はじめに

このシリーズでは、統合的心理療法であるホロニカル・アプローチを軸に、精神分析・ユング心理学・認知行動療法・家族療法・ナラティブ・セラピー・EMDRなど、さまざまな理論や技法との接合を探っていきます。

 

しかしその前に、どうしても触れておきたいことがあります。

現在の心理臨床の世界が抱える、ある根本的な問題についてです。

それは「蛸壺化」とでも呼ぶべき状況です。

 

400以上の心理療法が「別々の蛸壺」に

現代の心理療法・カウンセリングには、400を超える理論と技法が存在すると言われています(定森、2026)。精神分析から認知行動療法、人間性心理学、家族療法、ナラティブ・セラピー、EMDRまで、多様な理論が百花繚乱の様相を呈しています。

一見、これは豊かさの証のように見えます。しかし実態は必ずしもそうではありません。

各学派は独自の概念体系・用語・訓練システムを持ち、それぞれが閉じたコミュニティを形成してきました。精神分析家は精神分析の学会に集い、CBT(認知行動療法)の専門家はCBTの学会に集い、それぞれの「蛸壺」の中で理論を深めていきます。異なる学派の間での対話は限られ、ときに「我々の方法が正しい」という学派間の競合が生まれることすらあります。

 

精神医学者のガエミは、この状況を「教条主義(dogmatism)」と呼びました。教条主義とは、ある単一の方法ないし単一の理論が、精神医学の全てかほとんどの事柄を説明するものとする立場であり、これを政治形態になぞらえれば「独裁主義」に当たると指摘しています。 

鋭い批喩です。特定の理論を唯一の真理のように扱い、他の視座を排除する態度——これが「蛸壺化」の本質です。

 

「アレジアンス効果」という見えない偏り

蛸壺化がもたらす問題のひとつが、アレジアンス効果(allegiance effect)です。

アレジアンス効果とは、研究者や治療者が自分の信奉する理論・技法に対して持つ「わが法が優れている」という信念が、研究結果や臨床実践にバイアスをもたらす現象です。

実験者のアレジアンス(EA)とは、特定の心理療法の優位性に対する個人的な確信を指す。この因子は、選好する治療の効果量を大きく見積もる傾向と関連しており、RCT(ランダム化比較試験)の結果に影響を与える非財務的な利益相反として位置づけられると報告されています。 

つまり、自分が信じる理論の研究は「効果あり」と出やすいという構造的な問題があるのです。治療比較研究においてアレジアンス・バイアスが存在する可能性があり、臨床家はある療法が他より優れていると結論づける前に、複数の研究チームからの知見を検討することが推奨されるとされています。 

これは研究の世界だけの問題ではありません。日々の臨床現場においても、私たちは自分が訓練を受けた理論の「眼鏡」を通してクライエントを見てしまうリスクを常に抱えています。精神分析家は無意識と転移でクライエントを理解し、CBTの専門家は認知の歪みでクライエントを見る。その眼鏡は豊かな視点をもたらしますが、同時に見えなくさせるものもある。

 

現場はすでに「統合」を求めている

興味深いことに、実際の臨床現場の実態は、学術的な「蛸壺」とは大きくかけ離れています。

1,000名以上の心理療法家を対象とした大規模調査では、単一の理論的立場のみを用いると回答した者はわずか15%に過ぎず、実践で用いるアプローチの中央値は4つであったという結果が示されています。

日本においても同様の傾向があります。日本心理療法統合学会監修の『心理療法統合ハンドブック』(2021年)によれば、日本臨床心理士会による2004年の動向調査において、臨床心理面接で用いている技法についての問いで折衷的アプローチを選んだ者が73.7%と最も多かったと報告されています(定森,2026)。

つまり、現場の臨床家の大多数はすでに、意識的・無意識的に複数の理論や技法を組み合わせながら実践しています。「蛸壺」は学術・訓練の世界に多く残り、現場はその制約を超えようとしている——これが実態ではないでしょうか。

