買い物に行きますと、どこのお店もレジ袋が有料になっています。
ご存じの人が多いと思いますが、2020年7月1日から『プラスチック製買物袋の有料化』が全国で開始されました。

レジ袋の有料化は、消費者に身近なレジ袋を有料化し、プラスチックごみの削減に向けた意識改革を促すことが目的らしいです。

レジ袋の変わりに『買い物かご』をそのまま持ち帰ったり、『透明な袋』を大量に持ち帰る人が増えたり、店員が理不尽なクレームを言われるようになったりなど『別の問題』が発生しているようですが、約半年間で多くの人は『マイバック(エコバック)』を持参するようになったと思います。

ただし、「環境問題には効果がほとんどない」ともいわれていますので、実際のところは「やらないよりはマシ」程度なのかもしれません。
しかしながら少しでも多く人が地球環境のことを考える機会になるのであれば、決して無駄ではない活動だと思います。

注目するべき点は「みんなでやりましょう」と動き出せば、短期間で人間社会の状況を大きく変化させることが可能ということです。
おそらく最初は「義務として仕方なくやらされる」という状態だと思いますが、「みんながやればみんながやるようになる」というのが、人間社会の流れです。


裏を返せば『大衆心理』という『洗脳』になるわけですが、効果が『世の中全体のプラス』に働くのであれば、みんなで『ひとつの思い』を持って『一丸』になることはとても良いことだと思います。

「地球を少しでも良くする」ということは、人間社会にとっても地球にとっても良いことだと思いますし、人類の目指すべき方向だと思います。
『誰でも』地球に暮らしていますので、理想的には少しでも多くの人が活動に参加することが好ましいと思います。

ただし「義務として無理やりやらされる」、もしくは「強制的に参加させられる」となりますと「なぜ私もやらなくてはいけないの?」などの抵抗感を感じる人も多いと思います。

たとえばレジ袋の有料化が良い例ですが、「有料でも良い」という人は無理に活動に参加する必要がありません。
本人の意思で『選択』ができるからです。
そのため拒否するのも本人の自由ですが、願うならば「無理に参加する必要はありませんが、店員に対して暴れたりなど、他の人には迷惑をかけないでいただきたい」と思います。

さて、世の中には毎日『ゴミ』が増え続けています。

処理の問題を考えますと、「ゴミの排出は少ないに越したことがない」と思います。
環境問題に大きな影響を及ぼしますし、環境問題の影響は結局のところ『人間自身』にそのまま返ってきます。

生活するということは、毎日少なからずゴミを排出することになります。  
「私は大自然と調和して活動している」という人は別かもしれませんが、現代人であればおそらく誰でも『何らかのゴミ』を排出していると思います。

そういう意味では『全くの無関係』ではなく、「必ず自分にも責任がある」ということにまず『気づく』ことが大切だと思います。

少し話は変わりますが、『おむすび(御結び)』という食べ物があります。
『おにぎり(御握り)』という呼び方が一般的かもしれませんが、おそらく日本人であれば誰でもご存じだと思います。

【頭の中でイメージしてみてください】
おむすびの中身の『具材』は自由に選択して大丈夫です。
あなたの一番大切な人のために、おむすびをひとつ作ってみてください。

たとえば母親であれば、子供のためにおむすびを作ってあげる機会も多いのではないかと思います。
また、ご家族のため、恋人のため、自分自身のために作る機会もあるのではないかと思います。

あなたの目の前に『物質』のおむすびがあります。
さて、問題です。

「おむすびは一体何で出来ているでしょうか?」



おそらく『お米』、『海苔』、『各種具材』という答えになると思います。
ただし、お米や、海苔、具材はあくまでも使用した『素材』にすぎません。
そのため、『素材となる物質』をさらに細かく分析すると『原子』や『分子』という答えが思いつくかもしれません。

これは一般常識だと思います。
人間は目の前にある『物質』を目にしていますので、「物質に注目してしまいがち」だと思います。

しかし実は違います。

今回は「イメージでおむすびを作ってください」という内容で説明していますが、普段の日常生活において考えてみてください。

「あなたがおむすびを作ろうとする時は、何が最初にありますか?」

「お腹が空いた」かもしれませんし、「子供のために何か作ってあげよう」かもしれません。
おむすびを作る『きっかけ』となる、様々な『思い』があったからこそ、おむすびが『物質』として誕生することになります。

つまり「最初に思いがあった」ということです。

それは『根本』であり『本質』の部分となります。

「お腹が空いた(根本の願い)」という『思い』が最初にあり、それを満たすために「おむすびを作った(結果・現象化)」ということです。
実際のところ「お腹を満たすこと(本質)」が達成できれば、おむすび以外の料理を作ってもいいですし、何か食べ物を食べるなど『手段』は無数に存在します。

「子供のために何か作ってあげよう(根本の願い)」という『思い』が最初にあり、それを満たすために「おむすびを作った(結果・現象化)」ということです。
実際のところ「子供のために何か作ってあげたい(本質)」が達成できれば、おむすび以外の料理を作ってもいいですし、何か食べ物を食べるなど『手段』は無数に存在します。

私たちが目にしている現実の世界は『物質』で構成されていますが、『現象界』などとも呼ばれます。
現象界を簡単に説明しますと、「人間の感覚によって知覚できる世界」です。

地球上には様々な『自然』が存在しますが、自然というのは本来であれば『永続的なサイクル』で循環されています。
たとえば『生物』においては『雄』と『雌』が交配することによって、『新しい生命』が誕生します。
一部には『雌雄同体』などの、雄の生殖器官と雌の生殖器官を一個体に持っている存在もいるようですが、生殖活動によって『新しい生命』を誕生させます。

