『妙法蓮華経』、いわゆる『法華経』の第二十五章目は、一般的に「観音経」と呼ばれている、「観世音菩薩普門品」である。

私もこの経を、40年以上読んでいるが、ひとつだけ、よくわからない箇所があった。

その箇所の内容は次の通り。

釈迦如来、つまりお釈迦さんは、無尽意(むじんい)菩薩という菩薩を相手に、観世音菩薩の功徳についていろいろ語っておられた。その無尽意菩薩に語られている内容を、周りの聴衆が聞く、という形である。

観世音菩薩を念じれば、どんな危険な中でも大丈夫であること、そして観世音菩薩はその人にふさわしく、いろいろな姿となってその人に現われるのだ、ということなどが語られていた。

そのような話を聞いた無尽意菩薩は感動して、自分の首飾り、それも「無量百千両金」と表現されるほどの高価な首飾りを外し、そこにいる観世音菩薩にささげようとした。しかし、観音様はそれを受け取らなかった。すると無尽意菩薩は再び、この世の生きとし生けるものたちをあわれんで、どうか受け取ってくださいと願う。その様子を見たお釈迦さんも、観音様に、この世の生きとし生けるものたちをあわれむために、観世音菩薩よ、それを受け取るがよい、と勧める。すると観音様はそれを受け取り、二つに分け、ひとつはお釈迦さんに、もう一つは、お釈迦さんが説く『法華経』が真実であることを証明するためにそこに来ていた、多宝塔如来(たほうとうにょらい)にささげたのであった。

このような内容であるが、私は、なぜ無尽意菩薩の首飾りを、観世音菩薩がいわゆる布施として受け取ることが、この世の生きとし生けるものたちをあわれむことになるのか、ぜんぜんわからなかった。それを受け取って、この世の人たちにコロナの給付金として分けなさい、ということではないことは確かである(当たり前だ)。

しかし、この度、それを私は悟ることができた。

前も書いたように、真理は絶対的である。しかし、この世は相対的な次元であるので、絶対的存在である仏や菩薩も、この世で働くためには、相対的な姿にならなければならないのだ。観音様の正体も、絶対的存在であり、真理である。したがって、最初、無尽意菩薩がささげようとした首飾りを、遠慮して受け取らなかったのではなく、受け取れなかったのである。絶対的存在が、相対的次元にある首飾りを受け取ることはできないのである。しかし、この世の教主であるお釈迦さんが、観音さんが相対的な姿となって、その首飾りを受け取ることを勧め、観音さんもそれに従って、相対的姿となって、首飾りを受け取り、さらに、この世に対して真理の教えとして説かれた『法華経』に供養するため、教主であるお釈迦さんと、『法華経』を証明する役割を持つ多宝塔如来にそれを分けてささげたのである。

つまり、ここで観世音菩薩は、絶対的存在から相対的存在となった、ということなのであり、相対的存在となったために、この世の生きとし生けるものたちをあわれむことができるようになったということである。ここではじめて、「観音経」で説かれる内容が実際、この世で成就した、ということを意味しているのである。したがって、無尽意菩薩はただ自分の感情によって首飾りをささげたのではなく、この行為は絶対に必要だったということなのである。