ヨハネの福音書     31 | 本当のことを求めて

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ヨハネの福音書     31  10章40節~11章40節

 

ベタニヤへ

前回見た最後の箇所で、イエス様は、捕らえようとするユダヤ人から逃れられたとあった。そして、今回の箇所の冒頭の40節には、「そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された」とある。

この場所は、『ヨハネ』1章28節に、「この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた」とあるところから、ベタニヤという町であることが明らかである。しかし、ベタニヤという地名は聖書には二つ登場している。そのひとつが、ここで記されているベタニヤであり、「ヨルダンの向こう岸のベタニヤ」と表現される。そして、もうひとつが、エルサレムから3キロほど離れたベタニヤであり、ラザロとマルタ、マリヤがいた町である。

続く41節には、多くの人々がイエス様のところに来て、「ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった」と言ったとある。これは、ヨルダン川の向こう岸のこの地がエルサレムから離れており、宗教的指導者たちの影響も少なく、何より、バプテスマのヨハネによって、イエス様の証言がすでに語られていたという理由からであった。そして、その地方で多くの人々がイエス様を信じた(42節)。

この「信じた」ということも、以前述べたように、霊的に受け入れたのではなく、当時一般的に認識されていたメシヤとして、心を開き受け入れたということである。

 

ラザロの病

そして11章となって、1節に、「さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった」とある。このラザロたちがいたベタニヤと、この時点でイエス様がおられたヨルダンの向こう岸のベタニヤは、直線距離にして約30キロ離れている。

続く2節には、「このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである」とある。このマリヤについての記述は、後の箇所である『ヨハネ』12章に記されている出来事である。そして3節には、「そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。『主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です』」とある。

共観福音書の記事の中でも、イエス様はたびたびベタニヤに行かれていることが記されている。さらに、イエス様は昼間、エルサレムの街の中にいても、夜はエルサレムを出て、オリーブ山で過ごされるか、あるいはそのままベタニヤまで行かれて、このマリヤ、マルタ、ラザロの家で弟子たちと過ごされていたのである(『マルコ』11章11節~12節参照)。

このように、このベタニヤでも多くの御言葉が語られ、奇跡が行なわれていたことが各福音書に記されている。そのため、エルサレムからたった3キロしか離れていないとは言え、イエス様を捕えようとする宗教的指導者たちも、イエス様がベタニヤにいる限り、手が出せなかったのであろう。不用意にベタニヤにいるイエス様に手を出すならば、その町の人々が騒ぎ出すことは明らかであったからである。

このラザロが病気だと聞いて、イエス様は、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」(4節)と言われた。そして、続く5節から6節には、「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた」と記されている。

常識的に見れば、イエス様はすぐにラザロたちのいる所に行き、癒しを祈るということが考えられる。ところがここでイエス様は、「この病気は死で終わるだけのものではなく」とおっしゃり、ラザロが死ぬことを前提とした御言葉を語っておられる。しかし、すぐに行ってもラザロの死には間に合わない、とイエス様は知っておられたので、すぐに向かわれなかったとしても、それが、ずっと二日もとどまられたという理由にはならない。とにかくすぐに行くという選択肢しかないはずである。

実は、このとどまられたということは、ラザロが死に、墓に葬られるまで待たれた、ということなのである。上で見た「神の栄光のため」とは、このラザロの死とそのよみがえりは、やがてイエス様が死なれて墓に葬られ、その墓からよみがえられる、ということのひな型である。したがって、ラザロは墓に葬られなければならなかったのである。もしイエス様が、彼が墓に葬られる前に行かれたとしたら、それでも一度墓に入れて、あらためてイエス様がよみがえらせる、ということになってしまい、もちろんそのような滑稽なことはあり得ないからである。

 

ベタニヤに出発

このように、イエス様は二日とどまられた後、「もう一度ユダヤに行こう」と、ラザロのいるベタニヤに向かうことを弟子たちに告げられた(7節)。弟子たちは、前回も見たように、ユダヤ人たちがイエス様を石打ちにしようとまでしたエルサレム方面に行くことを恐れた(8節)。

この弟子たちの言葉に対して、イエス様は9節から10節で、「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです」とおっしゃった。この御言葉は、イエス様がこの世におられる期間の終わりが迫って来ている、ということが関係している。

