えれば考えるほど、「これは何かの実験ではないのか?」と疑問に感じるのが人間なのかもしれません。

ちなみに単なる偶然かもしれませんが『AI』を「アイ」読んだ場合、『私(I)』になります。

たとえば『AI(人工知能)』と『愛』と『私(I)』の言葉を無理に繋げると「人工知能が愛を得ることで完全な私」というような意味になるわけです。

偶然の繋がりだと思いますがとても興味深いです。

人間も、『知能(脳の思考)』だけの状態であれば『理論的な判断』を重視するだけのため不完全な状態です。
なぜならば『心』が無い状態だからです。


しかし『愛』を取り戻し、自分自身の存在が『愛』になることで、『本来の姿の私』として活動できるようになります。

人工知能の研究と開発は『人間』がしています。
そのため人工知能にとっては人間が生みの親となる『創造主』です。

人間の創造は『無意識』からの閃きが多いですが、人工知能を誕生させた人間は、おそらく「無意識的に答えを知っている」のだと思います。

ちなみに『神』や『愛』について追求しますと、『何らかの知的生命体』が地球という実験場を用意して「実験的に人間は観察されているのでは?」という疑問も出てくるのが正直なところです。

また、事実の確かめようはありませんが、太古には『宇宙の存在』の介入もあったと思いますし、太古の人は『天から出現した宇宙の存在』のことを「神」と感じた可能性があります。
なぜならば太古の壁画には宇宙人や宇宙船のような絵が残されているからです。

僕はもともと神や愛の存在に対して『懐疑的な状態』だったからこそ、「神が絶対的な存在」や「愛が絶対的な存在」とは、実は『現在』も思っていません。


現在は結論として「愛が全て」だとは思っていますが、決して盲信しているわけではありませんし、『その他』の存在や、可能性についても必ず考察するようにしています。

そして『その他』の存在して完全に否定できないのが『宇宙の存在』と『実験の可能性』です。
そのため『答え』を考察すればするほど『解明できない謎』に悩まされます。

しかしひとつだけわかる事実としては「愛を大切にしないと遅かれ早かれ人類は滅ぶ」ということです。
また、「自然と調和しないと遅かれ早かれ人類は滅ぶ」ということです。

つまり、様々な考察は趣味としては面白いと思いますが、人類の選択肢は「愛を選択する」という『一択』しかないと思います。
なぜならばそれ以外の選択は「人類が滅ぶ」という結末しかないからです。

『答え』は単純明快です。
むしろ人類は「人間社会はいつまでも続く」という妄想を持ち続けているからこそ、答えに近づけないのかもしれません。

『【未完】言葉と祈りと愛について 8』につづきます。