『【未完】言葉と祈りと愛について 7』のつづきです。
補足情報として『救世』の記事も参考になればと思います。
 

【愛と一体の超自然】


『愛』『神』は、あくまでも人間が作った『言葉の表現』でしかありません。
むしろ「愛」や「神」という表現をするからこそ、『宗教』のように感じられたり、何らかの抵抗感を持たれるのかもしれません。

ちなみに『宗教』という言葉は、言葉だけで嫌悪感を持たれやすいように感じます。
たとえば素晴らしい内容を伝えていても『宗教』となった瞬間に「宗教ならば関わりたくないのでお断り」と拒否されることが多い気がします。

特に日本人は『無宗教』のような状態を好みがちです。
お葬式などで一時的に『仏教』に触れる機会はあると思いますが、日常生活では基本的に無宗教の状態の人が大半だと思います。

つまり宗教になった瞬間に『大きな壁』ができてしまい、「私は宗教でも大丈夫」という人以外は『壁』を越えられない気がします。
そのため「宗教という形態は大衆向けではない」ということです。

ですから宗教の信者を集めようとしている人は、「宗教という形態だからこそ、むしろ信者が集まらない」ということをまず理解するべきだと思います。

たとえば「教えによって少しでも多くの人を救いたい」と思って信者の勧誘活動に励んでいる人がいます。
しかし本気で「少しでも多くの人に伝えたい」と思うのであれば、「そもそも宗教に勧誘しようとしては駄目」ということです。

ちなみに日本国内の場合は『宗教法人』になれば、税金面などのメリットがあります。

そのため「少しでも早く宗教法人の形態にしたい」と思う宗教家が多いかもしれません。
しかしその時点で「方向性が根本的に間違っている」ということに気づくべきだと思います。

なぜならば『教え』は「人々と救い」のためであり、「お金儲け」のためではないからです。

 

これは現在のスピリチュアル業界にも通じますが、「大切なことを少しでも多くの人に伝えたい」と本気で思うのであれば、お金儲けを『優先』させてはいけないと思います。

 

ちなみに儒教『孔子』が残した言葉とされる『論語』の中に「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩(さと)る」という名言があります。

 

【君子喩於義、小人喩於利】

優れた人格者はあらゆる物事を正しい道に合うかどうかを基準として考えて行動するが、教養や道徳心に欠ける人間は、どうしたら利益を得られるかを基準として考えて行動するものである。

 

『義』の定義は様々ですし、時代背景の影響もあると思います。

しかしいつの時代も変わらないことは、「私利私欲の人間は目先にある自分の利益しか考えない」ということです。

 

自分がなすべきことをするためには『利欲』にとらわれては駄目だと思います。

また、あくまでも個人的な意見になりますが『利益』を得ることしか考えない状態は、「人間としてとても恥ずかしいこと」だと思います。

 

そして「自分に利益がないのであれば動かない」という人が増えれば、利益の無い人助けはしなくなると思います。

しかしそのような人が集まれば『自分自身』が困った時に誰も手助けをしてくれない人間社会になるだけです。

 

ちなみに自分がやったことは「巡り巡って自分に返ってくる」と思います。

そのため利益を求める人の周囲には、『利益を求める人』しか集まってこないと思いますし、利益がなくなれば「縁を切られるだけ」の可能性が高いです。


話を戻します。


宗教に限らず『神』や『愛』という表現に関しても、何らかの嫌悪感を感じる人が多いような気がします。
さらに『スピリチュアル』という表現もですが、宗教のように感じられたり、自己啓発のように感じられた瞬間に「私は関わりたくないのでお断り」と拒否されることが多い気がします。

ちなみに若い頃の僕は『宗教』、『神』、『愛』、『心』、『スピリチュアル』などの言葉に対して強い嫌悪感を感じていました。
言葉を耳にするだけで「関わりたくない」と感じていましたし、正直なところ「精神的に弱い人だけが好む分野」としか感じていなかったからです。

ただし、後から自覚したことは「自分自身が精神的に弱かった」だけであり、弱さを隠すために『強気』で振る舞っていただけだと思います。

 

『精神世界系』の分野に実際に触れてみてからは「精神性を鍛える要素があるので面白い」と感じて独学で学ぶようになり『現在』に至りますが、自分自身の実体験から『言葉のイメージ』というのは大きな障害になることを理解しているつもりです。

僕が伝えようとしていることは「誰にでも可能」ということを理想像としています。

 

自己啓発のような内容に思われるかもしれませんが、僕が伝えたいのは自己啓発ではなく、『求道』の方法であり、人間が歩むべき『道』についてです。


ですから『神』や『愛』などの言葉は極力使いたくないのが本音ですし、『言葉のイメージ』の段階で『大きな壁』を作りたくないと思っています。

また、「全ての人に入口の門は開かれている」と思っているからです。

 

