『【未完】言葉と祈りと愛について 5』のつづきです。
補足情報として『救世』の記事も参考になればと思います。
 

【愛の向こう側】

愛の向こう側については『独り言』のような状態ですし、あくまでも『現在の時点』での僕の見解にすぎません。
そのため「理解不能な戯言」と思っていただければと思いますが、追及や探求を好む人には何らかの参考になるのではないかと思います。

僕は「全ての存在は『大いなる愛』の中に存在している」と思っています。
『大いなる愛』は、別の表現として『大いなる神』という表現にもなると思います。

そして、そこからさらに追及すると『大いなる愛』もしくは『大いなる神』とは、結局のところ『超自然』になるのかもしれません。

『愛の向こう側』という表現については、意識的に「愛を大切にしよう」と思い続ける限り、『自然』では無く『不自然』な状態だからです。


ですから「愛を大切にする」ということは当然の状態であり、「愛を大切にしている」ということが『愛の向こう側』の『前提条件』です。

たとえば『挨拶』というものがありますが、子供時代は「人との交流では挨拶をしっかりしなさい」と教えられると思います。
そして子供は「人との交流では挨拶はしなくてはいけないもの」と覚えて、挨拶を心がけるようになると思います。
ただし「挨拶はしなくてはいけないもの」と意識している状態の時は、不慣れや緊張を含めて『不自然』な状態かもしれません。

しかし最初は不自然な状態だとしても、繰り返すことによって「挨拶は自然と身につくようになっていく」はずです。


そして大人になる頃には『よほど礼儀知らず』で無い限り、人との交流では『自然』と挨拶を交わすようになっていると思います。

その段階までなっていれば「挨拶をしなくてはいけない」という状態ではなく、「どのように挨拶をすれば相手に気持ちよく感じてもらえるだろうか?」などと、相手に対しての『気遣い』ができるようになっているかもしれません。

つまり「挨拶をしなくてはいけない」という意識が「もはや当然」の状態となった時に、自然と挨拶ができるようになり、少しずつ『次の段階』が理解できるようになってくると思います。

また、「愛を大切にする」という意識が「もはや当然」となった時に、自然と愛を大切にするようになり、少しずつ『次の段階』が理解できるようになってくると思います。

ちなみに「神の存在」や「愛の存在」を意識することはとても素晴らしいことだと思います。

なぜならば意識をすることで、自分自身に必ず何らかの『変化』があるからです。


しかし『意識』している時は『不自然』な状態です。

ですから『自然』な状態として身につくまでの『練習』のような段階なのかもしれません。

ちなみに本来であれば『愛』や『神』や『超自然』などは、あえて知る必要も無いですし、学ぶ必要もないことだと思います。

なぜならば一切何も学ばなくても「自然とやっている」という人もいるからです。

 

むしろ何も学ばなくても、愛に沿った生き方をしていることが『本来の人間の姿』だと思います。

そもそも僕は「あえて愛を意識しないと愛を大切にできないような状態だからこそ、愛を学ぼうとしている」だけにすぎません。
また、僕の場合は『本来あるべき自然な状態』では無いからこそ、「本来の状態に戻ろうとしているだけ」だと思います。

つまり自分自身が『未熟』だからこそです。


たとえば田舎暮らしをするとわかりますが、『農家』の人は『大自然』と共存して活動しています。
野菜の出来は『天候』に左右されますので自然の恵みに感謝をしながら、自然の怖さも知っているはずです。
さらにお墓参りを含め、ご先祖様に対する感謝を忘れないと思います。
また、周囲の人と仲の良い関係を築き、豊作であればお互いで食材を無償で提供し合い、周囲の人に様々な施しをします。
そして家族と仲良く協力しながら暮らしています。

おそらくですが、農家の人は「愛を大切にしましょう」などと『特別』に教えられたことはないと思いますし、「愛を大切にしよう」などの『意識』は全くしていないはずです。
また、自然と調和しながら生活しているわけですから、『本来在るべき人間の姿』に一番近いのではないかと思います。

 

ですから「自然に身についている人はあえて何も学ぶ必要が無い」わけです。

正直なところ現在の日本国内では「農家の人の立場は弱い」と感じます。

肉体労働のため大変な仕事なのに、『収入面』の問題などでは「世間からは低く見られがち」かもしれません。

また、苦労の割には割に合わない仕事だと思いますし、投資家などの方が大金を稼げるはずです。

しかし現代の人間社会は「大切なものを見失っている」と感じます。

社会的に成功したり、大金を稼ぐことに必死になることは、『人間の本質』を見失うだけにすぎません。

 

