ヨハネの福音書     29 | 本当のことを求めて

本当のことを求めて

過去世、現世、未来世の三世(さんぜ)の旅路。

ヨハネの福音書     29    10章22節~32節

 

信じないユダヤ人

まず22節に、「そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった」とある。「宮きよめの祭り」は、シリアの支配下にあった紀元前164年、マカベヤのユダが反乱を起こし、神殿に置かれていた偶像を破壊して、宮をきよめたことを記念する行事である。そのため、多くのユダヤ人たちが、エルサレムの宮に集まっていた。その中で、イエス様も宮の中のソロモンの廊を歩いておられた時(23節)、ユダヤ人たちは、イエス様を取り囲み、「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください」と言った(24節)。

今までイエス様は、何度もご自分が神様から遣わされた者であることを語っておられた。そのため、続く25節前半で、「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです」とおっしゃったのである。ではなぜ、ユダヤ人たちは、イエス様の御言葉を素直に受け入れなかったのであろうか。それは、彼らが持っているキリストのイメージとイエス様が、あまりにも違っていたからである。彼らにとって、メシヤ、つまりキリストは、あくまでもこの世的かつ政治的な救い主である。しかし、実際のイエス様は、いつまでたっても、ローマ帝国を追い出すようなしぐささえなく、もちろん、そのようなことも全くおっしゃらない。

そして25節の後半でイエス様は、「わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています」とおっしゃっている。この「わざ」は、ここまで見てきたように、生まれつきの盲人の目を開けることに代表される奇跡のみわざであり、また、『ヨハネ』で慎重に「しるし」と表現されて来たみわざを指す。

しかし、そのような、病んでいる者たち、苦しんでいる者たちを癒し、助けるようなことは、根本的にユダヤ人たちがメシヤに望んでいることではなかった。ユダヤ人たちは目に見える肉的な次元の要求が果たされない限り、イエス様をメシヤとして受け入れなかったのである。そのため、続く26節前半でイエス様は、それらのみわざが明らかにメシヤとしての証拠となっているにもかかわらず、「しかし、あなたがたは信じません」とはっきりおっしゃっているのである。

 

イエス様の羊

続いて26節後半でイエス様は、「それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです」とおっしゃっている。しかし、この箇所は新共同訳では、「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである」となっている。

新改訳の訳では、ここでイエス様と対話しているユダヤ人たちが、イエス様を信じない理由が、イエス様の羊に属していないからだということになる。もしそうだとすると、それこそ予定説などが主張するように、最初からイエス様を信じる者と信じない者が定まっている、ということになってしまう。最初からイエス様を信じない者として定まっている人は、いくらイエス様と対話しても、またその後に御言葉を聞いても、何によっても信じることはないということになる。

一方、新共同訳の訳では、単純に、イエス様を信じない者はイエス様の羊とは言えないのだ、というように読める。そして新改訳でも、続く27節は、「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます」となっており、イエス様の御言葉を聞き分け、ついて来る者がイエス様の羊なのだ、となっている。

したがって、この箇所で読み取るべき内容は、特に予定説などというような考え方に結び付くものではなく、前々回から続いている牧羊の喩えの中で、イエス様を受け入れる者がイエス様の羊であって、そのイエス様の羊は、実際の牧羊の羊に見られるように、牧者の声を聞き分け、従うのだ、ということなのである。

 

牧者について行く

続く28節でイエス様は、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」とおっしゃっている。まさにこれは、イエス様によって救われる者がどのようになるか、ということを語られている箇所である。そしてこの救われる者の条件が、イエス様の羊であることであり、その羊の条件が、イエス様の御声を聞き分けて従うことなのである。羊の条件は、それ以外にない。特に立派だとか、以前からその羊の囲いに属していたとか、そのようなことは全く関係ないのである。

そして、イエス様に従う救われた者たちは、そのイエス様の御手から、誰によっても、何によっても奪い去られることはない、とおっしゃっている。これは非常に重要なことである。