すなわち、この世の光であるイエス様は、まだもうしばらくこの世におられるわけであり、その世におられる間、なすべきことは行なわなければならない、ということである。弟子たちも、イエス様がおられ、その「光を見ている」わけであるから、守られる時は守られるのである。しかし、やがてイエス様はこの世から取り去られるという「夜」が来る。まだその時点では、弟子たちには御霊が下っていないので、「光がその人のうちにはなく」、そのため「夜歩く」ことになり、「つまずく」ことになるのである。

イエス様は続く11節で弟子たちに、「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです」とおっしゃった。当然、眠っているなら起きることがあるので、病のラザロは助かるだろうと弟子たちは思った(12節)。しかし、13節にあるように、イエス様はラザロの死を眠っていると言われたのである。ラザロをよみがえらせることが、神様のご計画であることをご存じであったイエス様にとって、必ずよみがえるラザロの死は、眠っていることと同様であったのである。

そして、14節から15節でイエス様は、「ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう」とおっしゃられた。

これは、上に述べたように、もしラザロが死ぬ前か死んだ直後に、イエス様がそこに居合わせてしまったら、彼が墓に納められることはなく、墓からの復活ということを弟子たちは目撃することはなかったということを意味している。

さて、この御言葉を聞いたトマスは、仲間に向かって「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」と言った(16節)。これは、イエス様の御言葉を理解できない弟子たちの戸惑いと、それでも従っていく以外にない、という覚悟を表わしている。

 

マルタとマリヤ

こうして、イエス様がラザロたちのいるベタニヤに着かれた時、すでにラザロは墓に入れられ四日たっており、大勢の人々が、マルタとマリヤのところに集まっていた(17節~19節)。マルタは、イエス様が来られたと聞いて、さっそく迎えに出て来たが、マリヤは家の中にいた(20節)。

マリヤは言うまでもなく、イエス様は急いで来られるのが当然のところ、なぜそうはなさらなかったのか、という思いから迎えに出て来なかったのである。そして、迎えに出たマルタも、挨拶の言葉の代わりに、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります」(21節~22節)と言った。

マルタは、マリヤに比べて感情に走らず、常識的に動くことのできる人物であったと考えられる。このマルタの言葉は、表面的には丁寧であり、信仰に立っているように見えるが、言葉の裏には、やはり、ラザロが死ぬ前に来られなかったイエス様を責める意味が含まれていると言わざるを得ない。

このマルタに対して、イエス様は、「あなたの兄弟はよみがえります」とおっしゃった(23節)。この御言葉を、マルタは当然、一般的なユダヤ教の復活の信仰と解釈し、そのようなことは「知っております」と答えた(24節)。

 

死ぬことはない

これに対してイエス様は、続く25節から26節で、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」とおっしゃった。この御言葉を一見すると、明らかに矛盾している言葉である。一言で言えば、イエス様を信じる者は決して死ぬことがなければ、死んでも生きる、ということはあり得ないことになる。これはどういう意味であろうか。

まず、「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」とは、ラザロのよみがえりを指す。これは、ただこれから起こることを語られたのである。この時点では、まだ御霊は下っていないので、ラザロやマルタやマリヤは真実の意味で信じ救われているわけではないが、少なくとも、他のユダヤ人が信じた、という政治的救い主ではなく、神様から遣わされたお方という思いでイエス様を受け入れていたはずである。この時にそこまでの信仰を持つことができる、ということは、まさに「わたしを信じる者」と言われるにふさわしいのである。

しかし、これに続く「また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」という御言葉は、今までもそうであったが、イエス様は一つの言葉を取り上げて、それに関する真理を語るということをたびたびなさってきた。この御言葉もそうであって、「死ぬ」「生きる」という言葉を取り上げて、霊的真理を語られたのである。

そもそも、イエス様を信じることは、生きているうちに行なわれることである。ラザロに限って言うならば、ラザロはよみがえって、ペンテコステ以降、聖霊を受けて、「生きていてイエス様を信じる」わけである。そうすれば、もうその魂は決して死ぬことはない、つまり滅びることはないのである。もちろんこれは、ラザロばかりではなく、「生きていて」イエス様を信じるすべての人々に共通する霊的真理である。

 

