『【未完】言葉と祈りと愛について 8』のつづきです。
補足情報として『救世』の記事も参考になればと思います。

【神との契約について】

日本人の多くは基本的に『無宗教』の状態だと思います。
そのため、宗教で伝えられていることにはあまり興味が無い人が多いと思いますが、『今後の世界』のためにご紹介します。

地球上には様々な宗教が存在しますが、その中でも『世界三大宗教』とされているのは『キリスト教』『イスラム教』『仏教』です。

世界三大宗教の中で信者数が一番多いのはキリスト教となっており、世界中に約24億人の信徒がいるようです。

二番目に多いのがイスラム教となり、約18億人の信徒がいるようです。
ちなみにイスラム教は信徒数が急増しているらしく「いつの日かキリスト教の信徒数を追い抜く」と伝えられています。

余談ですが三番目に信徒数が多いのは『ヒンドゥー教』の約11億人のようです。

本来であればヒンドゥー教が『世界三大』になるはずですが、『世界三大宗教』というのは日本独自の概念らしいです。
そのため日本では『仏教』が世界三大宗教のひとつになっており、仏教の信徒数は約5億人らしいです。

ちなみに『五大宗教』となった場合は『ユダヤ教』と、ヒンドゥー教が加わるようです。

つまり『信徒数』で考えますと世界最大の宗教がキリスト教になります。

2021年の世界の総人口は約76億人のようですが、約24億人がキリスト教の信者だとすれば、「3人に1人はキリスト教の関係者」ともいえます。
日本人にしてみれば驚く数字かもしれませんが、世界最大の宗教が伝えている内容から今後の世界の流れを考察してみます。

ちなみに内容の中で『神との契約』という表現を使いますが、宗教の信者になる必要はありません。
あくまでも参考知識程度に思っていただければと思います。

正直なところ、現代の人間社会で「心や愛を大切にしましょう」と伝えたとしても、「私は全く興味が無い」という人も多いと思います。
また、「私は愛など全く求めていない」という人もいると思います。

たとえば日常生活において『人間トラブル』などが多くても「人生とはこんなものだ」と思いながら過ごせば、死ぬまで何とかなるのも事実です。
そもそも心や愛を大切にしなくても人生は何とかなりますし、むしろ面倒なことを考えない方が気楽に人生を楽しめるかもしれません。

つまり『事実』として、人間は心や愛を大切にしなくても無事に生涯を終えることができます。

そして神の存在を否定する人は「この世に神など存在せず、天罰などあり得ない」と信じているのかもしれません。

ちなみに人類の歴史を振り返ると『人間同士の争い』の繰り返しです。
「心や愛を大切にしていた先人もいる」と思いますが、残念ながら人類全体ではありません。

全ての先人たちが心や愛を大切にしていれば「現代の人間社会は全く違った世界になっていた」かもしれません。

また、そもそもの話として「心や愛を大切にしていれば人間同士で戦争や殺し合いはしない」はずですし、むしろ「争いができない」と思います。
なぜならば不必要な争いを『拒否』するからです。

残念ながら事実としては、人間同士の争いは絶えませんし、現在も世界各地で争いは発生しています。

たとえば「心や愛を大切にしなければ即死します」などであれば、人間は『必然的』に心や愛を大切にするようになるはずです。
そして「死にたくない」という人は本気で『改心』するようになると思います。

しかし改心しなくても、身をもって実感できるほどの『大きな問題』は特に発生しません。
だからこそ人間は『改心の必要性』を感じないのかもしれません。

その状態でも『改心できる人』は自分の心が痛むからこそ、自分の心に従い、自分自身を自ら改善するのだと思います。

ちなみに人間は「自分の意志で自由に選択できる」という『自由意志』が尊重されています。
そのため「心や愛を求めない」という選択も可能ですし、改心に関しても自由です。