各種生物にはそれぞれの『役割』があり、自然に繁栄、繁殖しており、根底部分には『愛』があると思います。

生物には様々な存在がいますので、『地球上の役割』や、『存在意義』は人間には理解できないことも多いと思います。
しかし人間には理解できなくとも、地球上のバランスのために『何らかの役割(意味)』が必ずあるからこそ存在しているはずです。
たとえば人間には脅威となる『ウイルスの存在』も、地球上にとっては必要な存在だからこそ存在しているのだと思います。

自然の存在を抜きにしますと、地球上に存在する『物質』は人間が作っています。

『人間の創造物』となる物質には、必ず『本質』が存在します。
なぜならば『人間の誰か』の思いが、『現象化した物質』だからです。

たとえば『コップ』があるとします。

いつの時代にコップという物質が誕生したのかはわかりませんが、おそらく最初は「水を飲みたい」や「水を汲みたい」と誰かが『思った』のだと思います。
つまり「水を飲みたい」や「水を汲みたい」が『本質』の部分となります。
そしてをその『思い(本質)』を満たすために、現象化されたのが『コップ』と呼ばれるようになった物質です。

コップのデザインや使いやすさ、素材は様々だと思います。
しかしコップの『本質』を考えますと、「水を飲める」、もしくは「水を汲める」という役割を果たせば、どのような形状であれ『コップ』になるのだと思います。

何を伝えたいのかといいますと「人間の思いが、物質であり、現象界を常に創造している」ということです。

おそらく多くの人は『物質』を、『ただの物質』としか思っていないかもしれません。
しかし実際は『精神』と『物質』が融合された『人間独自の創造物』です。
そして『人間独自の創造物』には必ず『本質』が存在するということです。

僕は最近『愛』について伝えることが多いですが、『本質』が愛の性質になれば、愛の『思い』によって、愛の性質を持った創造になります。

しかし『本質』が破壊の性質になれば、破壊的な『思い』によって、破壊の性質を持った創造になります。

これは霊能力や、超能力などの『特殊能力』の有無ではありません。
むしろ能力に走ると『小手先の技』から抜け出せなくなる可能性があります。

超能力などの有無に関係なく、人間の誰もが、『人間独自の創造物』を常に創造し、現象界である地球上に誕生させ続けています。


つまり「人間の誰もが、地球上(現象界)の創造主の役割を持っている」ということです。

現象界は、『物質』の誕生だけでありません。
『言葉』、『行動』を含め、全て『思いの現象化』です。

たとえば「思ったことを発言した」ということは、日常生活で当然のことだと思いますが、『言葉』という現象化です。
同じ言葉だとしても、言葉の『本質部分』は違います。

『愛』の思いがあれば、愛が『本質』となり、愛が込められた『言葉(現象化)』になります。
『感謝』の思いがあれば、感謝が『本質』となり、感謝が込められた『言葉(現象化)』になります。
『憎しみ』の思いがあれば、憎しみが『本質』となり、憎しみが込められた『言葉(現象化)』になります。
『他者をおとしめる』ような思いがあれば、他者をおとしめることが『本質』となり、他者をおとしめるような『言葉(現象化)』になります。

『行動』も同じ仕組みです。

『愛』の思いがあれば、愛が『本質』となり、愛が込められた『行動(現象化)』になります。
『感謝』の思いがあれば、感謝が『本質』となり、感謝が込められた『行動(現象化)』になります。
『憎しみ』の思いがあれば、憎しみが『本質』となり、憎しみが込められた『行動(現象化)』になります。
『他者をおとしめる』ような思いがあれば、他者をおとしめることが『本質』となり、他者をおとしめるような『行動(現象化)』になります。

おそらく多くの人は『この仕組み』を知らず、何気なく活動していると思います。
つまり、自分自身が地球上(現象界)の創造主の役割を持っていることを知らず、毎日何気なく生きている状態だと思います。

常に愛や、感謝の思いを持って活動していれば、とても素晴らしいことだと思います。
なぜならば、愛や感謝の思いが込められた創造をすることになり、現象界となる地球上に愛や思いの込められた『物質(現象化)』が増えるからです。

しかし、怒り、憎しみ、妬みなど、負の感情を持った状態で活動すれば、どうなるでしょう。
怒り、憎しみ、妬みなど、負の感情が込められた創造をすることになり、現象界となる地球上に怒り、憎しみ、妬みなど、負の感情が込められた『物質(現象化)』が増え続けます。

人間の誰もが、毎日、常に様々な創造を続けています。

たとえば怒り、憎しみ、妬みなど、負の感情を持つ人だらけになった場合、地球上は怒り、憎しみ、妬みなど、負の感情が込められた『物質世界(現象化された世界)』になっていくわけです。

とても恐ろしいことですが、多くの人はその『事実』に気づいていないと思います。
そしてそれはどこかで『流れ』を変えない限り、今後も続きます。

現代の人間社会は「自分さえ良ければいい」という『思い』の人が多いと思います。
「自分さえ良ければいい」という『本質』で、創造されるとすれば「他者に対して思いやりのない創造物(現象化)」ばかりとなるはずです。
その影響で心が傷つけられる人も増えると思いますし、心を閉ざす人も増えると思います。

