ヨハネの福音書     44 | 本当のことを求めて

本当のことを求めて

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ヨハネの福音書     44  16章12節~33節

 

耐える力がない

12節でイエス様は、「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません」とおっしゃっている。ではなぜ、「それに耐える力が」ないのだろうか。その答えとしてイエス様は、続く13節で「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです」とおっしゃっている。

すなわち、この時点では、弟子たちにまだ御霊が下っていないため、彼らにはイエス様の御言葉がわからないということである。しかし、御霊が下ると、その御霊がすべてを教えて、真理に導き入れて下さる。これも今まで何度も繰り返し述べてきたことである。

 

しばらくすると

そして14節から15節でイエス様は、「御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです」とおっしゃっている。

救われた者が引き続きこの世に生きる意味は、神様のご栄光をこの世に現わすためである。「御霊はわたしの栄光を現わします」とおっしゃっているように、救われた者の中におられる御霊が、そのことを成し遂げられるのである。救われた者は、その御霊の導きにゆだねさえすれば、本人の努力でもなく、意志でもなく、御霊がそれを成し遂げられるのである。

続く16節で、イエス様は、「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます」とおっしゃっている。イエス様は十字架にかかられ、天に昇られ、弟子たちはイエス様を見なくなるが、ペンテコステ以降、御霊を受けた者たちは、前節にあったように、御霊によってイエス様を見るのである。

これを、イエス様が十字架にかかられ、復活され、弟子たちやイエス様に従って来た人々に姿を現わされる、その40日間のことだと解釈してはならない。ここまでの御言葉の流れは、明らかに、ペンテコステ以降の御霊のことを語っておられる内容である。

イエス様が天に昇られる前に、限られた人々にその姿を現わされたのは、あくまでも、ペンテコステまで、弟子たちが散り散りにならないようにするためであった。ペンテコステまでの期間においては、イエス様が姿を現わされても、それによって御霊が下ったわけではなく、誰一人として、霊的真理を知る者はなかったのである。

 

産みの苦しみ

このようなイエス様の御言葉を聞いた弟子たちは、もちろん何のことだかわからず、互いに論じ合っていた(17節~19節)。それに対して、20節でイエス様は、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります」とおっしゃった。

「世は喜ぶ」とあるが、これは、この世の人々が喜ぶ、ということではなく、この世を支配する者、つまり、悪魔サタンが喜ぶ、ということである。しかし、イエス様が復活され、天に昇られることによって悪魔サタンは敗北し、信じる者は、御霊の喜びに満たされるようになるのである。

そしてイエス様は、その弟子たちの悲しみと、その後の喜びを、出産の苦しみと喜びに例えて語られている(21節)。続く22節ではそれを受けて、「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません」とおっしゃっている。

上に述べたように、「もう一度あなたがたに会います」ということは、40日間、弟子たちや従って来た人々の前に、お姿を現わされたことではない。なぜなら、確かにその時、喜んだ者たちもいたが、その喜びは永遠に継続するものではなかった。イエス様が天に昇られた後は、再び弟子たちは、ユダヤ人たちを恐れて隠れるようになったのである。奪い去られることのない喜びは、ただ御霊による喜びのみである。

 

その日には

23節の前半でイエス様は、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません」とおっしゃっている。「その日」とは、ここまで繰り返し述べられてきたように、ペンテコステの日のことである。ペンテコステの日に御霊が下ってこそ、弟子たちは真理に導き入れられ、もはやイエス様に質問する必要はなくなるのである。尋ねる必要がなくなるということに留まらず、弟子たちや御霊を受けた者たちは、その御霊の導きとその真理によって、この世に出て行って、主のご栄光のために働くようになったのである。

そして、その彼らの働きにおいて不可欠なことについて、イエス様は続く23節後半から24節前半にかけて、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです」とおっしゃっている。

この御言葉と同じ内容の御言葉としては、すでに見た箇所において、14章13節から14節と、15章16節であり、これについてはすでに述べた。救われるということは、この御言葉にもあるように、「父が子によって栄光をお受けになる」ためであり、そのために生きるならば、「何でも父があなたがたにお与えになる」のである。これはある意味、あまりにも当然のことであり、説明の余地はない。

 

たとえによって

さらにイエス様は、24節後半で、「それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです」とおっしゃっている。この喜びとは、これも言うまでもなく、御霊の喜びである。そしてイエス様は25節で、「これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます」とおっしゃっている。『新改訳』の下の注には、「たとえで」という箇所の直訳として「比喩を用いて」となっているが、この方がわかりやすい。

そしてこの「たとえ」という言葉は、同じ『ヨハネ』10章6節でも使われており、その節を引用すると、「イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった」とある。この節は、羊の門と羊の牧者のたとえが語られている箇所にある。したがって、イエス様は、今まで語られてきた多くのたとえ、つまり比喩を用いた御言葉全般を指して語っておられることがわかる。

御霊がまだ下っていない状態では、イエス様の御言葉は理解できない。理解できないことは、記憶されにくくなる。ペンテコステ以前においては、御言葉を理解しなくてもいいのであるが、記憶はしなければならない。抽象的かつ理論的な内容は、それを理解できなければ、なかなか頭に残らないものである。そのため、イエス様は抽象的な表現はできるだけ避けられ、具体的なイメージで頭に残るよう、比喩を用いて多く語られた。しかし、御霊が下るならば、御言葉に対する理解も伴うので、「父についてはっきり告げる時」となるのである。