また、「自分の意志によって選択できる」という『権利』は誰にも奪うことができませんし、むしろ絶対に奪ってはいけません。

ただし問題があります。

「改心しなくても本当に大きな問題は発生しないのか?」という問題です。

自由意志によって『選択』は自由です。
しかし「もし問題が発生する可能性がある」のであれば、『問題の内容』について「知っている」と「知らない」では選択の『価値観』が変わるのではないかと思います。

おそらくですが、様々な宗教は「それは何か?」という『詳しい内容』を全く理解していない状態かもしれません。
しかし「いつの日かその時が訪れる」と知っているからこそ、太古から『教え』を伝道してきた可能性があります。

ちなみに人類には「神から約束されていること」があります。

「いつの日か神によって統治された王国が地上に実現する」という内容です。

『地上天国』『神の王国』などとも表現されますが、神によっての統治とは「愛によって統治された世界であり、愛の王国」という意味になると思います。

その約束は『人間同士の約束事』ではなく、『神からの約束』とされています。

神が『嘘つき』であれば問題ですが、「神は全てを見通せる存在」だと思いますし「約束を実現することはできませんでした」は絶対にあってはならないことです。

ちなみに陰謀論などで有名な『プロビデンスの目』とは「神の全能の目」のことであり、「神は全てを見通す」ということが本来の意味です。


ですから「愛の王国となる地上天国は必ず実現する」はずです。

しかし『愛』によって世界を統治するのであれば、『愛以外』という『例外』が存在しては「統治が不可能」になります。

そこで出てくる問題は『自由意志』の存在です。

「愛以外の道も選択できる」という人間の自由意志は尊重されるべきですが、「愛で統治された王国が実現する」という約束も果たさなくてはいけません。

つまり矛盾しているような『二つの道』が存在することになります。

神は必ず約束を守ります。
ただし、神は約束を守るからこそ、人間は『神との契約』を守る必要があります。

聖書では「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」となっているようですが、「自分自身の心、精神、思いの全てをかけて、自分自身の神(愛)を愛する」ということです。

そのため、人間が「愛から離れる」ということは、『自分自身の意志』で神との契約を『破棄』することになります。

人間が神との契約を破棄することは本来であればあってはならないことです。
なぜならば、太古の時代に『先祖(祖先)』が神と契約したことですから、『子孫』も守る義務があるからです。

「私は神と契約していないので無関係な話」と思うかもしれません。

特に日本人であれば、理解不能な話だと思います。

たとえば日本神道の最高神は『天照大御神(あまてらすおおみかみ)』様となっていますが、天照大御神様を含め、他の日本の神々様からも「神との契約を守りなさい」などと伝えられたことはないはずです。
また、「私はキリスト教の信者ではない」などと思うのが当然だと思います。

しかし『先祖』が契約したことは、『子孫の代』に関係なく、神との契約が続く限り守らなくてはいけません。

ちなみに『日本人』と『ユダヤ人(古代イスラエル民族)』は共通の祖先であり、深い繋がりがあるという『日ユ同祖論』が伝えられています。

神社が好きな人や、スピリチュアル系に興味がある人であれば、「日本とユダヤは繋がりがある」などの噂を少なからず耳にしたことがあるのではないかと思います。

『日ユ同祖論』について少し解説しますが、約3000年前の時代に戻ります。

紀元前1000年頃のことですが『ダビデ(ダビデ王)』『古代イスラエル王国(統一王国)』の王として統治していた時代があります。

古代イスラエル王国はダビデ王によって『12部族』の存在が統一されていたようです。
しかし統一されていたイスラエル王国は『南北』に分裂します。
『北王国(イスラエル王国)』が独立したことが原因だったようですが、『北王国』と『南王国(ユダ王国)』の二つに分裂することとなり、一説では北大国に『10部族』、南王国に『2部族』にいたそうです。

その後、『北王国(イスラエル王国)』は『他国(アッシリア)』に滅ぼされてしまったため、北王国にいた10支族は「世界各地に離散した」とされています。
そして南王国から「失われた10支族」と呼ばれるようになったようです。