ですから、まずは「私は地球上(現象界)の創造主の役割を持っている」ということに気づくことが大切だと思います。

そして地球上の一員として「自分にも責任がある」ということに少しでも多くの人が気づくべきだと思います。

また、地球上に愛のある活動を増やし、愛を広めていくのが『人間本来のあるべき姿』のはずです。
「だからこそ人間には創造主の力を与えられている」のだと思います。

しかし現在の人間は「創造主となる力の使い方を完全に間違っている」ような気がします。

たとえばインターネットを含め、メディアのニュースでは「芸能人がなんたら」などの話題が多いです。
心を温めるような内容ならまだしも、ゴシップ的な内容ばかりで、『ゴミの量産』にすぎません。

政治家たちは『利権』にしがみつき、責任の押し付け合いと責任逃ればかりで、「こんな人たちに日本の先導を任せていて大丈夫なのか?」と疑問に感じる人も多いと思います。

そして個人の日常生活ではどうでしょう。
他人の噂話や、場合によっては『他者への悪口』などを言っているかもしれません。


人間ですからストレス発散も必要かもしれません。
しかし何気なく『負の思い』を現象化させているのであれば、少しでも減少させることを心がけるべきではないかと思います。

まずは、個人がそれぞれで『ゴミの排出』を少しでも減らすべきです。

冒頭にレジ袋有料化の話をしましたが、すぐに大きな変化はないと思いますし、突然世界が変わることは難しいと思います。
しかし『意識を少しでも変える』ことが大切だと思いますし、少しでも多くの人が意識を変える流れになれば「みんながやればみんながやるようになる」という状態となり、急激に世界は変わると思います。

現象界となる地球上は『人間の思い』が現象化された世界です。
人間の思いが変われば、『本質(根本)』が変わりますので、『理想的な世界』が現象化されます。

そして人間が『愛』の存在に気づき、愛の本質に戻れば、愛のもとに『一丸』となった『愛の世界』が誕生します。

日本という国は『神の国』などともいわれますが、本来であれば日本人は『調和の心(大和魂)』を生まれながらに備え、精神性が高いはずです。
ですから世界の『見本』であり、ブレない『中心』となる役割があると感じます。

現代の人間社会は『物質主義』となり、物質重視となっていると思います。
はっきいいますと、物質重視の世界を変えるなら『破壊』するしかありません。

しかし大きな破壊をせずに済む方法があります。

物質主義ならば物質を活かし、さらに個人の『精神性』を活かした『物質と精神を融合した世界』に徐々に変えていくという方法です。

誰でも『自由』に参加できますし、『個人の独創性』を活かすこともできます。
それが結局のところ、『人間社会』であり『地球全体』のために役立てるならば、これほど素晴らしいことはないと思います。

個人がやればやるほど人間社会であり、地球上が良くなっていくのであれば、むしろ参加したがる人が多いのではないかと思います。
そして人類共通の『目的』が、『愛』であれば、愛のもとに、同じ『思い』を持つ人が自然と集まり、人種の壁も、国境の壁も、宗教の壁も関係ありません。

『愛で統合された世界』こそ、人類の目指すべき場所だと思います。

ちなみに『おむすび』を例に出しましたが、『思い』は心を込めて作ることにより『物質(現象化)』に込めることができます。

ただし「念を込める」とは全く違います。
無理に『念』を込めようとすると、余分なエネルギーが入りますので、むしろ『悪影響』です。
そもそも念を込めるのは『無理やり』という状態ですから、『不自然な行為』といえます。

たとえば『大切な人』のことを思いながらおむすびを作った場合、「喜んでくれたらいいな」や、「美味しいと思ってくれたらいいな」や、「元気になってくれたらいいな」など、純粋で『素直な思い』があると思います。
その思いは『愛』となり、『愛の込められたおむすび』となるはずです。

物質的には『おむすび』の姿をしているだけで、普通のおにぎりと変わらないと思います。
また、科学的に分析したとしても『数値上』の違いなどはわからないかもしれません。

しかし、『愛を込めたおむすび』と、『憎しみを込めたおにぎり』があるとすれば、食べた人は「何か違う」と気づくかもしれません。
見た目的には同じ物質だとしても『物質(現象化)』はエネルギーの塊ですから、エネルギーの質が変われば当然、『別物』になるわけです。

おむすびに限らず、料理には『作り手の思い』が必ず入ると思います。
「母親の料理が美味しい」と思うのは、母の料理の味にプラスして、子供は「母の愛を感じている」からこそだと思います。
ぜひ愛情を大切にしていただきたいと思います。

おむすび以外でも、愛が込められた物質が増えれば増えるほど、「現象界(地球上)に愛の存在が増えていく」ことになります。
そして愛に触れた人は、愛によって『感化』されていく流れになると思います。

「自分の思いが現象化する」ということに気づき、少しでも個人、個人が『悪意の現象化』を減らしていただきたいと思いますが、いきなりは難しいと思います。
また、深く考えすぎると『活動の自由』が奪われる気もします。
ですから、「少しずつ意識を変えていく」という気軽な感じで、愛のある活動をする人が増えることを願っています。

個人的にオススメの方法は、自分が何かしようとする際に、自分に問いかけるクセをつけることです。

自分に問いかける言葉は「そこに愛はあるのか?」です。

「愛とは何?」という人は愛を知るためのきっかけになると思います。
また、愛を大切に活動している人は、「愛はあるのか?」と自分に問いかけることで『自分の器』がさらに大きくなると思います。

