ひたすら寝てる人 たまに遠くへ行く
令和5年5月6日参拝宝珠のような稲穂のような、狐尾や胎児にも見える変わった神紋が目立っていたお稲荷さん。お祭りの後片付けかなんかで境内バタバタしてる中でのおまいりでした。周辺は城下町として発展した地域で、徳川四天王のひとり本田忠勝の屋敷跡と伝わる場所です。御祭神は倉稲魂神です。創建年代は詳らかではありませんが、かつてこの地は神宮御厨(神領)と伝えられており、古くは許免(こめ=お米の意味)社あるいは分器宇賀大明神と称し、第22代清寧天皇の御代に天竜河原開墾のために創祀されたといわれています。〝分器(ぶんき)〟という名称から、かつての度量衡や分配に関わる、周辺には計量や流通を司る拠点が置かれていたのかもしれません。式内許部神社と関連があるかも?そのような古〜い信仰が、永禄11年(1568)2月、徳川家康の浜松入城を契機に整備・再興されていったと考えられています。また、坂上田村麻呂、源頼朝、宗良親王といった名だたる武将たちが戦勝祈願に訪れたという伝承も残されています。分器稲荷神社の御朱印です。金色の狐さんがインパクトあるよね。浜松にはまだまだ行っておくべきとこがありそうです。◆分器稲荷神社静岡県浜松市中央区田町232-5ーーーーーー✂︎ーーーーーー・どーでもいいはなし東京タワーを見ると帰着を実感するものですが、この日はGWの特別ライトアップだったようで、帰ってきてからも観光気分でした。長々と綴ってきたきたギリギリコロナ禍旅の回もこれでおしまいになります。次回からは通常どおりフリー参拝でお送りします。
令和5年5月6日参拝屋台の轍がガリガリと。この辺りの町会からも浜松まつりの屋台が出ていたようで表参道入り口に屋台蔵がありました。松並木の続く参道を進みます。〝浜松〟という地名は浜松八幡宮の沿革と、この地に伝わる伝承に由来しています。浜松出身の名主に由来するという東京・浜松町に住んでる身としてはちょっと気になる話その起源は平安時代に遡ります。延喜式神名帳に許部神社(こべのかみのやしろ)と記された古社が天慶元年(938)神託を受けて現在地へと遷座しました。その際、老翁に姿を変えた白狐が松の苗木を社前に植えたという言い伝えがあります。この松が〝浜の松〟と呼ばれ、のちの浜松という地名の基になったといわれています。御祭神は玉依姫命、品陀和気命(第15代応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)の三柱です。もとは海運の神として玉依姫命が祀られていた許部神社に、永承6年(1051)源義家により八幡二柱の神が勧請されました。もともとあった神社に源義家が源氏の氏神が迎えられ八幡さまへアップデートされたということか。浜松城の鬼門にあたるこの地は、家康にまつわる話がいくつか残されています。樹齢1,000年を超えるとされる巨木は根回り15m、樹高15m、枝張り四方25mにもおよびます。元亀3年(1572)の三方原合戦で敗れた家康は大楠の洞に隠れて難を逃れたと伝えられます。その際、楠より瑞雲が立ちのぼり、白馬に乗った老翁が現れて浜松城まで導いたという故事から、この木は〝雲立の楠(くもたちのくす)〟と呼ばれています。大楠の迫力に圧倒され、ここから先(社殿まわり)の写真をすっかり忘れてしまったんですけど。実際見たらもっとすごいんです‥🌳ほか、境内には稲荷があって、これは正徳4年(1714)に祀られた東照宮。家康が没した元和2年(1616)から百回忌を翌年に控えた時期で、当時の幕府や各藩で家康の威徳をしのび東照宮を新たに勧請する動きが活発になっていた頃です。自祓いの幣があるあたりに親しみを感じます。何か個人的なお願いごとにも寄り添っていただけそうな、東照宮が身近な距離感にあるのも浜松ならでは?天心獨朗○%×$☆♭#▲!※‥いつか続きが読める日が来ますように。浜松八幡宮の御朱印です。この頃は書置きのみ頒布だったようです。◆浜松八幡宮静岡県浜松市中央区八幡町2
令和5年5月6日参拝八幡さまを目指していると、静かな住宅街の一角に幟が揺れる小さなお堂がありました👀その名は“椿姫観音”。ここには戦国時代を気高く生きた女性〝お田鶴(おたづ)の方〟が祀られています。元亀元年(1570)、徳川家康が遠州攻略に乗り出した時代のこと。当時、浜松城の前身である曳馬(引間)城を守っていたのは亡き城主・飯尾連龍の妻、お田鶴の方でした。家康は彼女に対し降伏を勧めますが、「亡き夫に代わり最後まで城を守り通す」と断固拒否。そして侍女たちと共に鎧を纏い、自ら武器を取り徳川の大軍を迎え撃つ決断を下します!城門を開け放ち敵陣へ突撃したお田鶴の方と18人の侍女たちは壮絶な戦いの末、この地で討ち死にします。戦場に立ち向かう勇猛な姿に心を打たれた家康は、彼女たちの亡骸を手厚く葬るよう命じました。そして、お田鶴の方が生前愛したという椿の木が塚の周りに100本余り植えられ、月日が流れ見事に咲き誇ると、いつしか椿姫観音と呼ばれるようになりました。お田鶴の方には亡夫の飯尾連龍から引き継いだ肩書きがたくさんありました。 ・元曳馬城主 ・飯尾豊前守 ・乗竜奥方 ⇐乗竜とは、夫の連龍(つらたつ/れんりゅう)が転じて乗竜(じょうりゅう)になったといわれています。正直ちょっと苦しい気がしますが、何がきっかけであだ名が生まれるかわからないのも事実です。洞窟や胎内を思わせるような細長いお堂(?)と言っていいのでしょうか。ちょっと妄想し過ぎかと思わせといて、このような不思議な石が!滑らかでなんだか色気を帯びた石ですね‥ w(*゚o゚*)w(うまい言葉が浮かばない)なんとここにも肩書きがありました!👀〝凧揚げ祭の生みの親〟浜松における凧揚げの起源は、永禄年間に引間城主の飯尾連龍とお田鶴の間にご長男が誕生した際、家臣の佐橋甚五郎がお祝いとして大凧を揚げたことにあるとされています。初子の誕生を祝う「初凧」の風習は時代を経て地域へ広がり、今日の浜松まつりへと発展しました。毎年5月に開催される浜松まつりでは、大空を舞台に凧の糸を摩擦で切り合う激しい糸切り合戦が最大の見どころとなっています。一族の慶事を祝うためのささやかな出来事が、450年以上の歳月を超えてなお、町を熱狂させる行事として受け継がれているのが素晴らしいです。●椿姫観音静岡県浜松市中央区元浜町133
令和5年5月6日参拝浜松駅から徒歩15分、浜松城からも徒歩5分ぐらいとアクセスがよく、観光の合間に立ち寄りやすい東照宮です。扁額の揮毫は徳川宗家19代当主の家広さん✨わたし大ファンです!(n´∀`n)ここはかつて引間城(曳馬城)と呼ばれ、若き日の徳川家康が浜松に入った際に最初の拠点とした場所です。ここを足がかりとして、隣接する丘陵地に築かれたさらに巨大な城郭が現在の浜松城です。時代が明治へ移り変わると、旧浜松藩士の井上八郎がこの地を後世に伝えるべく立ち上がります。明治19年(1886)、井上は徳川家への深い報恩の念から、地域の精神的な支柱を築くため、家康ゆかりの城跡に東照宮を創建しました。その後、神社の管理運営は大日本報徳社に委ねていましたが、昭和11年(1936)より実業家の大石力へ引き継がれます。旗本の末裔である大石氏は、先祖が仕えた主君ゆかりの地が荒廃するのを憂い、自らの私財を投じて社殿等を整備し、元城町の氏神として手厚く奉斎しました。御祭神は徳川家康、相殿に大国主命と事代主命が祀られています。社殿は戦災により一度焼失したものの、戦後に再建され現在の姿となりました。〝元城〟だけに本殿まわりがお城っぽい😆これは帰りに気づいたのですが、手水舎の欄間に掲げられた雲竜のような彫刻は、戦災を免れた貴重な戦前の遺構ではないでしょうか?ネコについては意味あるものなのか不明😆境内からは浜松城を望むことができます。眼下に国道を挟み浜松市本庁舎や広場が広がりますが緑豊かでよくわからないです。実は引間城とゆかりがあるのは徳川家康だけではありません。家康が城主となる以前、この地には今川氏の家臣であった飯尾氏が居城していました。さらに遡り、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が初めて武家奉公をしたのも引間城だったと伝えられています。のちの天下人である二人が同じ城に足跡を残していることは出世城と呼ばれる浜松城の原点にふさわしい歴史ではないでしょうか!御朱印はありますが頒布される日時が限られていて、たまたま行っていただけるものではなさそうです(令和5年5月)。前日まで浜松まつりだったようです。道路に山車のハマの跡が残されているだけで、東照宮は静けさに包まれていました。浜松まつりとは...起源は450年前の永禄年間(1558-69)、当時の引間城主に長男が誕生した際に入野村の住人がお祝いとして名前入りの凧を揚げたのが始まりと伝えられています。成り立ちが神賑わいや宗教的な儀式ではなく、純粋な地縁の祝い事にあります。次第に地域住民へ広がり、町会の行事へと変化していく中で現在の形に発展したと考えられています。現在では参加町会170以上、大規模な凧揚げ合戦と100台以上の屋台が引きましが行われる、日本最大級の市民まつりです。◆元城町東照宮静岡県浜松市中央区元城町103-4
