『創世記』    1          1章1節~31節

 

天地創造

聖書の冒頭の『創世記』1章1節の御言葉は、「初めに、神が天と地を創造した」である。この御言葉は、天地創造の過程のすべてを指しているのであり、いわば、これからの箇所の見出しのような役割がある。

そして次の2節には、「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた」とあるが、この御言葉はあくまでも、天地創造以前の「何もなかった」ということを表現している箇所である。

ここに、「やみ」と「大水」と記されているが、これは一般に人間が認識している「やみ」でもなく、「水」でもない。この「やみ」は、次の3節にある「やみ」とは別物である。この「やみ」は、あくまでも、「何もない」ということを象徴する表現である。どうように、「水」も、6節以降にある「水」とは別物である。この「大水」「水」という御言葉は、6節以降に「水」が創造される前段階の表現と解釈すべきである。

 

「やみ」の本質

3節には、「神は仰せられた。『光あれ。』すると光があった」とある。そして次の4節に「神は光を見て良しとされた。神は光とやみを区別された」とある。

聖書の冒頭より明らかにされている事実は、神様は天地万物を、相対関係が基礎となる存在として造られた、ということである。神様が造られたこの世は、すべて相対関係にある。これは聖書を貫く真理であり、すべて相対関係ということを抜きにしては、どのような御言葉も解き明かすことはできない。この天地創造の箇所には、繰り返し「区別された」という御言葉があるが、それがまさに相対関係に置いた、ということを表わしている。

このように、この光は、「やみ」を光の相対関係にあるものとして、「やみ」を成立させるものである。

神様は永遠の光であるから、ここで、神様が光を創造されたと解釈することは誤りである。ただ、相対関係の世を作るために、光に相対する「やみ」を創造するために「光あれ」とおっしゃり、神様の光を照らされた。その瞬間、世に光の相対関係にある「やみ」が現われたのである。

神様には「やみ」はない。したがって、神様は「やみ」を創造しなければならなかったのである。「やみ」は、このようにあくまでも光の相対関係にあるものであり、いわば「光の欠如」ということをその本質とする。

そして5節にある通り、光のある時を「昼」とし、その光のない時を「夜」とされた。しかしこの時点ではまだ、太陽や月が創造されていないので、まだまだ私たちが体験している世とは大きくかけ離れた状態であったが、昼と夜が成立することにより時間が創造され、第一日となった。

 

海と陸地

6節から8節では、「神は仰せられた。『大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。』神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日」とある。

この「大空」は大気の存在する空間であり、「下の水」は海であり、「上の水」は雲などの水蒸気である。しかし、まだ陸が創造されていないので、「下の水」を海とは名づけられていないだけである。

そしてここで「大空」を天と名づけられたとある。この天は、相対関係が成立して表わされた「天」であり、神様の御国である天ではない。現在でも、天の御国を象徴するものは、人間の頭の上に広がっている天であるが、もちろん、そのような天は宇宙空間まで広がっている空間に過ぎない。神様は、そのような空間をここで創造されたのである。そして第二日となった。

9節から10節で、神様は陸地を造られ、それにより、水の集まった所が海となった。ここで「かわいた所を地と名づけ」(10節)とあるが、これはあくまでも陸地である。天と相対関係にある「地」に相当する所は、すでに前の節で、「大空の下の水」が現われた時に創造されたと見るべきである。水も天と相対する「地」である。

そして陸地が現われたのであるから、そこに生じる植物が造られた(11節~12節)。第三日である(13節)。

 

太陽と月

14節から18節では、神様は太陽と月を創造された。ここまで来ると、私たちが体験している世とほぼ同じとなったわけであり、比較的理解しやすい。昼をつかさどる太陽と、夜をつかさどる月を創造され、また星が造られた。

