ヨハネの福音書     28 | 本当のことを求めて

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ヨハネの福音書     28    10章11節~21節

 

良い牧者と雇い人

前回では、イエス様はご自身を、羊の囲いの門にたとえておられたが、今回の箇所では、良い牧者にたとえて御言葉を語っておられる。

まず11節でイエス様は、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」とおっしゃっている。しかし、実際の牧羊でも、牧者が羊のために命を捨てる、ということはあり得ない。あくまでも牧羊においては、羊たちは牧者の生活の糧である。生活の糧のために自分の命を捨ててしまったら、まさに主客転倒である。

したがって、これは霊の次元の真実からの御言葉であり、後の箇所で語られているように、十字架の贖いを指している。これについては、後に見ることにする。

続く12節から13節でイエス様は、「牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです」と語っておられる。

まず、雇い人は、羊の所有者ではない。所有者でないために、その時に世話をしている羊と、他の者の羊を区別することはできない。間違いなく当時も、雇い人は毎朝、囲いの門の所で羊を呼び出す仕事はしていなかったであろう。なぜなら、そもそもそれをすることはできないからである。

そして、ここで言われている雇い人は、直接的には、当時の宗教的指導者たちを表わしている。彼らは、自分の地位を守るためだけに律法を振りかざし、人々を縛り、ユダヤ人社会の上に君臨しているのである。彼らにとって、他のユダヤ人たちの存在は、自分が生きて行くための手段に過ぎない。したがって、そのことを直接指摘してくるイエス様を、自分たちの地位を守るために殺そうとしたのである。

 

羊を知っている

続く14節でイエス様は、「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています」とおっしゃっている。

前回から述べている通り、実際の牧羊では、牧者は自分の羊を知っているが、雇い人はそれを知らない。そして、牧者はすべて、自分の羊を知っていなければ、朝、自分の羊たちを呼び出すことはできず、そもそも牧羊そのものができない。また、羊は自分の羊飼を知っているために、その羊飼の声を聞き分けて集まって来るのである。

しかし、あまりにも牧羊の喩えにこだわってしまうと、かえって真理が見えなくなることがある。牧羊では、明らかに、自分の羊と他の羊飼いの羊は異なっており、それらは決して混同されてはならない。では同じように、イエス様の羊とそうでない羊があるかと言えば、そのようなことはなく、すべての者は本来、イエス様の羊である。ただ、イエス様が呼んでも、それに応じて集まるか集まって来ないかの違いがあるだけである。イエス様はすべての者をご存知であるが、そのことを知っている羊と知らない羊がいるのである。

そして次の15節前半でイエス様は、「それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です」とおっしゃっている。内容から見れば、この個所も前の14節として一緒にすべき御言葉である。イエス様が羊、つまり私たち人間について知っておられることは、父なる神様とイエス様との間にある一致と同じだ、というのである。これは驚くべき御言葉である。

これこそ、人間は神様の表現であり、その表現がなければ、神様も無に等しくなってしまう、という真理である。神様は、愛する対象として人間を創造され、人間がペットをかわいがるように人間を愛されていると考えることは、大きな誤りである。人間の存在は神様の必然である。そのため、人間は神様を信じてこそ、真実の人間の人生を歩むことができるのである。

人間は、これほど重要な存在だ、という言葉さえ虚しく聞こえるほど、神様において重要不可欠な存在であるために、続く15節後半でイエス様は、「また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます」とおっしゃっているのである。イエス様は父なる神様のみこころに従って、人間をこの上なく愛されているために、親が子のために命を捨てるように、イエス様も十字架の贖いによって人間を救われた、と考えることは幼稚な考え方である。

イエス様が羊、つまり人間のために命を捨てられたことは、神様のために命を捨てられたことであり、神であるご自身のために命を捨てられたのである。そうでなければ、繰り返すが、神様が無と等しくなってしまう。それは絶対にあり得ないことなので、十字架の贖いという必然が、イエス様によって成就したのである。このことは、後にまた繰り返し述べることにする。

 