ちなみに最近は「のんびりと田舎暮らしがしたい」と都会を離れる人も増えているようです。

人間社会の居心地の悪さを含めて「私が求めている世界と何かが違う」と心のどこかで気づいている人が増えているからこそかもしれません。

 

そのため農家の人や、自然と調和しながら活動している人の方が『本来あるべき人間の姿』ともいえますし、「人間としては最も素晴らしい」と思います。
また、わけのわからない神様を信仰する宗教家や信仰者たちより、よほど「天から救われる」と思います。

ですから『思いやり』や『感謝』などが自然に身についている人は「そのままの状態ですでに素晴らしい」ということです。

 

ただし、「全ての人が農家になるべき」というわけではありません。

『見本』としては素晴らしいと思いますが、その人それぞれの『役割』があるからです。

 

また、『縄文時代』のような状態に戻るような必要はないと思いますが、人間は『大自然』に囲まれた状態で『自給自足』の生活をのんびりしながら、周囲の人と助け合う環境の方が「よほど幸せになれる」かもしれません。


ちなみに『超自然』というのは、僕が勝手に名付けた『独自の表現』です。
「全てに対しての自然な働き」という意味を込めて『超自然』と表現しますが、あくまでも『概念』のようなものです。

自然の働きは「在るけど無い」という状態であり、「無いけど在る」という状態だと思います。
そのため『わかりやすい証拠』は用意できませんし、証明したくても証明できません。

なぜならば『自然』の働きは自然そのものであり『自然』だからです。
しかし『自然』に少しでも違和感が生じた場合は『不自然』になってしまいます。

ですから、『自然』は常に完璧な状態で『自然の働き』を絶え間なく続けていますので『証拠』を用意することができません。

ただし、僕は神や愛を追求しているうちに、自然の働きが「在る」ということ気づきました。

『何もない空間』から「在る」に気づくためには、『唯物論』などの物質主義の人には理解が困難かもしれません。
なぜならば物質的には「何も無い」からです。
物質を構成する最小の単位の『素粒子』もありませんので、科学者などがどれだけ探っても「証拠は何も見つからない」という結果になると思います。

超自然は『物質』も『空間』を含めて全てが統合されており『完全にひとつ』の状態です。
そのため「何もないが『在る』とわかる」という感覚的な判断でしかできないと思います。

そしてもし感覚的にわかるようになればですが、超自然の『姿』が少しずつ見えてくるのかもしれません。

【現象世界と仮想世界について】

『超自然』については説明が困難ですが、たとえば『インターネットの世界』のような状態をイメージしてもらえるとわかりやすいかもしれません。

『インターネット』は人間が構築した世界です。
そのため、ごく稀に『エラー』や『システムトラブル』などの障害が発生することがありますが、インターネットという『システム』の中の世界であれば、基本的に『自由』に活動することが可能です。

そしてインターネット上には『膨大な情報』が存在しており、世界中から集まった情報の中から『検索』もできますし、情報の『書き込み』や『削除』も可能です。

ちなみに『インターネットの歴史』は諸説あるようですが、1960年後頃から研究が開始されたらしく、1980年頃から本格的に動き始めているようです。
そして1990年頃以降は急激に進歩し、現代の人間社会では「インターネット環境は必須」のような状態となっています。

世界中で毎日多くのユーザーがインターネットを利用しているため、インターネットの世界は常に拡大されており、もはや規模が把握できないほどの『超巨大な情報空間』になっています。
また、インターネットの影響で「人間社会は良くも悪くも激変した」と思います。

オンライン上で世界中の人と様々なやりとりが可能ですし、知りたい情報があれば検索によって追求できます。
日常生活の様々な面で便利になりましたが、様々な人間トラブルや犯罪も増えたと思います。
そのため人間社会を含め、『現実世界(現象世界)』にも大きな影響を及ぼしています。

インターネットが普及したことで人間社会の進化は急激に加速し、「おそらく通常の進化スピードと比べると数十年間分の時間が早まった」と思います。
プラスに考えれば素晴らしいことですし、さらに流れは加速するはずです。

しかしマイナスに考えれば「流れに呑まれ、流されるだけの人が増えた」と思います。
さらに「人間社会は止まる機会を失った」のかもしれません。

たとえば『ブレーキ(減速)』の存在を忘れて、『アクセル(加速)』を踏み続けた場合、『事故』が発生するまで『停止』することはできません。

『進化』を常に望むことは大切なことだと思いますが、未来を見通して「止まることを選択する」ということに気づくことも『進化』ではないかと思います。
それは「冷静な判断を取り戻す」ということですが、加速を緩めた時に『新しい選択肢』が見えてくると思います。