愛を大切にする人のまわりには、愛を大切にする人が自然と集まってくると思います。
とても素敵なことだと思います。


下記は最近のInstagramの内容です。

【1月28日】
熊本県天草市五和町二江にある『三天宮(さんてんぐう)』です。
自動車で渡れますが、『通詞島』という小さな島の中にあります。
弁財天様が祀られていますが、通詞島には赤エイに乗ってきた神様の伝説があるようです。



三天宮の横には『五和歴史民俗資料館』がありました。
資料館の中に通詞島の地図がありましたので、地図を眺めながらエネルギーの存在を感じると、三天宮から少し離れた場所にある『アコウの木』が気になりました。
そこでアコウの木にも寄ってみようと思い、周辺を歩き回りましたが残念ながら道が閉ざされているようです。
現在は完全に廃墟と化していますが、木の根本付近に鳥居の姿などが見えますので、おそらく昔はアコウの木が祀られていたのだと思います。

ちなみに『五和』といえば『五輪(オリンピック)』を連想しますが、世界を『ひとつの思い』で繋ぐべき時に、利権重視の人間が多いからこそ、連結がバラバラになるのだと思います。
国民の思いや、現状が無視されて「何のための五輪開催?」と思います。

話は変わりますが、最近涼華さんと天草にある『楽園珈琲』というコーヒー専門店に行きました。
お店の名前も素敵です。

涼華さんは珈琲が苦手ですが、昔は普通に飲んでいたようです。
つまり、様々な理由で「現在は珈琲が苦手になってしまった」ようですが、珈琲の香りは好きらしく、美味しく飲める珈琲を求めていました。
そこで「天草に楽園珈琲というお店がある」ということを偶然知ったらしく、一緒に足を運びました。

珈琲が苦手な涼華さんも「美味しい♪」と喜んで飲んでいましたし、僕も美味しいと思いますのでオススメのお店です。

楽園珈琲ではお土産に『バリ アラビカ神山』というコーヒー豆も購入したのですが、「美味しい珈琲を飲むのであれば美味しいケーキも食べたい」ということで、涼華さんのお気に入りのケーキを買いにいきました。

ちなみに涼華さんの一番のお気に入りは『洋菓子匠 維新之蔵』というお店です。
とても美味しいケーキですし、誕生日や記念日など、頻繁に利用させていただいています。

今回は僕一人でケーキを購入するために出かけましたが「維新之蔵さんの前に神社に寄っていけ」というような天からの指示(?)がありました。
ただし、目的の神社はどこかわからず「とりあえずこの道を進め」という状態でした。

この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。
危ぶめば道はなし。
踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。
迷わず行けよ。
行けばわかるさ。

アントニオ猪木じゃねーか!

天草地方の神社はそれなりに巡っているので、「この先に何かあったっけ?」と疑問でしたが、「そういえば通詞島という面白い名前の島があった」と思い、島に渡りました。
そして通詞島の中を走っていてたどり着いたのが『三天宮』でした。

通詞島には何か神社があるということは昔から知っていたのですが、「何となくこっち」という感覚だけでたどり着いたのは面白かったです。
通詞島という意味ありげな名前ですし「何か通じた」と信じたいと思います。

帰宅後、涼華さんと『維新之蔵』様のケーキと、『楽園珈琲』様の珈琲を美味しく楽しみました。

ケーキを楽しめてとても景気がいいです。

やっとボケれた。

おそらく『維新』と『楽園』が重なるのも意味があるのでしょう。

ちなみにネットを見ていたら『サラリーマン川柳』の記事を見つけました。
僕は歌人『大伴』の名前を継ぐので、現在の新型コロナに関して川柳を考えました。

助け合い 何はともあれ 助け合い


【1月29日】
熊本県天草市五和町手野にある『五和上野原神社(いつわうえのはらじんじゃ)』です。
鳥居には『十五社』という名前になっていますので、『十五社宮』が正式名称かもしれません。
神社の隣には『天草市地域交流センターおおくす』があります。

五和上野原神社の一番の見所は巨大な『大楠(おおくす)』です。
神社が目的というよりも大楠にご挨拶するために足を運ばせていただいています。



ちなみに涼華さんいわく、大楠に妖精(精霊?)の姿が視えることがたまにあるらしいです。
大楠に限らず、視える人であれば花や、植物のまわりに妖精や精霊などの姿を視ることができるかもしれません。
一般常識ではあくまでも『ファンタジーの存在』です。
しかし『物質』としては存在していなくても、妖精や精霊などの存在は『エネルギー体』として存在しているのだと思います。

僕は神社でお祈りを終えてから、大楠にもお祈りしています。
そして『大楠さん』からの言葉を待ちます。
しばらくすると大楠さんから声が聴こえてきます。

「もうお昼だ、お弁当たべんとう」

嘘つきは天伴のはじまり。

ちなみにお弁当のネタは僕が子供時代に作ったダジャレです。
しかしあくまでも子供時代ですから、まだまだセンスが足りません。
大人になった僕であれば違います。

「もう夜だぜ、お弁当たべんとうだぜ」

センスがあがった気がするんだぜ。

一体何の話をしているのかわかりませんが、僕は木や植物と会話ができるわけではありません。
せいぜい、大楠の葉っぱがクスクスと笑うように揺れる程度です。

今日はちょっとスランプかもしれないぜ。

冗談を抜きにして、植物に話しかけたり、お祈りすると『葉の揺れ』などで反応してくれることがあります。
これは神社でも同じですが、神様からの言葉は聴こえなくても、風が吹いたり、植物の葉が揺れるなどで、「ちゃんと見守っていますよ」と教えていただけます。
とても嬉しいことだと思います。

