『【未完】言葉と祈りと愛について 4』のつづきです。
補足情報として『救世』の記事も参考になればと思います。
 

【愛の奉仕活動】

様々なことをお伝えしていますが、「どうしたらよいのかわからない」という人もいるかもしれません。

そもそも愛に関しては「100%の正解はない」と思います。
また、人間は生涯を通して愛を学ぶわけですから、むしろ「わからないことが多くて当然」だと思います。

その場合は「自分の存在を活かして、相手を最も輝かせる方法」を大切にしながら活動されるとよいと思います。
「自分自身を活かす方法を考える」ということは、自分自身と向き合うことになり、自分自身の学びと成長の機会になるはずです。

たとえば自分自身では愛のつもりでも、場合によっては相手のことを傷つけたり、相手の成長を妨げるなど間違ったことをすることもあるはずです。

だからこそ真剣に悩み、様々な経験を増やして、常に自分自身を成長させることが大切だと思います。
その繰り返しによって『自分の器(光)』を大きくしていくことになると思います。

自分の光の輝きが大きくなればなるほど、相手の光を輝かせることができるようになると思いますし、自分自身もさらに成長していけると思います。
このことを伝えているのが『愛の光』という記事になります。

ただし、難しく考える必要はありません。

そもそも『小難しいこと』には興味がわかないと思いますし、「面倒」と感じるようなことはなるべくやりたくないのが人間だと思います。
『向上心』は大切にするべきですが、『マスター(師範)』などの至高の領域は『修行』や『自己鍛錬』が趣味のような人しか目指さないと思います。

また、おそらくですが「私は普通に暮らしたいだけ」という人が大半だと思います。
ですから「必死になって至高の領域を目指しましょう」と伝えるつもりは全くありません。

むしろ日々の幸せを感じながら、家族で仲良く普通に暮らすことが一番理想的な人間の姿だと思います。
ですから、『修行のようなこと』をあえてする必要はありませんし、普通に暮らしながら、愛に意識を向ける機会が少しでも増えればと思います。

ちなみに「自分の存在を世のために活かす」ためには『自分軸』を大切にしながら『周囲の存在』にも目を向けるべきです。


たとえば誰もいない世界の中で「私は凄い存在なんだ」と、どれだけ自画自賛しても『意味』がありません。
ひとりきりで『自己満足』に酔えるかもしれませんが、酔いが醒めれば「虚しさだけが残る」と思います。
つまり、誰もいない世界では『自分の存在』を誰にも理解してもらえませんし、「自分の存在の活かしようが無い」わけです。

しかし地球上には大勢の人間がいます。

また、様々な動物や生物などの存在、そして大自然に溢れています。
そのため自分ひとりだけの世界ではありません。

むしろ『自分の存在を活かせる大きな舞台』が用意されているわけです。

せっかく自分の存在を活かせる舞台が用意されているわけですから、『自分自身のため』にも、自分の存在を活かすべきだと思います。
なぜならば『自分の存在』を他者や世界のために活かした時にこそ、「自分の存在が活きる」ことになるからです。

そして『自分の輝き』を活かして、他者や世界がさらに輝いた時に、「自分の存在を活かすことができた」と自分自身も活きた喜びを感じると思います。
それは結局のところ「最も自分自身が輝く方法」だと思います。

人間の本質は『愛』であり、『愛の光』だと思います。
また、全ての存在の本質も『愛』であり、『愛の光』です。

ですから自分自身の『愛の光』を活かして、「周囲を最も照らす方法」を考えながら活動しますと、周囲の『愛の光』は輝きを増し、自分自身の『愛の光』がさらに輝くと思います。
そしてそれぞれの『愛の光』が輝きを増すと、愛の光によって世界全体が照らされ、世界全体が『大きな愛の光』に包まれていくことになると思います。

たとえば夜空を見上げますと、『星』が全く見えない無い時は『闇』に包まれています。
しかし無数の星が輝いている時の夜空は、とても美しく輝いて見えると思います。

また、星は無数に存在しながらも『他の星』を邪魔することなく輝いています。
それぞれの星がそれぞれ輝きを放つことによって『夜空全体』を美しく彩るわけですが、『本来あるべき世界の姿』とはそのような姿なのかもしれません。