ここに、月を「小さいほう」と表現されているが、実は、地上から人間が見る太陽と月は、大きさは全く同じである。人間の目には、太陽はまぶしい存在であり、月はゆっくりと眺めることができるほどの光しかないので、心情的には太陽の方が大きく見えるのは理解できるが、実際は全く同じである。もちろん、月は太陽と比較にならないほど小さいが、それは天文学が発展してきて明らかになったことである。

そのような太陽と月が、地上から見れば全く同じ大きさに見える、ということについて、一般の人々は単なる偶然と言うが、大きさも全く違い、地球からの距離も全く違う二つの天体が、全く同じに見える位置に来る確率を考えてみれば、それを単なる偶然などという言葉で片付けられないのは明白である。しかし人間の常識では、それ以上の説明ができないので、「偶然」と言うのである。その理由は、今回のこの本文に明らかなように、神様は人間を中心として宇宙の天体も造られたので、人間から見たら同じ大きさになるよう、太陽と月を創造されたのである。

光と「やみ」の区別はすでに4節に表されていたが、より具体的にその区別をはっきりとさせるために、太陽と月が造られ、その区別により季節や暦が表され、第四日となった(19節)。

 

生めよ。ふえよ

そして、20節から25節の第五日から第六日の前半にかけての箇所は、読んですぐわかる通り、生き物を造られたことが記されている。ここで、神様の最初の祝福の御言葉が記されている。それは「生めよ。ふえよ」である。この祝福も、聖書を貫く祝福の基礎となる御言葉である。このように、人間が神様から離れる以前の段階では、「滅び」という概念はなかったのである。この箇所のその他の部分は、特に説明するまでもない。

 

「われわれ」とは

続く26節から27節には、「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」とある。

人間についての創造の過程は、後の2章にも記されているが、ここで注目される御言葉は、「われわれに似せて」という箇所である。

この「われわれ」と複数形になっていることは、キリスト教神学では、「神様は三位一体であるために、複数となっているのだ」と結論付けている。さらに神学では、「われわれ」が三位一体なる神様を指すとするため、「似るように」とあっても、神様が人間のように手とか足とか顔を持つわけがないので、当然、それは見た目ではなく、神様と同じように、「自由意志」を持つ、というところが「似る」ことなのだと解釈している。

しかし、「自由意志」などという言葉は、聖書のどこにもない。そして、あくまでも「われわれに似るように、われわれのかたちに」とあることから、それは「かたち」であって、「自由意志」のような抽象的概念ではないことは明らかである。

では、この「われわれ」とは、何を指すのであろうか。実は、聖書における表現では天使たちや神の人と記されるところの、霊的存在を指すのである。その霊的存在も被造物であるから、神様が造られたのである。さらに聖書には、天使たちがいつ造られたかは記されていない。しかし、天地万物が造られる前にすでに天使たちが創造されていたとするなら、この「われわれ」とは、天使たちと解釈できるのである。

天使たちは言うまでもなく神様ではないが、天地万物が創造される前にすでに天使たちが存在しているなら、人間ではない「霊的存在側」として、天使たちを含めて、神様が「われわれ」と呼ばれても、それはじゅうぶんあり得ることである。つまり、「先に存在していた方々と同じように人間も」、という意味である。

この「われわれ」を、天使たちと解釈するならば、聖書の中にたびたび登場する、「神の人」や天使たちが、肉は持っていないが、人間と同じ「かたち」をしていることも非常に納得がいく。さらに、キリスト教以外の正しい宗教の中で、霊的存在の方々を人間と同じような姿としていることも、それは、単に人間にわかりやすいように、人間と同じような姿として表現した、ということではなく、しっかりと霊的存在を、その霊的目をもって感じ取っていた、と解釈するならば、これも非常に納得がいく。

さらに、この裏付けになる御言葉がある。それは、『ヨブ記』38章4節から7節の箇所である。まず4節には、「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ」とあり、神様が天地万物をお造りになった時の御言葉が記されているが、その3節後の7節では、「そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ」とある。