僕は植物や自然と『言葉』のやりとりで直接会話することはできません。
しかし植物や花、自然は人間に様々なことを教えてくれます。
ですから、ただ黙って眺めるだけ、感じようとするだけでも『気づく』ことは多いです。

特に『花』は本当に素晴らしく「花が全てを教えてくれる」といっても過言ではない気がします。

たとえば『大楠』が大きく育っているのはしっかりとした『太い幹』があるからです。
しかしそれは土の中にある『根』が大地にしっかりと根付いているからこそです。

根の部分は土の中にあるため、目には見えません。
目には見えないかもしれませんが、根の部分が腐ると、表向きには『元気』に見えていたとしても、いつか必ず枯れてしまいます。

つまり普段は目には見えないような『根本部分』に注目しなくてはいけません。

実はこれが「世界を良くするための方法」の一番重要な部分です。

世界の『根本』を変えれば、世界を変えることが可能です。
逆にいえば、表面上をどれだけ変えても、根本が腐っていればいつか必ず枯れます。
ですから『根本部分』は絶対に腐らない『根本』にしなくてはいけません。

絶対に腐らない存在は『愛』です。
永遠の存在だからです。

つまり『世界の根本』を『愛』に変換することが、世界を良くするための方法です。

現在は一部のお金持ちの人達がお金をばらまいて世界の状況を少しでも良くしようとしています。
それも世界を良くするための『ひとつの方法』だと思いますが、あくまでも一時しのぎにすぎません。

僕はお金持ちではありませんし、人間社会の中では権力もなく、知名度もありません。
おそらく世の中にしてみれば「あなたは誰?」程度の存在です。
そのため「無力なのにそんなことができるのか?」と思われそうですが、僕はあくまでも『方法』を伝えるだけで、世界を変えていくのは皆さんの力です。

誰でも『世界を変えられる能力』を使えるようになります。
お金もいりません。
正に『誰でも』です。

ですから少しでも多くの人が『人間の本来あるべき姿』に戻れば、必ず世界は変わると思います。

余談ですが『大楠』に対して「桜の木になってください」とどれだけ頼んでも無理です。
また、大楠自身がどれだけ願っても、どれだけ頑張ったとしても『桜』になることはできません。

人間は肉体を持っていますので、自由に移動もできますし、活動をすることができます。
また、『自分の意思』で変わることができます。

最初は「誰かの真似事」かもしれませんし、目指す目標を持つことは大切だと思います。
しかし『純粋さ』を求めれば求めるほど、誰かの真似ではなく、本来の自分であり『根本』が見えてくると思います。

むしろ『本来の自分』に近づいていくと思います。

大楠が桜になれないように、実は人間も『自分以外の誰か』になることはできません。
大楠は大楠だからこそ素晴らしく、人間も自分自身を全力で生きてこそ『本来与えられた個性』が輝くと思います。

植物は無数に育ちながらも植物同士で争ってはいません。
素晴らしい見本だと思います。
他者と争うことなく「存在しているだけで素晴らしい」という世界になることを願っています。


【2月1日】
最近は『愛』という言葉を使用することが多いです。
ただし恋愛の『愛』のことを伝えようとしているわけでは全くありません。

現代の人間社会が伝えている愛とは「男女の恋愛関係のイメージが強い」のではないかと思います。
しかし恋愛の場合は『本質的な愛』ではなく『恋』を重視している気がします。

ただし、男女の関係は本質的な愛を学ぶために凄く大切だと思いますので、現在ブログの記事を作成中です。

伝えたいことは山ほどありますが、書くことにエネルギーを使うので、「少しずつ」という状態です。

話は変わりますが、現代は『エビデンス』を求める人が増えていると感じます。
エビデンスとは、証拠や根拠、証言、形跡などを意味する英単語 『evidence』に由来するようです。

ちなみに僕が若い頃は『エビデンス』という言葉を耳にすることは無かったと思いますので、最近になってビジネス用語として流行り出した言葉だと思われます。

現代社会は『嘘の情報』も多いため、情報の真偽を判断をするために『根拠』や『証拠』を探ることは凄く大切だと思います。

僕自身、スピリチュアル系のことを伝える際は「なるべく理論的に説明したい」という思いが常にあります。
なぜならば誰かに伝えるためには『仕組み』や『根拠』を説明しないと「納得してもらえない」ということがよくわかっているからです。

また、現実生活に活かすことができることを伝えたいので、「能力者に関係なく、誰でも応用が可能なこと」を求めています。
誰でも応用できるということは、「運や偶然ではなく、100回やれば100回成功する」ことが大切です。

実際のところ『スピリチュアル』というのは宗教のようなものですから、気嫌いする人が多いと思います。
むしろ大半の人は「スピリチュアル」と聞いただけで、「頭がおかしい人たち」と判断する可能性が高いと感じます。
ですからスピリチュアル系に全く興味が無い人にも活かすことができる方法を探すことが大切だと思います。

その完成形が『物質世界』と『精神世界』の融合された状態だと思っています。

僕自身、伝えたいことを誰かに説明するために「なるべくエビデンスを大切にしたい」と思っているわけですが、台所でエビデンスをひとつ見つけました。


「躍動するエビデンス」

エビダンスじゃねーか!

涼華さんがエビを料理していたので、撮影してみました。
涼華さんの隣から「もっと!もっとダイナミックに動かして!」と、僕の熱意ある演技指導が入っています。

監督・脚本・撮影・演技指導 天伴
撮影助手 クックパッド涼華
主演 死んだエビ

食べ物で遊ぶな!