重苦しい人々の思い

マルタは、続く27節で、その返答として、「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております」と言っている。イエス様がキリストであることを、真実に信じることができるのは、十字架と復活以降を待たねばならない。しかし、このマルタの言葉は、言葉としては真理である。この時点では、これでじゅうぶんだったのである。

こうして、マルタはマリヤを呼んだ。マリヤは、イエス様が自分を呼んでおられると聞いて、すぐに立ち上がって、イエス様のところに行った(28節~29節)。やはり直接自分を呼んでおられる、となると、居ても立ってもいられなくなるほど、マリヤもイエス様を慕っていたのである。

30節にあるように、イエス様は村には入らずにおられた。村に入れば、そこはラザロが死んでしまった、という悲しみで満ちているはずである。それは、神様から離れ、ただ肉の次元に沈んでいる姿であり、その重苦しい人々の思いは、肉を持たれているイエス様にも、当然、良い影響は与えない。イエス様は、故郷のナザレでそうであったように、不信仰のあるところでは、大きなみわざは起こされないのである。

マリヤが出て行くのを見て、そこにいた多くのユダヤ人たちは、彼女について出てきた(31節)。そしてマリヤも、マルタと同じように、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言って泣いた。また、一緒について来たユダヤ人たちも泣いた。まさにこれこそ、重苦しい人々の思いの表われである。

それをご覧になったイエス様は、「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」たとある(33節)。イエス様は、村に入らないことによって、神様から離れた人々の重く暗い思いからの影響を避けられたのであるが、マリヤが来る時、彼女ばかりではなく、多くの人々がついて来てしまった。このイエス様の霊的憤りと心の動揺は、そのような重苦しい人々の思いに対する霊的戦いの姿勢の表われなのである。

ここでは、死の現実に縛られている人々の思いを超えたみわざを起こすために、イエス様は霊の憤りをもって対峙された。同様に、信じ救われた私たちも、ここまでではないとしても、人々の霊的盲目という現実に対峙するために、霊的戦いの覚悟は必要である。それは、憤りではなく、場合によっては柔和な対応ということもあり得るであろうが、霊的戦いには違いない。

 

涙を流されるイエス様

続いてイエス様は、ラザロが置かれている場所に進まれる時(34節)、「イエスは涙を流された」と記されている。そして、それを見たユダヤ人たちは、「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか」と言い、また、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた(36節~37節)。

ここでイエス様は、霊的憤りから一転して、一般の人が泣いているのと同じように涙を流されたのである。これは、霊的次元と肉的次元は、ここまで正反対であるということを表わしている。イエス様は、喉が渇かれる時は渇かれ、空腹を覚えられる時は空腹を覚えられた。そうならば、肉体的次元で悲しい時には、当然涙を流されるのである。いくらこの後ラザロはよみがえって、神様のご栄光を表わすと霊的にわかっていても、肉の次元では悲しまれたのである。

このように、イエス様においてもそうであれば、信じ救われた者がそうであることは、至極当然である。肉体を持っている以上、救われて霊的真理を知っている者であっても、その肉体的反応は、霊の次元からの影響は受けない。したがって、救われた者でもその肉体に対しては、一般的常識の範囲で対応するか、あるいは場合によっては、あくまでも霊的真理に立って、その肉体的反応を無視するか、ということが必要なのである。

 

信仰の一致

そして、38節には、「そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった」とある。肉の感情から涙を流されたイエス様であったが、いよいよ、ラザロの墓に来られた時、再び、霊の戦いの次元に入られ、霊的憤りを覚えられたのである。

こうして、イエス様が墓の石を取りのけるよう命じられると、少し前では信仰による告白をしたマルタも、死んで四日になる、という事実に目が奪われ、躊躇せざるを得なかった(39節)。そこで、イエス様は再び、「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」(40節)とおっしゃった。しかし、この場面では、マルタが信じようが信じまいが、彼女は神様のご栄光を見ることができるはずである。それは、マルタの信仰とは関係ないように思える。この御言葉の意味は何であろうか。

上にも述べたように、イエス様が奇跡を起こされる時、不信仰がそれを妨げてしまうことがある。しかしその逆に、そこに一人でも、イエス様と同じ希望を持って、奇跡を期待する信仰を持つ者がいれば、そのみわざを後押しすることとなる。イエス様はマルタを、心をひとつとする者として用いようとされたのである。