自分の足で『道』を歩き出すきっかけさえあれば、その人それぞれで進む『道のり』は違っても、道を極めた時に『たどり着く場所』は必ず同じです。

そのため「宗教をしている人しか救われないということは絶対にありえない」と思いますし、極論ですが『神』や『愛』を「あえて意識する必要もない」と思っています。

ただし『心』や『愛』は大切にするべきだと思いますし、特に様々な存在に対する『感謝』の気持ちだけは必ず忘れないことが大切だと思います。

ちなみに『自然』という言葉に抵抗感や、嫌悪感を感じるでしょうか?
海や山はわかりやすい『自然』の一部だと思いますが、あえてカテゴリーを分けなければ「全てが自然」です。

ですから「人間は自然に囲まれています」と言われても違和感がないと思いますし、抵抗感や嫌悪感なども感じないのではないかと思います。

僕が思うに、愛や神のことを究極的に突き詰めていくと『超自然』であり、「超自然的な働き」にたどり着きます。

ただし「神や愛とは超自然のこと」と伝えても、理解が困難だと思います。
たとえば「愛とは何ですか?」と尋ねられ時に、僕が「超自然のこと」と答えても、全く意味が理解できないと思います。

おそらくですが「自然とは海や山などの存在」とイメージするのではないかと思います。
また、海や山などの『自然』と、人間視点での『愛』は全く別の話のように感じると思います。

そのため「愛について」の内容をまず理解しないと、『超自然』については理解が困難だと思いますが、『概念』だけお伝えしておきます。

「全ては『完璧なシステム(超自然)』の中で働いており、人間という存在も『システム全体の中の一部』でしかない」ということが、超自然の基本概念です。

『自然界』を眺めますと、様々な生物や様々な植物が存在しています。
地球上には無数の種類の生物が存在していますが、『個性』としてそれぞれの『役割』を果たしているような状態です。

ちなみに人間の視点では「存在の意義が理解不能な生物」だとしても、『何らかの意味』があって地球上に存在しています。

たとえば地球上には『ウイルス』『細菌』が無数に存在していますが、人間の視点では「不要な存在」に感じると思います。
しかし超自然という全体の中では、「何らかの意味があるからこそ存在している」のだと思います。

人間も地球上の生物のひとつにすぎませんが、人間が他の生物と大きく違うのは『思考』を持ちながら、それぞれが『独立』して活動していることです。
「動物も何らかの思考はしている」とは思いますが、「おそらく人間のような状態とは違う」のではないかと思います。

人間は『私』という意識を持って、その人それぞれが独自で活動していますので『全体の集合体の意識』から一時的に『分離』しているような状態だと思います。

地球を『ひとつの存在(生命体)』として考えますと、地球上で活動している人間は『地球という生命体の一部』にすぎません。
たとえば『細胞』のようなものです。

しかし人間の意識としては「私は地球上で活動している人間という存在」と信じていると思います。
『地球全体』の一部でありながら、「人間として私」という意識を持っているからこそ、全体から『分離』しているわけです。

たとえば僕は『天伴』として活動していますが、あくまでも『地球全体の一部でしかない存在』です。

しかし「私は天伴です」という独立した意識を持って『人間』として活動していますので、『地球全体』の一部でありながら『個(私)』として分離しています。

ちなみに『ガイア理論(ガイア仮説)』という考え方があります。

【ガイア理論(ガイア仮説)】
生物は地球と相互に関係し合い、自身の生存に適した環境を維持するための自己制御システムを作り上げているとする仮説。
また、そのシステムをある種の「巨大な生命体」と見なす仮説である。
この理論は『自己統制システム』と命名されていたが、後にギリシア神話の女神『ガイア』にちなんだ名前へ変更され、『ガイア理論』となった。

簡単に説明しますと「地球は一個の生命体である」という理論です。
ただし、「地球が一個の生命体である」といった主張は『科学的な検証』を欠いているため、多くの科学者たちはガイア理論に関する議論から距離を置いているようです。

ちなみに僕がガイア理論を知ったのは最近のことです。
むしろ昔からガイア理論のような内容が科学者たちから提唱されていたのは全く知りませんでした。

僕の場合は「愛について」を考察しているうちに、「ガイア理論と似たような内容にたどり着いた」ような状態です。

ですから僕自身は科学者などとは『全く違う視点』からの『仮説』になります。
それが『超自然』という考え方です。

僕は「全ては愛の中に存在する」と思っていますが、それは地球上だけでなく、『宇宙全体』も含めてです。
ですから「地球は一個の生命体である」というガイア理論の『規模』を完全に超えて「宇宙を含めて、全てはひとつの生命体である」ということになります。