失われた10支族は『イスラエルの失われた10支族(10部族)』などと表現されますが、「離散した一部の支族が日本に渡ってきていた」という伝説があります。

簡単に説明しますと、ダビデ王の時代に、ダビデ王が統治していた古代イスラエル王国の一部の人間が「日本人の祖先になっている可能性がある」ということです。
その繋がりを伝えている内容が『日ユ同祖論』です。

だからこそ日本人とユダヤ人の繋がりを証明するために様々な『証拠探し』がされているようです。

日本国内では有名な伝説ですが、10支族は北王国から離散する際に『アーク(契約の箱)』を持ち出して日本に渡り、徳島県の霊峰『剣山』に隠したとされています。
また、日本各地の神社に『六芒星』が刻まれていたり、「日本語とヘブライ語が似ている」など、探れば探るほど「ユダヤとは様々な関連がある」とされています。

太古の証拠探しが好きな人には興味を惹かれる内容かもしれません。
また、「実際に日本とユダヤは繋がりのある可能性は高い」と思いますが、証拠探しをするまでもなく「人間は人間」です。
『出身国』に一切関係なく、人間は地球上で存在する『同種族』になります。

ですから『日ユ同祖論』などにこだわる必要はなく、そもそも人類は『全て同祖』ということです。

そのため「祖先の存在が日本の出身なのか、古代イスラエル王国の出身なのか」は大きな問題ではありません。

同じ地球人であり、同じ人類ということに変わりはないからです。

ちなみに人間社会では子供時代から「人類は『猿』から進化した」と教えられています。
たとえば学校の教科書などで、『猿の姿』から徐々に『現代の人間の姿』に進化している図を見たことがあると思いますが、おそらく「嘘」です。

『人類』は人間から進化して『現在の人類』になっているはずですし、人類という『ひとつの種族』だと思います。
「人類には大きな変化が何度かあった」とされていますが、可能性があるとすれば『宇宙の存在』が何らかの影響を及ぼしているのではないかと思います。

人類は時代によって『肉体』などに『変化の段階』があるようですが、突然変異したのではなく、おそらく宇宙の存在が関与して「急激に変異させられた」ような状態ではないかと思います。
もしくは「人類の変異種が突然地球に運ばれてきた」もしくは「地球上に人類の変異種を誕生させられた」などの実験的な可能性もあるかもしれません。

ただし、太古の歴史や出来事は調べようがありませんし、「事実を知ったところでもはやどうしようもない」わけですが、とりあえず「人類は猿から進化した」は嘘だと思います。
そもそも『進化生物学』は生物学からの研究でしかないですし、人間が作った『仮説』にすぎないからです。

話を戻しますが、「人類は全て同祖」と考えますと、現代の日本人にも「古代イスラエルの話は無関係ではない」ということになります。

ちなみに『ユダヤ人』というのは『ユダヤ教』の信者のことです。
『ユダヤ』という地名はあるようですが、地名が問題ではなく、「ユダヤ教の信者がユダヤ人になる」ようです。

『ユダヤ人』とはユダヤ教の信者ということですから、「たとえ日本人だとしてもユダヤ教の信者になればユダヤ人になれる」ということだと思います。

そして『ユダヤ教』とは唯一神『ヤハウェ(エホバ)』を神として、アブラハムの子孫であるユダヤ人に伝えられた『ヘブライ語聖書』を先祖代々受け継ぐ集団のこととなります。

さらに「人類は全て同祖」と考えますと、日本人だとしても『ダビデ王の子孫』であり、『アブラハムの子孫』になります。

ちなみに『アブラハム(アブラム)』とは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を信仰する『啓典の民』の始祖です。
『ノアの方舟(ノアの箱船)』で有名なノアの洪水後、神による人類救済の出発点として選ばれ祝福された『最初の預言者』となっています。