令和5年5月6日参拝龍潭寺の次はお隣の井伊谷宮へ。井伊谷を語るうえでどちらか欠けても成り立たない、密接な関係にある存在です!参拝当日は端午の節句を過ぎていますが参道には色とりどりのこいのぼりが泳いでいました。殺伐としたコロナ禍に華やかなものを見たのは久しぶりでした。戦乱にあっても心のよりどころとして和歌を忘れなかった宗良親王とどこか重なるような気がします。井伊谷は古くから豊かな水に恵まれた“井の国”と呼ばれ、古墳や磐座が残るような場所です。この地を治めていた井伊氏は平安末期から続く在地領主で、南北朝の動乱期には南朝方として戦っていました。そんな井伊谷に遠州灘で嵐に遭った宗良親王が漂着します。時の当主である井伊道政と高顕父子は後醍醐天皇の皇子を守るという大義から、宗良親王を迎え入れます。それから宗良親王は井伊谷を本拠として約50年に渡り南朝方の指揮を執ることになります。宗良親王がこの地で薨去すると井伊氏が葬送を務めました。その後も井伊氏は戦国の荒波を越え、直虎が懸命に家を繋ぎ、その意志を継いだ直政が徳川四天王として出世を遂げ、井伊家は幕末まで続く屈指の大名家となったのです。明治維新を迎えると、南朝の忠臣たちを再評価する南朝正統論が高まりを見せます。その流れを受け、明治5年(1872)宗良親王を御祭神に祀る井伊谷宮が創建され、現在に至ります。境内“井伊社”には井伊道政・高顕父子が祀られています。横に広く並ぶスタイルはもっと定着していいと思う。二人連れが多いからどうしても長蛇の2列になってしまうの改善できたらいいのになぁ。境内きれいな建物は“資料館”ということでしたが時勢的に(?)空きスペースが多かったような。御朱印は直書きでいただけました。井伊谷宮の方は割とさくっとお詣りでしたが平成27年にも来てるのでね。次は井伊家はじまりの地へ✊🏻井伊谷宮からほど近いのどかな田園風景に、ひっそりと古い井戸がありまして、これこそが初代井伊共保が出生した地と伝えられる場所。伝承によれば、寛弘7年(1010)、この井戸の傍らに白衣をまとう整った顔立ちの赤ちゃんが捨てられていたといいます。その小さな手にはみずみずしい橘の枝を握っていたとも伝えられています。当時の有力者に拾われ大切に育て上げられた赤ちゃんが、のちの名門・井伊家の始祖となったのです。井伊家の紋といえば井桁と橘。この二つの紋はどちらも共保出生の井戸のエピソードに由来しています。◆井伊谷宮静岡県浜松市浜名区引佐町井伊谷1991-1◇井伊共保出生井静岡県浜松市浜名区引佐町井伊谷関連:『萬松山龍潭寺(浜松市浜名区)』令和5年5月6日参拝京都→滋賀→愛知ときて、ついに静岡入り。ギリギリコロナ禍旅も終わりに近づいています!龍潭寺は前に井伊谷宮側から墓所だけチラ見させてもらった…ameblo.jp
令和5年5月6日参拝京都→滋賀→愛知ときて、ついに静岡入り。ギリギリコロナ禍旅も終わりに近づいています!龍潭寺は前に井伊谷宮側から墓所だけチラ見させてもらったことあって、その時は時間がなくてまたいつか来ようと思ってました。今回はもちろん正面から入ってます。参道の植え込みなどお手入れに一切の手抜きがないところにいきなり感動 w(*゚o゚*)wさすが井伊家の菩提所で宗良親王墓所(宮内庁所管地)を境内に有する格式の高さよ!通りから離れて境内に一歩ずつ踏み入れるたび静けさが満ちていつしか禅の世界に包まれていく〜😆|ω' ) どこまで進めば拝観受付なのか不安になってきた頃、ようやく建物が見えてきました。庫裡が拝観受付になっていて、そのまま本堂に入ったんだと思います(軽く記憶喪失)。境内図は一見すると複雑に見えるが実際の動線は意外とわかりやすい。拝観は受付のある庫裡から屋内へ進み、回廊状に繋がる堂宇を順路に沿って巡る。境内(墓所)については拝観自由で井伊谷宮と行き来することが可能です。井伊家、歴代住職、宗良親王の墓所それぞれに霊廟が隣接している‥と理解すれば頭の中に境内図が浮かんでくるはず。 ・屋内順路ーー ・屋外順路ーーまずは屋内からいきます✊🏻|д゚) 本堂裏側の小堀遠州を端っこから望む。順路は庫裡から本堂→稲荷堂→開山堂、そして向こう側に見える御霊屋に向かって延びていますが、割と自由に動き回れた気がします。本堂手前に丈六のお釈迦さま。廃仏毀釈で大仏殿を失った今はこちらに身を寄せていらっしゃるようです。激しい傷痕が当時の激しさを物語っています‥。きゅっきゅきゅっきゅと鶯張りの廊下を歩きます。左に見える仁王門は帰るときに通ります。龍潭寺は臨済宗妙心寺派の寺院で本尊は虚空蔵大菩薩(秘仏)です。創建は奈良時代にさかのぼる行基ゆかりの古刹で、当初は龍泰寺と称しました。平安〜戦国時代にかけて井伊谷を本拠とした井伊氏の保護を受け、一族の菩提寺となっていきます。井伊直盛(龍潭寺殿天運道鑑大居士)の没後は寺が再興され、寺号も現在の龍潭寺へと改められました。江戸時代に入ると直政の出世により井伊家は彦根藩主となり、その庇護のもと整備が進められました。萬松稲荷は別名「正夢稲荷」と称され、祈れば夢が叶うと伝えられる霊剣あらたかな鎮守さん。その先、二階建ての開山堂には歴代住職のお位牌が並びます(これはお庭に下りてから撮った写真)。伝い廊下の突き当たりにあるのが御霊屋(井伊家霊廟)です(これもお庭から)。木像は初代共保、22代直盛、23代直親、24代直政の座像が安置されています。それらを見守るように初代共安から40代に至る歴代当主の位牌が並び、その中には井伊大老も含まれています。|д゚) 改めて書院からお庭鑑賞🍃ここに座ると池と築山の高低差が際立ち、縦横への広がりがいっそう感じられました。緊張感をほどくような丸い刈り込み🤗整った中にやわらかさが同居する、遠州庭園らしさが印象に残りました。続いて墓所の拝観です〜。拝観受付の手前にある東門は旧鐘楼堂で、寛永8年(1631)建立と龍潭寺最古の建造物だそうです。せっかく門になってるからくぐってみますと、頭上には戦歿者供養の「大観世音菩薩尊」がの安置されていました🙏🏻現役の鐘楼はこちら。扁額の「梵音」が仏さまの清らかな声を連想させます。さぁ、ついに墓所ゾーンです!広すぎて迷ってしまいそうなのと、どこから見たらいいやら石仏が多数。西国だったのだろうか、未確認です。井伊家歴代墓所には初代共安から24代直政までのお墓があります🙏🏻奥の2基は右から初代、22代直盛です。直盛は今川方として桶狭間の戦いに出陣し混乱のなかで討死しました。これにより井伊家は存続の危機に陥りますが、幼い直政が成長するまでの間、家をつないだのが「女城主直虎」なんですね。歴代住職の墓は井伊家家臣団に囲まれています。真ん中辺には直盛と共に桶狭間で戦死した家臣たちの供養塔も並びます🙏🏻前日に桶狭間を散策してるもんで不思議な感じ。宗良親王のお墓は宮内庁管理なのでここまで。奥に石鳥居が見えています🙏🏻龍潭寺の御朱印です。井桁もうれしいけど「徳川軍団筆頭」の副印がすき😆帰りは仁王門からでした。身体の捻りが東大寺南大門みたいでかっこいい!裏側には岡崎風の木製狛犬がいました😆次はとなりの井伊谷宮へ行きます。◼️龍潭寺静岡県浜松市浜名区引佐町井伊谷1989関連:『井伊谷宮(浜松市)』令和5年5月6日参拝龍潭寺の次はお隣の井伊谷宮へ。井伊谷を語るうえでどちらか欠けても成り立たない、密接な関係にある存在です!参拝当日は端午の節句を過ぎています…ameblo.jp