すなわち、目に見える天地万物が創造された時、明けの星々や神の子たちが喜んだとあり、天地創造の前に、すでに天使などの霊的存在がいたことが明らかとなっている。このことは、キリスト教会では全く指摘されていないことである。

 

「似る」とは

ここまでは、「われわれに似るように」の「われわれ」という言葉に焦点を当てて述べたが、ではその次の「似る」とは何を意味するのであろうか。明らかに、人間と他の動物との違いは、この「似る」というところにあることがわかる。

次の箇所となるが、2章7節に「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」とある。しかし、この「いのちの息」という言葉は、今回の範囲内の1章30節に「また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える」とあり、「いのちの息」を吹き込まれたのは、人間に限ったことではないことがわかる。これは、生き物は呼吸をしていることから、このような記述となっているのであり、人間に限ったことではない。

既存のキリスト教神学では、この「いのちの息」を、神様の霊と解釈する傾向にあるが、それは誤りである。これについては、次回にも述べる。

 

ノアの箇所の記述

これについて、明確な示しを与えてくれる箇所は、『創世記』6章のノアの箱舟の記述の中にある。ここで、その箇所について、詳しく見て行きたい。

6章3節に、「そこで、主は、『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。』と仰せられた」とある。さらに、その後、5節には「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった」とあり、その結果、神様は、ノアとその家族以外の人間をすべて、洪水によって滅ぼすことにされたのである。

神様は、なぜノアを滅ぼされなかったのだろうか。それは、ノアだけは神様を信じており、つまり、ノアの中には、神様の霊がとどまっていたからである。神様は、ご自身の霊がとどまっている者を、決して滅ぼされない。いや、そのようなことは、ご自身を否むことであるので、おできにならないのである。

 

人間の霊と肉

ここでも、神様はこの世を相対関係にあるものとして創造された、ということを忘れてはならない。この世を創造されるにあたり、神様は、神様の霊に相対するものとして、肉を造られたのである。先に創造された霊的存在は、相対関係にはないので、ただ神様の霊を持っているだけである。上に述べたように、霊的存在は「かたち」は形成していても、それは肉ではなく、あくまでも神様の霊が「かたち」として表わされた姿なのである。

しかし、人間は、神様の霊に相対するところの肉を持っている。そして、人間が神様から離れていない限り、神様の霊は、人間の中に留まっているのである。そしてもし人間が、神様の霊から離れ、もっぱら肉として生きるならば、神様の霊はその人間に留まってはいない。そうなると、ノアの時のように、神様は肉に過ぎない人間を滅ぼすことをされるのである。

ここから、「われわれに似るように」という御言葉の深い意味が明らかとなる。つまり、神様は、先に造られた霊的存在と同じように、神様の霊をその内に留める存在であり、さらに、霊と相対する肉を持つ人間を造られたのである。霊を内に留めているので、「われわれに似る」のである。

したがって、新約時代となって、イエス様を信じて救われるならば、再び、離れていた神様の霊が注がれる。そのために、イエス様は、肉を持ってこの地上に来られたのである。救われた者は、その内に御霊が住まわれるのであるから、神様はその者を滅ぼすことはおできにならない。

 

支配せよ

そして神様は、28節から30節にあるように祝福された。神様は人間に対して、「すべての生き物を支配せよ」とおっしゃられたが、これはあくまでも神様のみこころに従って支配することである。神様の霊を宿しているならば、そのみこころに従って、すべての生き物を支配することができるはずである。

しかし今の世の中のように、神などいないということが大前提となっている状況の中、神様から離れ、肉に過ぎない人間がすべてを支配しているため、かえって自然破壊が起きており、それがさらに人間の生活環境の破壊となっているのである。

このようにして第六日となった。これまでの天地創造のみわざは、神様のみこころ通りに行なわれた。「非常に良い」ものであった(31節)。