救われた者でも、肉を持っている限り、この世で生きて行かねばならない。肉をもってこの世で生きるわけであるから、見た目には、イエス様と全く関係のない世界で生きているようなものであり、その世の中から、自動的に霊的糧を得られることはあり得ないどころか、無意識のうちにも霊的に力が奪われていくのである。

そのような現実と、そのような自分の肉の状態を思い知らされる時、つい、救われた者であっても、自分はイエス様から離れてしまった、このままでは、イエス様は私を捨てられるのではないか、いや、すでに捨てられ見限られてしまっているのではないか、と思うことがある。そして、そのように思うことは、信仰生活にあって非常に大きなダメージをもたらすことであり、さらに心が暗やみに引っ張られて行くきっかけとなってしまう。しかし、イエス様ははっきりと、「彼らは決して滅びることがなく、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」とおっしゃり、そのような思いを完全に否定されているのである。

ではなぜそうなのであろうか。それは以下の真理から明らかである。

 

魂の上昇の道

信仰の行程は、魂の上昇の過程そのものであり、同時に、意識的に神様の表現となる歩みである。人間を含めたすべての存在は、ひとつ残らず神様の表現として発生したものであるが、まず、認識を持たない人間以外の物質、生き物などは、意識的に神様の表現として生きることはない。しかし、神様を知ることのできる認識を持つ人間は、自分が神様の表現として生きているということを知ることができ、意識的にその歩みを進めることができる。そして人間はその時こそ、真実の生きがいを感じ、人生の意味を知ることができるのである。一方、神様を信じない者は、他の生き物や物質と同じように、神様の表現となっているにもかかわらず、それを知らないために、人生に悩み、霊的に徘徊し、自分勝手な思いをもって人生を歩んでいる。そのため、心の奥底には迷いと虚しさを常に抱えて生きなければならないのである。

救われた者は、このように、魂の上昇の道を歩むことになるが、それは今までも繰り返し述べてきたように、この世限りのものではなく、数限りないパラダイスを経て進むものである。この進むということにおいては、必ず目標がなければならない。目標がない動きは、進むことではなく徘徊に過ぎない。その目標こそ、絶対的な神様の次元である。

しかし、絶対的な次元に入る瞬間、相対的な魂は消えてなくなる。つまり、その者の存在そのものが神様の中に消えてなくなるわけである。それでは、その時、その者が神様の表現として進んできた行程は終わりを告げることになる。

 

その行程にあること

この事実を考えれば、魂の上昇は、その神様の次元に到達することが目的なのではなく、その行程そのものが目的ということになる。目標に到達することとその目的とは、必ずしも同一でなければならないことはない。したがって、その行程にいれば、じゅうぶん、その者、すなわちその者の魂の存在意義は確立されていることになる。たといその行程の中で、上に述べたように、うまく進んでいるように見えなくても、停滞しているように思える時があったとしても、その行程にいることでじゅうぶんなのである。

もし目標に到達することが重要であるならば、もちろん、少しでも早く進んだ方が良いであろう。霊的にも充実して、明らかに神様の表現として大きな手ごたえを感じているならば、それは早く魂が上昇していることになるだろう。しかし、目標に到達することが目的でないのであるから、早く進むとか、充実した歩みをするとか、そのようなことは重要なことではない。そのため、そのような手ごたえや成果を感じなくても、決してイエス様はその魂を見捨てるようなことはないのである。

続く29節から30節でイエス様が、「わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです」とおっしゃっている意味が、まさにこれである。これも繰り返し述べているように、相対的次元における神様の表現がなければ、絶対的次元の神様のみおられることになり、それでは神様は、表現されることのない無と等しくなってしまう。それこそ、全知全能なる「すべてにまさって偉大な」父なる神様は、無と等しくなるわけがない。神様を無と等しくしないための存在である人間が、さらにその者自身が神様と一体であるイエス様を信じ救われ、意識的に神様の表現としての道を歩んでいるならば、どうしてその者が何ものかによって奪い去られることがあるだろうか。