つまり「全てはひとつの生命体である」ということを、表現を変えた内容が『超自然』ということになります。

まず、地球規模で考えますと、地球上の『全ての存在』が、『自然』に活動しています。
海、山などの自然、そして動物や植物を含めた全ての存在が『自然』に活動しています。
表現が難しいですが、『地球上という完璧なシステム』の中で「自然に機能している」ということです。

ですから本来であれば、『大きなトラブル』などは発生することなく、「地球は自然に機能し続ける」のだと思います。
ガイア理論では『自己統制システム』と表現していたようですが、『生物』は『地球』と相互に関係し合い、自己制御システムを作り上げている状態だと思います。

ただし、問題があります。
『人間の存在』です。

地球上では人間も自然に活動しているわけですが、人間は地球上に『人間社会』という『独自の世界』を作り続けています。

そして人間は地球上のシステムの中に、独自で『別の世界』を作り、地球環境よりも『人間社会のルール』を重視するわけです。


『人間社会のルール』は、人間が独自で作り続けている『幻想の世界そのもの』ですが、自分自身で「この世界は何かおかしい」と疑問に思わない限り、幻想の世界から抜け出せないかもしれません。

たとえば登山が好きな人であれば理解できると思いますが、山の中では『人間社会のルール』など何の役にも立ちません。
ただし、「山の中だから危険」というわけではなく、「地球上には人間社会のルールなどそもそも存在しない」ということです。

人間が多い場所であれば人間社会のルールが通用するかもしれません。
しかし人間が少ない『山の中』などでは人間社会のルールなど無意味となり、「自分の身は自分で守るしかない」という状態になります。
たとえば野生動物に対して「噛みついたら人間社会の法律で裁く」などと伝えても全く意味がありません。

山などが少ない都会に住んでいる人は実感できないかもしれませんが、田舎は大自然に囲まれています。
住宅街で住めば大きな問題はありませんが、田舎暮らしの場合、自然と共存することが大切です。

何を伝えたいのかといいますと、『人間社会』を重視するようになると、『大自然』の存在を忘れがちとなり、『人間本位』の状態になっていく可能性が高いです。
その結果どうなるかといいますと、地球上で人間の存在だけが『不自然』な状態になっていくわけです。

そもそも地球上に、人間が勝手に『独自の世界』を作っていることが『不自然』な状態だと思います。

そして「不自然とは何か?」ということが大きな問題ですが、「本来あるべき姿とは違う」ということです。
さらに「本来あるべき姿とは何か?」と追及しますと、「余分な力が加えられていない自然な状態」だと思います。

つまり『自然体』です。

たとえばですが「自然な状態になってください」と指示された場合、どうすればいいでしょうか?

簡単そうで実は凄く難しい問題です。
なぜならば「自然な状態になろう」と思う限り、もはや『不自然』だからです。
また、『力』を込めれば込めるほど、さらに不自然な状態になっていきます。

そこで気づくべきことは『脱力(リラックス)』することです。
全ての余分な力を脱力し、『本来あるべき姿』になった時に、『自然な状態』となります。

人間が存在する以上『人間社会』は消えないかもしれません。
しかし『不自然』な状態を悪化させるのではなく、少しでも『自然』に寄り添うことが人間社会の進むべき方向性だと思います。

【病気は精神面の異常から発症する】

人間が病気になる場合は「病は気から」などと言われます。

ストレスなどの『精神的なダメージ』は目には見えません。
しかし「目に見えない」だけであり、改善しないまま放置すると、ダメージは『蓄積』していきます。
蓄積したダメージは目には見えませんが、少しずつ「目に見える状態」で表面化します。
それが『病気の発症』です。

これは『東洋医学』の考え方だと思いますが、病気となった臓器や部位に注目すると『原因』がわかるかもしれません。

たとえば『胃潰瘍』になった場合は、発症した原因の傾向として「ストレスの溜めすぎ」などと指摘されますが、実際に「一理ある場合が多い」と思います。


病気となってしまった場合は、少しでも早く治療するしかありません。
しかし病気になる前に『改善』しておけば、病気の発症までは至らない場合が多いと思います。

ですから胃潰瘍の場合だと、胃潰瘍になる前に、ストレスを溜めないように改善することが大切だと思います。
ストレスが溜まる時は、我慢を含め、「自分らしくいられない」からこそだと思いますので、自分自身で「余分な力をかけ続けている」ことが原因だと思います。

ちなみに「相手の存在がストレスの原因」という意見もあると思います。
しかし『相手』に対してストレスを感じる人もいれば、ストレスを全く感じない人もいるわけです。


ですから結局は『自分自身』の内面に抱えている『何らかの問題』がストレスの原因になっていると思います。

また、胃潰瘍に限らず、様々な病気は「精神的な面が影響している場合が多い」と思いますので、結局のところ自分自身が「余分な力をかけ続けている」ことが原因だと思います

そしてもし病気なった場合は少しでも身体に無理をさせないように「とにかく休息を優先させる」と思います。
「眠れば全ての病気が治る」とは言いませんが、身体の自己治癒能力によって回復を待つことが基本になると思います。