令和5年5月6日参拝隣松寺(豊田市幸町)から車で10分ほどでした。約1年ぶりに訪れたわけですが、史跡・名所に事欠かない岡崎で信光明寺が浮かぶって、わたしはよっぽどこのお寺が好きなんですね。境内拝観自由で気軽に立ち寄れる点もその理由のひとつでしょう。国重文の観音堂は外観のみの拝観にとどまるものの、十分に見応えがあり満足度は高いです。信光明寺は浄土宗の寺院で本尊は阿弥陀如来。松平郷から出てきた岩津城主松平3代信光が、松平初代親氏(祖父)と2代泰親(父)の菩提を弔うために創建したとされています。宝徳3年(1451)下総国飯沼弘経寺の釈誉存冏上人を開山に招き、信光の名から信光明寺と名付けられました。小高い丘には松平三代の墓が建っています。左から初代→2代→3代と並び、徳川家康もお墓参りに来た記録が残されているそうです。観音堂の屋根を間近に見下ろせるのもよい👍🏻「芭蕉天神」とは江戸中期の一誉上人によって観音堂に祀られた天神さまで、のちに高台に社殿が整えられ現在の岩津天満宮となりますが、廃仏毀釈で御神体は信光明寺に戻ってきたとのこと。現在は本堂に祀られているみたいです。信光明寺には嘘(災厄)を天神さまの真に変える鷽替えの授与品があります。薄い板に横向きの鷽。いわゆる木鷽はたくさん所有しているけど、これはどうなんだろう‥。*岩津天満宮も円柱形の木鷽が通年授与です。この辺で半鐘を叩いてじっと待つ。いつもの感じよりかなり強めに叩いて大丈夫みたい。信光明寺の御朱印です。三河と入れていただけるのうれしい☆そして、なんだかんだでついにわたしもいただいてしまったわけですが😂今ではとても気に入ってる。実は昨年、近くを通りがかったので板鷽の「絵馬」をいただいてきました。絵馬には紐をかけるヒートンが付いていて、そのうち信光明寺のように花びんに飾りたいと思ってます。ところで葵紋って一見同じように見えて葉っぱの膨らみとか茎の細さ・角度といった細かいところが違うんですよね。わたしは岡崎で見る味わいある手描きが好きで、御朱印を待っている間、こちらはどうかな‥って屋根を見上げたところ、丸瓦の葵紋にどこか違和感がありました。(葉っぱの向きが逆なのでは!?)調べたらこれは「尻合わせ三ツ葵」という紋。本来の紋なのか間違いなのか、詳しくは聞いてないけど住職は「気づかなかった、昔の瓦職人さんが作ったもんでねぇ」と笑っておられました。◼️信光明寺(芭蕉天神)愛知県岡崎市岩津町東山47関連:『芭蕉天神 信光明寺(岡崎市岩津町)』令和4年6月3日参拝18時を過ぎてるけどまだ明るいからと連れてきてもらったのが新光明寺。岡崎の中心部からそう遠くない丘陵地帯で、岩津城・新光明寺と岩津天満宮を…ameblo.jp
令和5年5月6日参拝4日目は豊田市からです。(まだ愛知県脱出してなかった)すでに駐車場からの眺めが素敵なんですけど✨正面にまわり仁王門で思わず息を飲みました。仁王像がカッコよすぎる‥!w(*゚o゚*)wそれだけでなんとな〜くここがただのお寺ではないことを直感します。案内板によると、この地に配流された第53代淳和天皇の第三皇子とされる国長親王が承和10年(843)に薨去して、従兄弟にあたる第54代仁明天皇が追善のために創建したと伝えられています。国長親王に贈られた諡号「隣松院殿一位相国大居士」をもって寺号としたのが由来です。創建当初は天台宗の寺院でしたが、明徳年間(1390-93)に浄土宗へ改宗して現在に至ります。とても複雑な時代です。第52代嵯峨天皇の譲位を受け弟の淳和天皇が即位すると、その後の皇位は先帝である嵯峨上皇の系統へと受け継がれていきます。嵯峨上皇の影響力が大きかったんですね!仁明天皇の皇子である道康親王を皇太子にする方針までは決まっていたのですが、淳和上皇・嵯峨上皇が相次いで崩御したことで後ろ盾が失われ、皇位継承をめぐる思惑が交錯する中で藤原氏を中心とする政治勢力が表面化して、いわゆる承和の変が発生したと。皇位継承から外れたとされる国長親王は記録が乏しく詳細明らかではありません。この頃は皇族の数が多く、臣籍降下や地方への配流といった処遇が取られる例もみられることから、そのような背景の中で処遇が決まったものと考えられます。本堂それはそうと、山号を稲荷山というだけあって、鎮守には立派なお稲荷さんがあります。勧請元は豊川稲荷とのことですが、こんなに大きな稲荷を抱えるお寺なかなか珍しいのではないでしょうか。しかも、岡崎城主松平広忠が竹千代(徳川家康)の誕生に際し成長の無事を祈願したこと、子の家康も三河一向一揆の際に戦勝祈願をして見事勝利したことなど、輝かしい実績も。家康は三河随一の稲荷に護られていたんですね!三河稲荷墓所には行ってないのですが、どなたかの菩提寺みたいでしたよ( ˘ω˘ )隣松寺の御朱印です。いいですね、三州!😆こちらのお堂はお花屋さんが作業中だったこともありチラ見もしてませんが、納骨堂とのことでした🙏🏻本当にきれいなお寺で自分ちのお寺だったらなぁ、とうらやましく思ってしまった。◼️稲荷山隣松寺愛知県豊田市幸町隣松寺126
令和5年5月5日割とノープランの旅ながら、愛知県脱出前に行っておきたかった常滑🎊お目当てはもちろん「とこにゃん」です!かわいいよね〜😆ただ、こんな高所にあって記念撮影するなら歩道橋から、なんて聞いてなかった!高所恐怖症には厳しい( ノД`)「見守り猫とこにゃん」なんて呼ばれているのは町を見下ろしてたからなのね。大騒ぎでなんとか記念撮影をしました。突然ですが、ここで常滑市やきもの散歩道で見かけたマンホール。図案は市の花サザンカと周囲に常滑焼の煉瓦。真ん中は煙突にも見えますが位置的に市章です。調べたらちゃんと常滑市章でした!しかも、よーーーーく見てほしい。常滑の「常」の字を図案化したものなんです!昔のデザイナーさん、公共の仕事でこのセンスはお見事です!‥✨常滑の坂道を散策していたら、常滑のシンボルでもあり、焼き物には欠かせない煙突を神さまという存在にしちゃった(?)という煙突神社を見かけたので寄ってみました。この辺を歩いてると土管をよく見かけます。かつて上下水道の整備には耐久性に優れた常滑焼が重宝されました。常滑の風景に残る土管は、近代化が進む日本のインフラを支えた名残りなのです。土管を柱として再利用した入り口が異彩を放つ。いいんですよ、耳元を通り抜ける風だって何にだって神が宿ります。常滑焼を生み出す窯にとって煙突とは、上昇気流で火力を安定させるとともに、燃焼によって生じる煙やガスを逃し、作業場の安全を確保します。釜の働きを左右する重要な装置であり、まさに神のような存在といえましょう!神の依代というか御神体というか、お祀りされてたのは煙突でした😆昭和時代の常滑の風景(画:杉江南峰)当時はたくさんの煙突がモクモクと煙を出していたので「常滑のすずめは黒い」なんて言われてた、えー。煙突の上に急須‥!常滑らしさが大渋滞のモニュメントを見ながら常滑を後にしたのでした。そうだ、楽しみにしてたネコさんの焼きものが破損しててショックでした😢修復できるのでしょうか‥。●煙突神社愛知県常滑市栄町3-45-----------------・どーでもいいはなし近年はペットボトルの緑茶がすっかり定番となり、自分で緑茶を淹れる機会も減りましたが、はじめは「お金出してお茶を買うなんてもったいないね」なんて言うほど、お茶を淹れるのが当たり前でした。今ほど飲み物が手元にある時代ではなく、ひと息つきたいときはお茶を淹れる、食後に限らず日常的に急須を使っていました。お茶っ葉も場面ごとに使い分け、子どもながらにお茶の淹れ方を教わったものです。急須からお茶を注ぐとき、蓋の穴が注ぎ口の方を向いてないと叱られたものですが、不思議と家以外でこの穴を注ぎ口側にしている人を今まで見たことがありません。それどころか穴を意識的に持ち手側にする人がいるのです。ばあさんは「お茶がよく出る」と言ってましたが、ネットで調べると茶商も同じ理屈を説いていて、蓋の穴を注ぎ口の方に向けると湯の中で対流が起こり茶葉がよく開くのだそうです。
