ヨハネの福音書     30 | 本当のことを求めて

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ヨハネの福音書     30    10章33節~39節

 

『詩篇』82篇

前回の最後の箇所で、「わたしと父とは一つです」(30節)というイエス様の御言葉を聞いたユダヤ人たちは、イエス様を石打ちにしようとした。その理由は、その箇所ではまだ記されていなかったが、今回の最初の33節で、「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです」とユダヤ人たちは答えている。これは、『レビ記』24章16節の「主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される」という律法に基づいている。

そこでイエス様は、続く34節で、「あなたがたの律法に、『わたしは言った、おまえたちは神々である』と書いてはありませんか」とおっしゃられた。ここで引用された御言葉は、『詩篇』82篇にある。この『詩篇』82篇を見ると、最初の1節から2節に、「神は神の会衆の中に立つ。神は神々の真ん中で、さばきを下す。いつまでおまえたちは、不正なさばきを行ない、悪者どもの顔を立てるのか。セラ」とある。

まず、「神は神の会衆の中に立つ」の「神の会衆」とは、宗教的指導者のみならず、神の民として選ばれたイスラエルの民全体を指す。神の民であるので、神の会衆なのである。しかし、「いつまでおまえたちは、不正なさばきを行ない、悪者どもの顔を立てるのか」とあるように、イスラエルの民は、神様の正義に立たず、人間的な判断によって裁きを行なっていたということである。そしてこのことをふまえて、6節から7節に、「わたしは言った。『おまえたちは神々だ。おまえたちはみな、いと高き方の子らだ』。にもかかわらず、おまえたちは、人のように死に、君主たちのひとりのように倒れよう」とある。

この「神々」という言葉の意味は、本文の続く35節前半でイエス様が、「もし、神のことばを受けた人々を、神々と呼んだとすれば」とおっしゃっているように、神様の御言葉を受けた者たちを、ここで神様ご自身が、「神々」と呼んでおられるということである。

そしてイエス様は、続く35節後半から36節で、「聖書は廃棄されるものではないから、『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか」とおっしゃっている。

神様の御言葉を受けた者たちが、「神々」と呼ばれるならば、神様から遣わされたイエス様が、「わたしは神の子である」、また、前回見た箇所の「わたしと父とは一つです」とおっしゃることは、至極当然のことである。

さらにこのことに基づけば、神様の御言葉を受けた者たちも、神々と呼ばれ、またその者たち自らも、自分たちは神々の中の一人だと言っても、神様を冒涜したことにはならないことになる。

このことについて、今まで述べて来た霊的真理に基づいて、詳しく述べてみたい。

 

認識主体について

繰り返し述べているように、すべての相対的次元の存在は、絶対的次元の神様の表現である。それは、人間であろうが、他の生物や物質であろうが、全く同じである。しかし、人間と他の生物や物質の決定的な違いは、人間は意識的に神様の表現としての人生を歩むことができる、ということである。したがって、神様を全く信じない人、この相対的次元がすべてだと信じて疑わない人は、他の生物や物質と同等な存在であると言わざるを得ない。

そしてさらに、なぜ人間は意識的に神様の表現として歩むことができるか、ということは、人間にのみ、神の似姿である「認識」が与えられているということである。この認識とは、神様を認識し、その神様と自分との関係を認識する認識作用のことである。つまり言い換えれば、神様の信仰を持つことができるということである。その証拠に、神様のような絶対的存在者に対して礼拝する行為は、人間のみに見られることであり、他の生物には絶対に見られないことである。

この人間に与えられた認識は、神様がご自身を認識する認識と全く同じである。なぜなら、この相対的次元が発生したと同時に、神様もご自身を認識できるようになったはずだからである。認識とは、認識する主体と認識される対象があってこそ成立する作用である。もし相対的次元がなく、絶対的次元のみであったならば、絶対的次元においては、認識する主体とその対象という区別はないために、認識は成立しない。したがって、神様ご自身は何によっても、それこそご自身によっても認識されることのない、まさに無と等しい存在ということになってしまう。そのため、神様は、相対的次元に神様を認識対象とすることができる認識を持つ人間がいてこそ、ご自身を認識できるはずである。これも言い換えれば、神様は人間から認識されてこそ、ご自身が神様であることを認識できるはずである、ということである。