また、『ヒーリング』などの知識がある人であれば理解できると思いますが、『自己治癒力』もしくは『自然治癒力』を発揮するために大切なことはリラックスした状態です。
そのためヒーリングは「開始から終了までリラックスした状態が基本」になります。

つまり、病気にならないようにするためには「余分な力をかけない」ことが大切ですし、もし病気になったとしても回復のためには余分な力をかけないことが大切です。


ですから「余分な力を加える」ということは、様々な面で『悪影響』になる可能性が高いと思います。

話を「全てはひとつの生命体である」に戻します。

たとえば人間の身体は余分な力をかけることによって『病気』になります。
そして病気になりますと、体調面に様々な『不調』が起こり始めます。

それと同じように『ひとつの生命体』も、どこかの部分に余分な力をかけ続けると『病気』になる可能性が高いです。

人間が独自で作りあげている人間社会は『不自然な状態』ですから、『余分な力』をかけ続けていると思います。
その影響は『地球を含めたひとつの生命体』に『病気』を発症させる『原因』ではないかと思うのです。

そして病気になった場合は、病気となった場所を対処するために『免疫システム』のような働きが高まると思います。
たとえば人間の場合であれば「体温が高熱になる」などです。

現在の地球環境は『様々な異常』が増えています。
『自然災害』が増加したり、『異常気象』が増えるなどですが、年々悪化していると感じます。

単純に考えますと「地球という惑星は様々な変動が起こりやすい時期になっただけ」かもしれません。
また、人間の視点では「地球環境に異常が増えている」程度の認識だと思います。

そして地球上で活動する人間にしてみれば「天災や気候変動は人間にはどうしようもない問題」と感じていると思いますし、「人間社会に被害が少ないように何らかの対策を考えるしかない」という状況なのかもしれません。

しかし、あくまでも仮説になりますが「地球環境が異常が増えているそもそもの原因は人間」ではないかと思うのです。

まず、地球上に存在する『様々な大自然』を、人間が自分勝手に破壊し続けているのは大きな問題だと思います。
海を汚したり、森林を減らしたり、地面をコンクリートで埋め尽くすなど、地球環境に悪影響を与え続けています。
そして大自然を減らすことは、結局のところ人間社会に様々な被害をもたらします。


ですから、人間社会は「可能な限り大自然を守るべき」ですし、むしろ「大自然を大切にすることは当然」だと思います。

ただし、僕が思うに、人間が気づかなくてはいけないのは、さらに『別の問題』です。

人間社会は海や山などの『大自然』を大切にするべきですが、大自然は『物質』であり、人間の身体でたとえますと『肉体』の部分となります。

問題は「病は気から」ということについてです。


様々な病気は『精神的な面』が影響している場合が多く、「余分な力をかけ続けている」ことが問題です。

つまり『精神的な面』を改善させない限り、「遅かれ早かれ病気になる可能性が高い」です。
そして地球が病気になった場合は、『肉体』の部分となる『大自然』に様々な不調が出てくるのだと思います。

「それでは精神的な面とは何?」ということですが、『人間の想念』だと思います。

そもそも『人間社会』は『不自然な状態』ですから、『不自然な想念の集合体』になっているはずです。
それは『ストレスが溜まり続けている部分』のような状態だと思います。

そして病気となった場所を対処するために『免疫システム』のような働きが高まるとすれば、最悪の場合「人間であり人間社会は淘汰される」ことになると思います。


なぜならば病気の部分を治療しない限り、『宿主全体』が病気に蝕まれて滅びてしまうからです。
そのため『宿主全体』を守るために、病気の症状がひどければひどいほど免疫システムの働きは強力になっていくと思います。

たとえば『悪性腫瘍』という病気があります。
わかりやすくいえば『癌(がん)』です。
細胞の異常が増殖し転移することにより悪化し、最悪の場合、宿主を死に至らしめます。

「全てはひとつの生命体である」と考えるならば、人間の存在は『細胞』のようなものです。
正常に活動していれば問題ないと思います。
しかし『人間という細胞』が異常な状態になった場合、増殖と転移を繰り返し、『全てはひとつの生命体』に悪影響を及ぼすことになるのだと思います。

その影響は「地球上の大自然を破壊しています」というレベルではなく、『地球を含めた全て』に悪影響をもたらすはずです。


なぜならば「個は全体の一部であり、全てと繋がっている」からです。

単純に考えますと「それでは原因となっている人間を病気が悪化する前に絶滅させればいい」という話になるのかもしれません。
すぐに絶滅させられることはおそらく無いとは思いますが、自然災害の増加、異常気象の増加は悪化していますし、気温の上昇などで「数十年後には人間は地表に住めなくなる」という説もあるようです。