令和5年5月5日参拝名古屋を出る前に寄っておきたいもう一社。伊勢の別宮を思わせる参道の気配がたまらなく好きなんです。延喜式神名帳に記載される尾張国愛智郡「火上姉子神社」の比定社です。摂社とは本社と特に関係性が深い神であることを指しますが、熱田神宮の御祭神は熱田大神と申し上げ、草薙の剣を御霊代とする天照大神とされています。氷上姉子神社の御祭神は宮簀媛命です。日本武尊の妃とされ、尊なき後は草薙神剣を留め置き、その神剣はのちに熱田の地で祀られることになったと伝えられています。本宮の相殿にも祀られ、創祀を語るうえで欠かせない神です。社伝では、仲哀天皇4年に宮簀媛命をお祀りしたのがはじまりとされ、のちに持統天皇4年(690)に現在地へ遷座したと伝えられています。中世になると11世紀の記録に「火上社」の名が見え、すでに知られた存在であったことがうかがえます。以降も地域の信仰を集めながら受け継がれ、明治時代には郷社に列し、熱田神宮の摂社となります。明治21年(1888)の火災により社殿を焼失しますが、のちに別宮八剣宮から本殿が移築され現在に至ります。氷上姉子神社の御朱印です。この印章は芸術ですよね‥(゜д゜)これで熱田さんの御朱印が揃いましたぁ🙌🏻広げて眺めて喜ぶ( ᐛღ )続いて、宮簀媛命の邸宅跡と伝わる元宮へ。お詣りというより森を散歩する気分です。宮簀媛は尾張氏の祖・天火明命の系譜に連なる尾張国造の乎止与命の娘とされ、この地がその勢力圏であることから、元宮の伝承もうなづけます。お賽銭の納め方に癖があるんですよね。この竹筒をお借りするんですけど😂なんか前より使いづらくなってるのなぜ〜😢賽銭箱まで距離があるので集中しないと落っことしちゃうから慎重に‥。前回おまいりの時の写真こちらは神明社かな、境内社も同様にお賽銭は竹筒を使いました😆ちょっと歩いて斎田の方に玉根社(少彦名命)が祀られています。神仏分離以前に薬師堂でもあったのかな、とよぎりましたが、地図を見ると小字表記が「常世島」というのがちょっと意味深‥。◆氷上姉子神社愛知県名古屋市緑区大高町火上山1-3
知多四国観音霊場を発心した3年前、一番札所の最寄りが前後駅(豊明市)でした。『豊明といえば桶狭間古戦場まつり』駅に展示された甲冑を見て、土地勘が無いながらも桶狭間古戦場の決戦地が割と広範囲なことに気付かされるんですね。そして、一番札所曹源寺の和尚さんが戦人塚をつくり合戦の戦歿者を供養したそうで、そういった事績もあり一番札所なのかな、と思ったりした次第です(私見ですが)。令和5年5月5日引き続き桶狭間地域の散策について。大池の観光案内所にすごい銅像があって、これ織田信長なんです⁉︎原哲夫先生の漫画に信長が出てくるんだって。何これ?って言いつつめちゃくちゃかっこいいです。その観光案内所から歩いて2〜3分ほどにある桶狭間古戦場公園に来てみました。ここは戦いの中心地であり〈おけはざま山〉の本陣から追われた今川義元が、服部一忠と毛利良勝に討ち取られた最期の地とされ、田楽坪とも呼ばれる場所です。桶狭間の戦いは谷や丘陵にまたがって展開したため戦場が一点に絞れず、いくつか伝承地があります。じゃあ、桶狭間古戦場公園はなんなの!というところをこれから書いていこうと思います。注目はやはり銅像でしたが、想像と違った。古戦場と銘打つ公園の銅像でありながら、戦闘シーンではなく、単独の像が二体。というのも、桶狭間の戦いは急襲にはじまり混戦のうちに決した戦いで〝この一瞬〟という切り取れる場面がないことから、このようになっているようです。若き信長と、まもなく最期を迎える大大名今川義元、そう考えると緊張感をまとったいい像ですね。㊧織田信長 ㊨今川義元信長に関しては原哲夫先生の描いたのと違ってこちらが現実というか、むしろだいぶ美化されてるはずですw今川義元最期の地も名古屋側説と豊明側説のようにいくつか比定地があり、当日の地形や天候などについても諸説あり、決定的な特定には至ってないといいます。名古屋側では、信長公記との整合性や地域伝承の集中を踏まえて、この桶狭間古戦場公園こそ「義元最期の地」の有力候補として、合戦から450年目の平成22年(2010)、地域に点在する史跡群を再整備しました。ここは戦いがあったことを再現した場所というより、出来事を展示したメモリアルパーク的な性格の公園となっています。ちなみに上㊨は駿公墓碣といって、昭和29年(1953)に田楽坪で発見された今川義元の墓石です。下の木は織田信長の首塚(富士宮市)にある大柊から分けた枝が育ったものだそうです。戦いの当事者である二人が時を経てまさかの同じ場所で供養されている、それが桶狭間古戦場公園なのでした。ところで公園入り口に立つこの幟旗。よく見たら素晴らしいものでした。国の伝統工芸品に指定される有松・鳴海絞りなんです。しかも有松天満社で見かけたものより巧み👀豊明側伝承地の最寄り駅は中京競馬場駅で、その隣駅が有松駅という位置関係を思うと、こうした幟が立っているあたり、名古屋側と豊明側の伝承地がいかに近接してるかを物語っていると感じます。機会があれば豊明側伝承地も行ってみよう。●桶狭間古戦場公園愛知県名古屋市緑区桶狭間北3丁目●桶狭間古戦場観光案内所愛知県名古屋市緑区桶狭間巻山2037ーーーーーー✂︎ーーーーーー・どーでもいいはなしある方を顕彰する銅像の建立計画が持ち上がり、紆余曲折を経て今春にも除幕式が行われるそうです。わたしも少額ながらご協力できたので完成をとても楽しみにしています。その一方で少し気がかりな点もあります。制作初期からデッサンを公開されていて、もう少し表現を詰められる余地があるのではないかと感じていました。途中経過(粘土原型)も拝見したのですが、その印象は大きく変わらず、仕上がりに一抹の不安を覚えています。実は、発起人は某神社の名誉職でいらっしゃいますが、その神社の天井画についても技術面で気になる部分があったのを思い出します。お人柄が穏やかでご縁を大切にされる方なので、今回の依頼に際しても、技量そのものよりご縁を重んじられたのかもしれません。もっとも、銅像建立には多額の費用がかかります。だからこそ、もう少し制作面での確実さを重視していただきたかった、というのが正直なところです。仕上げまでに化けていることを願います。
令和5年5月5日参拝長福寺のあと桶狭間を散策。東海道がまだ整備されていなかった戦国時代、大高道は尾張と三河をつなぐ主要ルートだったそうです。大高城・鳴海城・沓掛城がその道筋を押さえ、今川義元の上洛を支える前線拠点となっていました。その旧道沿いの緑に覆われた小さな丘に神明社が建っています。南北朝の動乱期に南朝方の落人がこの地へ移り住んだことが創建の由来とされています。〇〇の落人...わたしの知り合いにも自称する人いますけど、それが直ちに高貴な出自を意味するものでもなく、史料に確認できない移住の実態は公家や武士に限らず、臨時で動員された兵、その他物資運搬・炊事を担った従者、そのまた家人に至るまで様々な人が含まれていたと考えられます。戦乱を逃れてこの地にたどり着いた人々が故郷より持ち込んだ信仰がやがて土地神となり定着したものと考えられます。御祭神は天照大御神です。桶狭間の戦いでは、今川方の武将・瀬名氏俊が戦勝祈願として酒桶を奉納したと伝えられています。しかし、瀬名氏俊は本戦には参加していない‥⁉︎そこがおもしろいとこなんですけど、今川軍の先発隊としていち早く桶狭間に入り陣所の設営や偵察をした氏俊は、今川方の最前線である大高城の状況に対応するため別任務に就くことになります。当時の大高城(城主:鵜殿長照)は織田軍に包囲され兵糧が尽きかけており、今川軍にとって最重要の支援対象でした。氏俊はこの兵糧入れに係る任務のため、持ち場を離れて大高城へ向かったと考えられています。結果として、瀬名氏俊を含む先発部隊が桶狭間から離れたことで今川本陣が一時的に手薄となり、織田信長の奇襲が成功しやすい条件を生み出したとされています。