【自己犠牲は無償の愛とは違う】

キリスト教では愛に関して『アガペー』の大切さを伝えています。
説明としては下記のようになっています。

【アガペー】
キリスト教における神学概念で、神の人間に対する『愛』を表す。
神は『無限の愛(アガペー)』において人間を愛しているのであり、神が人間を愛することで、神は何かの利益を得る訳ではないので『無償の愛』とされる。
また、それは不変の愛なので、旧約聖書には、神の『不朽の愛』と出てくる。
新約聖書では、キリストの十字架上での死において顕された愛として知られる。
またキリスト教においては、神が人間をアガペーの愛において愛するように、人間同士は、互いに愛し合うことが望ましいとされており、キリスト教徒のあいだでの相互の愛もまた、広い意味でアガペーの愛である。

参考情報ですが、古代ギリシアには『愛』を表現する言葉が基本的には四つ存在するらしいです。

【古代ギリシア 四つの愛】
『エロース (性愛)』

『フィリア (隣人愛)』

『アガペー (自己犠牲的な愛)』

『ストルゲー (家族愛)』

『新約聖書』の中で『神の無限の愛』であり、人間に対して普遍的に提供される『愛』のことを表現するため選ばれた言葉が、ギリシア語の『アガペー』だったようです。
つまり言葉として『愛』を表現するために、『人間に選ばれた言葉』のようです。

 

そのため旧約聖書で伝えている『愛』と、新約聖書で伝えている『愛』は、性質が全く違う可能性があります。

なぜならば新約聖書は人間の解釈によって『改編』が加えられているため『本来の言葉の意味』が変わってしまっている可能性が高いからです。

特にキリスト教ではイエス様が十字架に磔になった影響で「神の愛とは自己犠牲」のような状態になっているのかもしれません。


さらに「人間は生まれながらに罪深い存在」というような状態で教えられています。
そのためキリスト教の信者は「自分の存在を責めがちになる」という傾向が強いのではないかと思います。

また、常に『罪悪感』を抱えるような状態になるかもしれません。

これは重要な問題に感じます。

むしろとても危険な思想だと思います。

なぜならば「人間は罪深い存在」と信じ、「自分の存在を責めがちになる」ということは、「自分自身を受け入れることができない」という状態を自分自身で延々と続けることになるからです。

それは結局のところ「自分の存在を自分自身では愛してはいけない」という洗脳になってしまい、『神の愛』からむしろ遠ざける危険性があるように感じます。


さらに「イエス様が救ってくださる」と信じることによって、「自分を救えるのは自分自身」という『自力』を奪う危険性もあるように感じます。

『全ての存在』は神から愛されています。
そのため人間は罪深い存在などではありませんし、常に人間も愛されています。


「罪深い」という概念は人間が教えた『洗脳』にすぎません。

人間以外の動物や、様々な存在のことを「神に愛される資格のない罪深い存在」などと感じるでしょうか?

たとえば道端で咲いている花に向けて「花は罪深い存在だから、花を咲かせることを常に自粛するべきだ」と思う人はいないと思います。
また、花に向けて「罪の意識を持って自分の存在を悔い改めなさい」と思う人もいないはずです。

そもそも花は、迷うことなく『花』として地上に存在して、自分の花を咲かせるだけです。

そして人間に関しても、生まれたばかりの赤ちゃんに対して「罪を背負った罪深い存在」などとは思わないはずです。
むしろ赤ちゃんに対して「罪深い存在」などと感じるならば、素直に愛を感じられない『思考』を悔い改めるべきです。

ですから「人間は罪深い存在」と信じているのは、ただの『妄想』であり、後から植え付けられた『洗脳』にすぎません。

僕はキリスト教の信者ではありませんが、キリスト教を教えている人達の『教え方』を参考のために視聴することがあります。
その際に必ず不思議に感じるのは「なぜキリスト教は神の愛から離れる方法を教えて、信者を間違った方向に洗脳しようとしているのだろう?」という疑問です。