ひとつの群れ

そして16節でイエス様は、「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです」とおっしゃっている。

ここまで来ると、もはやユダヤの牧羊の喩えの範囲を越えている。牧羊においては、囲いに属さない他の羊などいるわけがない。それは他人の羊である。ここでの囲いとは、ユダヤ人社会を意味する。ユダヤ人だけが人間なのではなく、すべての民族が人間である。そのため、当然、ユダヤ人以外の人々も、神様の表現であり、神様が無と等しくならないための重要な存在である。イエス様はその者たちをも導かなければならない、ということは余りにも当然である。それは、イエス様のご愛が大きいからだとか、そのような理由からではなく、必然なのである。

そして、この囲いは、相対的次元のこの世の認識による囲いである。相対的なこの世では、一つ一つに区別を設けなければ、やはり相対的な認識を持つ人間はそれを認識することができない。そのため、人間社会においては、すべての事柄において区別を設け、囲いを設けて、扱いやすくしているのである。それはあくまでも相対的な次元のことであるため、絶対的次元に立たれるイエス様のみわざは、そのような囲いを越えるのである。

したがって、この囲いは、民族の囲いでもあり、宗教の囲いでもある。宗教の違いも、相対的なこの世の民族や文化などの違いによって形成されたものであり、絶対的な違いではない。正しい宗教ならば、すべて真理である神様につながっており、神様の表現である。そのため、正しい宗教は、イエス様によってひとつとされることが可能である。

しかしこれは、それらの宗教が、キリスト教によって統一される、などということではない。宗教の違いは、民族の違いである。民族や文化が違っているならば、全く同じ宗教に統一されることなどあり得ない。日本人が中国人やアメリカ人に統一されることはあり得ないことと同一である。それぞれの民族は、その民族特有の宗教によって統一を維持し、人々の一致を保ってきた。宗教が変わることは、民族が変わることにつながることである。これも繰り返し述べてきたことだが、今までのキリスト教の伝道こそ、この民族や文化の違いを無視した統一という方法を取って来たのである。それは、植民地支配における信仰の強要か、悲惨な戦争などにより、固有の文化も何もなくなった地域に信仰を広めるか、その二つに一つであった。

正しくイエス様の福音が世界に広められることは、その民族や文化の宗教を生かすことである。つまり、その宗教の真理や教えにイエス様の福音が浸透し、真実の神様の祝福が、その固有の宗教をそのままに、その宗教からその国や民俗に流れ出ることである。

イエス様の福音と、神様の祝福は、キリスト教だけによって広められるのではない。イエス様は、囲いに属さない人々をも導かれる方である。ここでイエス様は、囲いに属さない人々を連れて来て、同じ囲いに入れるとはおっしゃっていない。あくまでも、ユダヤ教だとか、キリスト教だとか、そのような囲いに属さない人々を導くとおっしゃっているのである。

あくまでもイエス様によって救われ、霊的真理に目が開かれた者ならば、その真理に基づいて考え、祈り、行動するのが当然である。上に述べたことは、実現しなさそうなことと思われるであろうが、現実にそれが実現するかしないかは、この世の問題であり、神様や真理の問題ではない。

 

いのちを捨てる

続く17節でイエス様は、「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます」とおっしゃっている。ここでイエス様は、「わたしが自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます」とはおっしゃっていないことに注意をしなければならない。イエス様は、神様のみこころに従って苦しみの道を歩まれた、という先入見があるために、ついこの個所も、イエス様が苦しまれたために、神様はイエス様を愛されるのだ、というように読んでしまう。しかしそれでは、まさにイエス様は神様と取引していることになる。ご自分の命と引き換えに、神様からの愛を受け取る、ということである。もちろん、そのようなことがあるわけがない。

イエス様が命を捨てられたのは、「自分のいのちを再び得るため」である。では、この「自分のいのち」とは何であろうか。イエス様は復活されて、肉の命を再び得たのであろうか。これももちろん、そのようなことはない。イエス様は復活されて、40日間にわたって、人々にその姿を見せられたが、それは肉体の姿をしていたはずであるが、あくまでも「像」であり、肉体そのものではない。復活されたイエス様が、マグダラのマリヤに、「わたしにすがりついてはいけません」(『ヨハネ』20:17)とおっしゃった意味はこれである。そのイエス様は、すがりつける肉体はお持ちではなかったのである。やがてイエス様は天に昇られ、信じる者たちに御霊が下ることになる。その御霊によって、信じる者たちはイエス様にすがりつくことができるのである。イエス様が続いてマリヤに、「わたしはまだ父のもとに上っていないからです」とおっしゃった意味はこれである。