しかしおそらくですが、人間社会は「止まる」という選択肢は『問題外』の状態だと思います。

ちなみにインターネットの利用者は、「インターネットは誰でも自由に利用できるので、私も利用している」という状態だと思います。

誰でも気軽に利用できることが魅力ですが、「インターネットはどのようなシステムで動いているのか?」という『仕組み』などは基本的に知らない人がほとんどではないかと思います。

たとえば僕は『プログラミング言語』などを全く知りませんが、インターネットは問題なく利用することができます。

つまり『超巨大な情報空間』を動かしている『裏側のシステム』については全く知らなくても、インターネットを利用することは可能ということです。

ちなみに人間は『現実世界(現象世界)』で人間として活動しています。
ただし、おそらくですが『この世界(現実世界)』に対して何も疑問を持たずに生活していると思います。

その状態は、インターネットの利用者が『インターネットの世界』に対して特に疑問を持たず利用している状態と同じかもしれません。

何を伝えたいのかといいますと、人間は『現実世界(現象世界)』を動かしている『裏側のシステム』の存在については「詳しく知らない」ということです。
たとえば「地球は回転している」や、「重力が存在する」や、「水と酸素がないと人間は活動できない」などは知っていると思いますが、それは『現象』であり『裏側のシステム』ではありません。

そもそも「完璧なシステムであればあるほど違和感を感じることがない」と思います。
だからこそ人間は『裏側のシステムの存在』に「全く気づけない」のかもしれません。

たとえば人間は『顕在意識』で日常生活の活動をしていますが、実は『潜在意識(無意識)』の側に無意識的にコントロールされている状態です。
精神世界などに関して興味がある人は「潜在意識の存在を知識として知っている」と思います。
しかし興味がない人は生涯知らないままの状態かもしれません。

実際のところ『顕在意識』と『潜在意識』の存在を全く知らなくても、『人生』においては大きな問題はありません。
しかし『知識』として知った人は、考え方や価値観が変わるため、『人生の歩み方』が大きく変化するのではないかと思います。

つまり人間は、知らなかったことを「知る」ことで、良くも悪くも『大きな変化』を起こすのだと思います。

『個人』の視点では「私は理解した」程度だと思いますが、個人の変化は『世界全体』に変化を及ぼすことになります。
なぜならば『全てはひとつ』で繋がっているからです。

たとえば水面に水滴を落とすと全体に『波紋』が拡がります。
それと同じように『個人の意識』は世界全体に影響を及ぼすことになるはずです。

インターネット上に何気なく『言葉』をひとつ書き込んだとします。
その『言葉の存在』は、世界中で『書き込んだ自分だけ』しか知らないかもしれません。
しかしインターネット上に存在する『超巨大な情報空間』には「確実に変化を及ぼした」ということです。
なぜならば『書き込む前』と『言葉を書き込んだ後』では、『言葉が在る』という変化が起きているからです。

そのように考えますと、『全ての存在』は『全て』と繋がっているため『世界全体』と無関係ではありません。
人間の視点では「私が知らない場所の出来事や変化に関しては、私は一切無関係」と思うかもしれませんが、「それはあり得ない」ということです。

ちなみに『裏側のシステム』の存在に何となく気づいた人が『理論』として伝えようとしていることが『量子力学』『波動力学』という分野になるのかもしれません。

僕は量子力学や波動力学などの専門家ではありませんし、研究者でもありませんので、詳しい内容は全くわかりません。
しかし、おそらくですが僕が伝えようとしている『超自然』と、科学者たちが研究している『量子力学』や『波動力学』は似たような内容になると思います。

科学者は『物理的な法則』などの『確かな答え』を求めがちなため、不確かな『神の存在』を認めないかもしれません。
そして「神の存在など非科学的でしかない」と一蹴する可能性が高いです。

しかし僕の経験上でわかることは『神の存在』を追求すれば、『科学』が伝えようとしていることが感覚的に理解できます。

科学者たちは『科学』を追求すればするほど、少しずつ『神の存在』に触れることになるはずです。
皮肉なことですが、「神を否定する科学者たちが、神の存在に実は一番近づいている」ように感じます。
むしろ必死に神を信仰している『宗教家』たちより、科学者の方が神の存在に触れていると思います。