境内の中央で存在感を放つ神楽殿✨宝暦3年(1753)の大造営で造られた諸建物のうち唯一現存する貴重な遺構です。わ〜っと喜びながら手水へ。ほんとは亀の口から清水がピュ〜と出るタイプなのにセンサーは反応せず。コロナ禍あるあるの思い出ではありますが。後ろ姿がすてき!w(*゚o゚*)w手水は使えなくても石ものとしての見どころに目を向けていきます。社殿は昭和10年に改築されたもので、戦前の神社建築らしい伝統様式と高度な技術が残されています。辺りには小さなお社がたくさんあるんです。立札もなくよそから来た者にはどのような神さまか分からないものだけど。ここすごいです。明治10年の一村一社政策でどこから来た神なのか、境内社について実にわかりやすくまとめられてるの。普通に暮らしていたら触れることのない情報!御朱印はやってないという貼り紙が。全然大丈夫です、むしろ貫いてほしい。始めたよ〜というお知らせが一番つらいからw心まで澄みわたるような静けさに癒され、神明社を後にしました。◆桶狭間神明社愛知県名古屋市緑区桶狭間神明1520関連:『長福寺(名古屋市緑区)』令和5年5月5日参拝「桶狭間の合戦」は歴史的にあまりに有名ですが、その舞台は驚くほどコンパクトな範囲に収まっています!桶狭間という地名は、小さな谷が入り組み窪…ameblo.jp『桶狭間古戦場公園にいってきました(名古屋市緑区)』知多四国観音霊場を発心した3年前、一番札所の最寄りが前後駅(豊明市)でした。『豊明といえば桶狭間古戦場まつり』駅に展示された甲冑を見て、土地勘が無いながらも…ameblo.jp
令和5年5月5日参拝「桶狭間の合戦」は歴史的にあまりに有名ですが、その舞台は驚くほどコンパクトな範囲に収まっています!桶狭間という地名は、小さな谷が入り組み窪地に水が溜まりやすかった地形に由来するとされます。現地には大きな池があり、この辺りを水源とする鞍流瀬川が下り境川へ、さらに知多半島と西三河に挟まれた細長い衣笠湾へと注ぎます。「信長攻略・桶狭間の戦い人生大逆転街道」長福寺は信長の進軍ルートにある観光スポットとして選ばれているようです。長福寺は西山浄土宗の寺院で本尊は阿弥陀如来。天文7年(1538)、善空南立上人が中興開山として入山してから20余年後の永禄3年(1560)、今川勢が近くに本陣を置いたため、長福寺は茶菓酒肴を献じたと伝えられています。戦国時代は軍勢が周辺の寺院や村から食料を調達することは珍しくなく、東海の大大名今川義元を迎えた対応として自然なことでした。しかし、その今川勢は戦いに敗れました。織田信長は激しい雷雨に乗じ、今川方が警戒を緩めた隙を突いて急襲し、総大将今川義元を討ち取ります。戦闘そのものは比較的小規模な局地戦ですが、この勝利によって信長は一躍名を上げ、戦国時代の勢力図は大きく動くことになります。供養杉(林阿弥の首検証跡)ここで信長は今川義元の旧臣である林阿弥に今川方武将の首実検を命じました。林阿弥は義元をはじめとする戦歿者の供養のために駿府から持参した阿弥陀如来を納め、それから長福寺は本尊を改め、戦歿者供養の寺となるのです。供養杉は伊勢湾台風で倒れ、今の杉は2代目です。根元には供養塔のかけらが置かれています。自然災害や都市開発で町の様相が変化していくなかで、供養のかたちが失われることのないよう、合戦供養碑が建立されています。長福寺に寄せられてきた祈りがこれからも途切れませんように。現在は水草が茂る弁天池ですが、首実検の際に刀を濯いだ「血刀濯ぎの池」と伝えられていますw(*゚o゚*)wその近くに龍神さまを祀る泉が湧いています。この一帯は桶狭間発祥の地とされ、南朝の落人が暮らしをつないだ水と伝えられています。三十三観音!見知らぬ土地の石仏は楽しい😆めずらしげに写真を撮っていますが、これはのちに知多半島でよく見ることになるタイプなのでした。こちらは薬師堂。薬師如来と、右側に尾張新四国の弘法大師像がいますね🙏🏻「今川松井両公影像奉安置所」基本的に非公開ではありますが、寺宝に義元とその家老松井宗信の木像を所蔵しておられるそうです。長福寺は知多坂東三十三観音・尾張新四国八十八所の札所になってます。御朱印はお寺の本尊だけでいいかなぁと思ってたんだけどね。なんだかんだで御朱印は二ついただいてました。どちらにも今川松井両公奉安所㊞あり。㊨阿弥陀如来...桶狭間古戦場㊧薬師如来...今川義元公菩提寺なぜ長福寺に寄ることになったかは記憶にないですが、今思えば戦い前後を見届けた寺として行っておいてよかったと思ってます!もう少し桶狭間を散策します。◾️天澤院長福寺愛知県名古屋市緑区桶狭間427関連:『桶狭間古戦場公園にいってきました(名古屋市緑区)』知多四国観音霊場を発心した3年前、一番札所の最寄りが前後駅(豊明市)でした。『豊明といえば桶狭間古戦場まつり』駅に展示された甲冑を見て、土地勘が無いながらも…ameblo.jp『桶狭間神明社(名古屋市緑区)』令和5年5月5日参拝長福寺のあと桶狭間を散策。東海道がまだ整備されていなかった戦国時代、大高道は尾張と三河をつなぐ主要ルートだったそうです。大高城・鳴海城・沓…ameblo.jp
令和5年5月5日参拝熱田神宮の次は摂社の高座結御子神社(たかくら・むすびみこ・じんじゃ)へ。車だとすぐだし電車でも名城線でスッと来れます。思えば三度目のおまいりになりますが、一度目は何となく、二度目は確かめるように、そして三度目となる今回は「熱田神宮に来たならここも」と自然に足が向いていました。※駐車場は境内です。車で鳥居をくぐりましょう。こちらも延喜式に名神大社と記され、古くから国家祭祀の対象とされてきました。熱田神宮の摂社という位置づけながらも派手な観光神社ではなく土地神さまという雰囲気が好きです。御祭神は高倉下命(たかくらじのみこと)。尾張氏の祖神として古くから崇敬されてきました。記紀には熊野に住む高倉下が神武天皇に布都御魂を献上し、皇位の正当性と戦勝を後押ししたと受け取れる記述があります。のちに尾張氏の娘である宮簀媛が草薙の剣を奉じて熱田神宮の創祀につながる、これらの伝承は、高倉下の子孫である尾張氏が、神剣の管理に関わっていく一族であることを示しています。おまいりの前に授与所へ寄ったのは、御神酒に杉の葉を浸したお供えを手に入れるためでした。拝殿に在庫がありますが三度目ともなると先に準備しておこうという気になりまして。2つあるのはクセですね。宮澤家はお線香も1人で二本立てます。ばあさんがやってたことを継承してるだけなので詳しくは知らないけど、自分の分とどなたかの分なのかもしれないし、太っ腹に一つより二つなのかもしれません。拝殿にお供えをしたわたしは「高座さんでのおまいりはここからよ」と、ワクワクしながら本殿の裏へ向かいました。ところが、本殿裏に置かれていたはずの案は撤去され、残されていたのは裏神さまへのおまいり作法の紙が剥がされた痕。それでもわたしは(高座さん起きてちょ、頼み聞いてちょ)とやるのですが‥。またひとつ信仰が静かに消えた悲しみ (;へ;)稲荷の雰囲気がとてもいいですよ。太閤出世稲荷と称され、幼い豊臣秀吉が母に手を引かれお詣りしていたとか。最後は御井社に寄って帰りましょう。高座さんは社名からして高倉下の御子が建てたとか祀られてたとかなのでしょうね。子育ての味方みたいな神社ですよ。子どもに井戸を覗かせると疳の虫が収まるという「高座の井戸のぞき」。井戸の中を覗き見ることで神聖な力をいただけるとされますが、今風に言えば一種の集中行動のひとつでしょうか。だとしたらしゃっくりも止められるかもね。高座結御子神社でいただいた御朱印はこちらです。◆高座結御子神社(熱田神宮摂社)愛知県名古屋市熱田区高蔵町9-9ーーーーーー✂︎ーーーーーー・どーでもいいはなしブログであまり食に触れませんが、興味ないわりにはそれなりに美味しいものをいただいてきたと思いますし、これからは清潔で静かなお店で気持ちよく食事できれば十分と考えています。そんなわたしが今回カフェをご紹介する。わたしがアメブロを見るようになったのはひとりのりという世界を2〜3周してるバックパッカーのブログがきっかけでした。当時のブログといえば数枚の写真と短文で一日何度も更新するのが主流な中、のりさんのレポート的なブログは読み応えがあり、まるで生存確認をするように更新を追っていました。そんなのりさんが帰国後に結婚してカフェを開業した、までは知ってたけどその後の活動を追えてなくて、今は何されてるか知らないんですけど、カフェもいつか行けたらと思いながらも機会がなく、この旅でようやく訪れることができました。とても立派な店舗で大きな駐車場あり、行列対策ばっちり、夜はお酒を楽しめるという隙のない素敵なお店でした。ご本人はいなかったけど、世界を巡った末にこうしたお店を開けるなんてひそかに応援していた身としては心から嬉しい出来事でした。バックパッカーの作るカレーとても美味しかった。もう食べれないのが残念でなりません‼︎【閉業】cafeSPICO名古屋市熱田区南大高1-802バターチキンカレー ★★★★★