宣教師などの『指導者』が聖書の解釈の間違いによって、信者に対して間違ったことを教え続けている可能性もあります。

しかし、もしかしたらですが「人類救済の道」と教えながら、実は「救済の道から人間が足を踏み外すような仕組み」が計画的に用意されているのかもしれません。
なぜならばキリスト教は『愛の本質』から離れる方法を教え続けているように感じるからです。

ちなみに聖書は大きく分けて『旧約聖書』『新約聖書』の二種類が存在します。

神と人間との『古い契約』の書が旧約聖書であり、『ユダヤ教』と『キリスト教』の聖典です。

ただしユダヤ教では『ヘブライ語聖書』『タナハ』という表現になると思います。


イエス様誕生後の『新しい契約』の書が新約聖書であり、『キリスト教』の聖典です。

旧約聖書を重視するユダヤ教にとっては、「イエス様を信仰するキリスト教は認めていない」と思います。
また、キリスト教はユダヤ教の旧約聖書をベースにしながらも、『独自の信仰』になっていると思います。
独自の信仰になったということは「教えも変わっている」ということです。

さらに新約聖書は後代の人々によって『改編』や『加筆修正』されているという説もありますので、継ぎ足された部分に『計画的な仕組み』が組み込まれた可能性があるのではないかと思います。

ちなみにキリスト教ではイエス・キリストの再臨であり、キリストの復活を願っています。
そして信者も「その時」を待ち続けているようです。
しかし、おそらくですが「その時」が実際に訪れた時に一番困るのは「実はキリスト教」です。

なぜならば「キリスト教が崩壊する」からです。

そもそもの話ですが、現代にイエス様が復活した場合、「私が再臨のイエスです」と伝えても全く認められないと思います。
おそらくですが「本物のイエス様であれば証拠を見せてみろ」や「奇跡を起こしてみろ」という展開になるだけです。

ちなみに『自称イエス・キリスト』のような人は世界各地で数多く登場していますが、「あくまでも自称の偽者ばかり」となっています。

余談ですがユダヤ教では『メシアの条件』というものが詳しく定められているようです。
かなり細かく条件が定められているようですが、メシアが登場した場合に『本物のメシア』を絶対に間違わないように『様々な条件』を後から人間が『追加』したようです。
むしろ様々な条件を勝手に追加したことで、『条件の完全な該当者』を見つけることが不可能になっただけかもしれません。

しかしキリスト教では「イエス様が登場したメシア」となっています。
つまり「メシアはすでに登場している」ということで『メシアの条件』がありません。
「条件がない」ということは、「本物と偽者の確かめようがない」ということです。

冷静に考えますと、キリスト教は「誰が登場しても偽者扱いにできる」ということになります。
また、様々な奇跡を起こすことができるような『超人的な能力者』でない限り、基本的には偽者扱いをされて全く相手にされない可能性が高いと思います。

なぜならば「イエス様は奇跡を起こせる人」のようなイメージになっているからです。


そもそもイエス様は約2000年前に亡くなっています。

そのため、人間として活動していた時のイエス様の『顔』、『姿』、『声』は誰も知らない状態です。

霊能力者などには『霊的な存在のイエス』様と会話したりする人もいるようですが、あくまでも霊的な存在ですから『不確かな存在』です。
場合によっては「イエス」や「サナンダ(イエスの別名)」と名乗っているだけの『怪しい霊的な存在』に騙されている可能性もあります。

ですから本物の『イエス・キリスト』を誰も知らないのに、信者は『再来』を待ち続けているわけです。
「一体誰を待ち続けているのか?」という根本的な問題こそ、キリスト教に仕組まれている『根本的な問題』だと思います。

ちなみにキリストの復活は『王の帰還』ともいえますが、カトリックの総本山は『バチカン』です。

キリスト教であり、バチカンには『キリスト教の頂点の存在』となっている『ローマ教皇』が常に君臨しています。
つまりキリスト教には、すでに『人間の王様』が存在するわけですが、もし『本来の王(キリスト)』が帰還すれば、ローマ教皇を含めた、人間の権力者たちは、『王の座』を喜んで明け渡さないといけません。

本来の王が帰還すれば、「王であるキリストが人間に直接指導することができるようになる」わけですから、既存の『キリスト教の教え』は不要になります。
「キリスト教の教えが不要になる」ということは、既存のキリスト教は崩壊するということです。