自然環境の問題以上に気になるのは、『人間同士の争い』です。


「人心の乱れ」が悪化しています。

さらに人間社会では不安や不満、恐怖などでネガティブな状態になっている人が増えています。
そのため人間同士の争いやトラブルが増加していますし、『何か大きな出来事』が発生すれば、最悪の場合は大規模な戦争になる可能性も高いです。

ですから、「早かれ遅かれ人間が絶滅するような状態になる可能性は少なからずある」と思いますし、むしろ近づいていると思います。

ただし、「最悪の自体にならないようにする道がある」と思いますし、むしろ「まだ間に合う」と思います。
だからこそ手遅れになる前に何とかするべきです。

そもそもの話ですが、「人間であり、人間社会の絶滅は望まれていない」と思います。
たとえば悪性腫瘍になった場合ですが、なるべくであれば手術などせずに『自然治癒』することが理想的な状態だと思います。
つまり最悪の場合は悪性腫瘍になった部分を切除する手術が必要かもしれませんが、「悪化する前に自然治癒の方向を目指せばいい」ということです。

ちなみに『西洋医学』の場合は「出術によって患部を摘出して治療する」という状態が基本かもしれません。
薬の投与を含めてですが「悪くなった部分を無くしてしまえばいい」というのは即効性のある治療方法だと思いますが、ある意味『力技』です。

しかし東洋医学の場合は、治療をしながらも、『精神面の改善』を大切にするのではないかと思います。
精神的な面の改善とは「内側から治す」ということです。


むしろ病気が発症する根本の原因は『精神面』ですから、精神面を改善しないかぎり、一時的に治ってても、再び再発する可能性が高いからです。

ですから人間のやるべきことは、「大自然の破壊を極力減らすこと」と同時に、「人間の想念を変えること」だと思います。


つまり『唯物論となる物質世界(現象)の影響』も考慮しながら、『唯心論となる精神世界(想念)の影響』のどちらも改善させる必要があるのだと思います。

凄く単純な話ですが、一部の人が「大自然を守ろう」という活動を必死にしても、自然破壊に対して何も思わない人が大半であれば、破壊のスピードに絶対に追い付きません。


たとえば『木』が育つためには最低数年間が必要ですが、木の伐採は一瞬です。
また、森林を増やす活動よりも、減らす活動の方が激しいわけですから、世界各地で森林は年々減り続けていると思います。

これは山に限らず、海に関してもです。
一部の人が「海を綺麗にしよう」という活動を必死にしても、海を汚すことに何も思わない人が大半であれば、悪化のスピードには絶対に追い付きません。

そのため現実的には一部の人の活動だけは『気休め程度』なのかもしれませんが、「あきらめて何もやらない」では何も変わりません。
ですから大自然を守ろうとする活動はぜひ続けるべきですし、「できるかぎり何とかしよう」と思う人が増えていけばいいと思います。

ただし、事実して考えますと『一般人』にできることは「残念ながらあまり無い」と思います。

たとえば「山や海に少しでもゴミを増やさないようにする」などは可能です。
自然を大切にしようとする気持ちを持つ人が増えることは大変素晴らしいことだと思いますし、大勢の人が同じ気持ちになれば『大きな力』になります。
そのため決して無駄ではありませんし、むしろ「とても大切なこと」だと思います。

しかし普通に暮らしている一般人が、「山に行って大量の木を伐採して森林を減らすのか?」となりますと、『専門職』でない限り「あり得ない」ことです。


また、海に大量の油を流したり、工業廃水などを流すこともあり得ません。


ですから一部の企業や、一部の人間が大自然を破壊しているにすぎないような状態です。

ただし、「大自然に悪影響を与える活動のおかげで人間社会が成り立っている部分もある」と思いますし、企業の従業員として自然破壊に加担している人もいるかもしれません。


ですから「一部の人だけが悪い」のではなく、「人間社会全体に連帯責任がある」と思います。
 

しかし実際のところ『個人』が大自然に大きな影響を与えるようなことは『ごく稀』だと思います。

たとえば僕自身は、いままでの人生において山に生えている木を伐採したことは一度もありませんし、「今後もない」と思います。
また、海に大量の廃棄物を流すようなことはしたことがありませんし、「今後もしない」と思います。


地上で人間として活動していますので、日常生活において地上に何らかの悪影響を少なからず与えているかもしれませんが、「自然を破壊したい」とは全く思っていません。
むしろ「自然を大切にするべき」と思っています。

