ヨハネの福音書     40 | 本当のことを求めて

本当のことを求めて

過去世、現世、未来世の三世(さんぜ)の旅路。

ヨハネの福音書     40  14章13節~26節

 

栄光のため

13節でイエス様は、「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです」とおっしゃっている。

救われた者は、その後の人生を、神様を中心とした歩みをするようになる。もし肉を中心として生きてしまえば、心に平安がなくなる。ではなぜ平安がなくなるのであろうか。それは、救われた目的が果たされていないからである。その目的とは、この節でイエス様がおっしゃっているように、「父が子によって栄光をお受けになる」ことである。

「栄光」などというと、何かとんでもなく偉大なことのように思えるが、そもそも、神様ご自身がご栄光そのものである。絶対的な神様は栄光以外の何ものでもない。つまり、「栄光をお受けになる」とは、その神様の存在が表わされる、表現される、ということに他ならない。したがって、これは繰り返し述べていることであるが、救われた目的は、その救われた者の人生を通して、神様が表現されるため、つまりご栄光が表わされるためである。

 

御名によって

さらにイエス様は続く14節で、「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」とおっしゃっている。そもそも、「わたしの名によって」、つまり「イエス・キリストの御名によって」求めるとは何であろうか。それは、その者のうちに住まわれる御霊の求めである。

その証拠に、救われていない者は、御霊が内住されていないために、真実の祈りはできない。いくら表面的に「イエス・キリストの御名によって」と祈っても、それは御霊による祈りではない。真実にイエス様の御名を用いることができる、ということは、救われている証そのものなのである。

イエス様はここで、「わたしの名によって・・求めるなら・・それをしましょう」とおっしゃっている。つまり、イエス様がそのことをしてくださるのである。しかし、それはただ、救われた者の祈りをかなえてあげる、ということではなく、上で見た13節で、「父が子によって栄光をお受けになるため」とおっしゃっているように、あくまでも、神様の表現となるように、イエス様がその者の祈りをかなえてくださるのである。

したがって、その者が祈った通りにかなう場合もあり、全く祈りが聞かれていないような場合もある。しかし、その両方とも、神様のご栄光のために、祈りは聞かれているのであり、イエス様が両方とも、祈りをかなえてくださっているのである。

 

掟を保つ

15節でイエス様は、「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」とおっしゃっている。この節だけを見ると、イエス様の「戒め」を守ることが、イエス様を愛することだ、とも読み取れる。もちろん、それでは、イエス様との取引のようになり、正しい読み方ではない。

そもそも、「戒め」と『新改訳』では訳されているが、これはイエス様が重要な教えとして弟子たちに与えられたものなので、『新共同訳』のように「掟」と訳した方がよい。さらに「守る」という言葉も、ギリシャ語原語で「テーロー」という言葉が使われており、「守る」という意味の他に、「見張る」「保つ」という意味がある。

つまり、この節の最後の部分は、「あなたがたはわたしの掟を保つはずです」となる。そして、この御言葉の深い意味を明らかにするために、まずイエス様は、16節から聖霊様について語られるのである。

 

弁護者

続く16節でイエス様は、「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです」とおっしゃっている。

この「助け主」は、次の節に「その方は、真理の御霊です」とある通り、聖霊様、御霊のことである。そして、この「助け主」と訳された言葉のギリシャ語原語は、「パラクレートス」であって、意味は「弁護する者」である。『新共同訳』では「弁護者」と訳しており、この方が原語に忠実である。

一般的に、弁護者というと、裁判などで、被告人を弁護する者を指す。この「パラクレートス」という言葉にもそのような意味がある。このことから、既存のキリスト教会では、最後の裁きの時、救われた者には弁護者である聖霊様がおられるので、その者が罪に定められないように助け弁護してくださるのだ、と解釈している。「助け主」という訳にも、このような意味が含まれているものと考えられる。しかしもちろん、今まで述べてきたように、救われた者は、最後の時の裁きなど受けないので、この解釈は誤りである。