純粋な気持ちのキリスト教の信者の人は、イエス様の再臨や、キリストの復活を心から願っているかもしれません。
しかし世界中に大勢の信者を抱えるキリスト教にとっては『不都合な出来事』だと思います。

ですから「王が絶対に帰還できない仕組み」が、キリスト教に計画的に仕組まれている可能性が高いです。

そして、キリスト教にはもうひとつ『強力な仕組み』が用意されています。

僕が思うに『最強の手段』とは、『嘘つき』が「私の存在こそ本物であり、他の存在は嘘つきしかいないので注意しなさい」と『先手』を打つことです。

この手段を『最初』に仕組まれてしまいますと、後から登場する存在は「全て嘘つき」の扱いになります。
厄介なことに「他の存在からの言葉は全て嘘」という状態になるわけですが、とても強力な『防御策』であり、強力な『洗脳の方法』だと思います。


ちなみに新約聖書を含め、キリスト教に『異論』を持つものは『反キリスト(悪魔の具現化)』として扱われます。

たとえば僕はキリスト教について「キリスト教は愛の本質から離れる方法を教え続けているように感じます」と伝え、その『原因』について考察しています。
しかしこのような行為をする者は「反キリスト」や「悪魔の使い」として一蹴されてしまい、全く相手にされません。

「僕は悪魔の使いなのか?」となりますと、僕自身としては「愛から離れず、悪魔に騙されないように注意しましょう」と伝えているだけにすぎません。

そもそも聖書を含めてキリスト教はとても素晴らしいことを伝えていると思います。

特に他の人々を助ける行為となる『隣人愛』の『愛』は学ぶべきことが多いと思います。

 

たとえば「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という教えは愛の本質を伝えていると思います。


ですから「信仰の全てを否定をするつもりはない」のですが、キリスト教の教えの『一部分』は用心した方が無難と感じます。

正直なところ盲信しているキリスト教の信者の人たちの未来が心配です。
なぜならば信者の人たちは『終末の時』まで気づかないままの可能性が高い気がするからです。
また、助言を伝えたとしても「あなたは悪魔の手下だから去りなさい」と全く相手にされないと思います。

このやり方は『悪魔』『悪霊』などがよく使います。
たとえば悪魔の側が「私は神」と名乗り、「私の教えこそ神の言葉であり、他の教えは悪魔の教えだから注意しなさい」と『先手』を打ってきます。
言葉を信じた人は「神(悪魔)の教えを絶対に守らないといけない」となってしまい、他者の声に耳を塞ぐようになります。
また、「私だけが本物で、他は全て偽者」などと教える場合もあると思います。

『支配』であり、『洗脳』の方法ですが、先手を打たれることはとても厄介です。
違和感を感じる人であれば「何かおかしい」と見抜けるかもしれませんが、見抜けない人は騙され続けるかもしれません。

特にこの方法を『信仰心』に絡めるとさらに厄介です。

なぜかといいますと「神に少しでも疑念を抱くのは私自身の心が間違っている」と自分自身を責めるようなるからです。
そしてその結果「神のことを疑うことなく、もっと神のことを信じなくてはならない」と自分自身で強く思い込むようになり、洗脳が強固になっていきます。

ちなみに2020年の時点で日本国内のキリスト教の信者数は全体で190万人程度のようですが、全世界だと20億人を超えるようです
これだけの信者数を抱えているわけですが「キリストが復活したらキリスト教が一番困る」というのは、とても皮肉な話です。

そしてカトリック信者数は約13億人程度のようですが、『不都合な出来事』が実現した『その時』にローマ教皇や、バチカンがどのような判断をするのか興味深いです。
また、ユダヤ教やイスラム教も『その時』が訪れた時に、どのような判断をするのか興味深いです。

なぜならばキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の信仰している神様は『同じ存在』だからです。

そのため最終的には、信仰は『ひとつ』にまとまることになるはずです。
むしろその流れが達成しない限り、宗教問題の争いは絶えず「世界は分離したまま」になってしまいます。

あえてキリスト教の話をお伝えしたのは「無償の愛とは自己犠牲」のような状態になっているのは、キリスト教の影響が強い可能性があるからです。

ちなみに『本来の自己犠牲』とは『神との結婚と不倫』の記事の中で書きましたが、「愛を大切にすると決めたら、愛から離れず、愛に従い、自分自身が愛そのものとなって生きる」ということです。