エビデンスを求めることも大切だと思いますが、「何でもかんでもエビデンス」というのは現代の人間社会の『病』だと思います。
知識や、学問も大切ですが、エビデンスを必死に求める人は「おそらく愛が理解できない」という可能性が高いです。

なぜならば「愛はすでに在る」ものだからです。

すでに在るものを証明することはとても困難ですし、愛そのものは視覚的に見えるものではありません。
実際のところ、『全ての存在』が愛の一部ですから、常に見ているわけですが、おそらく「意味が理解できない」と思われます。

たとえば『重力』というものが地球上に『在る』ということは、皆さんご存知だと思います。
しかし最初は誰も知らなかったと思います。

ある時に「この世には重さを作り出す現象ようなものがあるのではないだろうか?」ということに誰かが気づき、歴代の科学者たちが解明、分析しようとしてきました。
そして現代では「重力が存在する」ということは常識になっていますが、そもそも人間が『重力の作用』を作ったわけではありません。

「この世には何か在る」ということに気づき、少しずつ疑問を解明しているだけにすぎません。

つまり、人間は『わからないことだらけ』の中で、「何となくわかったような気がしているだけ」です。

ちなみに『ソクラテス』という偉人がいます。
哲学者としても有名な存在ですが、ソクラテスは『無知の知』を伝えていたようです。

『無知の知』とは、「知らない(無知である)」ということを知っている時点で、「知っている」と勘違いしている人より優れているということを伝えています。

真理の探究は、まずは「自分が無知であることを知る」ことが大切だと思います。

現代の人間社会には「エビデンスはあるの?」と相手を責める人が増えていますが、『自分自身の無知』を晒しているようなもので、実はとても恥ずかしいことなのだと思います。

僕の口癖は「僕はよくわからないですけどね」ですが、本当にわからないことだらけだからこそ、学ぶことはとても多いです。

ちなみにスピリチュアル系では『気づき』の大切さを伝えていますが、何かに『気づく』ということは「実はすでに知っていた」ということです。
ですから誰かに伝えようとすることは、「新しいことを教える」ではなく、実際は『気づきのお手伝い』や、『記憶を引き出すお手伝い』にすぎないのだと思います。


【2月2日】
2月2日は『節分』です。
節分とは「季節を分ける」ことも意味しているようですが、とても意味のある日だと思います。

また、節分の日は「鬼は外、福は内」という豆まきが有名ですが、豆まきは『魔滅』に由来するという説もあるようです。

【Wikipediaより】
豆は「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」という信仰。
または、語呂合わせで「魔目(豆・まめ)」を鬼の目に投げつけて鬼を滅する「魔滅」に通じ、鬼に豆をぶつけることにより、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うという意味合いがある。

ひとつの説にすぎないかもしれませんが、「豆によって魔を滅する」ことが豆まきの本来の目的だったと思われます。

ちなみに最近は『鬼滅の刃』という作品が漫画、アニメ、映画など様々なメディアで大ヒットしていました。
僕はチラリとしか視聴していませんが、存在感のあるキャラクターや、物語の内容で心を震わされた人も多いと思います。

鬼滅の刃に関わらず、異常なほど話題になったり、流行する場合は、『人間社会全体へのメッセージ性』を持っている可能性が高いと思います。
『シンクロニシティ(共時性)』などとも呼ばれますが、少しでも多くの人にメッセージが届くような流れが自然と作られるのだと思います。

現在の人間社会は混沌の状態になっています。
このままの流れで行けば、おそらく人類は『破滅の道』に向かう一方だと思います。

自覚している人は少ないと思いますが、人間は『愛』や『心』を失うと、『思考の判断』が優先の状態となり「肉体側の欲望を満たすことだけを求める」ようになります。
欲望には様々な種類がありますが、「自分さえ良ければいい」、「とにかく自分の欲望を満たせればいい」という状態は『野生の動物』と変わりません。

つまり、人間の姿をしているだけの『獣』になるわけです。

キリスト教の信者であれば『獣』という言葉をおそらく知っていると思いますが、「獣とは心や愛を失った人間の姿のこと」を伝えています。

鬼滅の刃は、人間と鬼との対決でしたが、あくまでも『ファンタジーの世界』です。
しかしこれは『現実世界の問題』です。

まずは自分自身で「人間の姿をしているだけの獣にならないように心がける」ことが、凄く重要です。
 

はっきりいいますと、現代の人間社会は「もはや獣だらけ」となっています。
そのため「みんながやっているから大丈夫」という状態で、周囲の悪影響に感化される人も多いと思います。

しかし冷静に判断するとわかりますが、獣同士で何をやっているのかといいますと『共食い』です。
勝負の世界であり、弱肉強食の世界を人間同士で続けているわけです。

そこで「何かおかしい」と気づくことができれば幸いです。
『獣への道』ではなく、心や愛を大切にした『本来の道』に戻るべきです。

ちなみに人間の意思は弱いですから、様々な欲望に走りやすいのは仕方ありません。
なぜならば人間の肉体は『外側』に意識が向くような『性質』になっていますので、ある意味当然の流れだと思います。

そもそも欲望のおかげで様々なことに興味を持つことができ、経験や学ぶことが多いですから、「欲望を無くしましょう」というわけではありません。

「欲望に走るのではなく、心や愛の判断を優先して、愛を大切にしていきましょう」ということです。

『主となる愛』は、常に愛を送ってくれています。
『神の恩寵』などといわれますが、「望んだご利益を与えてくれる」というわけでは決してありません。
だからこそ主の愛はわかりづらいわけですが、「今日も無事に生かされている」ことが、すでに神の恩寵ともいえます。