「弁護」という言葉には、厳密に二つの意味がある。ひとつは、ある者が適切に自分のことを表現できないために、その者の代わりとなって、その者の立場や状態を表現する、ということである。そして、もうひとつは、その者に関することであっても、その者の能力では理解できないことを、その者に教えることによって、その者が正しく状況を理解できるようにすることである。この後者のことについては、今回の箇所の最後に該当する御言葉があるために、その箇所で述べる。

 

神様の表現と聖霊様

上に述べたように、救われた者は、神様の表現のために生きるようになる。しかし、各人の能力も立場もさまざまであり、また各人が背負っている業も異なっているため、救われたからといって、みな、適切にこの世で神様を表現することは困難である。うまく表現できないために、かえって救われていない人から見れば、奇行としか言いようのない行動をとってしまい、逆に人々を神様から遠ざけてしまうことにもなりかねない。

そのようにならないためにも、つまり、適切に神様を表現し、神様のご栄光のために生きられるように、救われた者には聖霊様が内住されるのである。その聖霊様の働きによって、救われた者は人それぞれ、あらゆる方法で神様を表現し、この世に神様の存在を知らしめることができるのである。

 

真理の御霊

続く17節でイエス様は、「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです」とおっしゃっている。

御霊は、信じ救われた者にのみ下られる。いくら良い行ないを積んでも、教会に通い続けても、ましてや儀式的に洗礼を受けても、その御霊を受けることは絶対に不可能である。救われていないこの世の人々と御霊は、このように次元を異にしているので、「見もせず、知りもしない」のである。この世の人々にとって、御霊は見ることもできず、知ることもできない存在であるから、彼らは、そのようなものはいるわけがない、と言うのであり、それは当然のことである。

この御霊は、信じる者に下られ、イエス様がおっしゃるように、その者と共に住み、その者の内におられる。そして、このように御霊が下ることを、イエス様は18節で、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」とおっしゃっている。信じる者は、たとえ見た目には一人のようであっても、周りに同調する者が一人もいなくても、「孤児」ではないのである。

 

その日

続く19節でイエス様は、「いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」とおっしゃり、ご自身の復活を示された。さらにイエス様は続く20節で、「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります」とおっしゃっている。

まず、「その日」とは、救われた時から、その者が数多くのパラダイスを経て、神の御国に入るまでのすべての期間を指す。ではどのように、聖霊様は20節の御言葉のように共におられるのであろうか。普通、「共にいる」という言葉は、常に一緒に生活する、行動を共にする、という観念で使われるが、それはあくまでも目に見えるこの世におけることであり、目に見えない霊の次元ではそうではない。

この20節は、聖霊様のご臨在を表わす御言葉である。信じ救われた者は、聖霊様のご臨在の中に生きることになる。聖霊様の臨在の中にいるということは、聖霊様はその者の周りにもおられ、内にもおられ、どこに行っても変わらず共にいることである。

もっとも人間を含めたすべてのものは、すべて絶対的な神様の表現であり、もともと神様の中つまり聖霊様のご臨在の中に存在しているのであるが、救われない限り、それを知ることも体験することもできない。ただ救われていない者は、その神様の中に存在していながら、それを体験できていないという「不自然さ」を無意識の中で感じ、そこの不自然さの故の不安をいつも抱えて生きているのである。

 

交わりの証

このようにイエス様は、聖霊様のご臨在において、肉体を持ったイエス様ではなく、復活なさったイエス様が永遠に救われた者と共におられることを明らかにされた。そして21節で、「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします」とおっしゃっている。

真実にイエス様を愛し、正しい教えを受けた者は、何ら妨げを感じることなく、聖霊様の豊かなご臨在の中に常に身を置くべきである。そうするならば、イエス様が「わたし自身を彼に現わします」とおっしゃっている通り、その者自身がイエス様を見るようになる。それは個人的な体験であり、個別なことであるので、一概にこれこれこのようなことがイエス様との交わりだ、などと規定することなどできない。