 

人間は肉体を持っていますので、肉体側の『欲望』を重視しがちです。

しかし『欲望』に従うのではなく、『心』や『愛』を大切にして「愛に従う」と『覚悟』を決めることが大切です。

 

そして『肉体主従』の自己の状態を放棄して、『愛を主従する生き方』に変わるために、『自己』の状態の変化として『自己犠牲』になります。

 

ただし、肉体が死ぬわけではありませんし、『肉体の状態』は何も変わりません。

あくまでも『自己』の意識変化です。

つまり、『自己犠牲』とは、「人間が愛に従うために肉体を捧げることで、愛と『一体』となり、神の愛に包まれて、愛と共に活動できるようになる」ということです。

 

ちなみに『般若心経』の自己犠牲とは「自己を放棄する」ことで、「自我を捨て、無我になる」と伝えられているようです。

 

僕自身は「般若心経には悟りまでの道が説かれている」と思っていますし、般若心経の『意味』を理解できれば悟りまで至れるはずです。
また、悟りに至れば自我を捨て、自己を放棄することは可能になります。

しかし大切なことは「自我を捨て、自己を放棄した向こう側」です。

 

それはどのような状態かといいますと、「自我を捨て、愛になる」ということですが、究極的にいえば『本来の自分』であり『自然(自然体)』になるということだと思います。

 

様々な自然を眺めればわかりますが、「自然は自己犠牲などしなくても愛に溢れている」からです。


「人間は罪深い存在ではない」ですし、常に神に愛されています。

しかし肉体側が欲望を求めるからこそ『不自然な状態』になりやすい性質を持っている気がします。


【無償の愛と有償の愛について】

キリスト教は『宗教』ということもあり『神』という概念が強くなっていますが、キリスト教に関係なく「愛について」を学ぶと『アガペー』という言葉が登場することが多いと感じます。
その場合のアガペーとは『無償の愛』という意味になります。
『アガペー(無償の愛)』を簡単に説明しますと「相手からの見返りや利益を求めずに、無償で与える行為」という意味になると思います。

そして『アガペー(無償の愛)』の逆になるのが『エロース(有償の愛)』とされています。
『エロース(有償の愛)』を簡単に説明しますと「相手からの見返りや利益を求めた有償の行為」という意味になると思います。

表現が適切ではありませんが、凄く簡単に説明しますと『アガペー(無償の愛)』は見返りを求めない無料奉仕、『エロース(有償の愛)』は見返りを求めた有料奉仕というイメージだとわかりやすいかもしれません。

人間社会では基本的に「愛とは一切見返りを求めない無償の愛が美しい」とされていると思います。
そのため『善悪』で判断するのであれば「アガペーが善」となり「エロースは悪」のようなイメージになっている気がします。

ただし、現代の人間社会の『実際の姿』としては「相手から利益から見返りを求めるのは当然」と思っている人が多い気がします。
そのため「無償の愛はあくまでも理想の姿」であり、実際に無償の愛を大切をしている人はかなり少ないかもしれません。

「愛について」の情報が少ないこともあり、昔の僕は「愛とは無償の愛であるべき」と思っていました。


ですから「見返りを一切求めず、自分が持っている物を無償で相手に与えるのが愛の姿」と信じて活動していたわけです。
しかしある時から「愛の本質的な姿とは違うかもしれない」と思うようになりました。

『無償の愛(アガペー)』は、自分の持っているものを無償で提供するわけですから『与える』という性質が強いと思います。

『有償の愛(エロース)』は、自分の持っているものを提供する際に『交換条件』として必ず見返りを求めるわけですから、『奪う』という性質が強いと思います。

ちなみに無償の愛は相手に『無償で提供する』もしくは『無償で与える』わけですが、その結果「自分自身は何が得られるのか?」と考えますと、『相手からの感謝』と『自己満足』なのかもしれません。
そもそも「完全に無償で与えること」を考えるのであれば、本来は「相手からの感謝も、自己満足も求めてはいけない」のかもしれません。

