ヨハネの福音書     43 | 本当のことを求めて

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ヨハネの福音書     43  16章1節~11節

 

神様を知らない民

16章に入り、1節でイエス様は、「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです」とおっしゃっている。「つまずき」とは、一度イエス様を信じておきながら、後にそれを否定することである。迫害に耐えかねて、信仰を捨ててしまうことである。さらに続く2節では、「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます」と語られている。これも前回見たように、迫害は、神様を知らないこの世から来る。そして、特に弟子たちは、ユダヤ人たちからの迫害を受けることになる。

ユダヤ人は、自分たちは神の民であるという誇りを持っている人々である。その神の民であるユダヤ人が、なぜイエス様を信じる者を迫害するのだろうか。次の3節でイエス様はその答えとして、「彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです」とおっしゃっている。

口先では、神様のことを語っていても、実際は神様を真実に信じておらず、迫害する者たちは、神様を知らないのである。つまり、生まれながらにしてユダヤ人である、ということは、イエス様の救いとは何ら関係ないことが明らかなのである。

 

現在において

以上述べたことは、まず第一に、弟子たちが直面する迫害についてのことである。しかしこれは当時に限ったことではなく、今現在の日本においても、そのまま当てはまることである。

その場合、イエス様を信じる者たちを迫害して、「自分は神に奉仕しているのだと思う」者たちは、一般の人たちであるわけがない。特に日本においては、ほとんどの人々が、真実の神様を知らないのである。したがって、これは、真実に救われていないにもかかわらず洗礼を受けた偽クリスチャンであるか、あるいは、真実に救われているにもかかわらず、肉の生活を有利に進めるためにこの世に同調して、イエス様の御言葉に歩まない人々である。

 

御言葉による勝利

続く4節前半でイエス様は、「しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです」とおっしゃっている。

上に述べたように、イエス様を信じる者たちを迫害して、「自分は神に奉仕しているのだと思う」者たちは、聖書の御言葉をもって攻撃して来る。そのとき、そのような攻撃の言葉を聞いて、逆に、間違っているのは自分たちの方ではないか、などと思うことが最も危険なことであり、それこそ相手の思うつぼなのである。

そのような偽りの聖書解釈や聖書引用をもっての攻撃に対しては、正しい聖書解釈のみが拠り所となる。真実に救われ、御霊がその者の上に下る時、その御霊が御言葉を正しく教えてくださる。まさに弟子たちも、ユダヤ人たちが御言葉や律法などを持ち出して攻撃して来た時、御霊が「わたしがそれについて話したこと」、つまりイエス様の御言葉を正しく思い出させてくださり、勝利を得たのである。

 

これらのことを話される

そして、4節後半から5節前半でイエス様は、「わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています」とおっしゃっている。

イエス様の弟子たちは、間もなくイエス様はユダヤの王となられるのだ、という期待をもって、3年間従って来た。以前にも述べたように、イエス様は彼らのその誤った期待を利用して、3年間、彼らの耳に御言葉を聞かせ、その目にみわざを見させられたのである。

もし、「初めからこれらのことをあなたがたに」話したのなら、つまり、ユダヤの王にはならず、ローマ帝国を追い出すこともせず、そのまま神様のもとに行ってしまう、ということを話したのなら、途中で彼らはイエス様から離れたであろう。それでは、いくらペンテコステの日に聖霊が下っても、彼らが思い出す御言葉がほとんどない、ということになってしまう。そのため、イエス様は「これらのことをあなたがたに話さなかった」のである。しかし、十字架の時が迫ってきたこの時点では、もうここですべてを語らねば時間はないのである。

 

聖霊様が下される

迫害についての御言葉をイエス様が語られ、そして「わたしを遣わした方のもとに行こうとしています」とおっしゃっても、弟子たちには何のことかわかるはずがなかった。特に、どこかにイエス様が行かれてしまう、などということは、彼らにとっては、あってはならないことであった。したがって、弟子たちは、5節後半にあるように、誰一人として、どこに行くのか尋ねる者がなく、「かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになって」(6節)いたのである。

続いてイエス様は7節で、「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」とおっしゃっている。

単に、イエス様が天に昇れば、聖霊様を弟子たち、そして信じる者たちに遣わす、というのではなく、「もしわたしが去って行かなければ」とおっしゃっているところに注目すべきである。そして、その去る方法は十字架の道である。つまり、十字架の贖いと聖霊様は、密接な関係にある、ということである。

 

誤った教え

一方、聖霊様と十字架の贖いを結び付けることを軽んじてしまうと、「聖霊を受けるためには、罪があってはならない。なぜなら、聖霊様は聖なるお方だからだ」などという、とんでもない誤った教えが語られることになる。この誤った教えは、人間の常識から見ても正しく思えてしまうため、非常に警戒しなければならないのである。

聖霊様は十字架の贖いの結果、信じる者に下されるのである。つまり、もはや十字架の贖いによって罪は解決されているので、信じる者においては、聖霊様が下るために妨げになるような罪は存在しない。もっとも、日本のほとんどの教会では、罪を道徳的罪と混同しているために、つい自らを顧みる時、確かに、これこれの「罪」がある、だから、聖霊様を受けるわけにはいかない、などという、サタン悪魔が喜ぶ考えに陥ってしまうのである。

イエス様を信じ救われた時、すでにその者には聖霊様が下されているのである。そして、その者が主に目を向けさえするならば、いつでも、その聖霊様に満たされることができるのである。そのように、信じ救われた者は幸いなところに立っているにもかかわらず、誤った教えがその幸いを奪い去ってしまうとしたら、そのような誤った教えを説く教師や牧師は、サタン悪魔からの使いであるとさえ言わねばならない。

 