 

神様に愛される

続く26節では、「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません」と語られている。

救われた者の祈りは、イエス様がとりなしをされて、父なる神様に届く、ということではない。イエス様は、祈る者に代わって願ってあげようとは言わない、とおっしゃっている通りである。イエス様が三年間、弟子たちと歩まれた中では、もちろん、イエス様は弟子たちに代わって祈られてきた。しかし、ペンテコステ以降、救われた者は、イエス様の御名によって、その者自身が、その者の意志によって祈るのである。

そしてその理由も続く27節に、「それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです」と語られている。

救われた者の祈りが、父なる神様に受け入れられる理由は、神様ご自身がその者を愛しておられるからなのである。救われていない状態では、人は神様から離れている。愛は流れである。もちろん、神様から離れている者たちを神様は愛され、御子イエス様をこの世に送られたわけであるが、それは、神様のご愛が成就するためである。愛の成就とは、神様からの愛が流れ、再び、神様に返される流れである。神様に愛が返される、ということは、神様にご栄光が返されることと同義である。

言うまでもなく、人は救われてこそ、神様のご愛を受け入れ、それを神様にお返しすることができるのである。イエス様の御名によって祈るということは、その者が救われており、神様のご愛を受け入れ、それをお返しすることのできる、ということの告白に異ならない。

そして次の28節では、このような愛が成就するために、「わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます」と、イエス様は具体的に救いについて、つまり、十字架の贖いと復活について語られている。イエス様の十字架の贖いと復活こそ、ここまで述べて来たすべての意味において、神様のご栄光そのものである。

 

今信じているのですか

続く29節から30節には、「弟子たちは言った。『ああ、今あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。いま私たちは、あなたがいっさいのことをご存じで、だれもあなたにお尋ねする必要がないことがわかりました。これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます』」とある。確かに、上に見たように、イエス様はもはやたとえ、つまり比喩を用いず、ストレートにご自分が去って行き、御霊が信じる者たちに下るようになることを語られている。

しかしこれに対して、イエス様は続く31節で、「あなたがたは今、信じているのですか」(31節)とおっしゃっている。これは、「今ごろ、信じたのですか」という意味ではなく、「今はまだ信じられるときではないのに、信じているのですか」という意味である。御霊が下っていないこの時点では、弟子たちは御言葉を理解することなどできないはずである。

 

悪しき自己暗示

ではなぜ、弟子たちは、わかりました、というようなことを言ったのであろうか。これまでは、弟子たちはたびたび、イエス様の御言葉がわからない、ということを言ってきたが、これほどまで多くのメッセージを聞いてくると、だんだん、理解しているような気持ちになってきたのと同時に、理解したい、というあせる気持ちから、理解したという自己暗示をかけてしまったのである。

さらにイエス様は、このことを具体的に示すために、続く32節前半で、「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています」とおっしゃっている。つまり、弟子たちがイエス様を捨てて、逃げ去ってしまう時が今、すでに来ているという意味である。まさにこの直後、イスカリオテ・ユダが兵士たちや役人たちを連れて、イエス様と弟子たちの目の前に現われるのである。時間的なことを考えれば、すでに彼らはその場所に向かっていたに違いない。

この時点でも、誰一人として、ユダが裏切るなどとは夢にも思っていなかった。したがって、この御言葉も、弟子たちは全く想像もしていない内容であり、ただ茫然と聞いているだけだったのである。

そしてイエス様は、33節前半で、「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです」とおっしゃっている。この節の直前の御言葉は、弟子たちがイエス様を捨て去ってしまう、という内容であるので、とても、平安という言葉に結び付く内容ではない。

しかし、この「わたしにあって」とは、言うまでもなく、御霊を受けることである。救われて、御霊を受けてこそ、イエス様にある人生を歩むことができるようになる。御霊を受けず、聖書に記されているイエス様の御言葉だけを暗記したとしても、何にもならないどころか、上に述べたように、誤った自己満足によって、イエス様のこと、神様のことがわかった、と思い込んでしまう危険性がある。

 

勝利の宣言

そして、今までの長いメッセージを締めくくる御言葉が、33節後半であり、それは、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」という御言葉である。

この直前で、「平安を持つため」とおっしゃっておきながら、またすぐにイエス様は「患難があります」とおっしゃっている。平安と患難とは、真逆の言葉である。ではなぜ、ここで同時に語られているのだろうか。それは、平安は霊の次元のことであり、患難は肉の次元のことだからである。霊の次元と肉の次元は、あくまでも異なっているので、この世においては同時に存在するのである。

そのような状態にあっても、救われた者は「勇敢で」あることができるのである。それは、イエス様が「すでに世に勝った」からである。この時点では、まだ十字架の贖いは成就していない。しかし、すでにイスカリオテ・ユダは兵士たちを連れてやって来る。つまり、十字架の贖いが実行されることが決定的となっているのである。その証拠に、イエス様が、今まで見てきた長い最後のメッセージを語り始められたのは、イエス様と弟子たちの中から、ユダが出て行ったのを確認してからである。すなわち、このメッセージが語られた、といこと自体、勝利の宣言だったのである。