令和5年5月5日参拝旅の3日目は名古屋から。名古屋に泊まったなら熱田さん早朝参拝当日はご覧のとおりいいお天気で、やっぱり来てよかった!熱田さん最高( ゚∀゚)o彡゚御祭神は熱田大神。相殿に祀られるのが天照大神、素盞嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命です。熱田神宮公式によると、熱田大神とは三種の神器のひとつである草薙神剣を御霊代とする天照大神のことになるそうです。おや、細いしめ縄が張られ、何か緊急で制限されてるのでしょうか。よく見たら御垣内に神職さんが並んでいる。この時点では朝拝かと思ってましたが、今考えるとお神輿があるのさすがに普通じゃないよね?制服の警備員は警衛部という熱田神宮専属の警備組織でむしろ通常の光景です。これで帰ろうとしたところ、封鎖された西門に青白幕が出ているではないですか。祭典かぁ ( ˘ω˘ )熱田さんの行事にあたるなんて、なかなか来れるもんじゃないから待ってみることにしました。※6月に行われる勅祭の熱田まつりとは違いますこの日は「神輿渡御神事」といって、本宮〜正参道〜西門まで行列したあと皇居を遥拝するんだって。西門付近には戦前まで鎮皇門という楼門が建っていたそうで、その名に由来するのがこの神事というわけです。本宮のばっちりいいとこで待機してたら「ここに立っちゃだめです」と言われて限りなく隅っこから( ´︵` )神職さんの隊列が入ってきました。参拝者の参入が一時的に規制され、参拝停止となっています。続けてさまざまな装束の方が集まり出して境内はこんなことに‥‼︎すっご‥ w(*゚o゚*)wそして皆さん御垣内へ入ってゆく。どんなことしてるのか覗いてみたら中重はゆるやかな時間が満ちていました😆祭儀のあとは露払いの大榊を先頭に、行列は正参道へ出ていかれました。それをうっとりしながら見送る参拝者たち。浅沓が小砂利を踏み締める音を聞きながら、雅な神輿行列を追いかけます。このような神事が行われることになった背景には「草薙神剣盗難事件」があります。天智天皇7年(668)に新羅の僧が神剣を盗み出し、難波から海を渡ろうとしたが嵐に阻まれ断念しました。その後、神剣は宮中に置かれることになりますが、天武天皇が病にかかり、占いによって剣の祟りとされ、朱鳥元年(686)再び剣は熱田神宮に戻されることになった、という記述が日本書紀・熱田神宮史に記されています。熱田神宮にとって18年も不在にしていた御神体が戻ることは神威の回復を意味しますので、これを祝うとともに玉体の安寧を祈る、という行事になります。※ちなみに体調を崩された天武天皇は同年に崩御しています。神輿は南門から外へ出ていかれました。この先は西門で遥拝式となると思います。参列席があるわけじゃないので追っかけはここまで。南門の近くで何気なく撮った「清雪門」は、かつて本宮の北門として神域を守っていた門でした。盗まれた神剣がこの門を通り持ち出されたことから不吉の門とされ、神剣還座後は再び外へ出ることのないよう閉ざされています。熱田神宮にかつて4つあった門のうち、現存しているのは北の清雪門だけです。メモ:前の晩に酔笑人神事(オホホ神事)という特殊神事静けさを取り戻した本宮を参拝🙏🏻‥といっても人は少なくないですが。御神体に近いような気がして裏側でも参拝🙏🏻散策中に目を引いたのが末社の清水社👀罔象女命を祀る小さなお社横の湧き水になぜか大行列ができている‥!熱田神宮ほどの大社で一時期の〝明治神宮の清正井〟みたいなことが起こっていることに驚きましたw誰かが仕掛けてハマったのでしょうが。わたしは人がいないところこそパワースポットだと思ってます。広い境内には摂末社およそ40社点在し、ほとんどで話し声ひとつない澄んだ空気をひとりじめできます✨熱田大神荒魂をはじめ、災厄除け・商売繁盛・家内安全・五穀豊穣などの御神徳を持つ神々が祀られています。なのにどうして並ぶの?龍神社:吉備武彦命・大伴武日命(ともに日本武尊東征の従臣)ところで、熱田さんの摂社である日割御子神社(ひさきみこ)について。現在は素朴な境内社といった佇まいですが、かつては国家祭祀対象の名神大社でした。古くは日破明神と称され、現在の祭神は瓊々杵命の父神にあたる天忍穂耳尊です。もしかしたら熱田神宮創建以前の土地神だった可能性もあるとかないとか。日割御子神社そして別宮八剣宮。草薙神剣盗難事件を受けて新たに鋳造した宝剣を祀るために和銅元年(708)創建されたとされています。祭神は本宮と同一、御社殿は本宮に劣らぬ豪華さを誇ります✨八剣宮八剣宮にほぼ隣接するのが上知我麻神社(摂社)。御祭神は宮簀媛命の父にあたる乎止興命(おとよのみこと)です。尾張国造の祖であり古くからこの地の開発に関わってきた尾張の土地神ともいえる存在です。乎止興命の出自は天火明命の10世または13世の孫とされ、天孫族の系譜に属します。天火明命は丹波に降臨し、その子孫とされる乎止興命が在来勢力と婚姻関係を結び尾張に定着したもので、戦後の区画整理で境外から移されたとのことですが、実は八剣宮の側で鎮まるにふさわしい神なのでした。上知我麻神社この日、熱田神宮でいただいた御朱印です。熱田神宮には多くの古事記の神さまがお祀りされていますが、立て札を読んでみると古くは△△に祀られ〇〇大神と呼ばれていたなどという記述が見えておもしろかった。六末社(乙子社・姉子社・今彦社・水向社・素盞雄神社・日長社)のうち日長神社は知多市の式内社で、日本武尊東征の伝説があることと、御馬頭(おまんと)神事の道中まわりが見たくていつか行きたいと思ってたのでびっくり🙏🏻名古屋の旅もう少し続きます。◆熱田神宮愛知県名古屋市熱田区神宮一丁目1-1
令和5年5月4日人口6,100人前後の関ヶ原町。この小さな町が観光資源として掲げるのは、やはり日本の将来を決めた「関ヶ原の戦い」でしょう。といっても、ここで戦があったという史実以外に残るものはほとんど無く、戦跡として現存するのは地形そのもの。学ぶ手段は後世に建てられた石碑や案内板が中心となります。駐車場がほぼ満車!もちろんそれらは重要な手がかりのひとつではありますが、まず訪れておきたいのが関ヶ原記念館。ここは展示品を見るだけではなく関ヶ原の戦いがどのようなものだったのかを〝体感〟できる施設ということでめちゃくちゃ人気なんです。前に武将好きの友達と来た時は全然響かなかったんだよね ( ˘ω˘ )興味がないわけじゃないし合戦絵巻とかむしろ大好きなんだけどね。さて、今回はどうでしょう。敷地に入るといきなし武将が‥背中に三ツ柏。柏は葉っぱが落ちないので武運長久の縁起物として使う武将が多かったんだって。足軽さんが写真撮ります〜?って気さくに声かけてくれたけど、リアルにコワくて辞退 (||´Д`)女性の足軽ってセクシーですねw(初めて見たかもしれない)エントランスに甲冑が並んでいました。これは秀吉の五大老の一人で初代米沢藩主上杉景勝。すごいね、飯綱権現前立兜、、w(*゚o゚*)wさらに、上杉景勝に生涯仕え、関ヶ原の戦いの開戦に関わったという家老・直江兼続。愛の前立てはあまりに有名!そして本戦には参加してない結城秀康。徳川家康の次男でありながら幼少期から人質として過ごし将軍職は秀忠が継ぐことになります。