その誤りとは

8節でイエス様は、「その方が来ると、①罪について、②義について、③さばきについて、世にその誤りを認めさせます(番号は便宜上付けた)」とおっしゃっている。「その方が来ると」という時点は、ここまで繰り返し述べられてきたように、聖霊様が下されるペンテコステ以降のことを指す。

そして続く9節で、「①罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです」とおっしゃっている。では、①罪についての「その誤り」とは何であろうか。まず、ユダヤ人社会においては、それは「律法を守らないこと」である。しかし、イエス様が来られ、十字架の贖いを成就された新約時代では、その「律法を守らないことは罪である」ということは「誤り」となる。イエス様は、律法をすべて守られ、それを成就されたのではなく、その十字架の贖いによって律法を無効とされたのである。

罪はあくまでも、絶対的な神様を信じないことである。そして、聖霊様が下される新約時代、イエス様を信じてこそ神様を知ることができる。それは、信じた者に聖霊様が下され、その御霊が神様を啓示されるからである。

したがって新約時代には、人はイエス様を信じてこそ、神様を知らないという罪が解決されるのである。すなわち、「罪とは何か」を直接的に表現すると、イエス様を信じないこと、ということになる。9節で、「①罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです」とおっしゃったイエス様の御言葉の意味は、まさにこれである。

 

新約時代における義

続く10節でイエス様は、「また、②義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです」とおっしゃっている。では、②義についての「その誤り」とは何であろうか。すでに「義」の反対である「罪」について述べたので、ここで多く述べる必要はない。すなわち、②義についての誤りとは、ユダヤ人社会においては、律法を守ることであり、異邦人社会においては、道徳的なことをことごとく守ることである。しかし、そのようなことは、新約時代においては、全く意味がない。

人が義とされること、つまり罪が解決されることは、イエス様を信じ救われることである。ではその救いとはどのように成就されたのであろうか。これももはや述べる必要がないが、イエス様が十字架にかかられ、復活され、天に昇られたことによる。まさに、「わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなる」ことが、義の正しい意味なのである。

 

新約時代における裁き

そして、11節でイエス様は、「③さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです」とおっしゃっている。では、③さばきについての「その誤り」とは何であろうか。もちろん、これも、罪を犯した者が裁きを受けるわけであるから、罪が何であるか、ということに深く関わっている。すなわち、ユダヤ人社会においては、律法を守らない者に神様から裁きが下る、とされることであり、異邦人社会においては、道徳的なことを守らない者に裁きが下る、とされることである。そのようなことは、新約時代においては、誤りである。

さて、そうすると、ここまでの御言葉の流れからすると、裁きについての正しい意味は、「神様を知らない者がさばかれる」、あるいは、「わたしを信じない者がさばかれる」となるはずである。しかし、イエス様はそのようなことはおっしゃらず、「この世を支配する者がさばかれたからです」とおっしゃっている。

それも、「さばかれる」ではなく、「さばかれた」である。終末の時、この世を支配する者、つまり、サタン悪魔が裁かれることは、『黙示録』に明記されている通りである。しかし、この御言葉は、ペンテコステ以降の時点についての御言葉である。ペンテコステは、イエス様の十字架の後50日目のことなので、終末ではない。キリスト教会での解釈は、当然のように、終末の裁きのことを指しているとしているが、それならば、「さばかれるからです」とならなければならない。では果たして、この御言葉はどのような意味なのであろうか。

 

救われた者の証

ペンテコステの時、聖霊様が信じる者たちに下され、信じる者たちが救われる歴史が始まる。救われた者たちは、それ以上、何をする必要はなく、自らの意思で救いを否定しない限り、救いは取り消されない。つまり、救われた時点で、その者は、この世にいながら、この世を支配する者であるサタン悪魔から解放されたのである。

さらに解放されたばかりではなく、救われた者は御霊によって救いを証する。その証によって、悪魔サタンはイエス様に何もできない、ということが証明される。それは、終末に起こることではなく、この世において行なわれることである。まさに、ペンテコステ以降、信じる者たちによって、「この世を支配する者がさばかれた」状態が実現するのである。

 

誤った教え

ここからも、既存のキリスト教会での誤った教えが明らかとなる。既存の教会では、イエス様を信じただけではダメで、きよめられなければ天国に入ることはできない、と教えている。つまり、イエス様を信じ救われただけでは不十分であるとするのである。このような教えでは、決してこの11節を正しく解釈することはできない。

この誤った教えによっては、終末が来る前に、悪魔サタンへの裁きは行なわれないこととなってしまうからである。救われただけでは不十分である、となると、救われた者は力強く救いを証することはできない。まだこれから救われるためにやらねばならないこと、それも、人間的には不可能と思われることが残されているのだから、どうして証などできようか。

さらに聖書の多くの箇所には、救いを証するように勧める御言葉が記されている。誰が読んでもそれはすぐにわかる。しかし、自分自身の心情において、とてもきよめられるとは思えない、それでは、自分は救われないのではないか、天国へは行けないのではないか、などという思いは否定できない。このように、幸いにもイエス様によって救われたとしても、既存の教会の誤った教えによって、証する力が奪われてしまっているのである。実に恐ろしいことである。

 

裁きはすでに行なわれた

この「裁きはすでに行なわれた」ということは、非常に重要な真理である。イエス様は『マタイ』7章1節から2節で、「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」とおっしゃっている。この御言葉も、すでに裁きは済んでいる、という霊的事実に基づいた御言葉なのである。

裁きはすでに済んでいるにもかかわらず、教会の中で、クリスチャンの中で、真実に救われている者に向かって、あの者は罪を犯した、あの者は地獄に落とされる、などと盛んに言われることはどうしたことであろうか。もちろん、それは上に述べたように、イエス様の御言葉を正しく解釈していないからである。