しかしながら無償の愛は、自分を犠牲にしてでも相手に与えるという『自己犠牲』の精神も含まれますし、人間の行動としては『美徳』を感じるのではないかと思います。
だからこそ「無償の愛は美しく、人間のあるべき姿」と思われるのかもしれません。

それに比べますと、有償の愛は常に見返りを求めた行為ともいえます。
「私に何かして欲しければ、あなたも変わりに何かください。無料で提供するだけでは私が損をします」という状態です。
無償の愛に比べますと、欲深く感じる印象がありますし、少なくとも「美しい行動」とは思えない気がします。

しかし人間社会では『交換条件』で成り立っている部分も多いので、決して間違った主張ではありません。
たとえば「私は会社で働きます。そのかわり働いた報酬として給料をください」というのは人間社会のシステムとしては当然の状態です。

もし無償の愛を貫くならば「私は一切無料で人間社会に奉仕活動をします」という流れにするべきだと思います。

しかし「仕事の給料については別問題」なのかもしれません。

また、「人間は無償の愛を大切にするべき」と思っている僕自身も、『現実問題』として日常生活のこともありますので、さすがに給料無しで会社で働かされることは避けたいです。

そう考えますと「無償の愛は理想的な姿」だと思いますが、「有償の愛の方が人間社会に向いている」ような気がします。


つまり『答え』が二つ存在するわけですが、単純に考えますと「場面に応じて使い分ければいいだけ」なのかもしれません。

しかし愛は本来『普遍的なもの』だと思います。
ですから場面に応じて使い分けたり、答えが二つ存在するということは「愛の本質とは何かが違う」のだと思います。

「それでは何が違うのか?」と考えたところ、『与える』と『奪う』という考え方が根本的に間違っているのかもしれません。

無償の愛は相手に『無償で提供する』もしくは『無償で与える』ことが基本とされています。
そして『見返り』を求めてはいけませんが、無償で与えることによって『相手からの感謝』と『自己満足』を得られるかもしれません。

しかしこの考え方が全く成り立たない場合があります。

「無償で提供しても相手から全く感謝されないことがある」ということです。

特に現代の人間社会は「無料で貰えるものは貰っておかないと損」と思っている人が多いと感じます。
むしろ「無料であればもっと欲しい」や、場合によっては「無料で貰っていくだけなのに、注文や文句を伝えてくる人もいる」わけです。

このような人たちは「自分からは相手に何も与えず、相手から奪うだけの人」と感じます。
さらに「それが当然」と思っているような状態のため、相手から奪うだけで『感謝の気持ち』も無いわけです。

少しでも「ありがとう」という感謝の思いを感じることできれば、無償で提供する側は「喜んでもらえたのであれば提供してよかった」と気持ち的に救われると思います。
むしろ「喜んでもらえたのであれば、また何か提供したい」と思う気がします。

しかし「無料だから貰っておこう」というだけで、全く感謝の思いがない状態であれば、無償で提供した側は『複雑な気分』になると思います。
おそらく悲しい気分になると思いますし、『人間の欲深い面』を知ることとなり、人間に対して嫌気を感じるかもしれません。

その場合、『自己満足』は得られないと思いますし、無償の愛を大切にして、無償で提供した側が、むしろ『精神的なダメージ』を受けるとすれば、とてもおかしな話です。

ただし、感謝などを求めると「見返りを求めることになる」わけですから、無償で提供する側は一切何も求めず「私がやりたいからやるだけ」という『覚悟』を持って活動するべきなのかもしれません。
覚悟があれば、たとえ感謝などが無くても「それでも仕方がない」と気持ち的に割り切れるからです。