おそらく僕と同じような人が一般人の大半だと思います。

ですから一般人が大自然に対してできることといえば、自然に対して『感謝』の気持ちを持って自然を大切にすることと「自然破壊を少しでも減らしましょう」と伝える程度だと思います。
そもそも一般人は「自然を壊そう」と思って日常生活を過ごしているわけではありませんし、「実はやることがほとんどない」わけです。

むしろ「自然を大切にしましょう」というのは当然の話ですから、大半の人は「すでにわかっている」と思います。

しかし大半の人が全く気づいていないことがあり、むしろ一番注目しなくてはいけないことが『人間の想念』の影響だと思います。
この問題は決して他人事ではありませんし、むしろ一般人が最も注意するべきことだと思います。

なぜならば『想念』は人間の『個人』が常に放っているからです。


個人がそれぞれの想念を放つわけですが、人間は無数に存在しています。
そのため人間の想念が集まれば集まるほど『強力な力』になるはずです。

そして一番の問題は「放っている想念は健全な状態なのか?」ということです。
表現を変えれば「人間は本来あるべき状態なのか?」ということです。

現代の人間社会は、不満、妬み、怒り、不安、恐怖などを抱えている人が増えていると思います。
つまり全体的にネガティブな状態だと思います。
そして自分の欲望を満たすことに必死な人も多いです。

「その状態の想念は健全な状態なのか?」となりますと、かなり異常だと思います。
もし人間の想念を『細胞』と考えますと、異常な細胞が増え続けている状態だと思います。

「全てはひとつの生命体である」と考えるならば、人間の放つ想念が健全な状態にならない限り、「遅かれ早かれ何らかの病気になるのは当然の流れ」なのかもしれません。

ですから、人間のやるべきことは「想念を健全な状態に戻すこと」であり、「本来あるべき状態に戻る」ことだと思います。

つまり『個人』ができることといえば、「大自然の破壊を極力減らすこと」よりも、「自分の想念を健全に戻し、本来の自分に戻ること」に尽きると思います。

そもそもの話ですが、想念が健全な状態となり、人間が本来の状態になれば、「大自然の破壊行為などしなくなる」と思います。
なぜならば、「大自然を破壊することは愚かな行為」ということを、人間は「本来であれば知っている」からです。
むしろ「想念が異常な状態になっている」からこそ、大自然を破壊することが愚かな行為ということを「忘れているだけ」だと思います。

「人間はどうやって想念を健全な状態に戻し、本来あるべき状態に戻るのか?」ですが、余分な力を抜くことです。

ただし想念は『精神面』のため、肉体ではありません。
肉体をリラックスさせることも大切ですが、精神面に注目しなくてはいけません。

「精神面の注目とはどうやってやるのか?」ですが、『自分自身の内側』に意識を向けることです。
つまり「自分自身と向き合う」ことが大切です。

人間は生まれてから様々なことを学びますが、成長の過程において『様々な観念』が増えます。
人間社会で教えれた『常識』や、『規律』もあると思います。
また、人間同士の交流から経験した精神的なダメージや『トラウマ』など、様々な固定観念を抱えていきます。
 

スピリチュアル系などでは『ブロック(メンタルブロック)』と表現されますが、自分自身では気づかないうちに増えた『観念』に自分自身で気づき、減らすことで、「本来の自分に戻っていける」と思います。
それは「自分自身を許して受け入れる」ことでもあり、「自分自身を愛する」ということに繋がります。

ちなみに「自然な状態になろう」と思い続ける限り『不自然』な状態ともいえます。
それと同じように「愛を大切にしよう」と思い続ける限り『愛そのもの』にはなっていない状態ともいえます。

『自然』は存在しているだけで『自然そのもの』が本来の姿です。
『愛』は存在しているだけで『愛そのもの』が本来の姿です。

つまり余分な力を抜いて『あるがままの姿』に近づけば近づくほど『本来の自分』に戻ることができます。
そして『本来の自分』になれば、もはや愛について考える必要は無く、『愛の存在そのもの』になります。

たとえばですが、道端に『花』が咲いているとします。
花は「自然な状態になろう」とはしていませんし、「愛を大切にしよう」とは思っていないと思います。
なぜならば存在そのものが自然であり、愛そのものだからです。

人間は『地上で活動できる肉体』と『自分の意識』を持って活動していますので、花とは違います。
しかし少しでも余分な観念を減らし『本来の自分の姿』を目指すことはとても大切なことだと思います。

難しい話はここまでにしておきますが、何を伝えたいのかと言いますと『本来あるべき状態』に戻るためには『余分な力』を抜くことが重要ということです。
そして余分な力を抜くことができれば自己治癒能力が発揮され、本来あるべき状態に『回復』していくはずです。