したがって、『創世記』1章から2章にかけて記されている天地創造の神話では、まず人間が住むべき環境が整えられてから人間が創造されたとなっているが、実際は、そのような順番などなく、神様が無と等しくならない、ということと、人間を含めたすべての相対的次元は、「同時発生的」としか表現しようがないのである。これほど、神様の存在と人間の存在は、切っても切れないほどの重要な関係なのである。

この理由から、この認識する作用を「認識主体」と名付けることにする。神様と人間の認識は、全く同じであるが、その存在する次元が異なっているため、神様の認識を「絶対的認識主体」と名付け、人間の認識を「相対的認識主体」と名付けることにする。今回の本文の表現を用いるならば、この絶対的認識主体は神様のみに当てはまる言葉であり、同時に、この相対的認識主体は、相対する数多く人間の数と同等にあるわけであるから、まさに「神々」なのである。絶対的次元の神様は、唯一絶対の神であり、相対的次元の人間は、数多くの神なのである。

 

絶対神と相対神

したがって、各個人は、この「神々」の中の一人の神であり、「相対的神」であり、「相対神(そうたいしん)」である。そして言うまでもなく、絶対的次元の神は、「絶対的神」であり、「絶対神(ぜったいしん)」である。この絶対神と相対神は、本来一つであり、何ら区別はない。ただ、絶対神はそれ自体で存在することができるが、相対神は、絶対神の表現としてのみ存在することができる。つまり、相対神は絶対神から離れては、もはやその存在意味はなくなる。そしてそのような絶対神から離れた相対神は、相対的な世界が滅びると共に滅びるしかないのである。この世が滅びる前に、その絶対神に立ち返るしか、滅びから救われる道はない。

このように、神様に対する認識を持たない者、つまり信仰のない者は、この認識主体を持っていながら、それが眠っている状態であると言うことができる。言い換えるならば、自分は相対神とまで名付けられるべき存在であるにもかかわらず、それを知らずにいて、そのままでは滅びるという道を歩んでいる、ということは、これほど愚かしいことはないということになる。

 

神様を愛するということ

「神」という言葉が使われていることについて、余りにも恐れ多いことではないか、という常識的な考えもあり得るが、このような認識主体の真理を知れば、その認識ということにおいては、神様と全く同じであるため、同じ「神」という言葉が使われていても何も不自然なことはないことになる。

そして、神様を認識するようになることは、まさに神様の御言葉を受けてこそであり、信仰を持ってこそである。上に見た『詩篇』82篇においては、神様は、神様に選ばれた神の民であるイスラエルの人々を、「神々」と呼ばれているが、イエス様は、「もし、神のことばを受けた人々を、神々と呼んだとすれば」とおっしゃっているように、イスラエル民族を超えて、神様の御言葉を受け入れ、神様を信じる信仰を持つ人々こそ、「神々」と呼ばれるにふさわしいのである。

『マルコ』12章29節から31節(同一記事『マタイ』22章37節~40節、『ルカ』10章27節以降「良きサマリヤ人」の物語)には、「イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにはありません」とおっしゃっている。

唯一絶対的な神様を、すべてを尽くして愛するということは容易に理解できる。一方、それと同等に重要な律法が、隣人を自分自身のように愛するということだ、ということは、常識的には理解できないであろう。しかし、上に述べた、絶対神と相対神という真理から見れば、容易に理解できるはずである。

ユダヤ人たちは、同じユダヤ人だけが隣人だと考えていたが、イエス様は、いわゆる「良きサマリヤ人」の喩えをもって、すべての人が隣人なのだ、ということを教えられた。なぜならば、隣人は人間である限り、相対神であり、その相対神は絶対神と同一だからである。まさに「良きサマリヤ人」は、できる限りのことを尽くして、道端で倒れている人を助けた。それこそ、相対神をすべてを尽くして愛したのであり、それはそのまま、絶対神をすべてを尽くして愛したことになる。このように、この「最も大切な戒め」の御言葉を理解するためには、この絶対神と相対神の真理を理解する以外にない。

 

業と転生

以上のように、絶対的次元の神様は絶対的認識主体であり絶対神である。一方、相対的次元の人間のうちにある認識主体は相対的認識主体であり相対神である。しかし、私たち人間は、この相対的認識主体つまり相対神が、気の遠くなるほどの過去世から積み重なって来た、測り知れないほどの業によって覆われている。さらに、その業が肉体を形成し、目に見える人間となっている。