また、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は『アブラハムの宗教』とも呼ばれ、始祖となる預言者となるアブラハムは「信仰の父」と呼ばれているようです。

『日ユ同祖論』に興味のある人は、日本とユダヤの繋がりとなる『証拠探し』にだけ注目しているのかもしれません。
そして「日本とユダヤはやはり同祖だった」と判明すれば喜ぶのかもしれません。

しかし「証拠を見つけて終わり」では無く、むしろ同祖であれば「日本人も神の契約を守る必要がある」ということです。

無宗教のような状態が多い日本人にしてみれば「一体何の話?」と思うかもしれませんが、「神との契約は太古から続いている」ということです。

【契約の効果に関する謎】

神との契約を守るものは、神によって『祝福』され、救済されることになっています。

表現を変えれば「自分自身の神(愛)を愛する者は、愛によって祝福され、愛によって救済される」ということです。

問題は「もし人間が契約を守らない場合はどうなるのか?」ですが、簡単に説明しますと「滅びの時が訪れる」ようです。
ただし、どのような方法で滅びるのかは諸説あり、『謎のような状態』になっています。

ちなみに「私は神との契約を守らない」、「私は心や愛を大切にしない」と自分の意志で選択しても、基本的には「何も起こらない」と思います。

神様が『天罰』を与えに来るわけでもありませんし、命を奪いにくるわけでもありません。

ちなみに『現在』は違いますが、若い頃の僕は「この世に神様など存在しない」と思っていましたし、『無神論者』の状態でした。
また、数年前までは「人生に愛など不要」と思っていましたし、むしろ「愛とは何て腹立たしい存在なんだ」と思っていました。

つまり僕は「神など存在せず、人生に愛など不要」と思いながら活動していた期間が長かったわけです。

もし滅びの時が訪れるのであれば、「いつ滅ばされてもおかしくない状態だった」と思います。

ちなみに僕が「愛とは何て腹立たしい存在なんだ」と思っていた理由は、当時の僕は『愛』の意味がわからなかったからです。

現在も「愛がわかっているのか?」と問われると、「だからこそ愛のことを学ぼうとしている」という状態にすぎません。
ただし、当時よりも少なからず成長はしたつもりですし、さらに今後も学び続けます。

若い頃の僕は人間社会での『力』を求めていたわけですが、ある時に『絶望』のような出来事を経験しました。

その出来事が『人生の転機』ともいえるきっかけとなり、精神世界や霊的な世界などに関して興味を持ち、独学で学び続けました。


そして精神世界の探究が趣味のような状態になりましたが、『答え』を追求するたびに、必ず最後は「愛に行き着く」わけです。

ただし、『恋愛問題』などに悩んでいたわけでありません。

「人生とは何か」や「この世界は何か」や「真理とは何か」などについての探究です。

当時は暇さえあれば考えていましたが、「追及する価値がある」と強く感じていたからです。

ちなみに当時の僕は「心や愛の存在は人間の感情を乱し、人生に不必要な悩みを増やす要素にすぎない」と思っていました。
また、感情が乱れることを極力避けようとしていました。

精神世界の探求がきっかけとなり「この世界は幻のようなもの」と何となく気づいてしまったことが『原因』かもしれません。
そして「幻のような世界に無駄に感情移入するのはとても愚かなこと」と思うようになり、様々なことに対して冷めた状態になってしまったわけです。

また、座禅などの行為は基本的にしませんでしたが『禅』の思想に魅力を感じていたこともあり、「人間は淡々と生きていくことが洗練された状態で素晴らしいこと」と思うようになっていました。