「それでは一体何を回復させるのか?」についてです。

おそらくですが『人間の想念』が、『全て』に悪影響を与え続けています。


なぜならば『全てはひとつの生命体』ですから、人間の存在は『全ての一部』だからです。
そして『人間の想念』の影響は悪性腫瘍のような状態となり、『地球を含めた宇宙全体』を不調にさせ、様々な異常現象を増やしていると思います。

人間にとっては「地球上に異常が増えている」程度の認識かもしれませんが、宇宙、地球、自然、生物などの『全て』に影響があると思います。
なぜならば「全ては繋がっている」からです。

人間の想念が悪影響を与えているのであれば、人間の想念が本来あるべき状態になることによって『余分な力』が減少し、『地球を含めた宇宙全体』が本来あるべき状態に自然と回復していくのではないかと思います。

ちなみに『ウイルス』の流行問題に関しても、人間が『人間の手』でウイルスを作成したり、無理やりウイルスを流行させていなければ、おそらく自然に回復していくと思います。
なぜならばウイルスという存在も『全ての一部』だからです。

むしろ人間が「人間の力で無理やり何とかしようとする」からこそ、事態が悪化していくのではないかと思います。
なぜかといいますと、人間独自の『不自然な方法』で無理やり治療しようとするわけですから、「さらに不自然な状態になっていくだけ」だからです。

「ウイルスの致死性が高く、何もしなければ必ず人間が全滅する」のであれば、何らかの手を考えなくてはいけないかもしれません。
しかし人間には『自己免疫力』が備わっていますし、自然に回復するための『自己治癒能力』も持っています。
そのため、「ウイルスによる犠牲者はゼロではない」かもしれませんが「よほどのことが無い限り全滅までは至らない」と思いますし、自然と乗り越えていけると思います。

そもそも地球上には人間以外にも『様々な生物』が存在しますが、もしウイルスで全滅するのであれば、もっと昔に生物は絶滅しているはずです。


ウイルスの感染によって「宿主の数が一時的に激減する」ようなことはあるかもしれませんが、「必ず生き残る存在がいる」からこそ、自然界は繁栄が尽きないのだと思います。
また、必要なタイミングでウイルスと宿主の関係が「自然と順応する」もしくは「自然と順応できるようになる」はずです。

ただし、人間が「人間独自で計画的に活動している」のであれば、話は別です。

たとえば無理やり『毒』を飲ませば、本来であれば助かるはずの命も助からなくなってしまいます。
むしろ「本来であれば毒を飲まない」わけですから、『不自然な流れ』に無理やり乗せられたような状態です。
ですから人間が不自然なことをしようとすればするほど、「自然回復は手に負えなくなっていく」のだと思います。

ちなみに科学者や、専門家にしてみれば「科学的な根拠や検証が無い」と判断して、「馬鹿げた妄想話」としか思わないと思います。

そもそも人間の多くが『分離』という錯覚から目覚めていない状態であり、精神面から離れ『知識』だけに頼り、『科学的な根拠』ばかり求めることが原因です。
また、「全ては愛の中に存在する」ということを理解できないからこそであり、「全てはひとつであり、全ての存在が繋がっている」ということを知らないからだと思います。

気づいた時には手遅れかもしれませんし、全く理解できない話かもしれません。
しかし『全てはひとつの生命体』のような状態であれば、おそらく『免疫システム』のような働きがあるはずです。
そのため人間社会が「人間の想念を改善させることの重要性」に気づかないかぎり、様々な異常現象の多発によって人間が淘汰されることになると思います。
なぜならば悪性腫瘍のような状態を放置したままだと、悪化の一途になり、『地球を含めた宇宙全体』に悪影響を及ぼす可能性が高いからです。

ちなみに『超自然』の概念については、『人間の肉体』で考えますと理解しやすいかもしれません。

『ミクロ(最小)』『マクロ(最大)』の関係ですが、『自然界』を観察しますと様々なことがわかります。

『ミクロ(最小)』と『マクロ(最大)』は繋がっているため、たとえば『生物』の仕組みを観察すると、『世界全体』の仕組みが見えてきます。
「全てはひとつ」だからこそ、『個』と『全体』は繋がりがあるからです。

そのため『人間』を観察すれば『宇宙』が見えてくると思います。
なぜならば人間は『宇宙(全て)』の一部だからです。

人間は『肉体』を持って地球上で活動しています。
肉体は、脳、心臓、臓器、骨、筋肉、皮膚、血液、細胞など様々な組織で構成されています。

人間は誰でも『自分の肉体』を持って活動しており、「私の肉体」と信じていると思います。

ただし、「私の肉体」と思っていても、自分の意思では『心臓』の活動は止めることができません。
心臓以外にも、脳や臓器などの活動も止めることはできません。

人間が自分の意思でコントロールできることは「身体を動かして行動する」程度です。
つまり「私の肉体」なのに、「私ができること」は実はほとんどありません。

自分自身には理解できないような『何らかの力』が人間の肉体の働きを常に動かしているような状態です。
その働きは毎日24時間休むことなく生涯続きます。

『何らかの力』は正体不明ですが、間違いなくわかることは、人間の肉体を生かすために「常に無償で活動してくれている」ということです。
人間の肉体を生かしてくれているということは、人間としての『私の活動』のためであり、「私を活かすため」だと思います。

