ヨハネの福音書     32 | 本当のことを求めて

本当のことを求めて

過去世、現世、未来世の三世(さんぜ)の旅路。

ヨハネの福音書     32  11章41節~44節

 

墓の前での祈り

前回は、ラザロが納められている墓の前に、マルタとイエス様が来られたところまで見た。そして、41節から42節には、「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。『父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです』」とある。

「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします」という祈りは、相対的な次元での祈りである。ここでは、感謝する主体であるイエス様と、感謝される対象である父なる神様が別々となっている。しかし、神様とイエス様は、絶対的次元において一つである。そのため、すぐこれに続いてイエス様は、「わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました」とおっしゃっている。これは、絶対的次元における御言葉である。神様とイエス様は一つであるので、神様はいつもイエス様の願いを聞いて下さるのである。そしてさらに言うならば、イエス様の願いは、そのまま神様の願いであるから、聞かれないことはあり得ないのである。

 

私たちの祈りの場合

このことを見ると、私たちの祈りが、いつもすべて神様に聞き入れられるとは言えない理由がはっきりする。私たちは、何でも祈っていいのである。少なくとも、イエス様を信じて救われている者は、どのような場面にあっても、神様を第一とするということは揺るがないわけであり、そのような思いからの祈りならば、どのような祈りでも、神様は喜んで受け入れて下さる。

しかしそこには、必ず相対的な思いが入り込んでいるのも確かである。それは相対的な次元に生きている人間ならば当然のことであり、それ自体は悪いことではない。神様は私たちの祈りに対して、その相対的な思いもよくご存知であり、祈りは受け入れられるが、どのようにその祈りに対応すればよいのか、ということは、神様の絶対的次元において判断なされるわけであるから、私たちの祈りがそのまま、相対的な目に見える形で聞かれる、ということはあり得ないのである。

そのようなことで、私たちは、つい、ある祈りは聞かれ、ある祈りは聞かれない、というような思いを持ってしまいがちだが、すべての祈りは聞かれているのである。

 

感謝の祈り

続いて、イエス様はさらに、「しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです」と祈られた。ここでは、なぜイエス様の願いはすべて、父なる神様に聞かれているのにもかかわらず、あらためて「感謝します」という、いわゆる相対的な次元での祈りをしたか、という理由が語られている。確かに、常にすべての願いが聞かれるのならば、あらためて感謝する必要もないとも言える。

これは、ここに記されているように、回りにいる群衆のためであるとおっしゃっている。イエス様がどのような祈りをされ、神様がその祈りに対してどのようにみわざをなされるか、ということは、まず、その祈りを聞かなくてはわからない。ここでは、あらためて、ラザロをよみがえらせて下さい、というような祈りの言葉は記されていないが、それは誰が見てもわかることだからである。

イエス様は、絶対的次元の事実を、相対的な世界に表わすために、相対的な肉体を持って来られた。当然、そのすべてのみわざと御言葉もこのためである。そしてそれは恵みである。誰一人として、絶対的神様を知る者はいない次元であるため、いつまで時が流れても、その中から、神様を悟る者など現われるわけがない。その中で救われ、神様を知る者が起こされるためには、神様の方から恵みが与えられる以外に道はない。ここでもイエス様はその恵みの表われとして、回りにいる群衆に、イエス様が神様と一つであることを知らせるために、相対的な祈りと感謝をなさったのである。

 

墓から出て来る

続く43節から44節には、「そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい』」とある。すでに述べたように、ラザロのよみがえりは、単に驚くべき奇跡、ということではなく、イエス様が墓からよみがえることのひな型ということに意味がある。

そもそも「ひな型」ということは、対象となる事柄の特徴や形式を、より明らかに表わしているものという意味である。そして、ラザロのよみがえりは、イエス様のよみがえりの二つの面のひな型である。ひとつは、墓からのよみがえりであり、もうひとつは、新しい出発ということである。イエス様は、単によみがえっただけではなく、その時からイエス様の新たなみわざが起こされ始め、福音がこの世に表わされていったのである。

イエス様のよみがえりについては、『ヨハネ』においても、他の福音書においても、その箇所を見る時に詳しく述べることができるが、ここでは、『ヨハネ』におけるよみがえりの場面を見ることにする。

その場面は、『ヨハネ』20章14節後半から16節に次のようにある。「すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理者だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った」。

すなわち、この時点から、イエス様の新たな出発が始まったのである。イエス様はよみがえられ、天に昇られ、ペンテコステ以降、聖霊様を通して地上にみわざを起こしていかれるわけである。しかし、その前に、ご自分がよみがえられたことを、ペンテコステの時に御霊を受けるべき人々に知らせなければならない。そうでなければ、ペンテコステの時に御霊を受けたとしても、それがよみがえられたイエス様から注がれた聖なる霊であるかどうかはわからないからである。