ちなみに人生を振り返ると「導かれている」と気づくことがありますが、僕は小学校低学年の頃に『少林寺拳法(少林拳)』を習っていました。

少林拳の創始者は『禅宗』の開祖の『達磨大師』という説があります。

子供の時は「ものすごくつまらない内容」としか思っていませんでしたが、『学科』として達磨大師や禅宗などのことについて少なからず勉強させられていました。

大人になってから禅に興味を持つようになったわけですが、実は子供の時から導かれていたのかもしれません。

「全ては必然」ですから、自分自身の子供時代を振り返ると何か気づくことがあるかもしれません。

そのため子供時代に「習っていたこと「や、「興味のあったこと」などをぜひ振り返ってみることをオススメいたします。


話を戻します。


たとえばですが、修行僧が「恋だ、愛だ」などということは基本的に「あまり無い」と思います。
むしろそのような修行僧がいたら『煩悩』だらけですし、修行僧としてはお話にならない状態です。

そもそもは、「人生から悩みや苦しみや迷いを減らすことが目的の修行」だと思いますし、『自己の鍛錬』のための修行だと思います。

ちなみに当時の僕は子供や結婚などに全く興味が湧かず「生涯独身の方が向いている」と実感していたこともあり、『愛』というものに関しては「特に考える必要は無い」と思うようになっていました。


ただし、「他者を傷つけることは避けたい」と思っていましたし、「大自然と調和して生きていく」という精神は大切にしていました。

ですから「大自然を大切にして、人間社会では感情を乱さずに淡々と生きていけば人生は穏やかに過ごせる」という『結論』に達していたわけです。


おそらくですが、仏教や禅の道を歩む人は似たような状態になるのではないかと思います。

ただし、僕の場合は「何かまだ先があるのでは?」という違和感があり、「この先には何がある?」という『答え』を探究するようになりました。

とりあえず「愛とは感情を乱す要素にすぎない」という自分自身の『結論』がある状態でしたが、『答え』を追求すると必ず『愛』にたどり着くわけです。


そのため「やれやれ、また『愛』の登場か」とうんざりしていました。

むしろ愛のことがわからないと『次のステップ』に進めないような『足止め』のような状態だったため、答えを追求するたびに「愛とは腹立たしい存在でしかない」と感じていたわけです。

ちなみに『愛』という言葉は人間社会の様々な場面で利用されており、世界各地に蔓延しています。
そのため『愛』という言葉を気軽に使用している人は多いと感じます。

しかし「愛とは何?」と尋ねると、『愛の意味』を明確に説明できる人がいないような状態でした。


つまり人間社会では『愛』という言葉を多用しながら、「愛の意味を実は知らない」という奇妙な状態になっているわけです。

特に精神世界系や、スピリチュアル系では『愛』という言葉が登場することが多いですが、僕にしてみれば「まず『愛』の言葉の意味を理解できるように説明して欲しい」と感じていました。

たとえばスピリチュアル業界には「愛を大切にしましょう」と伝える人は多いと思います。
しかし『根本的な問題』として「愛とは何ですか?」と尋ねられた場合に、しっかりと答えられる人はどれだけ存在するのか疑問です。

もし答えられない場合、「わけのわからないものを大切にしましょう」と伝えているような状態だからです。

当時の僕にしてみれば「人間は愛の意味を知らないのに『愛』という言葉を使って、困った問題を無理矢理解決しているだけなのか?」と感じたわけです。

そして「愛とは何か?」と答えを『人間社会の情報』から探そうとしたわけですが、愛に関しては『明確な答え』がない状態でした。


愛について伝えている人もいましたが、僕自身としては「どれも心の底からは納得ができない内容」というのが本音でした。

「言葉にとらわれてはいけない」というのも理解していましたが、『愛』という『不確かな言葉』は僕にとって腹立たしい存在でしかなく「結局また『愛』なのか?」と苦悩していたわけです。

現在は「世界を救えるのは愛の存在」ということに気づいたため、愛について伝えることが多いです。
僕自身はまだまだ未熟な状態ですが「全ては愛」の一言に尽きるからです。

しかし昔の僕は「神も愛も不要」と思っていた側です。
神に対しても、愛に対しても完全に否定していた側だからこそ、「むしろ疑問を解決するために、深く追及する機会になった」のだと思います。