 

「折衷」と「統合」は違う

ただし、ここで重要な区別が必要です。

折衷主義(eclecticism)と統合(integration)は、似て非なるものです。

折衷主義の核心は「技法優先の戦略」であり、理論的な説明を必要とせず、効果があるかどうかに基づいて介入を選択する。つまり、理論的な枠組みが人間性心理学的であっても、認知再構成の技法が役立てばそれを用いる、というものである。 

この「とりあえず使えるものを使う」という折衷主義は、確かに柔軟ですが、理論的根拠が曖昧であり、一貫した支援の哲学を欠くリスクがあります。「なぜその技法を使うのか」「この理論とあの理論は、人間をどう異なる視点から見ているのか」という問いなしに技法を寄せ集めても、それは単なる「ツールの混在」にとどまります。

統合または折衷主義は心理療法家の間で最も一般的な理論的立場であるが、その意味は拡散しており、そのコミットメントは実証的というよりも哲学的であり、訓練は個人によってまちまちで信頼性に欠けるという指摘は、この問題の核心を突いています。 

真の意味での統合とは、複数の理論の深部にある人間観・世界観を理解した上で、それらを有機的に結びつける理論的根拠を持った実践です。技法の「足し算」ではなく、人間理解の「深化」が求められます。

 

なぜ今、心理療法の統合が必要なのか

クライエントが抱える問題は、ひとつの理論で説明できるほど単純ではありません。

トラウマを抱えた人が、同時に家族関係の問題を抱え、職場での人間関係に苦しみ、身体症状を呈し、「生きる意味」を問いながら来談することは珍しくありません。このような複雑な「生きづらさ」に対して、「この人には精神分析だけを行う」「この人にはCBTだけを行う」と割り切れるはずがない。

統合的心理療法はセラピストやカウンセラーにとって必須の技法といえるものの、その取り組み方やプロセス、実践例をまとめた書は少ないという現状は、この問題の深刻さを物語っています。

 

心理療法の統合が重要な理由は、三つあります。

第一に、クライエントの多様性に応えるため。 どんな理論も、すべての人・すべての問題に万能ではありません。人はひとつの理論が想定する「枠」に収まらない存在です。

第二に、臨床の知を発展させるため。 蛸壺の中では、異なる視点からの批判や発見が届きません。理論同士が対話することで、それぞれの限界が見え、新しい知が生まれます。

第三に、支援者自身の成長のため。 特定の理論の「信者」になることは、ある意味で楽です。しかし、複数の視点を往来できる柔軟性こそが、複雑な現実に向き合う臨床家に求められる力ではないでしょうか。

 

プロクラスティーズの寝台

私の大好きな天才催眠療法家ミルトンエリクソンはこう言ったそうです。「それぞれ、人は皆独特である。それゆえ、心理療法はその人の独自性に合わせてしつらえられるべきであり、人間行動の仮説理論というプロクラスティーズの寝台に合わせて、人の身長を延ばしたり切り取ったりしてはいけない。」

※プロクラスティーズは、ギリシャ神話に出てくる盗賊です。彼は旅人を自分の宿に泊めさせ、旅人から金品を奪っていたそうです。その時、ベッド(寝台)のサイズが旅人よりも大きければ身体を引き伸ばし、またベッドのサイズが旅人より小さければ旅人の身体をベッドのサイズに合わせて切ってしまったと言われています。
ミルトンエリクソンは、自分自身の心理療法理論や技法(ベッド)にクライエントを合わせるのではなく、クライエントに合わせて支援するべきだということを言ったのです。これぞまさに統合的心理療法の目指す姿でもあると思います。

 