純粋に相対神について述べるならば、それは絶対神と同一であるので、そこに苦しみや闇などというものがあるはずがない。しかし、その相対神を覆っている業と、それによって形成された肉体があるために、救われた者がその相対神の真実を悟ることができたとしても、その者が全く苦しみや闇のない歩みをすることができる、などということは、それこそ絶対にない。

これはここまで繰り返し述べてきたように、救われてから、さらに気の遠くなるほどのパラダイスの転生を繰り返し、実に少しずつ、その業を消していき、究極的には絶対的次元と同一となり、その相対神は絶対神の中に入って消えるのである。そして、これも以前も述べたように、絶対的次元と同一となって相対的存在が消えてしまえば、それ以上、神様の表現としての歩みも終わってしまう。重要なのは、究極的に絶対的神様と一つとなることではなく、それまでの過程が重要なのである。

さらに前回も述べたように、前進には目標が必要なように、自らの中に相対神が存在している、という真理は、目標に向かって進む際のエネルギーを供給してくれる。その前進は、業の力でもなく、肉体の意志や努力でもなく、ひたすら相対神の真理に目を向けて得られる霊的力によるのである。また、この霊的力こそ聖霊の力である。神様の霊である聖霊は、絶対神と相対神が同一ということによって、その間を流れ、注がれるのである。

 

わざを信じなさい

そして、イエス様も相対的次元に来られた方であるので、そのうちに相対神がおられる。しかし、イエス様の相対神は、その働きを妨げる業には覆われていない。イエス様の持たれる業は、時至って、地上に肉体を持って来られ、御言葉を語られ、みわざを表わされ、最後に十字架にかかられ死なれる、という業以外にない。そのため、イエス様は、その相対神のわざそのものを、常に行なうことがおできになるのである。

まさにこのことについて、イエス様は続く本文の37節から38節で、「もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです」とおっしゃっているのである。

これもすでに見た箇所であるが、『ヨハネ』6章28節には、「すると彼らはイエスに言った。『私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。』イエスは答えて言われた。『あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです』」とある。この「わざ」こそが、神様の表現である。そしてイエス様が来られた時は、この神様の表現である「わざ」を意識的に行なえる人は誰もいなかった。したがって、イエス様が神様の表現をこの地上で行なわれた、ということは、一方的な神様の恵みである。

そしてペンテコステの時、聖霊を受けた人々は、上に述べた認識主体が再び目を覚まし、「神々」となることができたのである。そして、その者たちは、意識的に神様の表現を行なう人生を歩み始めた。まさに「神のわざ」は、イエス様を信じ救われ、聖霊を受けることから始められるのである。イエス様が、「神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」とおっしゃっている意味はこれである。

そしてこのペンテコステの出来事は、イエス様が公の生涯を通して、彼らの目の前で行なわれた「わざ」のためであり、理解できないままに記憶していたイエス様の御言葉のためである。「たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい」とおっしゃったイエス様の御言葉の意味が、まさにこのことである。

なお、新共同訳ではこの個所を、「わたしを信じなくても、その業(わざ)を信じなさい」とあり、言うまでもなく、新改訳の「信用しなさい」という訳よりも、「信じなさい」という訳が妥当である。これは、信仰のことだからであり、単なる信用とは異なっている。

 

信じない者たち

御霊が下る今の時代の信仰とは、目に見える姿がどうであっても、自分の先入見や判断を捨て、霊的事実を受け入れることであり、そこからすべてが始まるのである。その先入見や古い判断が、前回の最後の箇所で述べた「古い皮袋」なのであり、それをもってしては、決してイエス様の福音を正しく受け入れ、理解することは不可能である。

ましてや、イエス様を信じ救われた者が相対神だ、などということは、少なくともプロテスタントの既存の教会では、絶対に受け入れられないものであろう。しかし、今回の本文では、明らかにイエス様はそのようにおっしゃっている。また、中世のヨーロッパにおける神学、特に「神秘主義」と呼ばれる学派では、名称は異なっていても、内容的にはこれと同じ主張がされていた、ということも見逃すことのできないことである。

しかし、ユダヤ人たちは、イエス様の御言葉も信ぜず、みわざを通しても悟るところがないために、彼らはまたイエス様を捕らえようとした。しかし、イエス様は彼らの手からのがれられた(39節)。それは、まだイエス様が捕えられる時となっていなかったためである。