そして『主となる愛』は人間が『自らの選択』で愛を求めてくれることを望んでおられます。
なぜならば『自主性』がないと、人間は『肉体主従(思考優先)』となり愛から離れていくからです。

ちなみに「私は神様を大切にしています」という人も多いと思いますが、人間は愛よりも『目先のご利益』を求めがちなので、すぐにご利益に走らないように『忍耐』も必要だと思います。

たとえば「ご利益がもらえるならば神様に従います」という人は、ご利益のために従っているだけにすぎません。
そして「他の神様がご利益をくれる」と思えば、すぐに裏切ります。

つまり『浮気』です。

だからこそ『愛への自主性』であり、『愛と一体』になることが大切なのだと思います。

ちなみに信仰者には『神との結婚』のために生涯独身を貫く人もいます。
しかし神との結婚は「人間(異性)と結婚してはいけない」ということではなく、「主となる愛から離れてはいけない」ということです。

独身を貫くのも本人の自由ですが、『誰かが作った宗教の教え』を鵜呑みにして、生涯独身を貫くならばとてもかわいそうな気がします。

そもそも人間が子供を作らなければ、人類が繁栄しないわけです。
愛の本質は永続的な繁栄です。
「男女が交わってはいけない」や、「子供を作ってはいけない」などと伝える宗教であれば、何かが間違っている教えなのだと思います。

あら、今日はボケがない。

鬼は外、福は内。
魔滅するのは、内なる愛。




【2月4日】
涼華さんと海を眺めに行きました。
天草地方は田舎ですが、リゾート地のような景色を気軽に楽しめることが魅力だと思います。
美しい海を眺めながら僕は呟きました。

「寒っ!早く家に帰ろう!」

ムードぶち壊しじゃねーか!



僕が『神社巡りをする前』の頃の話です。

当時の僕は、若かったこともあり、人間社会での『力』や『権力』を求めていました。
活動していたのは凄く小さな業界でしたが、それなりに有名人になり、いろいろな人が寄ってきてくれました。

ある程度人が集まってくると、『数の力』を得ることができ、自分のやれることや、活動の幅が増えてきます。

たとえば『個人』が発言した場合、よほど有名人ではない限り、耳を傾けてくれる人はかなり少ないと思います。
しかし『100人の賛同者』を従えるような状態で発言すると、「あそこで何か言っている人がいる」という状態で耳を傾けてくれる人が増えてきます。
そして『興味を持って集まってきた人たち』から賛同を得ることができれば、さらに賛同者が増えて、耳を傾けてくれる人がさらに増えていきます。

これが『数の力』の仕組みですが、数の力を持つことができるようになれば、たとえ個人だとしても『自分の勢力』を拡大することができるようになってきます。

当時の僕は数の力を得たことで『大衆心理』の動き方、動かし方など実体験で学ぶことができました。

しかし数の力というのは『人間』の存在を『数のひとつ』にしか思わなくなるような状態です。

『個人』と交流していれば、個人同士のやりとりとなりますので、個人の存在を大切にできます。
しかし『大勢』と交流する場合、集めた人数が増えれば増えるほど、反比例のように『個人』との関係は薄くなりがちだと思います。

たとえば『数人』の友人や知人であれば、名前も顔もしっかり覚えてあげることができると思います。
しかし『数百人』などの規模になると、もはや誰がいるのかわからなくなり「集まってきた人の誰か」という状態になってしまいがちになる気がします。

『個人』を騙すようなことはしていませんでしたが、「数の力を利用して何かしようとする」ということは結局のところ『利用』です。

世の中不思議なもので『他者を利用しようとする人』のまわりには、『他者を利用しようとする人』が自然と集まってくるのだと思います。

また、『数の力』は追い風の時は強力ですが、向かい風になった瞬間に『数の力』となって返ってきます。
政治家が良い例ですが「数の力で成り上がり、最後は数の力で滅ぼされる」というのは、ありがちな展開だと思います。

当時の僕はかなり調子に乗っていました。
そしてその状態を「悪いこと」とは全く思っていなかったと思います。

しかし結局最後は人間関係で大きなトラブルが発生し『とても痛い経験』をすることで、目を覚まさせていただきました。
はっきりいいますと『絶望』です。

その経験があるからこそ、それ以来、無理に人を集めるようなことをしなくなり、個人との関係性を大切にするようになりました。
小規模ながらいろいろなことを経験させていただいていますので、天には大変感謝しています。

現在は人間社会での力は『無力』となり、せいぜい文章を書く程度です。
しかしながら「柔よく剛を制す」のようなロマンを楽しめますので、無力も決して捨てたものではありません。

人間社会での『力』を求めていた頃のことですが、なぜか閃いたことがありました。

「砂場に自分の城を建てようとする人はいるのだろうか?」という疑問です。

男であれば「自分の城を持ちたい」と思うことがあるのではないかと思います。
たとえば「自分の会社を作りたい」や、「自分の家を持ちたい」などです。

思うに、人間は「人間社会にはしっかりとした土台がある」と大きな勘違いをしてしまっているのかもしれません。

人生をかけて会社を経営している人もいますが、『お金の価値』や『経済の流れ』は突然壊れる可能性があります。
つまり、人生をかけて必死に積み上げたとしても、『土台部分』がいつ崩れるかわからない『砂場』であれば、「ある日突然崩壊する危険性がある」というわけです。

また、『地上』は地震や天災などの危険性がありますので『絶対に安全な安住の地』というのは実は存在しない気がします。
つまり『強固な建物』を作ったとしても、「むしろその場から移動できなくなるだけ」で、実はリスクの方が高いのかもしれません。

そこで当時の僕は思いました。

「自分そのものが城になればいいのか」

社会的な枠や、場所にとらわれる必要もありませんし、自分の自由に動けます。
この方法が最も無難であり、実は安全な気がします。
「危なくなれば逃げればいい」だけですし。

逃げるんかい!