ちなみに神に対しても愛に対しても否定していた頃は、「浮き沈みの激しい人生だった」と思いますが、『天罰の影響』など全く感じていませんでしたし、面白おかしく生きていました。
また、悪事などを働いていたわけではありませんが、それなりに悪いこともしていましたし『善人』とは全く違います。

ですから、「神との契約や、愛など気にしなくても人生には大きな問題が発生しない」ということも事実だと思います。


また、「神との契約の効果は実在するのか?」となりますと、かなり怪しいです。

なぜならば、『人間社会の法律』で犯罪者が裁かれるようなことはありますが、あきらかな『天罰』というものは「無いに等しい」からです。

正直なところ、盗みや暴力を含めて、様々な犯罪行為をしている人は人間社会に無数にいます。
むしろ人間社会に犯罪の増加が止まらないとすれば、「天罰によって裁かれないからこそ」だと思います。

犯罪を推奨するわけではありませんが、人間社会では逮捕されなければ『犯罪』とみなされませんので、見つかりさえしなければ『無罪』です。

そのため、賢い人たちは『悪知恵』を働かせて犯罪になるかならないかの『グレーゾーン(曖昧な領域)』を探す傾向が高いと思います。
また、「グレーゾーンであれば犯罪行為ではないため、悪いことをしているわけではない」という認識になりがちかもしれません。

そもそも「罪」と「無罪」の判断基準は、人間社会が独自で決めているだけですから『不確かな状態』ともいえます。

また、「相手にやり返すことは絶対にやめるべき」ですが、『被害者』は相手から『危害』や『被害』を一方的に体験させられるだけで、泣き寝入りしかできないようなことが多いと感じます。

そのため「私に被害や苦しみを与えた相手に天罰を与えて欲しい」と願うようなことは、人生に一度ぐらいは経験があるのではないかと思います。

しかしどれだけ相手を恨んでも天罰など起こりません。

被害を与えた相手は何事もなく普通に暮らし、被害を受けた側だけが苦しみ続けるようなことは人間社会ではありがちな展開だと思います。

ですから、「どのような状態になれば神からの天罰があるのか?」は一切不明ですし「滅びなどという天罰はあり得ない」と思う人が大半かもしれません。

余談ですが、相手に対して恨みなどがある場合、『念』で攻撃したり、『生霊』などを相手に飛ばすことは可能かもしれません。

しかし自分に跳ね返ってくる可能性がありますので、絶対に止めるべきです。
また、相手に対して何らかの恨みがあったとしても、恨み続けるのではなく、少しでも早く気持ちの『切り替え』をすることが大切だと思います。

なぜならば相手を恨めば恨むほど精神的に苦しむのは「自分自身だけ」だからです。

そして、現代の人間社会で活動していますと、嫌というほど実感できることが『現実』の厳しさです。
人間社会での『力』を持てないものは、『弱者』として扱われます。

そのため「愛だけで世界が良くなるはずがなく、綺麗事を言っているだけ」と感じる人が大半ではないかと思います。

また、「愛を大切にしましょう」と伝えている僕自身も、正直なところ「愛を大切にする人が数人程度増えたところで世界は何も変わらない」と思います。

なぜならば僕自身が「人間社会での力を求めていた」という経験がありますので、「愛など無力」ということを強く実感していたからです。


現在は心や愛を大切にする人が少しでも増えることを願って活動していますが、「事態はそんなに甘くない」と感じます。

そして、もし『無神論者だった頃の僕』が発言するのであれば「神やら愛やら馬鹿じゃないのか?現実を見ろ」と一蹴すると思います。

ですから現在の時点でも、人間社会を含めた『現実』から目を背けているわけではないのですが、『重大なこと』に気づいたからこそ「心や愛を大切にしましょう」と伝えています。

『【未完】言葉と祈りと愛について 10』につづきます。