しかしながら「それでも仕方がない」などの複雑な気持ちになるのであれば、「何かが間違っている」のだと思います。


愛の本質は『繁栄』だと思いますし、「気持ちが滅入るような状態は繁栄とは違う」からです。

そこでまず考えるべきなのは自分が持っているものを「与える」ということは、『補充』をしないかぎり、「いつかは尽きる」ということです。


つまり自分が持っているものを無償で与え続けるのは素晴らしいことのようですが、自分が持っている物が無くなった時に『自分が尽きる』ことになります。

愛の本質は繁栄することですから、「活動すればするほど自分が尽きていく」というのはあきらかに間違っていますし、場合によっては『自滅行為』です。

相手に無償で与えることで、相手から『感謝』が返ってくるのであれば、「気持ち的に自分自身も救われる」と思います。


しかし自分が与えるだけで、相手から何も返ってこない場合、「お互いのバランス関係が狂っている」のだと思います。

「与える側」と「奪う側」は関係性としては成り立っているように感じますが、実は関係性が成り立っていません。


なぜならば「与える」と「奪う」は性質が根本的に違うからです。

「与える側」は与え続けるだけですし、「奪う側」は奪い続けるだけです。
そのため「与えるもの」が尽きれば、関係性が終わります。
この状態では『繁栄』の関係が構築できるわけがありません。

関係性が成り立つとすれば、「与える側(提供)」と「与える側(感謝)」の関係が『向き合った状態』になることです。

ですから、無償の愛を大切にして、無償で提供するのであれば、「提供する側が相手をしっかり見極めるべき」なのだと思います。


なぜならば、奪う側は「奪うことに必死」な状態ですから、「気持ち的に向き合うことができない関係性」ということを提供する前に理解するべきなのかもしれません。


そもそもの話ですが、奪うことに必死な人は、『無償で提供する側の気持ち』などには全く興味が無いからこそ、『感謝』も感じないのだと思います。
無償で提供する側の『思い』や『気持ち』を理解するつもりはないと思いますし、欲しいものだけを奪って消えていくだけです。


「それでも私は無償で提供したい」と思うのは自由ですが、その際に考えるべきことは『自分軸』であり、『自分自身の気持ち』だと思います。
もし無償で提供することで、自分自身が悲しい気持ちになったり、自分の心が傷つくのであれば、「自分自身を大切にする」ことを選択するべきだと思います。

相手に無償で提供して、自分が尽きていき、さらに自分が精神的に傷つくような行為は『自己犠牲』としては美しい姿なのかもしれません。
しかし「本当に自己犠牲になるだけ」なので、『無償の愛』についての考え方を変えるべきなのだと思います。

「それでは無償の愛をどのように考えるべきなのか?」ですが、「与える」や「奪う」という考え方をまず止めることです。


ですから現代の人間社会で信じられている「無償の愛とは無償で与えること」という考え方を根本的に変えることになります。

「活きる」もしくは「活かすことができるのか」について注目します。

自分の存在を活かすことで、相手が活きる、もしくは活性化するならば、自分の存在を活かす。

これだけです。

つまり自分の存在を活かすことを大切にするわけですが、『選択権』は自分自身にあります。
「自分の存在を活かす」もしくは「自分の存在を活かさないか」だけです。

自分の存在を活かすことで、相手が輝くことができれば、結果的に相手から喜んでもらえると思います。
もし相手から喜んでもらうことができれば自分自身も嬉しいと思います。

そして相手から感謝されなくても、「自分を活かしただけ」ですから、自分自身が嫌な気分になることもないと思います。

ちなみに自分を活かすことは『無償』で自分自身を提供するような状態かもしれません。
しかし自分を活かすだけですから、自分が持っているものが減っていくわけでもありませんし、尽きることもありません。
また、相手から一方的に奪われ続けることもありません。

なぜならば自分自身だからです。

そもそも人間は本質的に「自分の存在を活かせること」を願っていると思いますので、自分を活かせることに喜びを感じるはずです。
また、自分自身を活かして活動している人は輝きが増していきます。
ですから、「もっと自分を活かしたい」と思えば、自由に自分を活かすべきですし、それが本来あるべき『無償の愛の姿』だと思います。

ちなみにギリシア語の『アガペー』は自己犠牲的な愛という意味のようです。
「無償で与える」だけであれば自己犠牲的な要素もあると思いますが、「自分を活かす」になれば性質が『真逆』になると思います。

愛を大切にするならば、お互いを活かし合う繁栄の道を目指すべきだと思います。
『共存共栄』であり、理想的には『共存活性』であるべきだと思います。

ちなみに『共存活性』という言葉は日本語に存在しませんが、「お互いの存在によって、お互いが成長できる関係」というイメージです。

『【未完】言葉と祈りと愛について 6』につづきます。