ちなみに「鶏が先か、卵が先か」という哲学的な問題があります。

科学者や研究者がしようとしていることは、自然界に『もともと在る存在』を必死に証明したり、発見しているだけにすぎません。
『もともと在る存在』とは自然に存在する『存在』ですから、『自然』が答えであり、無理に答えを探せば探すほど、『不自然な答え』になっていくはずです。

インターネットの世界は『プログラム』の働きで常にシステムが動いています。

それと同じように、『現実世界(現象世界)』を常に動かしているものが『超自然』の働きということです。

ちなみに映画『マトリックス』では、『現実世界(現象世界)』は『マトリックス・コード』と呼ばれるデジタルの雨のような『大量の文字情報』で構成されていました。
視覚的にわかりやすい素晴らしい表現だと思います。

『現実世界(現象世界)』も似たような状態だと思います。
なぜならば人間が創造したものは『思い(想念)』という『情報』が必ず込められているからです。

人間は『様々な情報』を常に認知、判断して、『選択』と『決定』と『創造』をしているだけにすぎません。
つまり「現実世界(現象世界)は情報の集合体でしかない」ともいえます。

また、自然界に関しては『完璧』な状態で常に動いていますので、『全て』は「完璧なシステムの中に存在する」と思います。

ちなみに映画『マトリックス』の中では、「全ての存在の動きは完璧にプログラムされており、マトリックスというシステムの中に存在する」という表現でした。
そして『致命的なプログラムのエラー』を放置しておくと、「マトリックスというシステム全体がクラッシュして、全人類は滅亡する」という内容の物語でした。

映画はあくまでも『フィクションの世界』ですから』「映画と全く同じ展開」とはいいません。
しかしもしかしたらですが、人間が活動している『現実世界(現象世界)』も似たような状態になっているのかもしれません。

参考情報ですが「人間は現実性のあるシミュレーションの中で生きている可能性がある」という『シミュレーテッド・リアリティ』という考え方が実際に存在します。
「事実の可能性も否定できない」ということで議論されているようです。

正直なところ僕も「人間は何らかのシミュレーションの中に存在している」と感じていますので、完全には否定できません。
むしろ「否定どころか納得できることの方が多い」のですが、もしシミュレーションの中だとしても「人間には事実の確かめようがない」ですし、あくまでも趣味的な考察にすぎません。

余談ですが、僕は約20年前に「インターネットの世界はどうやったら崩壊させることができるのだろう?」とたまに考えていました。

当時の僕は「同時刻に一斉に世界中のインターネットの拠点を破壊する」という答えが思いついたのですが、現実的にはおそらく『不可能』です。
「20年後の現在はさらに不可能な状態になった」と思います。

ちなみに「なぜインターネットの崩壊の方法を考えていたのか?」といいますと、人間社会の組織の作り方の定番だった『ピラミッド構造(トップダウン手法)』の崩壊を感じていたからだと思います。

「インターネットの世界の崩壊は困難」です。
ですから「崩壊しない構造はどのようにすればいいのだろう?」とインターネットの世界を見本にして『ヒント』を探っていたわけです。

人間社会が好みがちな『トップダウン手法』は上層部から下層部に指揮がとりやすいため、「組織作りには向いている」と思います。
『トップダウン手法』は『上意下達』などとも呼ばれますが、『上司』が部下を育て、『育てられた部下』はさらに新しい部下を育てるような状態を繰り返すことによって、『組織』が巨大化していきます。

そのため『トップ(頂点)』の意向を上層部から下層部まで統一しながら、『組織全体』を巨大化させていけることが一番の利点です。

また、トップダウン手法が順調に機能している場合は、下層部からの働きによってトップを含めて組織全体を支えるという『ボトムアップ手法』の働きも機能します。
『ボトムアップ手法』は『下意上達』などと呼ばれますが、バランスがとれている組織は『トップダウン(上意下達)』と『ボトムアップ(下意上達)』を併用していると思います。

上層部から下層部に拡がるような組織形態は『三角形』のような状態となり、『ピラミッド』のような構造になっていきます。
一見すると「土台部分がしっかりしているため崩れにくいシステム」という印象を受けるかもしれません。

しかし人間社会の場合、『社長(トップ)』や『上層部』が突然倒れた場合は『指揮官』を失い、一瞬で『下層部』の統率が消える可能性があるわけです。
たとえば『後継者』の育成を大切にしていなかった場合、後継者不足となり組織の維持が困難になります。
また、企業の場合『資金』の不足や『借金』によって、組織全体が一瞬で崩壊する可能があります。

つまり人間社会の定番の『トップダウン手法』は、実は先端の『トップ』が、底辺の部分を支えているような『逆ピラミッド』の状態です。
そのためトップのバランスが崩れた瞬間に、『組織』というピラミッド全体が倒れて崩壊する可能性が高いシステムです。