ホロニカル・アプローチがめざす「風穴」

こうした問題意識を正面から受け止め、統合への理論的道筋を示そうとしているのが、日本発のホロニカル・アプローチです。

ホロニカル・アプローチは、心の深層から身体・関係性・社会に至るまで、自己(部分)と世界(全体)の関係を自由に俯瞰しながらアプローチするもので、西洋の心理療法だけでなく、東洋思想・哲学・宗教の智慧までを統合しようとする野心的な試みです。

「蛸壺」の壁に「横穴」を開けるのではなく、すべての蛸壺を俯瞰できる「より高い場所」を設けようとする、そのような志向性を持っています。

次回から、精神分析に始まり、各理論・技法とホロニカル・アプローチとの接合点を順に探っていきます。それは単なる理論比較ではなく、「心理療法の統合とは何か」という問いへの、実践的な探求です。

 

参考:定森恭司・定森露子(2026)『ホロニカルなこころ』/日本心理療法統合学会監修(2021)『心理療法統合ハンドブック』誠信書房/東斉彰(2024)「日本で心理療法を行うこと:統合・折衷の思想・文化論的考察」心理療法統合研究


ペットショップ巡りを始めた日のこと

 

前の子を亡くしてしばらく経ったころ、気がつくと近所のペットショップをのぞくようになっていました。

「新しい子を迎えよう」と決めていたわけではありません。ただ、犬のいない生活の静けさが、思っていた以上に重くて。「見るだけ」のつもりで、いくつかのお店を回り始めました。

そのとき頭のどこかにあったのは、以前見た動画で語られていた言葉です(下記参照)。「動物は人間より生まれ変わりが早い。そして、以前住んでいた場所の近くに生まれ変わってくることが多い」と。

科学的な根拠があるわけではありません。でもその言葉が、なぜか心に残っていました。

 

 

 

いくつかのお店を回って、ある日ふと立ち寄ったのが、自宅のすぐ近くのペットショップでした。遠くまで探しに行っていたのに、一番近い場所に。

そこで出会ったのが、今一緒にいるトイプードルです。

ガラス越しに目が合った瞬間、うまく言葉にはできないのですが「この子だ」という感覚がありました。以前のコラムで「自己とはトランスパーソナルな次元にも及ぶ広がりを持つ」と書きましたが、あの感覚はまさにそういうものだったかもしれません。論理ではなく、直観的にもっと深いところで何かが動いた感じです。

家族に話すと、会いに来た全員が同じように感じたようで、程なくして家族に迎えることになりました。

 

「前の子に申し訳ない」という気持ち

でも正直に言うと、新しい子を迎えることへの迷いもありました。

「まだ半年も経っていないのに」「前の子のことをもう忘れようとしているみたいで申し訳ない」「新しい子を愛したら、前の子への気持ちが薄まってしまうのではないか」——そんな罪悪感が、心の片隅にありました。

これはペットロスを経験した多くの方が感じることです。カウンセリングの場でも「新しいペットを迎えたいけれど、それは逃げになりますか?」と聞かれることがあります。

 

愛は「移動」するのではなく「増える」

心理学的に言えば、愛着は有限のリソースではありません。

新しい命を愛することは、前の子への愛を「移動」させることではなく、愛する対象が「増える」ことです。前の子への気持ちが薄まるのではなく、そこにまた新しい愛が加わる。愛は足し算なのです。

継続的絆理論(Continuing Bonds)の観点からも、亡くなった存在との絆は「終わらせる」ものではなく「形を変えて続いていく」ものとされています。新しい命を迎えることは、前の子との絆を断ち切ることではなく、前の子を心に抱えながら新しい関係を築いていくことです。

 

生まれ変わりという物語の力

「動物の生まれ変わりは早い」「近くに戻ってくる」——科学的に証明されたことではありません。でも私はこの考え方を、否定する気にはなれません。

ヒプノセラピーや前世療法についての記事でも触れましたが、「科学的に証明できないこと」と「意味がないこと」は別です。その物語が、悲しみの中にいる人の心を支え、一歩を踏み出す力になるなら、それは十分に価値があるものだと思っています。