 

良いとは

しかし、この「わたしと父とは一つです」という御言葉を聞いて、ユダヤ人たちはイエス様を石打ちにしようとした(31節)。これに対してイエス様は32節で、「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか」とおっしゃった。

この「良いわざ」の「良い」の原語は「カロス」であり、前回まで見て来た「良い牧者」の「良い」と同じ言葉である。そして意味は、単に良い悪いの「良い」ではなく、「目的にかなった麗しさ」という意味がある。

神様の目的とは、上に述べたように、神様が無と等しくならないために、相対的次元を通して神様が表現されることである。それは救われた者においては魂の上昇であり、そして進むということである限り、目標は確実に存在するが、神様の表現はその行程において十分果たされる。

したがって、神様の目的はどのような状況にあっても、常に成就されているのである。このようなことはあり得ないが、もし誰一人として救われた者がおらず、誰も意識的に神様の表現としての道を歩んでいなくても、相対的次元が存在するということだけで、神様は表現されている。相対的次元は、絶対的次元があってこその相対的次元だからである。しかし、それでは、神様の素晴らしさ、その麗しさなどは認識されることなく、ただそこにある、ということだけになってしまうはずである。

『創世記』1章27節前半に、「神は人をご自身のかたちとして創造された」とあるように、神様と同時発生的に発生した時点から、人間は神様を認識できる存在であった。その人間が、誰一人として神様を知らない、ということは、そのことだけでも不自然なことである。もしその状態が続くならば、まさにノアの箱舟の時の洪水として神話化されているような、神様を知らない人間をすべて滅ぼし尽くす、という人間から見れば破滅的な恐ろしいみわざによって、神様の御力が表現されなければならなくなるであろう。

そのため、イエス様は、神様を知る認識を持つ人間が、その認識によって神様を知り、意識的にその行程を歩むために、十字架の贖いを成就されたのである。イエス様を信じる者は救われて、意識的にその魂の上昇の行程、すなわち神様の表現の道を、この世に限らず、数えきれないほどの多くのパラダイスを経て進むのである。これほど「目的にかなった麗しさ」はない。

しかし信じない者は、この世が滅びると同時に滅ぼされることになる。それはとても目的に適った麗しさ、つまり「良い」とは言えない。イエス様は、人々がその神様の目的に適った道を歩むようになるために地上に来られ、「父から出た多くの良いわざ」を示された良い牧者なのである。

 

新しいぶどう酒と皮袋

イエス様は、『マルコ』2章22節(同一記事『マタイ』9章17節、『ルカ』5章37~38節)で、「また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです」とおっしゃっている。

イエス様をユダヤ人たちが信じなかったのは、言うまでもなく、イエス様が新しいぶどう酒で、ユダヤ人たちが古い皮袋だったからである。ユダヤ人たちは、イエス様の存在が、自分たちを破壊することを知って、石打ちにしようとしたのである。しかしそれは、彼らの律法からすれば当然のことであった。それほど、古い皮袋で正統とされることは、新しいぶどう酒とひとつになることはできない、いや、ひとつとなってはならないのである。もしひとつとなったら、「ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになる」のである。

したがって、新しいぶどう酒と古い皮袋が対峙するならば、お互いに別れなければならない。そうすることが、互いの存在を保つことである。それは今の時代でも同じであり、古い皮袋を何とか新しくしようとしても無駄なことである。すでに古くなった皮袋は、どのようにしても新しくならない。ただ、新しい皮袋を持って来るしかない。しかし、その新しい皮袋は、新しいゆえに、今まで誰も見たことのないものであるため、自らを正統とし、古いものに固執する者たちからは、当然批判を受ける。このため、イエス様の生き生きとした霊的現実に常に立脚して、それを広めようとする者は、古い皮袋とは関係を断たねばならないのである。