その後、神社巡りなどにするようになったわけですが、当時閃いた意味がわかってきました。

人間は、自分そのものが『神の宮』であり、『教会』を目指すべきなのだと思います。


【2月6日】
道端に梅の花を見つけたので思わず盗撮してみました。

盗撮してどうする!

梅の花言葉は「上品」、「高潔」、「忍耐」「忠実」、「不屈の精神」、「思いのまま」らしいです。
西洋での花言葉は「Keep your promise(約束を守る)」、「fidelity(忠誠)」、「beauty and longevity(美と長寿)」らしいです。

とても素敵ですが、僕は梅の花言葉を全く知りませんでした。

知らなかったのかよ!

ちなみに新宗教『大本』には『大本神諭』という神のお告げによる啓示系の教典があるようです。

大本神諭には「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。神が表に現れて三千世界の立替え立直しを致すぞよ」という有名な言葉があります。

言葉には様々な意味があると思いますし、様々な説があります。
『答え』は神様にしかわかりませんが、個人的に『梅の花』の一言がとても気になります。

「万物は水・金・土・火・木の五種類の元素から成る」という『五行思想』というものがあります。

『人間』の身体は『五体』となっていますが、あえて五体には意味があり、「五行とも繋がりがある」ともいわれています。

つまり『五』には大きな意味があるようですが、梅の花も『五枚』の花弁となっています。

梅の花を『人間の身体(五体)』として捉えるならば、『中心』から『愛』が広がるようなイメージになるのではないかと思います。

現代の人間社会では自分らしく咲くことが難しい人も多いのではないかと思います。
しかし、誰でも自分らしく咲けることが本来あるべき世界の姿だと思います。

今回撮影した梅は残念ながら『蕾(つぼみ)』が多い状態でしたが、「これからそれぞれの花が咲き始める」のだと思います。
そして人間社会でも今後大きな変化が起こり、一斉に様々な花が咲き始めると思います。

合言葉は「みんなで作るみろくの世!」



数年前の話になりますが、僕が「愛とは一体なんぞや?」と悩んでいた頃の話です。

1人で中国地方と近畿地方の神社を巡っていたのですが、足を怪我したため、急遽『大阪駅』の近くのホテルで1泊することになりました。

せっかくなので大阪駅周辺を少し散歩することにしたのですが、道に迷うのが怖くて、道端に腰かけて『人の流れ』を眺めていました。
そもそも僕は都会が苦手なのですが、田舎者の僕にしてみれば、大阪駅周辺の人の多さは異常な状態です。

当時の僕は「全ての人を愛せるようにならないといけない」というような変な使命感を持っていたのですが、目の前を通り過ぎる大勢の人を見るたび、「知らない人を愛せるようになるなんて無理だ」と感じていました。

ただし、当時の僕は愛がよくわかっていなかったこともあり、「愛とは全ての人を好きにならなくてはいけないこと」と勘違いしていました。

『嫌いな人』という存在はなるべく作らないように心がけてはいますが、やはり人間ですから少なからず「苦手」と感じる人はいるものです。

「苦手な人を突然好きになる」というのはかなり難しいことだと思いますし、正直なところ無理かもしれません。
しかし「全ての人を好きになることは難しい」ことかもしれませんが、『思いやり』を大切にして接することであれば心がけしだいで可能だと思います。

たとえば『目の前の相手』のことを『自分自身』と思うことができれば、「どのようにすれば相手にとって最善なのか?」が自ずとわかるのではないかと思います。

もちろん相手には『相手の思い』があります。
そのため時には「相手にとっては余計なお世話になってしまうこともある」かもしれませんし、場合によっては「迷惑をかけることもある」かもしれません。

しかし失敗の経験も『大切な学び』だと思います。

その経験を活かし、反省し、さらに自分自身を成長させ、少しでも『相手の思い』に近づくようにすれば「どのようにすれば相手にとって最善なのか?」がわかってくるのではないかと思います。

また、その繰り返しによって自分自身の『器』が大きくなり、相手を受け入れることができ、相手を包み込めるような器が大きくなっていくはずです。

「愛の学びは終わりがない」からこそ、自分自身も常に成長することができると思います。

ちなみに『自然環境』について考えるならば、『自然』のことを『自分自身』と思うことができれば、「どのようにすれば自然環境にとって最善なのか?」が自ずとわかるのではないかと思います。

後に気づいたことがあります。

現在の時点で世界の人口は『78億人』のようです。
とてつもない数ですが、僕の人生において78億人と直接会うことは「絶対にない」と断言できます。

むしろ僕が出会う人は『ご縁のある人のみ』ですから、かなり数が少ないと思います。

「汝の隣人を愛せよ」という有名な言葉があります。

昔は「全ての人を愛せるようにならないといけない」などと思っていましたが、自分の人生において出会う人は限られます。
つまり実際のところ自分ができることは「隣人しか愛せない」わけです。

家族、友人、知人、出会う人、そして自分自身を大切にする人が増えれば、自然と世界に愛が広がっていくのだと思います。