イエス様は、『マタイ』22章32節で、「『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です」とおっしゃり、またその同一記事である『マルコ』12章27節で、「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています」とおっしゃっているように、神様は、生きる各個人にふさわしく、それぞれ働きを現わされる。

つまり、私の神なのであり、あなたの神であり、この世においては、私の神とあなたの神以外にない。彼の神、彼女の神、という概念は、目の前にその者がいないわけであるから、交わりは生じない。交わりがない神様はおられないので、あくまでも、神様は、交わりが成立する私の神とあなたの神のみ、ということになるのである。交わりを離れた抽象的な神はいないのである。

したがって、神様を抽象的な法則や規則などでがんじがらめに規定し、そこから少しでも外れると、異端だ悪魔だ、などと批判することは、イエス様の御言葉に反することである。神様、イエス様、聖霊様は、交わりの神様である。クリスチャンと名乗りながら、救われていない者ほど、神様との交わりがないことを隠すために、規定を表に出そうとするのである。

私の神とあなたの神が出会う時、同じ神様における交わりが自然と生じる。それが、イエス様が繰り返しおっしゃっている「互いに愛し合う」という状態である。それは、相対的世界に表わされた、神様ご自身の交わりに他ならない。言い換えれば、救われた者に内住される聖霊様同士の交わり以外の何ものでもない。そのため、救われておらず、聖霊様を受けていない者は、イエス様がおっしゃる「互いに愛し合う」ことは不可能なのである。

 

弟子たちの苛立ち

このようなイエス様の御言葉を聞いて、イスカリオテでないユダが、「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか」と言った(22節)。ユダは、イエス様が「わたし自身を彼に現わします」とおっしゃっているので、とにかくイエス様は、「私たちにはご自分を現わそうと」しておられるのだな、と考えたまでのことである。そして、「世には現わそうとなさらない」ということは、いつまでたっても、ユダヤの王となろうとしないイエス様に対する苛立ちの言葉である。イエス様を売ったイスカリオテのユダばかりではなく、そうでないユダも、そして他の弟子たちも、やはり同じような思いだったのである。

このようなユダの言葉を受けて、イエス様は23節で、「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」とおっしゃった。「ことばを守る」ということも、ここまで繰り返し述べてきたように、御言葉を受け入れ保つ、ということであり、「互いに愛し合う」という、聖霊様同士の交わりを指す。

そして、続く24節で、「わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです」とおっしゃっている。しかし、この時点は、御霊が下っていないとは言っても、御言葉は弟子たちの肉の耳でも聞くことができ、記憶することができる。そのために、イエス様は続く25節で、「このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました」とおっしゃっているのである。

 

教え思い起こさせる

そのため、イエス様は次の26節で、「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」とおっしゃっている。この節の御言葉は、今までも何度も引用して述べてきた通り、非常に重要な箇所である。

そしてこの御言葉こそ、上に述べた、「パラクレートス」の「弁護」という言葉が意味する、ふたつめの真理を表わしているのである。すなわち、その者の能力では理解できないことを、その者に教えることによって、その者が正しく状況を理解できるようにすることである。

そもそも、イエス様の弟子たちの3年間の歩みも、この節で述べられていることがあっての歩みであった。イエス様はひたすら、弟子たちがペンテコステの時に御霊を受け、そこで御言葉を思い起こし、そして御霊によって真実の意味を教えられ、多くの人々を救いに導く使徒となることだけを、その霊的目をもってご覧になって、弟子たちと共に歩まれたのである。

このように聖霊様は、イエス様を信じ救われ、神様の表現として生きる者たちに、常に霊的真理を教え、そしてそれに基づいて、その者が神様を適切に表現できるように力を与え、正しく導かれる神様の御霊なのである。