つまり『何らかの力』が活きることで、人間の『私』は自分を活かすことができるわけですから、何らかの力とは『愛』なのだと思います。

ですから本来であれば、人間の『私』は自分を活動できるようにしてくれている『愛』に感謝するべきだと思います。
なぜならば、『私』の人間としての活動のために、生涯ずっと無償で働き続けてくれるからです。

そこで人間が気づくべきことは「私が生きている」のではなく、「私は愛によって生かされている」ということだと思います。
また、「私は愛によって常に守られており、常に愛されている」ということを知り、愛に感謝するべきだと思います。

ただし、『愛』は自ら「私は愛」と名乗ることはありませんし、あくまでも自然に働くだけで『謙虚』な状態です。
むしろ、あまりにも自然に働いているため、基本的に『存在』に気づくことはできないと思います。

ちなみに旧約聖書の神『YHWH(ヤハウェもしくはエホバ)』は『存在』を意味する語根のようです。

ヤハウェはモーセに応えて「私は在りて在るものである」と名乗った事に由来するようですが、自然に働いている『存在』だからこそ「在りて在る」のだと思います。

ですから『愛』という表現を追求すると『超自然』であり、「超自然の働き」なのだと思います。
そして「全ては超自然の中にある」ということになるわけですが、だからこそ『人間の想念』が本来あるべき状態になれば、超自然は本来あるべき『超自然の働き』によって、『超自然治癒』が発揮され、「本来あるべき姿に回復する」はずです。

だからこそ「私は在りて在るもの(超自然)」は科学的に調べることはおそらく無理だと思います。
何もない空間に「在る」ものを検証するのは、「雲を手でつかむことよりも難しい」と思います。

しかし『意味』がわかれば、超自然の中に存在する『存在』は、全て愛によって活かされている『存在』ですから、むしろ「愛しかない」わけですが、科学者には理解できないのかもしれません。

たとえば目の前に『花』が咲いているとします。
花を眺めながらも「存在の根拠が検証できない」などと判断するのであれば、もはやどうしようもなく、『愚か者の極み』だと思います。

ちなみに花には様々な種類がします。
たとえば『ヒマワリの花』はヒマワリ以外には絶対に成長しませんし、『アサガオの花』はアサガオ以外には絶対に成長しません。

つまり生まれた時から『役割』が決められており「自分の与えられた役割を全力で全う」するだけです。
そして『自分以外の他の存在』になろうとしても絶対になることはできません。

ヒマワリの花にしてみれば「私はヒマワリの花の役目をしっかり果たす」などとは思っていないはずです。
また、アサガオの花にしてみれば「私はアサガオの花のように育って見せる」などとは思っていないはずです。

なぜならば『本来の姿』で存在するだけで、自然と『本来の役割』を果たしていくからです。

何を伝えたいのかといいますと、地球上には『無数の人間』が存在していますが、『個人』にはそれぞれの『個性』と『何らかの役割』があります。

それぞれの個性と役割があるわけですから、全力で『自分の役割』を果たせば、「他者と比べたり、他者と競う必要など全くない」わけです。

ちなみに人間の場合は「私とあの人は条件が違う」などと『優越感』や、『妬み』などを感じて他者と比べてしまいがちかもしれません。
しかしそれぞれに『自分の役割』があるわけですし、その人それぞれで『学ぶべきことが違う』わけですから「違って当然」です。

そして花と同じように「自分以外の存在になろう」としても絶対になることはできません。
人間の場合は『他者の姿』を真似ることができますので、「自分以外の存在を演じることはできる」かもしれません。
しかしその場合は『本来の自分の姿』とは違いますので、「あくまでも演じるだけ」にすぎません。
問題は自分以外の存在を演じ続ける限り、『自分の役目』を果たすことできないということです。

その人それぞれの役目であり、役割は『本人自身』しか知りません。
本人自身しか知らないということは、「本人だけが気づくことができる」のだと思います。
そしてそれは『偽りの姿』を演じ続ける限り、たどり着けない『答え』だと思います。

ですから、まずは『本来の自分の姿』に戻るべきですし、本来の自分での活動は、自分の役目を果たしながら『愛の表現』が自然と行われると思います。

自分自身を愛し、本来の自分自身の人生を歩まれる人が少しでも増えることを願っています。


そしてその状態は本来あるべき『超自然な姿』だと思います。

『【未完】言葉と祈りと愛について 9』につづきます。