関ヶ原の戦いでは前線に出ず関東に残り上杉を牽制、この功績により越前松平家として68万石の大名となりやっと認められた存在になるんですね。秀康は好きな武将のひとり!(生き様ね)この三人を揃えた展示の意図はなんだろう。オタクの友達に聞いてみたところ、「〝それぞれの関ヶ原〟ってことじゃない」と教えてくれた。なるほど〜。なんかコア層向けな資料館なのかなって思う。ところで、ここに限らず甲冑の展示方法には前から不満があっていつも文句を言ってしまうんです。でもそれには理由があって、動きをつけるとパーツが歪むこと、そして飾りを正面から美しく見せるためなんだそうです。腕組みして足おっ広げた戦国武将のカッコいいこと!‥と思いつつ、これからは黙って見学します🥺家紋アート。岐阜県のシルエットに徳川の葵紋が圧力をかける。待ち受けるのは石田三成。激しい攻撃を受けながらも西軍を指揮する様子が描かれているような気がします!ちなみにわたし「どうする家康」見てないんだけど、歴史に興味なさそうな友達すらおもしろいって言ってて、とりあえず「厭離穢土欣求浄土ね」って言うと「そうそう!」って通じたから松潤ってすごいなって思った。そんな難しい言葉を記憶できたのも岡崎のお寺のおかげですけどね。関ヶ原記念館の売りが5F展望台なんですよね。柱が少なめで関ヶ原の盆地がぐるりと見渡せて、各武将の位置関係が一目で分かるので、関ヶ原の戦いについて知りたければまずはここに来い的な場所です。地形を読む視点がないとただの広い土地ですが眺めてるだけでも楽しいものですよ。家康の最後陣地。ほう。合戦の陣地の位置がひと目でわかるジオラマ。そもそも武将の名前を知らないのでどっち方に誰とかイメージしづらく、極めつけ方向音痴で東西すらあやしい。でも、この中に今、自分がいる‥!という体験は一応できたような気がしますw基本的な知識はつけておきたく、合戦の資料をたくさんいただいてきたのですが大切に仕舞い込んじゃってました。こないだ片付けで出てきたので読もうとしてたけどまたどこかいっちゃったな。関ヶ原の戦いは一日かけた合戦であると同時に、背後には数ヶ月におよぶ権力闘争があった。その勝敗のために積み重ねた対立の行き着いた先が、わたしたちの生きる現代へとつながっている✨垂井町の鯉のぼり、とてもきれいでした。写真がうまい人はぜひ行くべし。(垂井町のマンホール)●岐阜関ケ原古戦場記念館岐阜県不破郡関ヶ原町894-55ーーーーーー✂︎ーーーーーー・どーでもいいはなし令和5年5月の時点で「どうする家康」は放送中で松潤は当時のジャニーズ事務所に所属していたわけで、世間が大騒ぎの中でドラマ完走してよかったよね。そしてジャニーズが事実上の幕を閉じるという、しれっとしてるけどホントは甘酸っぱい思い出が消えてしまったの衝撃的すぎます。わたしの場合は子供だったからスキと宣言してグッズを身につけるぐらいのものでしたが、大人になって大金注ぎ込むほど人生かけてたファンのことを思うと心が痛む。
令和5年5月4日参拝足柄の氏子さんから「石田三成が出たお寺が近くにあるよ」と教えてもらったのを思い出し、八幡さまからちょっと戻ってきました。ナビ見ないとどこにお寺があるのやら⁉︎という風景の中に国重文の惣門が建っています。石田三成がまだ幼く寺の小僧だった頃、鷹狩りの際に立ち寄った羽柴秀吉に対して三度に分けてお茶を差し出した有名な話はここでの出来事だったんですね。三成は喉が渇いている秀吉にはじめはぬるいお茶を出し、器と温度を変えながら合計三杯のお茶でもてなしたそうです。仁寿年間(851-854)、律師三修により伊吹山中で創建された古刹です。もとは伊吹山上にあった観音寺が正元年間(1259-60)に現在地へ移転し、弘安年間(1278-88)頃までに寺観が整備されたと伝えられます。当初は法相宗に属していましたが、弘和3年(1383)には天台宗へ改宗しています。南都六宗から天台って結構な改革ですよね。享保10年(1725)建立の鐘楼は国重文です。小規模ながら均整のとれた姿、江戸中期の寺院建築の好例であることが決めてのようです。言われてみれば細部まで彫刻が施されている。わたしはこの鐘を鳴らしています✨重文にぶら下がる鐘、さぞかしいい音だったでしょうね〜(記憶に残ってないというね)。本堂は正徳5年(1715)の再建でこちらも国重文。行基作と伝わる本尊十一面観世音の胎内からは伝教大師坐像が発見されたそうで、鎌倉初期の作品としてこちらも国重文とのことです w(*゚o゚*)w本堂外観は質素ですが内陣はかなり華やかなようです。今回はお寺の方が不在で拝観が叶わず残念。扉越しに手を合わせ上を見上げると頭上の彫刻に目を奪われました (゜□゜*)惣門・鐘楼・本堂はほぼ同時期の建築で、境内一体の景観を構成している点も評価されての国重文ということです。ここでの印象は「きれいなお寺〜!」でしたが、あとで公式サイトを見て、クラウドファンディングにより数年前に修復されたばかりと知って驚きました。現在の様子からは想像できませんが、修復前は見るに耐えないほど傷みが進んでいたようです。薬師堂境内には鎌倉時代のものとみられる宝篋印塔がありますが、どなたのものかはっきりしていなく、この地域の武士だとしても、中世から動きの多かった土地だけに特定は難しそうです。境内からは横山城跡へ向かう登山口があり、山頂まで30分ほどで行けるみたいです。横山城はもとは浅井氏の城でしたが、姉川の戦いの頃に織田方に奪われ、豊臣秀吉が城代で入りました。のちに長浜城築城で拠点が移ると、横山城は役割を終えたそうです。なんとなく来てみたけどすごいお寺だった!ぜひとも御朱印をいただきたかった。本坊を訪ねたけどお留守でとても残念。また行ける気がしないもんね‥🙄◾️伊富貴山観音護国寺滋賀県米原市朝日1342
令和5年5月4日参拝このへんハンパない八幡さまだらけなんです何社か通過してから1か所ぐらい行っとくか、となんとな〜く立ち寄った運命的な八幡さまです。車停めてまず最初に目に飛び込んだのがこれ。詳細は不明ながら、お地蔵さんや道祖神など地域で信仰されてきた石仏が持ち寄られたものと考えられます。数の多さに圧倒されます。「豊穣朝日郷」の石碑は、この辺り田んぼが広がる地域なんですけど、鎌倉時代は村上源氏久我家の分家にあたる中院家領荘園だったそうです。( ˘ω˘ ) なるほど八幡さまが多いわけだ。その両脇に、県営および町営による圃場整備事業があったことを示す石碑が建ちます。圃場整備とは農地や水路を再編する公的事業であり、この地域で中世以来の水利の仕組みが近代に公的制度のもと整備されたことを示します。遠くに見える伊吹山(標高1,377m)は姉川水系の水源域を形成し、山に降った雨や雪は河川となって湖北平野を潤し琵琶湖へ注ぎ込みます。神社から見える景観は朝日地区の農業基盤をそのまま映し出しています。やがて南北朝の動乱を経て荘園制度が大きく揺らぐと、公家領の支配は次第に武士の影響下に置かれていきます。応永16年(1409)には足利氏による石清水八幡社領への寄進を示す文書が確認されており(滋賀県神社庁HP)、この地の所領関係が室町幕府体制のもとで再編された可能性を示しています。穏やかな景観とは対照的に、湖北は歴史的に戦乱の最前線となった地域です。周辺には古戦場跡や館跡などが残されており、戦国期には浅井長政が小谷城を本拠に湖北を掌握しました。兵糧を支える姉川流域の水田が軍事力の基盤となり、八幡社は村落の結束と水田を守る精神拠点として重要な役割を果たしたと考えられます。安定した収穫を得るには水の確保が不可欠です。その切実な願いを背景に、この地では「朝日豊年太鼓踊」が受け継がれてきました。渇水時の雨乞い習俗を起源とした祭りで、水を司る伊吹山に向けて周辺9か所の村で奉納される雨乞い儀礼です。流域が狭い湖北の河川では、夏の干ばつに悩まされることが多く、農民は天に恵みの雨を祈り、太鼓や鉦を鳴らしながら踊りました。一説には、賤ヶ岳の戦いに勝利した秀吉が陣太鼓を打ち鳴らしたところ大雨が降ったことに由来するともいわれています。近代化が進むにつれ雨乞い儀礼は縮小し、現在は地域の伝統芸能として継承されています。やっとこ御社殿にたどり着きました。御祭神は應神天皇、配祀神に吉備津彦命と蛭子命です。(そういえば近くに吉備津神社跡地がありました)滋賀県神社庁のホームページによると、創始は天文3年(1534)、あるいははるか遡る応永年間(1394-1427)とも考えられています。社殿(?)には鰐口が取り付けられていました。神仏習合の名残りでしょうか。奥に中門があって、そちらは鈴緒でした。八幡さまはこちらのようです。|ω' ) 瑞垣の隙間から覗いてみると中にお厨子のようなものが見えました。この辺りには味わいある仏像があって民間で管理しているというから、ワンチャンこちらも御神体は仏像なんじゃないかなんて思ったりして。(もう閉館してしまったけど東京に長浜観音堂という施設がありました)鳥居越しに望む伊吹山に、山の偉大さをしみじみ感じました。そんな長閑なとこですがGoogleマップを見たら、あのほかほか寝袋で有名なNANGA本社のすぐ近くでびっくりしました。◆八幡神社滋賀県米原市朝日1472
