ヨハネの福音書     41 | 本当のことを求めて

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ヨハネの福音書     41  14章27節~15章8節

 

イエス様が与えられる平安

前回の最後の部分で述べられていたように、ペンテコステ以降、信じる者に聖霊が下り、その聖霊様がイエス様の語られた御言葉やみわざの意味を教えてくださるようになる。そのために、この前後の長い箇所をもって、イエス様は霊的真理をストレートに語っておられる。今回もそのメッセージが続いている箇所である。

27節でイエス様は、「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」とおっしゃっている。

この世の中には、真実の平安はない。平安が与えられそうに思えても、結局、相対的世界であるので、平安と思える事柄には、必ずそうではない事柄が伴う。つまり、一喜一憂を余儀なくされる世である。それでは、そのイエス様が与えられる平安とは具体的に何だろうか。

続く28節で、イエス様はこのことについて、「『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです」とおっしゃっている。

つまり、イエス様は父のもとに行かれ、また再び信じる者たちのところに来られる、ということである。そして、父なる神様のもとに行かれるということは、十字架の贖いの成就を意味する。十字架の贖いの成就によって、信じる者たちに聖霊様が下される。したがって、イエス様が与えられる真実の平安とは、聖霊様との交わりのことである。聖霊様との交わりこそ、真実の平安であり、それは、イエス様が去って行かれることによりもたらされる。そのためイエス様は、「わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです」とおっしゃっているのである。

 

悪魔が退けられる

続く29節でイエス様は、「そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです」とおっしゃっている。この御言葉の意味も、前回の最後の箇所および今回の最初で述べた通りである。

そして30節でイエス様は、「わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません」とおっしゃっている。これは、イエス様が十字架につけられ、一時的にサタン悪魔が勝利したように見える時が来るが、イエス様は復活されることにより、サタン悪魔は結局イエス様に何もすることができないということを意味する。

さらに続く31節前半では、「しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行なっていることを世が知るためです」とおっしゃり、イエス様が復活することにより、イエス様は父なる神様を愛され、十字架の死にまで従われたことが明らかにされることを語られた。このやがて起こるべき事実に基づいて、イエス様は31節後半で、「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」とおっしゃっているのである。

これに対し、以上見た30節から31節の箇所は、ここまで続いて来たイエス様のメッセージがここで終わり、まさにイエス様が、「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」とおっしゃり、食事をした部屋から出て行く時がきたように解釈することもできる。実際、ここまでがその部屋の中で語られたメッセージであり、続く15章からの内容は、ゲッセマネの園に向かう途中で語られたものだとする解釈もある。

しかし上に述べたように、イエス様の十字架と復活により、サタン悪魔が退けられるという事実を見るならば、恐れずにサタン悪魔に立ち向かおう、という意味で、「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」とおっしゃったと解釈する方が、やはり妥当である。すなわち、この後も、部屋の中でじっくりと御言葉が語られることになる。

そしてここまで見ると、上で見た27節の後半で、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」という御言葉が、単に聖霊様との交わりによる平安を受けよ、ということ以上に、その平安によって、本来ならば恐れを感じるべき状況においても、そのまま進んで行くべきだというメッセージが導き出せるのである。

 

刈り込み

15章に入り、1節から2節でイエス様は、「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」とおっしゃり、ここから、ぶどうの木のたとえが始まる。

ここに、「わたしの枝で実を結ばないもの」と、「実を結ぶもの」という対照的な二つの枝があるように見えるが、この後の御言葉から、この二つの対照的な枝は、イエス様を信じる同一人物における二種類の枝だと解釈した方が自然である。つまり、信じる者が多くの実を結ぶように、その者の中にある実を結ばないものを取り除く、ということが、父なる神様がなさる刈り込みなのだ、ということである。

そして、ここでいう「実を結ぶ」とは、今まで何度も繰り返し述べて来た、神様のご栄光を表わす、神様を表現する、ということに他ならない。

もともとイエス様に結び付いていない者、すなわち「わたしの枝」でない者については、後の6節前半で、「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます」と語られており、最初からイエス様を信じていない者に対しては、刈り込みが行なわれるのではなく、ただ枯れるだけなのである。

では、この信じる者に対する刈り込みによって取り除かれるものとは、何であろうか。それは、道徳的に良い悪いとは全く関係なしに、神様の表現とはならない事柄すべてである。もちろん、具体的には人によってさまざまであるので、このように抽象的な言葉となってしまうが、たとえば、その者がいくら努力をしていることであっても、また良いことと思っていることであっても、さらに人のために役に立っていると思っていることであっても、また良い評価を得ているものであっても、結果的には、その者の栄光とはなっても、神様の栄光、すなわち神様を表現していることにならないものは、すべて取り除かれる、ということである。それはある意味、残酷のように思えるが、もともと、人は自分の栄光のために生きてはおらず、そのような存在ではないので、残酷というより、自然なことであると言える。