ちなみに現代も人間社会ではトップダウン手法が主流だと思います。

事実として『組織作り』には向いている方法だと思います。
そして『組織』や、『他者』に依存する人には向いているシステムかもしれませんが、天災の増加を含めて「現在は何が起こるか予測不能」な状態になっています。
そのため組織に依存しているだけであれば、突然の崩壊に巻き込まれる可能性もあるわけです。

全ての人が『独立起業』をする必要はありませんが、これからの世界は自分自身の存在を『独立』させて活動することが大切だと思います。
そしてそれぞれの『個人の活動』の影響によって、『周囲の存在』が活性化するような流れが理想的です。

世界中にインターネットの拠点はどれだけ存在するか不明ですし、全ての拠点を破壊するのは不可能だと思います。
そのためインターネットを崩壊させるためには「地球を破壊する」、「世界中で電気を一斉に止める」、「端末機を全て使用不可能にする」、「人類を絶滅させる」のどれかになりそうです。

ただし、実際にはインターネットを崩壊させたいわけではありません。
あくまでも崩壊しない構造のヒントを知りたかっただけですが、僕の結論として「拠点を無数に増やせば崩壊しない」と思いました。

『拠点』とは、組織作りではなく『個人の活動』です。
『個人』が活動すれば、周囲に自然と人は集まってきますし、自然と『コミュニティ』が発生するはずです。
コミュニティとは『共同体』や『地域社会』です。
つまり無理に組織作りをしようとしなくても、自然と『共同体』が増えるということです。

そしてコミュニティの中で上下関係などの組織形態が誕生するかもしれませんが、そもそも「組織形態が駄目」というわけではありません。
組織形態にも利点があるからです。
そのため、『自然の流れ』で組織のような形態が誕生するのであれば『ひとつのカタチ』として面白いのではないかと思います。

ただし、「個人の活動は自由に好き放題にするべき」というわけではありません。
人間が好き放題に活動すると『人間同士の争い』が多発する可能性があるからです。

ですから個人の活動は『自由』にするべきですが、『統一意識』だけは大切に守るべきです。
統一意識は『愛』になりますが、愛を大切にして活動すれば、『自然』と調和されて、バランスが保たれるはずです。

ちなみに僕が伝えようとしている『超自然』は、『愛』の性質であり『神』の性質ともいえますので、「全体のバランスが完璧な状態で自然と調和されている」と思います。

しかし『インターネットの世界』に関しては人間が構築した世界です。

『超巨大な情報空間』として常に拡大を続けていますが、内部のバランスは『無秩序であり混沌の状態』です。

なぜ情報空間が混沌としているのかといいますと、インターネットを利用する『人間』が自由に情報の書き込みしているからです。
『任意』でモラルを問われるだけで、『好き放題の書き込み』を許されているかぎり、「インターネットの世界は混沌が激化していくだけ」だと思います。

たとえば『本当』と『嘘』の情報が入り乱れていますし、『他者』を攻撃するためにインターネット上に書き込みをする人も絶えません。

もし書き込みを統制する場合は、『言論統制』をするだけであり、表現の自由を奪われます。
しかし言論統制をされた場合、今度は『言論統制をされていない場所』を探して情報の書き込みをする人が多いと思います。
つまり、言論統制をしたところで「人間は様々なことを自由に思想する」という『根本的な問題』は何も解決しません。

そもそも何が『原因』かといいますと、人間が構築した世界は『不完全』であり、『愛』という統一意識が不足しているからこそかもしれません。

ただし「愛のない人は書き込み不可」などの状態であれば、インターネットが世界中で急激に発展することも無かったと思います。
また、プログラム的に『愛の有無の判断』は困難だと思いますので、仕方ない面もあると思います。

ひとつだけわかることは「インターネットという巨大な情報空間の中では他者との調和を考える必要性が用意されていない」ということです。
せいぜい「相手のことを考えての書き込みですか?」と表示される程度かもしれません。

ただし「悪意のある書き込みをしたら、自分自身に悪意が跳ね返ってきます」というシステムであれば、書き込みの内容をよく考える人が増えるのではないかと思います。

ちなみに『超自然』には「自分の状態や行動が、自分自身に自然と返ってくる」というシステムが組み込まれていると感じます。

知らないままでも人間は生涯を終えることはできます。
しかし「だからこそ人間は早めに知っておいた方がよいのではないだろうか」と思うのです。

『【未完】言葉と祈りと愛について 7』につづきます。