したがって、これより40日間、イエス様は特別な期間として、ご自分に従って来た人々に姿を現わされた。しかしそれは御霊を注ぐ前段階であり、まだ救いのみわざは完成されていない。そのため、上の引用の箇所によれば、続く17節前半に、「イエスは彼女に言われた。『わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです』」とあるのである。

このイエス様のよみがえりについては、もちろん、後のその箇所において詳しく述べる。

 

新しい人を着る

イエス様の新しい出発により、新しい救いのみわざが世に表わされていった。そして、そのみわざによって救われた者たちも、霊的に新しくされ、新しい出発をするわけである。そしてこの新しい出発は、新しい人となることである。

では、この新しい人とは、どのように生きることであろうか。それは具体的に言えば、次にあげる六つの面から見ることができる。もちろん、一人の人間において、この六つは一つのことであるが、六つの面に分けて見ると、より明確になるので、そのように見ていくことにする。

まず、最初の三つは、『エペソ人への手紙』4章22節から24節で見ることができる。パウロは、イエス様の真理の教えとして、「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした」と述べている。

ここでパウロは、肉体的衝動のままに動かされることから離れることを述べている。肉体的衝動であるため、それは動物にも見ることができる。もちろん救われた者も肉体は同じであって、まだ墓には葬られていないわけであるから、肉は変わらないままで、その肉からの影響から離れることを目指す、ということである。これは、仏教的表現では、貪・瞋・痴(とん・じん・ち)の解決ということになる。

「貪」は「貪り」のことであり、肉的欲求のままに振り回されることである。上の引用文の中でも、パウロはこれを「人を欺く情欲」ということで代表させて述べている。新しい人においては、絶対的次元の神様を知ることにより、この貪りは「霊的満足」に変わるのである。絶対的次元においては、不足は何もない。そこには絶対的満足しかないことは、救われた者は体験済みのはずである。

次は「瞋」であるが、これは「怒り」のことである。上のパウロの言葉では、「またあなたがたが心の霊において新しくされる」とある。怒りは、肉の身を守ろうとする本能的衝動である。そして、新しい人における「心の霊」は、御霊がその心に働きかけ、「怒り」は、「平安」に変わるのである。これも絶対的次元には、平安しかないからである。

最後の「痴」は「愚痴」のことであり、真理を知らず、盲目的にただ生きるだけの姿を指す。一般的に愚痴と言えば、不満などを漏らすことを指すが、これは本来の言葉からすれば誤りである。あくまでも真理の光のない盲目的闇のことである。自分自身が生きているとはいえ、どこに向かって歩んでいるかわからず、自分がどのようになっていくかわからない。上のパウロの言葉には、「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出される」とある。絶対的次元には光しかなく、その光に照らされることである。救われた者は、自分自身の向かう先をよくわかっており、それを目指して光の中を歩み、さらに変えられていくのである。

 

新しい認識作用

そして残りの三つは、人間だけが持つ認識作用が新しくされることである。それは、「記憶」と「理性」と「意志」であり、これは、過去・現在・未来に関することである。

まず「記憶」も人間だけが持つ認識である。他の動物は、ある出来事によって学習し、よりよく生きる方法を身に着けるということをするため、記憶があるように見える時があるが、それは記憶を呼び覚まして行動しているのではなく、肉体に刻み込まれた反応によるものである。

そして何より、過去というものは、ただ人間の記憶に保有されているものであり、それ以外に過去というものはない。過去の世界に行ってしまったというようなこともない。したがって、人によってその過去と思われることに対する評価はまちまちである。新しくされた者は、今まで起こったことはすべて、神様のご計画の中にあったことである、という認識を持つのである。これはパウロの有名な言葉であるが、『ローマ人への手紙』8章28節に、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」とあることから明らかである。

次の「理性」は、判断能力のことである。現在とは、過去が姿を変えたものである。言わば、過去・現在・未来があるのではなく、ただ永遠の現在である今しかない。そして、理性とは、目の前に起こっているすべてのこと、また心に思い浮かぶすべてのことなどを、今どのように判断するか、という認識作用のことである。救われた者は、神様と一つである。神様が判断するように判断するのである。つまり、永遠の現在において、神様と共に生きることである。

そして、最後の「意志」は、未来に向けた認識作用である。この未来も、今が姿を変えたものであり、その未来と思われる時点に至れば、それは今である。未来というものはないのであり、人間の考えの中だけにあるものである。

そしてこの人間が持つ意志は、これからどうするか、という認識作用である。救われた者は、すべて、神様を愛そうとする意志によって生きるようになる。絶対的次元を知っている者は、相対的次元の何ものも、その意志の理由にはならない。まず、神様を愛するという前提から、すべての意志が決定されるのである。

繰り返すが、救われても、肉を持ち、肉の命が終わるまで、相対的な世界に生きているわけであるから、上の新しい六つを、常に身に着け、そこからはずれることがない、などということはあり得ない。しかし、前にも述べたが、どこを目標とするか、何を基準とするか、という価値基準が完全に変化する者が、救われた者の特性である。肉において、認識作用において、それを目標として常に歩むことが、新しい人の姿である。