令和5年5月4日参拝わたしの中では滋賀県といえばとび太。今では有名になっちゃって滋賀県内外にとび太がいるほどですが、まだわたしは見慣れてなくていちいち反応してしまいます。人気キャラだけにパクリが多いのも事実ですが、これなんかイラストの再現性の高さから初期のとび太なんじゃないかと思いますが、どうでしょう。七条会館にてその手前でお祭りの準備してたんです。建物の中には神輿が入ってて、お話聞いてみたらここは御旅所だったんです。お祭りは翌日の5月5日で武者行列もあるからぜひ、と勧めていただいたものの、あいにく旅の途中なもんで後ろ髪を引かれる思いで御旅所を後にしました。で、並びに〝足柄神社〟がありまして、せっかくだから寄っていきます。足柄神社、気になりました ( ˘ω˘ )現地案内板によるとこの辺は旧坂田郡という地名で、神奈川足柄にある金時神社(祭神:坂田金時)が浮かびました。驚くことに、旧坂田郡(長浜・米原)では坂田金時(=金太郎)にまつわる伝承が語り継がれているそうなんです。久邇宮朝彦親王御染筆(明治21年)案内板によると、建暦2年(1212)3月、相模国の住人•井関治郎左衛門尉昌武は、かねてよりの願いを叶えるため足柄山箱根権現に参籠し、霊夢を受けて諸国を巡ったのち坂田郡七條村に居を定め郷士となり、この地で足柄大明神を祀ったのがはじまりです。文永年間(1264-75)になり、北条時政四代の孫•経時の後裔とされる時村の嫡子、左近将監盛時が当地を訪れ、社額を仰いで祖先以来の信仰を思い起こしました。八條村宮谷に草庵を結び朝夕参拝を欠かさず、やがて自ら大願主となって社殿を改修、境内を整え旅所を儲け、剣•神輿を奉納して祭礼を盛んにしました。その子孫は別当となり堂塔を建立し、社勢は隆盛を極め、近郷の武士が多数参集したと伝えられます。御由緒に坂田金時の名前は出てこなかったけど、本来なら4月8日が祭礼なのに5月5日になってるあたり、金太郎を意識してるんじゃないかと考えたくなる😆御祭神は大年神。実りを司る神で、記紀では須佐之男命の子とされます。とても大きな御社殿です。幣殿につながる渡り廊下から拝殿を見渡す。御垣内ではお祭りの準備してる氏子さんがいて、お話したけど内容は忘れてしまいました。ただ、気さくに雑談に応じていただいたことは覚えていますw〝天下一能面師近江イセキ◇発祥の地〟という石碑があって、足柄神社を創建した井関さんの直系子孫からすごい能面師が出て、徳川家から「天下一」の称号を受けたので江戸に移り住み近江井関家として活動していたということなんです。近江井関家初代は白山平泉寺三光坊に弟子入りして能面打ちを教わったそうです。碑の由来近江井関家とは、近江国坂田郡七条村(滋賀県長浜市七条町)を発祥の地とし、室町末より江戸初期まで能面を打った家系で、初代上総介親信、二代次郎左衛門、三代備中掾家久、四代河内大掾家重、そして弟子の大宮大和真盛までをいう。井関の能面は◇イセキと裏に刻まれて、それは片仮名イセキと呼ばれる。家重は父から面打ちを習い、ついに徳川将軍より「天下一」の御朱印(許可証)を受け、「天下一河内」の焼印を用い、幕府に召され江戸に移る。家重の長男、家正も能面を打ったが父におよばず、井関家の伝統は弟子大宮大和が継ぎ、彼も「天下一」の御朱印を受ける。しかし、大和を最後に近江井関家は絶えた。家重の彩色(能面の肌の色付け)は「河内彩色」と呼ばれ世に名高く、観世流の女面「若女」を創作し、世に送り出す。井関一族の中には、この正系以外にも能面を打つ者があり、鞍打ち、獅子頭、鼓打ち、欄間彫刻を手がける彫刻家集団であった。 能面師 坂口裕子(真弓能)河内彩色、四代目河内、なるほど〜✨実はこの3ヶ月前にトーハクでちょうど天下一河内の能面を見てました(写真左の方)。ただしこれは写しの名作、秀作というのか。令和5年2月25日ちなみに天下一是閑の「若男」がなんともたまらない表情してるのよ。興福寺の阿修羅像を思わせるような。是閑も三光坊の直弟子なんです✨ちょっと脱線しましたが、境内に石垣構造の窪地があったりして変わった設計なのが印象的でした。機会あればお祭りの日に行きたい神社。◆足柄神社滋賀県長浜市七条町700
令和5年5月4日参拝竹生島から戻り、長浜のまちを観光します。その長浜について簡単にまとめてみました。・秀吉と長浜城下町のインフラ整備豊臣秀吉は浅井氏滅亡後、琵琶湖畔の今浜を拠点に長浜城を築き、城下町を計画的に整備しました。古い漁村であった土地に商人や住民を集め、東西南北に整然とした町割りを施すことで都市機能と防衛性を両立させました。町衆には年貢や諸役の免除を与え、商いや生活の安定を図った結果、多くの町民が恩恵を受けました。一方で、従来の住人は生活基盤の変化を余儀なくされ、一定の負担を強いられた可能性もあります。この施策を基盤として長浜は商工業都市として発展し、現在も町割りの名残りをとどめる城下町として保存されています。旅先でたまに町ぐるみアンチ秀吉な土地があるのはこういう背景があるのですね。長浜の場合は、若き秀吉の出発点として町の歴史の1ページに刻まれています。ご飯を食べるのに長浜駅の反対側へ来ました。長浜港と違ってにぎやかな駅前通りから人通りに釣られて北国通りへ入るとおもしろい建物は浄琳寺という真宗のお寺さんでした。太鼓楼なんだって。お寺と知ったからには(お参りはどこから‥?)案内板を読み込んでみると文末に拝観やってないと書いてありガッカリ ( ノД`)おみやげも食事も充実。つい立ち止まってしまうほど気の利いたお店がたくさん並んでいました。せっかくだから神社に行ってみるんですけど、この二日間あまりにも有名な寺社ばかり行ったのでがっついてまわる程の気持ちはありません。清正公の銅像、正面からは超逆光でした‥。あ‥、瓢箪。秀吉が城主となった長浜では瓢箪が町おこしのロゴや土産物にも使われています。秀吉の馬印だった瓢箪が、縁起のよさと天下人へと上り詰めた物語が重なり、秀吉ゆかりの場所ではあちこちで目にします。冒頭で書いたとおり、長浜では秀吉による区画整理で町の礎が築かれ、多くの恩恵を受けました。秀吉の没後は京都の廟に倣っていち早く秀吉を祀りましたが、徳川幕府の下では秀吉を公然と祀ることが難しくなり、長浜の人々は恵比須社の姿を借りて思いをつなげたと伝えられています。明治の復祀により、恵比須社は再び豊国神社となり、現在の御祭神は豊臣秀吉公・加藤清正公・八重事代主命・木村長門守重成公です。社殿の裏へグイグイと。これは稲荷神社の本殿か。御垣内はかなり広く取られていました。豊国神社から並びの稲荷をお詣りして鳥居群を抜けてきたわけですが、振り返ってびっくり。なにこのひとは⁉︎こんなおしゃれな狐さん他にないよね。デザイナーさん攻めすぎ〜、それを受け入れた神社の懐の深さにも拍手したいです🤣!御朱印は豊公(ほうこう)の墨書きに‥印影はっきりしませんが瓢箪と花押でしょうか。遠出してるので気持ち大きくなってたくさん御朱印いただきました。ここの沿革を知って「恵比須の御朱印もらっといてよかった」とつぶやいた瞬間ドキッとしました。正夢です。◆豊國神社滋賀県長浜市南呉服町6-37