 

弟子たちに向けて

続く3節には、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです」とある。弟子たちは、繰り返し述べているように、この時点では御霊が下っておらず、イエス様の御言葉を霊的に知ることはできない。しかし、3年間の歩みの中で、多くの御言葉を記憶した。

その御言葉はこの世の言葉ではなく、この世から分かたれている霊的御言葉である。その御言葉を記憶しており、後に御霊が下った時、その御言葉の霊的意味を知ることが定まっているために、「もうきよいのです」とおっしゃっているのである。そして、今の私たちにおいては、御言葉を霊的に解釈し、それを受け入れることによって、「きよい」すなわち、この世から分かたれた者としての歩みをすることができるのである。

そして次の4節でイエス様は、「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」とおっしゃっている。この御言葉は、直接的には、イエス様の目の前にいる弟子たちに向けられたものである。

これからイエス様は捕えられ、弟子たちは、自分たちも捕えられるのではないか、という恐怖から、イエス様のもとから逃げ去ってしまう。そのような究極的な状況が迫る中で、決定的にイエス様から離れてしまい、弟子たちも永遠に散り散りになってしまったら、何ら意味がない。

しかしその後、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて隠れるようにしていたとはいえ、弟子たちで集まっており、そこに復活されたイエス様が、そのお姿を現わされることになる。完全にイエス様から離れ、元の生活に戻ろうとするならば、もはや弟子たちで集まることはない。弟子たちは、イエス様が語られた御言葉の真意を理解できなかったとはいえ、このように、決定的にはイエス様から離れなかったのである。

 

イエス様にとどまる

もちろん、「わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」という御言葉は、ペンテコステ以降今日に至るまで、救われてイエス様に結び付いた者たちへのメッセージであることは、言うまでもない。そのために、次の箇所で再びこのことについて述べられる。

5節でイエス様は、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」とおっしゃっている。

神様から離れた世において、神様と結びついている、ということは、その者の力によって行なわれていることではない。一方的な恵みによって救われ、聖霊様が下されるという出来事によって、神様、イエス様に結び付けられた者である。したがって、イエス様を離れては、何もできないのである。

そして続く6節でイエス様は、「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます」とおっしゃっている。一つの同じ木であっても、その数多くの枝の中で、成長する枝もあれば、途中で枯れて落ちてしまう枝もある。枯れる枝は、本体からの水分や栄養の供給がなくなったことによる。つまり、実質的にその木にとどまることがなくなったためである。

イエス様にとどまる、ということは、イエス様を信じ続けることであることは言うまでもない。神様、イエス様、聖霊様から、常に豊かな霊的供給を受け続けるのである。一方、イエス様にとどまっていない者とは、イエス様を信じていない者である。そのような者は、枯れた枝が自然と地面に落ちてしまうように、空しく消えていくしかない。

 

必要物

そして7節から8節で、イエス様は、「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです」とおっしゃっている。

この御言葉は、すでに見た14章13節の、「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです」という御言葉と内容は全く同じである。しかし、今回の本文の方が、内容がより具体的に語られているのである。

先に8節を見ると、そこには、14章13節で語られていた「父が子によって栄光をお受けになる」ということが、具体的にどのようなことかが語られている。すなわち、それはイエス様を信じる者が多くの霊的実を結ぶことであり、イエス様の弟子になる、ということである。これは繰り返し述べている通り、神様を離れたこの世において、神様の表現となることである。イエス様の弟子となる、ということも、特別なことではなく、実質的には、救われた者は救われた時点で、イエス様の弟子となっているのである。

この世において、救われていない者はみな、金銭の奴隷である。その者たちにとっては、生きるということは、金銭を得て、それによって食べていくことに他ならない。しかし、イエス様の弟子は金銭のためではなく、神様のために生きる、と言っても、やはりこの世に生きるためには、金銭的なものは必要である。このことについて上に引用した7節でイエス様は、「何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます」とおっしゃっているのである。

御言葉に従う者は、神様の栄光のために、その必要物を求めるのである。そうすれば、その必要物は、神様が与えてくださると、イエス様は約束されているのである。まさに、この御言葉は、『マタイ』6章33節の、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」という御言葉と意味は同じである。