近所で出会った、あの「なぜか惹かれる」感覚。それが何であったとしても、今この子と一緒にいることには確かな意味があります。

動物病院でも「前の子と似てますよね?」と言われます。性格はだいぶ違いますが・・・(笑)

 

迷っている方へ

「新しいペットを迎えたい気持ちはあるけれど、踏み出せない」という方がいたら、その迷い自体が前の子への深い愛の表れだと伝えたいと思います。

正解はありません。早くても遅くても、あるいは迎えないという選択も、すべてその方にとっての答えです。ただ、罪悪感だけを理由に自分の気持ちを封じ込めないでほしいと思います。

前の子は、あなたが幸せでいることを望んでいるはずだから。

 

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「もう立ち直った」と思っていたのに

 新しい家族を迎えて半年が経ちました。毎日がにぎやかで、楽しいことも増えました。「ああ、少し前に進めたな」と感じることも多くなりました。 でも先日、ふとした瞬間に前の子のことを思い出して、胸がしんとしました。 特別なきっかけがあったわけではありません。新しい子が窓辺で同じような格好で寝ていたとき。散歩中に前の子がよく立ち止まって匂いを嗅いでいた場所の前を通ったとき。 「もう大丈夫だと思っていたのに」という戸惑いが、少しありました。 

 

グリーフの「再燃」は異常ではない

 心理学では、こうした現象をグリーフの再燃(Grief Burst)あるいは記念日反応(Anniversary Reaction)と呼びます。 回復が進んでいても、特定の感覚的なきっかけ——匂い、音、景色、季節の変わり目、特定の日付——によって悲嘆が再び鮮明に呼び起こされることがあります。これは回復が後退したわけではなく、記憶と感情が結びついている証拠です。 むしろ研究が示すのは、「完全に忘れること」が回復ではないということです。 

 

継続的絆理論(Continuing Bonds)という考え方 

かつての悲嘆研究では、「亡くなった存在から気持ちを切り離すこと(脱愛着)」が回復の目標とされていました。しかし1990年代以降の研究によって、この考え方は大きく転換しています。 キャシー・クラス(Klass)らが提唱した継続的絆理論では、亡くなった存在との絆を「終わらせる」のではなく、形を変えながら「続けていくこと」が、健全な悲嘆のプロセスであるとされています。 「心の中に生き続けている」という感覚は、病理ではありません。それは愛着が持つ本質的な力です。 ふとしたときに思い出す。胸がしんとする。涙が出る。それは「まだ立ち直れていない」のではなく、その存在があなたの人生に深く刻まれているということです。 

 

思い出すことが「供養」になる 

私自身の体験として、新しい子と生活する中で前の子をよく思い出します。 「あの子はこういうとき、こうしていたな」「この子はあの子と違って、こんな反応をするんだな」——比べることも含めて、前の子を思い出すことが日常の中に自然に織り込まれていきました。 これは悲しいことではなく、前の子が今の生活の中にも確かに存在し続けているということだと感じています。思い出すたびに「また会えた」という感覚に少しずつ近づいてきた気がします。 

 

「思い出す自分」を責めないために 

「もう新しい子がいるのに、前の子を思い出して涙が出るのはおかしいのかな」と感じている方がいたら、どうかそんな自分を責めないでほしいと思います。 二つの命を同時に愛することは、何も矛盾しません。新しい命への愛が深まることと、前の子への思いが続くことは、どちらかを消さなければ成り立たないものではないのです。 愛は足し算です。

 

 悲嘆が「再燃」し続けるとき 

ただ一つ、正直に添えておきたいことがあります。 グリーフの再燃が頻繁で強く、日常生活への影響が長期間続く場合は、一人で抱えずに専門家に相談することを考えていただければと思います。「これくらいで相談してもいいのかな」と思うような段階でも、話を聞いてもらうだけで楽になることがあります。 ペットロスに関するご相談は、カウンセリングルーム結でも対応しています。 

 

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