続く18節前半でイエス様は、「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです」とおっしゃっている。イエス様がおっしゃっている「いのち」は、たといイエス様を殺しても、それを奪うことができないものである。つまり、肉体の命ではない。その「いのち」は、イエス様が自ら捨てようとなさらない限り、捨てられるものではないのである。

このために、イエス様は十字架の上で、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(『マルコ』15:34、『マタイ』27:46)と叫ばれ、イエス様の「いのち」が捨てられたことを表わされた。イエス様の「いのち」は神様と一つの「いのち」である。その「いのち」を捨てるならば、神様のことがわからなくなる。この「どうして」という御言葉は、ただ『詩篇』22篇1節の箇所を繰り返しているのではない。むしろ、『詩篇』のこの箇所は、この十字架の預言である。十字架の上で、イエス様は「いのち」を捨てられ、神様のことがわからなくなられた、つまり、神様から離れられたのである。その霊的状態は、生まれながらにして神様から離れて生まれて来る人間の霊的状態と同じである。

 

いのちをもう一度得る

そして、18節後半でイエス様は、「わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです」とおっしゃっているように、人間と同じ霊的状態になられたイエス様は、その状態から、再び神様の「いのち」を得られた。

「もう一度」とあるように、その「いのち」は、もともとイエス様が持っておられた「いのち」であるため、もう一度得るということになる。しかし、この神様の「いのち」は、もともと人間も持っていたはずのものである。なぜなら、人間は神様の表現として、無と等しくなるはずのない神様と同時発生的に、この相対的な世に現わされた存在である。人間は神様の表現として発生した、という絶対的真理においては、人間は神様の「いのち」を持つ存在である。

しかし、その神様の表現は、相対的な次元において表わされる。この世において、神様を信じる者がいるということは、その者たちに相対する「神様を信じない者」、「神様から離れた者」も存在しなければならない。『創世記』の神話によれば、最初はすべての人間は神様に結び付いていたが、次第に神様から離れて行き、ついには、生まれながらにしてすべての人は神様から離れた霊的状態で生まれて来る、といことになったことになっているが、それはあくまでもわかりやすいように神話化された物語である。事実はそうではなく、相対的な次元の必然として、神様を信じる者と、神様から離れた者の両方の存在が必要だということである。

そして、もし生まれながらにして神様を信じている人間がいるとするならば、この世における「神様を信じる」ということの意味がなくなってしまう。つまり十字架の贖いも必要がないことになる。そのために、すべての人々は、最初は神様から離れた存在として生まれて来るのである。

 

神様のご愛

このように相対的なこの世においては、イエス様の十字架と復活により、イエス様を信じる者は、再び神様の「いのち」をいただくことができるようになった。これは、神様の命令、つまり神様のみわざである。つまり、神様は、相対的なこの世と共に滅びるしかない道を歩んでいるすべての人間を愛され、そのご愛によって、イエス様をこの世に遣わされた。そしてその人間を救う道は、イエス様が十字架の上で神様の「いのち」を捨てられ、そして復活され、その「いのち」を再び得るというみわざにおいて成就した。それは繰り返すが、人間も「再び」神様の「いのち」を得るためである。

神様のご愛は絶対的であるため、神様がイエス様に注がれるご愛と、神様が人間に注がれるご愛には区別はない。絶対的な次元には区別はないからである。区別は相対的な次元においてのみ存在する。イエス様が人間の救いのために十字架にかかられ、復活されたのは、イエス様の人間に対するご愛によることであり、神様がイエス様に注がれるご愛によることであり、神様が人間に対するご愛によることである。そのご愛は一つであり、区別はない。イエス様が『ヨハネ』15章9節で、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」とおっしゃっている意味はこれである。

そのために、イエス様は、「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます」という、一見、理解するのに最短でも少々の時間が必要なほどの、不思議な言い回しの御言葉を語られたのである。

続く19節から21節では、このようなイエス様の御言葉を聞いた人々の間で分裂が起こった、ということが記されているが、これは前回見た通りである。